第1話(5)
翌日。
疲れていても体はいつもの時間に起床する。ルチアは日が昇る前に目覚めると,昨日湯浴みを済ませていなかったことを思い出し,静かに部屋を出た。使用人たちが共同で利用するバスルームに入り,さっと湯浴みを済ませる。朝のひんやりとした空気は彼女の思考をはっきりさせるのに丁度良かった。
バスルームから出ると,まだ誰も起き出していないようで,廊下は静けさに包まれていた。部屋に戻り,支給された服に袖を通す。側には昨夜着ていたドレスが静かに佇んでいた。
「そのまま返して大丈夫かな……」
人生16年生きてきて,ドレスなど着たこともなかったルチアは,洗濯して良いものかとしばし考え込む。朝の連絡の時にでも聞いてみようと結論付け,次第に賑やかになっていく廊下の音に立ち上がり,朝礼に向かった。
朝礼後に,主人の本日の予定を確認し,その足で調理場へ向かう。
「おはようございます」
「おう,おはよう!朝食はそこから取ってってなー」
使用人達よりはるかに早起きをして,王族の朝食作りに取りかかっている調理人達は,朝から元気よく仕事をしていた。
ルチアは使用人用のブッフェスタイルで並べられた朝食から,短時間で食べられるものを選び,皿に盛る。その様子をちらっと目に入れた料理人の一人,フェルモは声をかけた。
「おいルチア。それはちょっと少ないんじゃないか」
「え?これで充分なんだけど」
「いいや,足りない。これとこれ……あとこれも食え。おれたちが愛情込めて作ったやつなんだかんな」
「迷惑」
「人の親切心を無下にすんな!」
「お前ら朝から喧嘩すんなよー。フェルモこっち手伝ってくれ」
フェルモはルチアと同い年らしく,初対面早々にくだけた態度をとってきたことで,気負う必要はないと感じたのか,敬語を取り払って話す相手だった。王城にはルチアのような若者が少ないこともあって,フェルモは親近感を感じているのだろう。そう結論づけて盛られた皿を手に空いている席についた。
王城に来たばかりで友だちと呼べる友だちがいないこともあり,ルチアは入り口から一番遠い角の席に座る。小さく感謝の言葉を述べ朝食を口に運んだ。
「……美味しい」
そうぽつりと呟けば,ルチアの襟に隠れていた数人の精霊は興味津々で出てこようとする。慌てて襟元を正す振りをして,精霊たちを押し込めると無言で朝食をお腹に収めていく。襟に潜んでいるなど思いもしなかったルチアは,小さくため息をつきながら後で注意しておかなくてはと最後の一口を飲み込んだ。
皿を下げ,調理場を出ようとするルチアに声がかかる。
「どうだルチア,美味かっただろ」
「お前が作ったのは一品だけなのに何でそんな誇らしげなんだ」
厨房のみんなにからかわれつつもその瞳は感想を待っていた。素直に述べるのは苦手だったが,嘘をついても仕方がないことも分かっていたルチアは僅かに笑みを浮かべて感想を述べた。
「美味しかったよ。夕食も楽しみにしてる」
「お,おう……!楽しみにしとけよな!」
「じゃ,夕食はフェルモが担当するってことで」
また調理場は笑いに包まれる。その賑やかさを背に,一旦自室へと戻り,身だしなみの確認と机に置かれたペンダントを首に下げる。それから,精霊への注意も忘れずに。
「行ってきます」
誰にともなく出発の挨拶を残して,ルチアはリアネの下へ向かった。今日も王宮には彼の奏でる音楽が響き渡っていた。後でまた話をしに行こうと考えつつ,ノックをして室内へと入る。
「おはようルチア」
「おはようございます」
ルチアの挨拶に少し不満があるのか,やり直しと部屋を追い出される。もう一度ノックをして間違えないように口を開いた。
「おはよう」
「うん,おはよう」
満足したように笑うその姿は朝日よりも眩しく感じさせられる。今日の予定を告げながら,リアネに頼まれ髪の毛を梳く。そういえば,と言おうと思っていたことをリアネに聞いてみることにした。
「昨日着たドレスは洗って良いのかな?それともそのまま返した方が良い?」
「あら,律儀にありがとう。でもあのドレスはルチアにあげる予定だったのよ。だから貰ってちょうだい?」
「私に……?」
「次に着る機会があったら着てあげて欲しいわ。どう?貰ってくれるかしら」
「う,うん!」
「ドレスの手入れについては私もよく分からないから,次に仕立屋が来た時にでも聞いてみましょう」
鏡越しに嬉しそうなルチアの様子を見つめるリアネの瞳は穏やかだったが,その瞳の奥は少し,淀んでいた。その事実は本人さえも気づいてはいなかった。
髪の毛を梳き終わり,ルチアなりに髪の毛をまとめ,髪飾りをつける。
「ルチアって器用なのね」
「村の子たちにやってあげることが多くて」
「そうなのね。……じゃあ交代!」
「えっ?」
断る間もなく促され,二人の立場が入れ替わる。鼻歌を歌いながら.手に櫛を持ち意気揚々と髪の毛を梳き始めてしまうリアネに何か言うことも出来ず,今度はルチアが鏡越しにその様子を見つめることとなった。
ルチアには姉が居なかった。リアネが楽しそうに櫛を通す姿を見ながら姉がいたらきっとこんな感じなのだろうかとそわそわしてしまい落ち着かない。
そんなことを考えていると,鏡越しに二人の視線が交わった。
「なあに?」
「あ,えと……お姉ちゃんがいたら,こんな感じ……なのかなって」
「それ私も同じこと思ってたのよ」
「え?」
「私に妹がいたらこんな風にお互いの髪の毛を梳いたり,お茶を飲んだりするんだろうなって。ね,一回で良いから呼んでみない?」
突然の提案にルチアは一瞬何のことか検討がつかなかった。事態を飲み込んだルチアが戸惑いの表情を浮かべる。にこにことルチアの返事を待つリアネを前に断る勇気もなく,緊張しながらも小さく呟いた。
しかし,その声は聞き取られなかったようで,リアネの表情は落胆に変わった。主人を落ち込ませてしまったことに慌てたルチアは,先ほどよりは大きな声でその名を呼んだ。
「うんうん,良いわ,その響き!ね,もう一回」
「う……リアネお姉様」
最初よりは流ちょうな感じで切れ目もなくすんなり言えたルチアに大満足のリアネは,引き出しにしまってある髪飾りを取り出し,ルチアにつける。
「うん,可愛い!どう?お揃いのにしてみたんだけど」
「お」
「お?」
「恐れ多くて頭動かせない……」
素直な感想に思わず大きな笑い声が漏れる。あのしとやかなリアネからこんなに大きな声が出るとは知らなかったルチアは,びっくりして振り返る。
「動かせるじゃない」
そうからかわれ,ルチアの顔が赤く染まった。そんな様子も面白いのか,笑いが漏れる彼女の柔らかな笑みは見る者を惹きつける。ひとしきり笑い終わると,自由時間だからとルチアを部屋から追い出した。
部屋を追い出されたルチアは,小さくため息を吐きつつも軽い足取りで,昨日の場所へと足を向ける。
「おはようございます,ギオンさん」
「ああ,貴女は昨日の……」
「あ,ルチアと言います」
「ルチア殿。おはようございます。来て下さったんですね」
「その……また,お話を聞いてみたいと思って」
おずおずと遠慮がちに述べると,彼は快く何でも聞いて欲しいと笑みを浮かべた。その間も杖を持った手は変わらず繊細な音楽を奏でている。杖に目をやると彼の握る根本の方に何か埋め込まれているのが見えた。その目線に気づいたのか,ギオンは音楽を一旦止めてルチアに向き合った。
「昨日,能力についてお話したのを覚えていますか」
「はい」
「この杖は強い力を持たなくても,自分の中にある力を増強させて能力が使える人と同じくらいの力を発動させる為の道具なんです」
「じゃあ,誰でも能力が使えるようになるってことですか?」
「ええ。まだほとんど認知はされていませんが,これがあれば誰でも能力を使いこなせます」
杖の形状は何本もの蔦が絡まって1本のようになっており,何かしらの木から出来ているように見えた。その根元には緑に輝く宝石のような物が埋め込まれている。
「この杖は二種類の木から構成されています。中心に軸となる木があり,その周りをこの木が絡んでいるんです。そして,ここには力を引き出す特別な石を入れています。この石は元々透明か,少し白濁しているのですが,所有者の持つ力に反応して色が変化するんです。色が変わるとその色の能力を持つ人にのみ杖が使えるようになります」
「じゃあ,緑は……」
「風の力ですね。一般的にはその能力を魔力と呼ぶかと思います」
そう告げると,ギオンは再び音楽を奏で始める。宙に浮かんだ楽器たちを風の力で動かしていたのだ。
「すごい……」
昨日も見てはいたが,やはり器用で優しい魔力の使い方だと,ルチアの口から感嘆の声が漏れた。そんなルチアにギオンは更に言葉を続ける。
「しかしながら,この杖は貴重なもので,数は多くないのです。制作にも時間がかかると聞きました。浸透するのはまだまだ先かもしれませんね」
「そうなんですか……。あの,ギオンさんはその杖をどこで入手したんですか」
「私はロラウド国王から直接賜りました」
「国王陛下に?」
「はい。もしかすると,近いうちに魔力への規制は撤廃されるのではないでしょうか」
ギオンのその言葉に,僅かながらルチアの表情は明るくなる。規制がなくなれば,あのような扱いもされなくなるだろうか。これまでの道中で見てしまった光景を思い浮かべながら,そうなった時の風景を想像してみる。
今は少し淀んだ街の空気が,明るく朗らかな澄み渡った空気になるのが想像できた。
「魔力というのは実に便利なものです。生活がきっと楽になるでしょうね」
笑みを浮かべてギオンがルチアを見る。それにうなづき返し,ルチアもまた笑みを浮かべた。少し話し込んでしまったと気づき,ルチアはお礼を言ってギオンと別れる。その足は真っ直ぐ図書館へと向かっていった。
図書館の歴史の棚の前に立ち,何冊か腕に抱えて席につく。ここ最近出版された本もあるようで,装丁が色鮮やかなものがあった。
午前中は人も少なく,広々と机を使うことができる。ルチアはまた,本に没頭しながら知識を吸収していった。お昼になる少し前に,ようやく本を読み終えたルチアはそれらを本棚に戻し,また別の本を一冊手に取りカウンターへと持っていく。
「貸出お願いします」
「はい。こちらに記入お願いします」
差し出された紙に必要事項を記入していく。書き終えた紙を差し出し,図書館を出ようと本を受け取ろうとしたが,何故か手渡してきた女性はその本を手放さない。
「あの……」
「あ,ご,ごめんなさい!その,歳が近いのかなと,思って。それでつい……ごめんなさい」
段々と尻すぼみになっていく彼女を見て,訝しんでいたルチアの表情が和らぐ。目の前に座る女性はミルクティー色の髪の毛を後ろできっちりとまとめた理知的な雰囲気を出していた。ルチアよりはいくつか年上に見えた。
「名前を聞いても良いですか?私,ルチアと言います」
「ルチアさん……!私はへナです」
「へナさん,良い名前ですね。へナさんは住み込みなんですか?」
「ええ。ルチアさんも?」
「はい。まだ来たばかりで慣れてないんですけど」
ネオの城に仕える者は大きく二つに分かれる。ルチアのように王城にある宿舎に住まう住み込みの者と,城下に家があり,そこから通う者だ。貴族階級の者や,王都住まいは大抵通いなのだが,ルチアなど遠方からの出稼ぎは住み込みを基本としている。
へナもまた,聞けば西方の領地から二年ほどの出稼ぎを目的として来ているらしい。どことなく聞き慣れない訛りがあるのはその影響なのだろう。
「あ,いけない。仕事の時間だ。へナさん,また」
「今度時間があるときにでもまたお話してくれますか?」
「もちろんです!」
そう告げて,ルチアは少し急ぎ足でリアネの部屋へと向かう。自室に戻る時間はなく,手に本を抱えたまま扉を開ける。
「遅くなってごめんなさい!」
しかし,部屋からの返事はなく,ルチアは不思議に思い,中へ足を踏み入れた。そこには誰も居らず,ルチアの表情が強張る。ルチアが任された仕事は,侍女としての身の回りの世話だけではなく,護衛としての役割もあった。その身体能力を買われて王女付きとなったのだ。
このままでは良くないとルチアはすかさず精霊に呼びかける。
「リアネ様の居場所分かる子いる?」
そう問えば,2,3の精霊が知っていると答え,ルチアは案内を頼りに部屋を飛び出した。