第八話 合宿の醍醐味!
コンコン、とノックの音がした。私は部屋に備え付けてある浴室の前に行き、シャワーを浴び終わったらしい、佐々原さんに声をかける。
「佐々原さん、どうしたの? 何か足りないものでもあった?」
私がさっき入った時には、タオルも何もかも足りてたように思えたけど。
「……今のノックは私じゃないわよ」
ぱっ、と扉を開き、佐々原さんが脱衣所兼洗面所から出てくる。黒地に白いドットが散りばめられたパジャマで、佐々原さんにしてはファンシーな気もするけど、小柄だからか、意外にもよく似合っていた。彼女は真っ白なタオルでぽんぽんと髪の毛を拭きながら、いつも以上に怖い目で私を睨む。眼鏡をしてないから、よく見えていないのだろう。
それにしても、風呂上りの姿を見ると、何となく親近感が湧くなぁ。
……おっと、そうじゃなかった。
「じゃあ、今のノックは……?」
そう口にした時、また、コンコンとノックが聞こえた。どうやら、部屋の扉を、誰かが叩いているらしい。
「誰だろ?」
無意味にそんなことを呟きながら、私は扉に駆け寄った。覗き穴がないので、警戒しながら、私は少しだけ扉を開ける。隙間から向こう側を覗き込むと、そこに立っていたのは美樹だった。
「あれ?」私は扉を開けてやりながら尋ねる。「どうしたの、美樹?」
美樹もお風呂上りだろうか。薄桃色の可愛らしいパジャマに身を包んでいて、髪がまだ湿っているし、肌も上気して少し赤くなっていた。彼女は自らの鞄や靴を抱え、戸惑った表情をしてそこに立っていた。
美樹はふんわりした眉を下げ、困ったように唇を尖らせて言った。
「ごめん、今日、ここで寝かせてくれない……?」
「え? えぇ? ほんとにどうしたの?」
「涼宮先輩の機嫌がすっごく悪いみたいで……一人にして、って追い出されちゃった……」
美樹はしょぼんとして俯く。
涼宮先輩と美樹は仲が良かったんじゃなかったっけ。私はびっくりしてしまって声が出なかった。
「とりあえず、中に入ってもらえば?」
刺々した声で言うのは佐々原さんだ。しかし、美樹に苛立っているというよりは、揉め事を起こした涼宮先輩に腹が立っているらしい。
「だから、私、あの先輩が苦手なのよ。あんたも運が悪かったわね」
美樹が部屋に入り込んだのを確認して、佐々原さんは八つ当たりするように扉を勢いよく閉めた。びくっ、と美樹が怯えて肩を竦める。
「あの、急にごめんね……今日の夜はここで過ごしても、いい?」
おそるおそる、といった調子で、美樹は佐々原さんに尋ねる。洗面所に戻ろうとしていた佐々原さんは、相変わらず怖い顔をして美樹を振り返ると、ほんの僅かに頷いた。
「勝手にすれば?」
「あ、ありがとう……」
「美樹、とりあえず荷物置きなよ。全部持ってきたの?」
私がそう言って手招きすると、美樹は両手に抱えていた荷物を、私の荷物の傍におろした。
「うん。鍵置いてけって言われたし、何か必要になっても、取りに戻れないでしょ?」
美樹は随分と落ち込んでいるらしく、俯きながらそう言った。
「……涼宮先輩ひどいね。いくら機嫌が悪いからって、美樹を追い出したりする?」
「ううん、わたしも悪いの」
美樹は意気消沈したまま、力なく首を横に振った。
「我慢できなくなって、つい、聞いちゃったの。ちほって誰ですかーって。そしたら、先輩、凄く顔色が悪くなって……」
――ちほ。
涼宮先輩が口走ったそうだけど、それは一体誰の名前なんだろう……?
「ひなちゃん、森の中で変なもの見てない? わたしは何も気付かなかったんだけど」
「私も何も見てないよ」
「……涼宮先輩、何を見たんだろう」
美樹は考え込むように、両手で顔を覆った。すると、洗面所の方から鋭い声が飛んでくる。
「幽霊じゃないの」
佐々原さんにしては意外な考えだ。
そう思ったら、すぐに言葉の続きが飛んできた。
「幽霊なんてね、気持ちの問題なの。夢みたいなものよ。誰かの事を強く想っていたら、ただの木の影でさえ、その人の影に見えるもんなのよ。恐怖心があるなら尚更だわ。それを他人がごちゃごちゃ考えても無駄よ。聞いても教えてくれないなら余計に無駄ね」
ぐちぐちと文句を言うように、佐々原さんは続ける。こちらがなじられているような気分になってきた頃、佐々原さんは溜息交じりに言い捨てた。
「まぁ、だから、気にしない方がいいわよ」
あれ、美樹を励ましてくれてる? ――そう思った時には、佐々原さんは話すのをやめ、その代わりにドライヤーの爆風音が聞こえてきた。こちらが何と返事しようが、向こうには聞こえないだろう。
思わず美樹を見れば、彼女も驚いたように私を見上げていた。
「意外とイイ人なのかもね」
ひそっ、と囁けば、美樹はやっと微笑んでくれた。
そのまましばらく、くだらない話をしていると、美樹は普段の調子に戻り、人のベッドの上で勝手に飛び跳ねるくらいには元気になってくれた。そうやってはしゃいでいるうちに佐々原さんも髪の毛を乾かし終わって洗面所から出てきた。しかし、赤い眼鏡の奥の目は冷ややかで、こちらも普段の調子に戻ってしまっているようだった。さっきは優しいなぁと思ったんだけど。
「あ、そういえば、ひなちゃん」
ぼすん! と私のベッドに腰を下ろし、美樹が思い出したように手を打った。
「涼宮先輩とか桃瀬先輩が、ひなちゃんのこと、睨んでたりした理由なんだけどね……」
「そうだ、そうだよ、それ教えてよ」
「うん。――なんか、最近、噂があるんだって。桐生先生が、とある一年生と仲が良いって」
また桐生先生の話題をしてしまったからか、佐々原さんがちらりとこちらを見た気配があった。美樹は気付いているのか否か、気にした様子もなく話を続ける。
「『一年生か、話してて楽しい子がいるんだよね』って廊下で一年生の担当のセンセーと話してるところを、ファンクラブの人が聞いたらしいの」
ファンクラブ、おそるべし。当たり前だが非公式とは言いながら、その勢力は日に日に拡大している。学校外にもメンバーがいるとかいないとか。よく知らないけど。桐生先生に対してキャーキャー言ってるだけでファンクラブの一員として数え上げられるので、その実態はいまいちよくわからない。
「……それで、私が何で睨まれるわけ?」
「その、仲が良い一年生が、ひなちゃんじゃないかって、二人は疑ってるみたいだよ?」
「え? なんで?」
――桐生先生とは、そこまで親密に話した記憶がない。そりゃ、部活の顧問だから、話す機会は他の人より多いかもしれないけど、それは涼宮先輩や桃瀬先輩とて同じことだ。何なら、コミュ力が高い分、美樹の方がよっぽど仲良さげに話してると思うんだけど。
「…………なんで?」
改めて考えても理由がわからず、もう一度尋ねれば、美樹は首を傾げて答えた。
「うーん、ひなちゃんが可愛いからじゃない?」
「え、何、そのテキトーな答え……」
「いやいや、そうじゃなくて。真面目に真面目に。しんっけんに、ほんとーに! ひなちゃんが可愛いからだと思うよ?」
思わずムッとしてしまったからか、美樹はぶんぶんと両手を振りながら答える。あんまりにも暴れるので、まるで両手を振って空を飛ぼうとしているようにも見えた。
「もー。何言ってんの。美樹の方が可愛いでしょ。そういうのいいから。真面目に理由考えてよ」
自分が可愛くないことくらい、自分が一番よくわかっている。それなのに、可愛い、だなんて言われても、悲しくなるだけだ。
「えっ?」
――突然、びっくりしたような声を上げたのは佐々原さんだ。見れば、思わず叫んでしまったらしく、自分の口元を両手で覆っていた。彼女は私から美樹へと視線を移し、
「えっ、……えっ?」
と訳の分からないことを言う。大丈夫?
私には何も伝わらなかったのだが、美樹は何かを受け取ったらしい。彼女は神妙に頷いた。
「そうなのです。ひなちゃんは無自覚なのですよ」
「え、あ……そうなの?」
「そうなの」美樹は繰り返し、頷く。「わたしも最初はとんだ謙遜だと思ったけど、本気で自分の可愛さをわかってない子なのだ」
「美樹!?」
恥ずかしいことを大真面目な顔で言うな!
友達びいきは嬉しいとはいえ、佐々原さんがドン引きしている。こっちが恥ずかしい。
「あー、あの、あの、佐々原さん? 違うの、ごめんね、美樹、親馬鹿ならぬ、友達馬鹿だから? すぐ私のこと可愛いとか言うの、ごめんね」
「馬鹿なのはあんたでしょ」
佐々原さんはズバッと酷いことを言う。
って、何で!?
「いや、そうじゃなくって……」
「無駄無駄無駄」ブンブンブンと美樹は首を横に激しく振る。「この押し問答は何回も繰り返したけど、ひなちゃんはわかってくれませんでした」
「変わってるわね」
佐々原さんはじろじろと私を見ながらそんなことを言う。どうして変人認定されなきゃいけないのだ。
「――で」
おもむろに、佐々原さんは咳払いし、何でもないことを聞くかのような口調で尋ねた。
「高梨さんは桐生先生のこと、正直どう思ってるわけ……?」
……ん?
……んんん?
私はそっ、と美樹の方を伺う。しかし、美樹は何も気付かなかったのか、不思議そうに私を見ていた。
「……私は別に、桐生先生のことはイケメンだな~かっこいいな~としか思わないけど……」
「思うんだ」と、美樹。
「思うわよ。……――佐々原さんは?」
えっ、と美樹と佐々原さんの声が重なる。
「佐々原さんは、正直、桐生先生のことどう思ってるの?」
驚いたのか、佐々原さんはぱくぱくと口を開閉させ、しばらく答えなかった。
――ははーん。これは確実。
そう思って、もう一度、美樹に目配せすれば、彼女も今度は勘付いたようだった。私を見て、ニヤニヤと笑っている。
私たちの様子を見て、佐々原さんはカーッと顔を赤くした。うわぁ、可愛い反応だ。彼女はふいっ、とそっぽを向き、いらいらしたような口調で言う。
「い、い、いつから気付いてたの……」
「えっ、ほんとに好きなのー?」
きゃっきゃっとした口調で美樹が尋ねる。佐々原さんはさらに顔を赤くし、押し黙ってしまった。墓穴を掘ってしまったと気付いたのだろう。
「佐々原さんもイケメンには弱いのかぁ……」
意外だなぁ、と思いながらそう言えば、佐々原さんはキッとこちらを睨みつけた。
「そういうのじゃないの! そう思われるのが一番イヤ!」
「好きなのは認めるってことだね」
さっ、と合いの手を入れれば、佐々原さんは「ウッ」と殴られたような声を出し、自分の頭を抱えた。あはは、図星だ図星。
「好きなのに、どうして冷たい態度なの?」
美樹が不思議そうに尋ねる。確かに、佐々原さんは桐生先生に対して、いつも冷たく刺々しい態度で、私はてっきり大嫌いなのかと思っていた。
「べ、べ、別に先生とどうこうなりたいわけじゃないし……」
佐々原さんは逃げ方がわからないのか、顔を真っ赤にしながらも素直に答えてくれる。
「それに、ちやほやされるのが嫌だとか言いながら、ちやほやされて喜んでるのがムカつくのよ。ちやほやしてる人にはもっとムカつくけど」
「あぁ、だから涼宮先輩とか桃瀬先輩に当たりが強いわけ?」
「だって、桐生先生、星や空が好きだから、天文部の顧問になったのよ。天文部にはミーハーな女の子も少ないから落ち着くって言ってたのに。あの二人はいつだって桐生先生にまとわりつくんだから。そりゃムカつくわよ」
「そういえば、」美樹がのんびりと天井を見上げる。「桐生先生が顧問なのに、天文部にはミーハーな女の子少ないよねぇ。どうしてだろう?」
「そりゃ、あの人がサッカー部の副顧問だからでしょ」
佐々原さんはさらりと答える。
「サッカー部が木曜日と日曜日以外が練習日なのよ。だから、桐生先生も週に五日、そっちに出ずっぱりなわけ。ファンクラブとかいうふざけた人たちも、大体がサッカー部のマネージャー狙いとか、応援とかで大忙しよ」
そういえば、桐生先生が赴任した年、サッカー部のマネージャー希望が多すぎて、マネージャー枠が廃止されたそうだ。そのせいで、桐生先生は元々のマネージャーから恨みを買ったとか何とか。あるいは元々マネージャーだった人は残れたけど、桐生先生にメロメロになっちゃって仕事にならなかったから、結局辞めさせられたとかいう噂も聞いたことがある。何が本当なのかよくわからないが、サッカー部に応援に来る女子は増えたので、部員たちは大喜びなのは確かだそうだ。
「天文部は木曜日だけだから。それに、顧問とはいえ、文化部なわけだし、桐生先生が毎週ちゃんと顔を出してるとはみんな思ってないのよ」
実際のところ、桐生先生は毎週、天文部にやってくる。あの人が部室にやってくるたび、空気がキラキラと輝きだす気がして、初めは慣れなかった。
「ふーん、よく知ってるねぇ」
美樹が何の悪気もなく、にこにこと微笑みながら言う。佐々原さんはまた顔を赤くして、俯いてしまった。
「私、てっきりあんたたち二人も桐生先生が好きなんだと思ってたわ。ファンクラブの類かと……」
もごもごと小さな声で佐々原さんは言う。
「勘違いしてた、ごめん……」
佐々原さんが謝るなんて珍しい。とってもレアな光景だ。
美樹は「いいよいいよぉ」と気軽に手を振る。けれども佐々原さんは恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいいっぱいなのか、なかなか俯いた顔を上げなかった。
そうそう、こういう時は、こっちも恥ずかしい思いをするのが礼儀ってものよね。
「で……美樹はどうなの? 気になる人とかいるの?」
「わたし?」
美樹が僅かに固まった気がした。しかし、次の瞬間にはふわりとした笑みを浮かべている。
そういえば、美樹とは恋バナしたことないかも。
ていうか、寝室で恋バナって、合宿の醍醐味! って感じがする。テンションがうなぎのぼりだ。
「うん。どうなの? いるの?」
「えぇ……わたしは別にいいよ、ひなちゃんこそどうなの? その……新野とか」
「にーの? 何で新野なの」
「仲良いじゃん?」
「仲良いって、そんなことないよ」
流石、美樹だ。不思議な事を言う。笑って手を振れば、美樹と佐々原さんは困ったように見つめ合い、首を横に振った。いや、何その動き。
「可哀想な新野……」
美樹が仰々しく合掌する。
「どうして新野の話になってるの……そんなことより、美樹は? 美樹はどうなの?」
ベッドに這い上がり、どん、と美樹を叩いて言う。美樹は笑いながらベッドに倒れ、「うーん」と悩むような声を出した。
「しいて言うなら……上条先輩?」
――おぉ、意外とすぐに教えてくれた。
こういう時の『しいて言うなら』はただの照れ隠しだって、長年、人の恋バナばかり聞いてきた私にはよーくわかる。
「へぇぇ、そうなんだ……」
「何、その顔っ」ぷく、と美樹は頬を膨らませる。「しいて言うならって言ってるじゃん」
「あははー。で、どこが気になるの?」
「……え、だって、上条先輩、優しくて……」
美樹は生真面目に答えようとしてから、いきなり起き上がったかと思えば、私に殴りかかってきた。とはいえ貧弱なので、いくら殴られても痛くないが。
「そーゆーひなちゃんはどうなのっ!?」
「えっ、私? 私はそういうの縁がないから……」
「そういえば」
佐々原さんが自分のベッドに腰かけながら、ふと思い出したように言った。
「肝試しの帰り、小鳥遊先生と手を繋いでたらしいわね」
「えっ、そうなの? どういうこと? ひなちゃんは小鳥遊先生なんかにあげないよ?」
「美樹、何言ってんの……あれは、懐中電灯が途中で切れちゃったからで……」
「そうなの?」
急に心配そうな顔をして、美樹が私を覗き込んでくる。私はこくこくと頷いた。
「ちょうど崖の方に着いたとき、懐中電灯が切れちゃって……森を通るにも真っ暗でさ、小鳥遊先生は、一度通った道なら大丈夫だとか言って進もうとするんだけど、いや、どう考えても無理だよね? 怖すぎでしょ? 別にビビリとかじゃなくて。それで、どうしようかなーと思ってたら、手を……」
「お前は俺が守る、って?」
美樹がすかさず私の手を取り、そんなことを言った。美樹の手はひんやりと冷えていて、そっちの驚きで心臓がドキッと跳ねた。
「ち……違うわよ」
何て言われたんだっけ――と思い返して、私はげんなりした。
「『とっとと歩け』だ」
「……だから嫌われるのよ」
呆れたように佐々原さんが言う。全くその通りだ。
――とはいえ、小鳥遊先生が手を引いてくれたおかげで、安心して進めたことは……黙っておくか。
その後、私たち三人は他愛もない、どうでもいい話でひたすら盛り上がった。夜が更け、慌ててベッドに潜り込む頃には――美樹は私のベッドで一緒に眠った――私たちは、下の名前で呼び合うようになっていた。
佐々原さん――杏里は、赤い眼鏡をベッドの傍のテーブルに置き、電灯のスイッチに手を伸ばしながら、ほんの微かに笑って言った。
「おやすみ」
おやすみ、と私と美樹の声が重なった。