第七話 ちほ
「今! 手ェ繋いでただろ!」
――真っ暗闇の中を歩き抜け、テラスまで戻ってきた私たちにそう叫んだのは、新野だった。別荘の裏を通り抜け、テラスの明かりが見えた時には、小鳥遊先生は手を離してくれていたのに、なんてめざといんだろう。
すっかり疲れ切って戻ってきたというのに、新野は両手を振り、ぎゃんぎゃんと騒ぎながら小鳥遊先生の傍へ駆け寄った。
「セクハラ! そういうのセクハラって言うんだからな! おい! 聞いてんのか――」
「文句は桐生に言え」
小鳥遊先生は鬱陶しそうに眉を寄せながら、ポケットから懐中電灯を取り出し、桐生先生に向かって放り投げた。桃瀬先輩にまとわりつかれていた桐生先生は一瞬だけ反応が遅れたが、しかし、ちゃんと空中でキャッチしてみせた。
「ん? どうかしたの?」
「電池が途中で切れた」
「えっ、ほんと? わー、それは申し訳ないな。小鳥遊先生、高梨さん……ごめんね」
謝りながらも、桐生先生は、「タカナシ」「タカナシ」と続いたのが妙に可笑しかったらしく、口角を震わせていた。もう。桐生先生のせいであんなに怖い思いをしたのに。
「……って、あれ?」桐生先生はふと真面目な顔になって首を傾げた。「君たち、最後のペアじゃなかったっけ?」
「そうですけど……」
「おかしいな。まだ、涼宮さんと雪下さんのペアが戻ってきてないんだけど」
言われてみれば、涼宮先輩も美樹もいない。
すると、小鳥遊先生が欠伸をしながら、ガシガシと頭を掻いて言った。
「俺たちは来た道を戻ってきたからな、もう一方の道で時間食ってるんだろ」
「そうかもしれないね」
桐生先生が頷き、「もう少し待っていよう」と周囲に声をかけた。
私は小鳥遊先生がぐんぐん進むからついて来れたけど、普通に進んだら、もう少し時間がかかって当然だろう。私一人なら、一時間くらいかかる気がする。懐中電灯はあったとしても、夜の森を進むのってほんとに怖い。
「おい、おい」
こそこそっ、と新野が寄ってきて、私の肩を肘でつつく。
「何よ」
「何で、さっき、手、繋いでたんだよ。セクハラなら……」
「だから、懐中電灯が切れちゃって、真っ暗で何も見えなかったからだってば」
「ほんとにそれだけ?」
「それだけ。……どうかしたの?」
「べ、別に……それだけならいいんだけど」
新野は怪訝そうに眉を寄せながら、頭の後ろをがりがり掻いている。
「ていうか、手を繋いだだけでセクハラって、それはないでしょ」
思わず笑いながら言えば、新野はカッと目を見開いて首を振った。
「い、いや! 手を繋ぐとか! 普通にハードル高いから!」
「何の話よ……」
いつもながら、わけのわからない奴である。
その時、近くで白神先輩がくしゅん、とくしゃみをした。
「寒いなー」
くしゃみをするほどでもないと思うのだが、白神先輩はそんなことを言いながら、小刻みに震え、自分の肩を抱いている。とはいえ演技ではなく、本気で寒がっているのは顔色を見るとすぐにわかった。
すると、隣に立っていた本町先輩が舌打ちをした。
「だから上着着て来いっつったろ」
「歩いてれば暖かいかなって思ったんですけど。いろいろ着込むと息がしづらくて……それもそれで苦しいんですよね」
「お前は風邪じゃ済まないんだから気を付けろよ。着ててしんどいなら、腰に巻くとかして持ってこい」
本町先輩は、そう言いながら、ジャージの上に羽織っていたウインドブレーカーを脱ぎ、白神先輩に渡した。白神先輩は素直に受け取り、腕を通しながら、ニコニコと笑って言う。
「済みませんね、先輩だって青い顔してるのに」
……多分、それは寒さじゃなくて、恐怖の名残りだと思うけど。
「黙ってろ」
本町先輩がそう言えば、元気を取り戻したらしい白神先輩は相変わらずの笑顔を浮かべ、追撃を加える。
「黙ってていいんですか? 聞こえちゃいけない声が聞こえやすくなりますよ」
「何だそれは。いいからお前は黙ってろ。少なくともお前だけは黙ってろ」
そんな程度のからかいにも、本町先輩は目を剥いて吠えている。
「えー、じゃあ、黙ってます」
くすくす、と白神先輩は笑い、口を閉ざす。でも、その目は口より雄弁で、三日月型に歪められ、ニヤニヤと笑い続けていた。
ややあって、本町先輩がまた何か言おうとした時――
「あっ、まだみんないた!」
――いきなりそんな声がして、本町先輩が言葉の代わりに奇声を上げた。
「だだだだだ誰だ!?」
「誰だって……わたしですけど」
困った声が、頭上から降り注ぐ――見上げれば、別荘の二階の窓から、美樹が顔を覗かせているところだった。彼女はぶんぶんと手を振り、笑顔で言う。
「すぐに降りますねー!」
ぴしゃん、と窓が閉まり、姿はすぐに見えなくなった。
「どうして別荘の中にいるの……?」
答える人がいない問いを、桃瀬先輩が口にする。
「……う」
突然、本町先輩が怯えたような声を上げた。
多分、私と同じ想像をしていると思う。
――そうですね。肝試しのペア、実は本人によく化けた幽霊とかお化けだったらどうします?
――例えば僕と組んだとして、二人で肝試しに行くじゃないですか。そしたらなかなか二人とも帰ってこないんです。みんなが心配してると、僕だけノコノコ別荘から出てくるんですよ。それで言うんです。『僕、寝ちゃってて、肝試し来るの忘れちゃいました』って。あれ? さっきの白神は? 白神と一緒に行った、本町先輩は……?
――変わり果てた姿で発見されます。
白神先輩の言葉が何度も何度も反響して蘇ってくる。
まさか……さっき涼宮先輩と一緒に肝試しに出かけた美樹は、本当は美樹じゃなくて、幽霊か何かだったり……?
しばらく待っていれば、別荘の裏口の方から、美樹が小走りでやってきた。テラスに辿り着くと、彼女が何か言う前に、白神先輩が何故か興奮気味の楽しそうな口調で尋ねた。
「雪下さん、どうしたの? もしかして今まで寝てた?」
「寝てた? 寝てたわけないじゃないですか」
ぷく、と美樹はむくれる――そりゃそうだよね!
「肝試ししてたら、涼宮先輩が急に気分が悪いから部屋に戻るって言いだしたんですよぉ。わたしは、先生のところに行きましょーって言ったんですけど、誰の顔も見たくないって言うので、裏口から上がって、部屋まで送りました」
「そうなの?」吉村先生が心配そうに柳眉を寄せた。「風邪でも引いたのかしら」
「いえ、なんかそういうのじゃなくて……よくわからない感じでしたよ。何か変なものを見たのかなぁ、わけわかんないこと言ってました」
「なななな何か変なものを見たって何だよ! ゆっ、幽霊か! 幽霊なのか!?」
本町先輩があわあわと両手で口を抑えながらそう叫ぶ。ラグビー部のエースが子犬のように震えているのは何となく可笑しい。
美樹は首を傾げながら本町先輩を見て、そして言った。
「いや、何か、人の名前ですかね? ちほ、とか言ってましたけど」
「ちほ?」
何だそれ。――私はそう思って聞き返したのだが。
さっきまで怯えて震えていた本町先輩が、ぴたりと動きを止めた。その表情が、怯えよりも、驚きに満ちる。ち、ほ? と言うように、ぱくぱくと唇が動いた。
「ちほ?」隣に立っている白神先輩がハッと目を丸くする。「それって、トウドウ――」
「白神!」
――突然、本町先輩が厳しい声で叫んだ。それから、ぎろりと野獣のような眼をして白神先輩を睨む。睨まれた白神先輩はビクッと震え、思わずと言ったように半歩後ろに下がる。
「何でお前がその名前を知ってるんだ」
「それは……」
「……本町」
やんわりとした声で、上条先輩が仲裁に入った。けれども、その上条先輩自身も、血の気が抜けた、真っ白な顔をしていた。
「名前くらい知ってても不思議じゃない。後輩を苛めるのはよせ」
「……そういうつもりじゃねぇけど……」
「言い合いは止しましょう」
そう言って割り込んだのは、吉村先生だった。彼女はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、美樹に歩み寄ると、その肩をぽんと優しく叩いた。
「あとで私も様子を見に行ってみるわ。涼宮さんの介抱をしてくれてありがとう」
「あ……いえ……」
当惑した表情のまま、美樹は首を横に振る。吉村先生はより一層笑みを深くし、私に白い指先を向けた。
「じゃあ、みんな、そろそろ別荘の中に入りましょうか。ここは寒いものね。みんなまで体調が悪くなったら大変だわ」
吉村先生はそう言い、急かすように手を叩いた。優しい声音ながらも、有無を言わせぬ口調で、みんなは黙って歩き出す。一転して、その場は沈痛な雰囲気になっていた。
ちほ、っていったい誰だろう。白神先輩は「トウドウ」と口走ったけど、その名前にも聞き覚えはなかった。周囲を見ると、あからさまにギクシャクしているのは吉村先生と三年生、そして白神先輩だけで、他の面々は当惑した様にお互いを窺っていた。
すると、たた、と美樹が近くへ走り寄ってきて、青い顔をして私を覗き込んだ。
「ねぇ、わたし、変なこと言っちゃった……?」
「……ううん、美樹のせいじゃないよ。気にしちゃダメ」
「……そっか」
美樹は、ちょっと無理をした様子ではあったけど、僅かに笑顔を浮かべてくれた。