第1話(7)
「仕事には慣れた?」
ミルクティー色の髪をほどきながら,浴室の脱衣所でルチアに話しかけるのは図書館勤務のヘナだ。
「うん。まだ分からないことも多いけど,みんなよくしてくれるから」
「それならよかった。最近王宮の雰囲気が何だか暗いから」
「暗い?」
「ええ。よくない空気みたいなのが何となくね」
打ち解けた空気の中,話される内容は決して軽くはなかった。話しながら,ルチア自身もどことなく王宮の雰囲気をそう感じていたのに気づく。来たばかりの時よりも得体の知れない重くどんよりとした,何か悪意を感じるような,そんな空気が流れ始めている。
「気をつけてね」
「ん?」
「へナ,事件に巻き込まれそうなタイプだと思うから」
「えー?大丈夫よう,宿舎と図書館の往復しかしてないもの。……でも,そうねえ。いざとなったらルチアに助けてもらおうかしら」
茶目っ気たっぷりに笑いながら,へナはタオルを取り浴室へと向かう。その後をやや遅れてルチアが追い,また会話が続く。浴室にはまだ誰もおらず,二人は気兼ねなくおしゃべりを続けていた。
「私が側にいたら守ってあげられるけど,そうじゃない時もあるでしょ」
「まあね。貴女は王女様の命を最優先に守らなくちゃいけないものね。あ,ルチア,次のお休みっていつ?」
「休み?確か,鷹狩りが終わった次の日だったかなあ」
「じゃあさ,一緒に街に行かない?」
「街かあ,行ってみたいかも」
その口ぶりに,へナは驚いた顔をする。そして隣に座って頭を洗うルチアの腕を掴んだ。
「え?何?待ってへナ。流すから」
驚いたように洗うのを止めて,ルチアはお湯を汲み泡を流す。へナの手は離されていたが,その間もルチアのことをじっと見つめていた。流した髪をまとめると,湯船に入るへナに従いルチアもまた,肩まで浸かりほっと息をついた。
「街に行ってみたいって,行ったことないの?」
「ないよ」
そうあっさりと答えるルチアにへナはため息を零した。王宮を囲むように広がる街は小国ながらも活気に溢れていて,王宮に勤める者ならば,休みは必ずそこへ向かうくらい賑やかなのだ。気持ちよさそうに湯船に浸かる少女の横顔を見て,誰かこの,自分に無頓着な少女の手を取って楽しませてくれる人が必要だとへナは瞬時に思った。それは自分でもよかったが,もっと彼女を揺さぶってくれるような,そんな人が欲しいと思ってしまう。
「ルチアは気になる人,いないの?」
興味半分といった感じに恐る恐るへナは口を開いた。湯気が舞う中,ルチアの表情は若干ぼやけて見える。
「気になる人って?」
ひどく冷静な声だった。
それには気づかず,へナは明るく問う。
「ほら,一緒に出かけたいなあとか会ったら嬉しくなるような人よ!」
「……忘れちゃった」
「え?」
「そんな感情,もう思い出せないや。へナ,私のぼせちゃったみたいだから先にあがるね」
「あ,ルチア!……何かまずいこと言っちゃったかしら」
湯けむりが昇る中,取り残されたへナは困ったようにひとりごちた。もしかしたら,失恋したのかもしれない。そう気づいたへナは表情を崩し,盛大にため息をついた。
「私の馬鹿。好奇心に勝てなくてなんてこと聞いたのよ~!」
ばしゃばしゃとお湯を揺らしながら,反省会をしているへナの様子には気づくこともなく,ルチアは誰も居ない脱衣所で着替えを済ませると,小さく詠唱を行い風をおこして髪の毛を乾かしていた。
疲れを取るはずの湯浴みのはずが,その表情は沈んでいた。
気になる人。へナの言う恋愛的な意味ではもう誰もルチアの心に住む人はいない。唇を噛んで,溢れ出る感情に蓋をすれば,気分もいくらかましになってくる。持って来ていた化粧水を肌に浸透させながら,マッサージついでに口角を上げてみる。
「へんなかお」
笑った自分の顔が何だか似合わなくて,ルチアは鏡の自分から目をそらした。
いつも通りの日常を終えて,部屋のベッドに倒れ込む。
「そろそろ訓練しなきゃいけないな」
窓から差し込む月の明かりに目を細め,体を起こす。夜着に上着を重ね,静まり返る廊下へと進み出た。薄暗い廊下はどことなく不気味さを増長させる。今さら怖がることはないが,最近の王城の空気がここまで侵食しているのかと思うと,少しばかり気が重くなる。
中庭に着いてから,ルチアは,手にしていた笛を何度か合図を出すために吹く。数秒せずにルチアの元に鷹が飛んできた。
「いい子にしてた?サン」
その問いに答えるように,サンは小首を傾げる。小さく笑って,ルチアは鷹狩りの訓練を始めた。
***
ルチアとサンの鷹狩りの訓練も佳境に入り,いよいよ本番を迎えるくらいになった時分,思わぬ訪問者がルチアの元へやってきた。
「先客か」
「え?……トゥルーラ様?」
誰でも入れる中庭とは言え,こんな夜更けに護衛もつけず王族が来るなど誰が想像しただろうか。ルチアの動きが止まる。
「その手にいるのはお前の鷹か」
「あ,はい。えっと……トゥルーラ様は何故ここに?」
「夢遊病でな」
「そうですか」
存外くだらない理由で宿舎の中庭に来た彼を呆れながら横目で流し,ルチアは再びサンを空へと飛ばす。
「つれないな」
彼の言葉に反応するのは,それこそからかわれる未来しか見えないため,ルチアは聞かなかったふりをした。ルチアにとって彼がここに来た理由は何でもよかった。
きっと,夜更けに一人で練習する自分を心配してくれたのだろう。自惚れではなく,直感がそう思わせる。
「前から気になっていたが,お前がいつも身に付けているものは何だ?」
「え?」
反応するつもりはなかったのに,隠していたものを見破られたことに思わず視線が向かう。ルチアは咄嗟に胸元へ手をやるが,ペンダントは自室に置いてきたことを思い出し,苦い顔をした。トゥルーラからしてみれば,話の種程度の興味だったのだろう。ルチアの反応に戸惑う様子が見て取れる。
「……何も。今日はもう遅いので部屋に戻ります。明日の仕事に支障があってはいけませんから。サンもお疲れ様,戻っていいわ。トゥルーラ様も,こんなところに居ても冷えるだけですよ。私は先に失礼します。おやすみなさい」
今さら否定しても仕方がないことは分かっていたが,ルチアの思考はまとまらない。サンを帰し,トゥルーラの脇を通り抜けようとしたが,その腕が掴まれたことに気づくのは数秒経ってからだった。
ゆっくりと顔を上げれば,不愉快そうな顔がそこにあった。何故,そんな反応をされなければいけないのだろう。振りほどこうにも,できないことを既にルチアは知っている。
「言え」
「嫌です」
「何故だ」
「関係がないから」
「そんなことはない」
ルチアの冷たい返しにも堪えることなく言葉を続ける彼に,どうしようもない苛立ちが湧きおこる。どうして放っておいてくれないのか。仕舞ったまま出すつもりもない気持ちを無理やり引き出されそうな恐怖に,トゥルーラの顔なんてまともに見ることができなかった。
「……嫌いです」
「は?」
「貴方の自分勝手な振る舞いも,それで許されると思っている思考も,王族というだけで許容されているこの社会も,全部,全部嫌いです。貴方が面白半分で私を弄ぶのは別に構いません。だけど,踏み込まないで。土足で入ってこないで。私は,貴方のものじゃない」
まっすぐに,突き刺すような瞳をトゥルーラに向ける。一瞬たじろいだ隙に彼の手の力が抜かれ,ルチアはそのまま振り返ることなく部屋へと戻っていった。
残された男はその背中を見つめることもできず,ただその場に立ち尽くした。欲しかった反応はひとつももらえず,ただ拒絶されただけ。少しは近づいたと思っていたのは勘違いだったとでもいうのか。欠けた月は雲に覆われたまま,翌日には雨が降った。
しとしとと止まない雨が降り続ける。毎年この時期は,雨が続くのだ。
窓際で刺繍をするリアネは,ふと,薄暗い空を見上げた。側では,ルチアが静かに本を読んでいる。リアネの視線を感じたルチアは顔を上げた。何でもないというように微笑みを浮かべ,リアネは再び刺繍に意識を戻す。
この頃,婚約者であるトゥルーラと会っていない。単なる気まぐれか,それとも他の理由があるのか。目の前に座る少女を盗み見る。彼女はいたっていつも通りで,あまりに自然体だった。疑わないという選択肢は頭からなかったが,率直に聞けるほど度胸もなかった。
「ルチアは」
「はい」
「雨が好きかしら?」
「雨……。そうだなあ,好きだと思う」
「それはどうして?」
「うーん,雨ってなんだか全てを洗い流してくれそうだから,かな」
そう言う少女の瞳には何の感情も乗せられていない。ただ外の雨に視線を向けて,少しだけ目を細めたくらいだ。
その様子がもどかしくて,リアネは刺繍をやめてしまう。
「そういえば,ルチアは鷹狩りの練習できてないわよね。あと少しで開催されるけど,大丈夫?」
「うん。心配いらないよ」
「そう。貴女がそう言うなら大丈夫ね。応援しているわ」
「ありがとう。あ,お茶の準備してくるね」
淡々と問われたことに答えたルチアの背中を見つめ、リアネは小さく嘆息する。
降り続ける雨がそうさせるのか,ただ積もり積もった感情がそうさせるのか,本人にも分からなかった。
差し出された温かい飲み物を手に取れば,いくらか気分もほぐれる。
「……少し眠るわ」
「分かった」
立ち上がり,ルチアが寝室の扉を開ける。寝てしまえば,窮屈な現実に向き合わなくて済む。ベッドへと横になったリアネの側に座り,存在を消すようにルチアは再び本に視線を落とした。
ルチアの手でめくられるその本は,歴史書の中でも最新のもので,比較的中立の立場から歴史的出来事が記載されていた。特段,手がかりになるようなことは書かれていなかったが,単純に読み物として優れていたそれは,ルチアが他に意識を向けずに没頭するのに適していた。
意識をしてしまえば,自分の抱えた感情と向き合わなくてはならない。今だけは判断を鈍らせるような行動はしたくなかった。幸いにも元凶である人物には出くわしていない。ルチアにとってそれだけが救いだった。
静かな室内に雨が降る音と紙の擦れる音だけが流れる。
ルチアが最後のページを捲り終えた時,外は雨が止み,雲間から太陽の光が差し込んできた。
「リアネ様,起きて」
「ん……ぅ,どれくらい寝てた?」
「そんなに長くないよ。一時間くらい」
「雨も止んだみたいね。寝たらちょっとすっきりしたかも」
「それならよかった」
寝室を出て,応接間のソファーへと座る。ちょうどそこに来客を知らせるノック音が響いた。
「確認してくる」
「ええ。今日は来客の知らせはなかったけれど,誰かしら」
ルチアが扉を開けると,赤いその瞳は思わぬ驚きで見開かれた。
「誰が来たの?」
その問いかけに答えるのに数秒遅れる程度には動揺していたルチアは,努めて冷静に返事を返しながら,その人物を中へと入れた。
「何だか久しぶりね」
「俺も暇じゃないからな。仕事を片付けていた」
「それでもちょっとは顔を見せてくれてもよかったんじゃない?」
「雨の日は籠りたくなるもんだろ」
「それで、何しに来たの?」
「婚約者の顔を見に」
「いいわよ。たっぷり見て行って」
仲の良い光景を目の前に,ルチアは羨ましく思った。無意識に胸元のペンダントに触れる。けれど,そこにあるはずの感触は今日もなかった。
あの夜の日から,ルチアは肌身離さず身につけていたペンダントを度々つけ忘れていた。心のうちでため息を漏らし,給仕を続ける。
「本を読んでいたのか?」
テーブルに置かれたやや厚めの本が目に留まったのか,トゥルーラはリアネに問う。
「それはルチアが読んでいたの。私は刺繍をしていたわ。急な来客だったから,仕舞うのを忘れていたのね」
「あ,ごめんなさい」
淹れ直したカップをテーブルに置きながら,ルチアは置いていた本を取り,脇にあるテーブルへと片付けた。
その間,二人の視線は交わらない。
「歴史書か」
「そうです」
「ルチアは毎日違う本を読んでいるから,そのうち図書館の本を読み切っちゃいそうね」
「最新の歴史書を探しているなら,俺が持っているものをルチアに贈ろう」
「お気遣いありがとうございます。お気持ちだけいただいておきますね」
ルチアは一瞬の隙もなく,提案された内容に軽く頭を下げ,給仕のワゴンを押して部屋を出る。残されたのは苦笑を浮かべるリアネと,呆気にとられたトゥル-ラだけだ。
「振られちゃったわね」
「読み終わっていたし,持ち帰るのも荷物になるから丁度良いと思ったんだがな」
「それなら,私から渡してあげてもいいわよ」
「考えておこう」
暖かさの残るカップに手を伸ばし,トゥルーラは残りを流し込む。立ちあがり,残りの仕事を終わらせると言って,リアネの部屋を後にした。