第1話(6)
精霊の案内で辿り着いたのは,王城の庭園にある人気のない東屋だった。庭園の端にあり,滅多に使用されていないせいかところどころ苔がむしていた。
「リアネ様」
そこに彼女は居た。ベンチに腰掛けどこか疲れた様子で背もたれに寄りかかっている。ルチアの問いかけにも返事がない。心配になったルチアはそっと近づき,その手に触れる。
「リアネ様,起きて」
それでも反応のない彼女に,ルチアは持って来ていた本を脇に置き,小さく治癒の詠唱を唱える。温かな光がルチアの手から溢れリアネの手のひらへ流れ込む。やがてその光が消えると,リアネの指先が僅かに反応した。その手を包み込み,ルチアは目を閉じたままの顔を見つめる。
「リアネ様」
そしてもう一度その名前を呼べば,隅々まで行き届いているであろう瑞々しさを感じる肌に生気が戻り,リアネのまぶたがゆっくりと開かれた。
「ルチア?いけない,私ったらいつの間に寝てたのかしら」
「具合悪い?」
「いいえ,大丈夫よ。何だか寝たらスッキリしたみたい」
「そっか。良かった……。ここには良く来るの?」
「ここ?そう言えば久しぶりに来たわね。何をしようと思ったのかしら……」
自分がなぜこの東屋に来たのかを覚えていない様子で,頬に手を当てて思い出そうとするリアネを見てルチアは眉をひそめた。以前にもどこかに自分の意識を置いてきたようなリアネを見ているからか,もしかしたら何かあるのではとリアネの手を強く握る。
その手に反応して,リアネはルチアの頭を安心させるかのように撫でた。
「心配しなくて良いわ。この通りぴんぴんしてるもの」
「うん……」
リアネに気をつかわせてしまったと,ルチアは何とか笑みを浮かべその手を取ってリアネを立ち上がらせる。
「風邪引くといけないからもう戻ろう」
「そうね」
帰りの足取りはしっかりとしていて,ルチアが支えずともいつも通りの歩みを進めるリアネにルチアの頭の中は疑問で一杯だった。誰かに相談しようにもリアネ自身に怪我などはない為,自分の力のなさに小さくため息をつく。
リアネの自室につくと,他の侍女たちが夕食の準備をしてくれていたらしく,そこにはトゥルーラの姿もあった。
「二人で仲良く散歩でもしてたのか」
「そんなところよ。珍しいわね,貴方が一緒に食事を取るなんて」
「この国に滞在するのもあと少しだからな。お前といろいろ話すこともある」
綺麗な所作でリアネの座る椅子を引き,彼女を座らせると,自身も向かいの椅子に座る。ルチアも慌てて給仕に回り,二人のグラスに飲み物を注いだ。
静かだったが,二人の会話は弾み,デザートが出る頃には飲み物の瓶も空になっていた。やがて,食事を取り終えるとルチア以外の侍女は部屋を後にする。一時間ほどは用のない限りはルチアがリアネの世話を行うことになっていた。
「紅茶を淹れてもらえる?」
「分かった」
リアネの要望により,ルチアは水差しに手をかざす。湯気が出てきたのを見て,それをティーポットに注いだ。あまり力を使いたくはないが,時間短縮だと言い聞かせ,二人に背を向けたままその作業を行う。ポットとカップだけをそばに持って行き,慣れた仕草で紅茶を淹れた。
「ありがとう」
「今日は国産の茶葉だそうです」
「この国の茶葉は蒸らす時間を間違えると苦みが出てしまうが,なかなか良い腕をしている。俺の部下にも見習わせたいくらいだ」
「ありがとうございます」
きっとそう言われた彼の部下は今頃くしゃみでもしているのではないかと想像し,お礼を言うルチアの口元に笑みが浮かんだ。
「そう言えば,鷹狩りだけど,ルチアは練習できそうな場所を見つけた?」
「え?うーん,できたら実際の場所でやるのが良いんだろうけど,そうはいかないし……。夜だったらあんまり目立たないかなって宿舎の中庭でやろうと思ってるよ」
「そうなのね。場所があるなら良かったわ」
「心配してくれてありがとう」
リアネは柔らかな笑みを浮かべ,まだ温かな紅茶を口に含む。ルチアを交えた三人の会話は穏やかに進んで行く。
紅茶も空になり,そろそろお暇するかとトゥルーラは立ちあがる。タイミングを見計らったように退出していた侍女たちも戻って来ると,リアネも自然な動作で立ちあがり,湯浴みの用意を待つ。そのリアネの手を掬い,トゥルーラは慣れたように口づけをして部屋を出る。
「あの,トゥルーラ様」
「何だ。お前が俺を誘うなんて,さては」
「お耳に入れておくべきかと思って引き止めました」
「……可愛くないな」
誰に言うべきか悩んだが,この人なら無下にはしないだろうと,ルチアは廊下でトゥルーラを引き止めた。からかいに応じないルチアにつまらなそうに目線を向ける。
「何だかリアネ様の様子がおかしいのです」
「例えば?」
「意識だけをどこかに置いてきてしまったようにぼーっとしていたり,その前後の自分の行動を覚えていなかったりするんです。声をかければ意識は戻るんですが,今日はそんなこともなくて……何かご存じないですか?」
「いや,特には」
「そうですか……。もしかしたら誰かに狙われているのかもしれません。私も出来るだけお側でお守りしますが,トゥルーラ様もご注意ください」
それだけを告げるとリアネの部屋へと踵を返す。その冷たい反応にトゥルーラはどうしようもなく苛立った。素早くその手を掴み,側の壁へとその体を押し付ける。
「何……するんですか」
見上げる紅い瞳は彼の心臓を激しく揺さぶる。知らない感情にどう対処したら良いのかも分からずに,トゥルーラはただその紅い瞳を見つめる。目の前の少女は何故,こんなにも冷静なのだ。
不意に視線が外れ,トゥルーラは少女の肩に頭を乗せる。小さくため息をついて,押し付けていた手の力を緩めてその華奢な手に絡ませる。
「……あ,の」
押し付けられた少女もまた,どうして良いのか分からなかった。絡められた指の感触に,あの時の熱が全身を巡る。一体どうしてしまったと言うのか。振りほどく力も出せず,ただ力なくその手を握ることしか出来なかった。
「お前を見ていると」
「え?」
「……いや,今日はやめておこう」
顔を上げたトゥルーラと再び目が合う。薄暗い廊下でも分かるくらいに,少女の顔は赤い。まるで恋人のようにその視線は絡まり,トゥルーラはその唇に自身の唇をそっと重ねた。静かな冷たい空気の中で,そこだけは熱を帯びる。
触れるだけのキスだというのに,ルチアは立っていられなくなる。力なくしゃがみ込もうとしたところを彼に支えられるが,それさえも羞恥に染まる。
「良いものを見た」
「っ……私は玩具じゃありません」
「知っている。言っただろう,興味が湧いたと。そんなに睨むな。リアネのことは俺も注意しよう。だが,お前も狙われる可能性がないわけではないことを頭に入れておくんだな」
そう言うと,頭を撫でて機嫌の良い足取りで廊下を歩いて行く。ずるずると,支えてもらう相手を失った体はその場に崩れ落ちる。既に相手のことも自分のこともよく分からなくなっていた。深呼吸しようと胸に手を当てれば,硬い感触に触れる。
「ごめん,なさい」
ぽつりと呟かれた謝罪の言葉は静寂に飲み込まれ,ルチアはただそこでじっと蹲った。ほんの数分だったが,落ち着きを取り戻したルチアはリアネの部屋へと戻る。
ちょうど湯上がりしたらしく,彼女の頬はうっすらと上気していた。その唇に目をやれば,罪悪感で思わず目を伏せる。
「何かあったの?」
「ううん,何でもないよ。上に報告してたら遅くなっちゃった」
「そう。今日はもう下がって大丈夫よ。お疲れ様」
「うん,おやすみなさい」
小さく笑みを浮かべて夜の挨拶を済ませて部屋を出るその後ろ姿には今朝方自分がつけた髪飾りがその存在を主張するかのようにきらめいていた。ルチアを視線で見送り,リアネは無意識にため息をこぼした。その表情はどこか暗く,手入れをする侍女は心配そうに声を掛ける。
「お疲れの様ですが,何かございましたか?」
「……何も」
「そうですか」
それ以上口を開くことはせず,ただ残りの手入れを行う侍女たち。この時ばかりはこの沈黙がリアネの心を落ち着かせていた。
***
自室に戻ったルチアは鏡を見て,髪飾りの存在に気づく。小さく驚きの声をあげ,急いでその髪飾りを外すと,そっと机の上に置いた。
「今から,は駄目だよね……。仕方ない。明日返そう」
自分の気の回らなさにため息を零して,夕食をとりに食堂へ向かう。食堂に入れば,仕事終わりの人たちが賑やかに食事をしていた。夜は壁に貼られたメニューの中から注文を行う形式で,ルチアもそこから選び注文をする。
料理を受け取って座る席を探していると,近くでルチアを呼ぶ声がした。向かいの席が空いているのを見て,ルチアはそこに腰を下ろす。
「お疲れルチア。今日は早いな」
「フェルモもお疲れ様。もう下がっていいって言われたから,今日はおしまい」
「ふうん。王族のお世話も大変だな」
「でも優しい方だよ」
「そっか。俺は会ったことがないから何とも言えないけど,ルチアがそう言うならそうなんだろうな」
食事をしながら,とりとめもない話を若い二人は続けていく。何か特段盛り上がるということはないが,周りの賑やかさに押されて会話は弾む。
ふと,どこからか視線を感じ,顔を上げた。
「どうかしたか?」
「あ,何でもない。ちょっと視線を感じたから」
「おれ,料理長に見られている気がする」
「え?」
フェルモの視線を辿ると,どこか生温い目線を厨房から送っている料理長の姿が見えた。何か粗相でもしたのかとフェルモを見遣れば,心外だと言わんばかりの表情で首を振っている。
「おれは何もしてないぞっ」
「本当?」
「何でそこを疑うんだよ!」
皿に乗せられた残りの料理を口に運びながら,慌てるフェルモを見てルチアはつい笑ってしまう。楽しそうなルチアの表情に目の前で見ていた少年は言葉を見失ってしまった。だが,すぐに何もなかったように咳払いをして,最後の一口を口に放り込む。
「とにかく,断じて怒られるようなことはしてないからな」
そう言って,グラスに残っていた飲み物を一気に飲み干すと,勢いよく立ちあがり厨房へと戻っていった。
そんな年相応の振る舞いに,また小さく笑みが零れる。目の前の存在が居なくなったことで多少の物足りなさを感じながら,ルチアは食事を再開した。
若干ふてくされたような表情をしながら厨房に入ってきたフェルモに料理長がからかい混じりに声をかける。
「まだ休憩時間あるけど良いのか?」
「いいよ。あんな風に見られてちゃゆっくり食事もできないし」
「じゃあこれ」
「何?デザート?珍しい」
「あの子に持っていってやれ。素直じゃないフェルモに今日だけ特別だ」
「は?おれが「いいから早く行け。休憩時間終わっちまうぞ」
料理長に急かされ,渋々といった様子で,フェルモは綺麗に彩られたデザートを持ち,ルチアの元へと向かう。
「ほらよ」
「私,頼んでないけど」
「料理長がルチアにって。もらってやれ」
ルチアが厨房に顔を向けると,料理長が爽やかな笑顔でこちらにウインクを飛ばしてきた。そのウインクに若干の愛想笑いを返しながら,ルチアはフェルモにお礼を言う。
「おれは別に……。あとであっちに言ってくれ」
「分かった」
フェルモはそわそわしながらも,再びルチアの向かいに腰を下ろした。
「何かあった?」
「え!?あ,いや別に。ま,まだ休憩時間あるから,ルチアと話しでもしようと思ってさ」
「……私と話してて楽しい?」
ふと,思った疑問をルチアはフェルモに投げかけた。フェルモは一瞬何を言われたのか理解できず,きょとんとした顔でルチアを見る。
「変なこと言ってごめん。私,あんまり話し上手じゃないし,表情も豊かじゃないから,楽しいのかなって思って」
いつからか笑顔を浮かべることが出来ても,心の底から笑うことができなくなっていた。感情をどこかにおいてきてしまったような,そんな感覚がルチアにはあった。
淡々と客観的に語りながら食事を進めるルチアを見て,フェルモは何故だか悲しくなった。自分のことを大事にしていないような,そんな気がしたのだ。
「楽しいよ」
その言葉は嘘ではなかった。フェルモは真っ直ぐルチアを見据えて,本心を口にする。たった一言だったけれど,その言葉は真っ直ぐにルチアへと嘘偽りなく届いていた。
「……そっか」
何だか気恥ずかしくなったルチアは差し出されたデザートに手を伸ばす。
「おいしい」
程よく甘みのあるそれは,口の中に入れれば舌の上で溶けるように消えていく。どこか懐かしい味がした。続けざまにデザートスプーンを運んだルチアにフェルモは満足そうにうなづいた。
「滅多にデザートは出ないけど,料理長,ああ見えて甘党なんだよ」
「意外」
「だろ?だから,食ってくれるやついると嬉しいわけ」
「それって何かリクエストしてもいいのかな」
「そりゃもちろん喜んで作るよ,料理長なら。何が食いたいの?」
「アップルパイ。シナモン抜きの」
「おっけ。言っといてやるよ」
屈託なく笑うと,フェルモはルチアの空いた皿を持ち,厨房へと戻っていった。ルチアはそれを見送り,手元のデザートへと意識を戻す。再びそれを口にすれば,その甘さが疲れを癒やしてくれるかのように染み渡った。