第六話 肝試しと煙草の匂い
広場から、別荘の横を通り抜けるように北西に行けば、すぐに森へ入り込む。そこが肝試しのルートの始まりだった。
肝試しに行く順番はジャンケンで決めた。そして、私たちは最後に行くことになった。前のペアが出発してから、五分待った後、出発しなければならない。最後だからこそ、きっと誰か帰ってくるだろうと思ったのだが、私たちの前のペア――美樹と涼宮先輩のペアがいなくなっても、結局誰も戻ってこなかった。みんなきっちり五分待っているわけではないとはいえ、二十分くらい経っても誰も戻ってこないなんて……よほど怖いのか、それともただ単に道のりが長いのか。
外は光源がなく、懐中電灯をつけっぱなしにしているのも勿体ないので、私たちはテラスの近くに立っていた。さっきまで話し合いをしていた部屋の電灯をつけっぱなしで来たので、テラス付近にいればかなり明るいのだ。
――明るいから怖くはないとはいえ、気まずいんだよね。
ついさっき美樹と涼宮先輩が意気揚々と出発してしまったので、広場に残されたのは私と小鳥遊先生だけになってしまった。
この先生と二人きりになるのは初めてなので、一体何を話せばいいのかよくわからない。さっきまでは美樹がいたから平気だったのに。
小鳥遊先生はぼさぼさの髪をぐしゃぐしゃと掻きながら、テラスの椅子に勝手に座っている。どことなく面倒くさそうに見えた。実際面倒くさいのかもしれない。
「あの、小鳥遊先生って、怖いのとか苦手ですか……?」
気まずさを誤魔化そうと、私は面白くもないのにあははと笑いながら声をかけた。小鳥遊先生は眠そうな黒い目をこちらに向けたが、しかし、何も言わなかった。虚しい風が二人の間を吹き抜ける。
あまりの気まずさに心が折れそうになった時、小鳥遊先生は肩を竦めた。
「別に。幽霊よりもっと怖いものがあるから」
「幽霊よりもっと怖いもの?」
「……人間だよ」
「……そう答えたら、カッコイイと思ってるんですか?」
素直にそう尋ねると、小鳥遊先生は目を丸くしながら私を見た。
「そう聞こえるか?」
「聞こえます。幽霊よりもっと怖いのは人間だよ……だなんて、最近、サスペンスドラマでも聞きませんよ」
「……そうか」
ぐぐ、と恥ずかしそうに小鳥遊先生は俯いた。あれ、意外と普通に話せるな。
私はそんなことを思いながら、ふと空を見上げた。
「……わっ、小鳥遊先生、見て下さい、夜空とっても綺麗ですよ!」
ほとんど光源のない島で見上げる夜空は、びっくりするくらい、星が多かった。あまりの多さに、深い藍色の布の上に、白い砂を振りまいたようにも見える。ここまで星が多いと、いくら勉強していても、星座を見分けるのは難しそうだ。
「小鳥遊先生、星座とかわかります? 今は……春の大三角形とか見えるのかな? あはは、星が多すぎてどれがどれなのかまるでわからないですね」
「……そうだな」
興味なさげに言いながら、小鳥遊先生が立ちあがった。一緒に星空を見上げてくれるのかと思いきや、彼は欠伸をしながら、森の方に歩いて行ってしまう。
「あっ、ちょっと、待って、先生」
「もう五分くらい経ったろ。さっさと行こう」
「一言くらいかけて下さい」
私は文句を言いながら、小鳥遊先生の隣に並んだ。横を歩いた瞬間、彼の身体に染み付いた煙草の匂いが鼻腔を刺す。今、吸っているわけじゃないのに、なかなかキツい。
テラスから離れて別荘の裏に回れば、そこはまだ森ではないのに、大分暗くなった。別荘の窓から漏れだす光でうっすらと周囲は見える。
「あれか」
言われて見てみれば、森に続く小道が出来ている。小道と言っても、浜辺から別荘にやってきた道ほど整備はされておらず、ただ人が二人ほど通り抜けられるように、一部の木々が切られているだけだった。
「で、あれが戻ってくる道だな」
暗いのに、よく気が付くものだ。先生が指差した方を見ると、少し別荘から離れたところにも、通り抜けられそうな道があった。ちょうど、小さな小屋の後ろにある。
「あの小屋、何ですか?」
「電話がある納屋じゃないか」
「えっ、固定電話って、小屋の中にあるんですか?」
「あぁ。電話が鳴る音が聞こえるのが嫌だからって、桐生……先生の曽祖父が、小屋の中に設置したらしい」
「変わってますね……じゃ、夜中に電話しようと思ったら、わざわざ別荘からここまで出てこなきゃいけないんですか?」
「そうなるな」
「私、絶対イヤです」
「すぐ近くだろ。ビビリなのか?」
心外なことを言いながら、先生は懐中電灯を点けた。ぱっと一点だけが丸く明るくなり、それを先生は進むべき道へ向ける。
まるーく照らしあげられると、その周囲の闇が一際暗く見える。照らされていない木々の陰から、何かが飛びだしてきそうで、ちょっと怖かった。これは別に、ビビリとかそんなんじゃなくって、一般的にみんな感じる怖さだと思うんだ。うん。
そんなことを考えてたら、小鳥遊先生はずんずんと森の中へ踏み入ってしまった。
「あ、先生、待ってくださいって……」
どうして、平気で置いて行こうとするんだろうか。
森の中はあまりにも暗く、不気味だった。生い茂った木々同士が枝を絡み合わせている為、さっきまでよく見えていた星空も見えない。
小鳥遊先生は前方に懐中電灯を向けたまま、黙々と歩いて行く。彼が何も言わないので、風がさらさらと葉を撫でる音すらよく聞こえる。自分が歩き、ジャージが擦り合う音も、何か奇妙な音のように聞こえた。
あの木の後ろに、幽霊が潜んでいたりして。
いや、後ろを振り返れば、もうそこにいたりして。
懐中電灯の光の中に、いきなり足が浮かんできて、驚いて見上げたら、首のない人が立っていたりして。
――そんなとりとめもない妄想が次々に駆け抜けていく。
あれは人の顔? いや、よく見れば枝と枝が重なってそう見えるだけ。あれは幹の模様だし。
今の音は獣が動いた音? それとも何かが私を見てる? いや、風が葉っぱを撫でた音……。
歩けば歩くほど心臓がドキドキしている。ペアが仲の良い人だったら、とっくに飛びついていた頃だろう。けれどもペアは小鳥遊先生で、しかも平然とした顔で歩いている。怖くないと言ったのは嘘じゃなかったらしい。
せめて小鳥遊先生のジャージの裾でも掴もうか、怖さが紛れる気がする。けれどもそんなことをしたら、めちゃくちゃ面倒臭そうな顔で見られそうだ。しかも、あの不潔でテキトーな小鳥遊先生に頼るのも嫌だし……。
そう思った時――いきなり、懐中電灯がジジッ! と音を立て、光が激しく点滅した。
「ぎゃーっ!?」
思わず悲鳴を上げ、近くにあったものに飛びついてしまう。強烈な煙草の匂いがした。それからそこそこ暖かい――って、咄嗟に、小鳥遊先生の背中に飛びついてしまったのだ。睨まれる前にすぐに離れたが、また懐中電灯が変な音を立て、点滅を始める。
「やだやだやだ、先生、これ、あれです、あれですよッ、ポルターガイスト……!」
再び小鳥遊先生の背中に抱きつき、そこに額を押し当てて顔を隠しながら、私はぎゃあぎゃあと騒いだ。
「おい、締め付けるな、そこ鳩尾……」
うぐ、と小鳥遊先生が苦しそうな声を上げる。
「嫌だ、まだ死にたくない、ごめんなさいー!」
「落ち着けよ、馬鹿」
ぎゅーっと目を閉じ、ついでに小鳥遊先生も締め付けながら叫んでいれば、私の手に誰かが触れた。また叫んでしまったが、ぽんぽんと叩くのは小鳥遊先生の手らしい。
「落ち着けって。何がポルターガイストだよ。これはただ単に、電池切れが近いってだけだ」
「電池切れ……」
「そうだよ。そんなに怖いなら、一旦テラスまで戻って明るいところで確認してみるか? たぶん、その頃には先に行った奴らが帰ってきてるから、お前のビビリ具合を見せびらかすにはちょうどいいぞ」
「……だからビビリじゃないです」
電池切れか。小鳥遊先生があまりにも落ち着いた声で説明するので、バクバクと激しく運動していた心臓も落ち着いた。事情を聞けば、何だそんなことかという気もしてくる。
――って、やばい。
私は慌てて小鳥遊先生から離れた。びっくりして抱きついちゃったけど、よくよく考えればとても恥ずかしいことをしてしまった気がする。
「せ、先生、あの……」
「でも、これ、切れるとまずいよな」
――けれども、小鳥遊先生は私に抱きつかれたことは一切気にしていないらしく、まだゆっくりと点滅している懐中電灯を見ながら、ガシガシと頭を掻いた。うわぁ、もともとボサボサなのに、さらにボサボサになってきてる。
「桐生の野郎、電池くらいちゃんと管理しとけ」
「……口悪いですよ」
「知るか」
小鳥遊先生は溜息を吐き、また歩き出す。今まで通り、明かりを前方に向けているとはいえ、パッパッと不安定に点滅するので、いちいちビクビクしてしまう。
私はさっきより少しだけ小鳥遊先生の傍に寄りながら、点滅する光に怯えつつ歩いた。さっきまで暗くて周囲が怖かったけど、ジジッと音を立てながら点滅なんかされちゃうと、光の方が気になる。胸がざわざわして、あまりの怖さに泣きそうだった。
早くみんなと合流したい。
そんなことを思っていたら、いきなり後頭部を軽く叩かれた。
「何、この世の終わりみたいな顔してるんだ」
「ちょ……っ」
先生を見上げれば、彼は視線だけをこちらに向け、仕方なさそうな笑みを浮かべていた。ウザがられていると思ったのだが、意外にも、優しい表情でびっくりしてしまう。
「……べ、別にそんな顔してませんけど……」
「じゃあ、ちょっとは急いで歩け。あんまり悠長にしてると電池が切れる」
小鳥遊先生はそう言い、歩く速度を上げた。私も慌ててその横に付いて歩く。こんなところで置いていかれたらたまらない。
ジジッ、と揺れる光を見つめながら歩いていれば、いきなり森が開けた。冷たい風が吹き込み、思わず身体が震える。
森が開けた先は、ちょっとした崖になっている。夜空がまた見えた。満天の星空だ。あたりが少しだけ明るくなり、ほっとした心地を覚える。
「あ、お菓子は……」
「お前の足元だ」
「えっ」
危ない。もう少しで踏むところだった。
私の足の少し前に、お菓子の袋が一つ置かれていた。どうやら駄菓子の詰め合わせらしく、懐かしさで頬が緩んでしまうようなお菓子がビニール袋の中に入っている。袋の口はリボンで結ばれていて可愛らしかった。これを桐生先生が用意したのかと思うと何だかときめいてしまう。
小鳥遊先生がしゃがみこみ、お菓子の袋を乱暴な手つきで拾い上げる。そんなに強く握ったら、スナック菓子が割れてしまう。
「ほらよ」
先生は放り投げるようにしてお菓子を渡してくる。掴んだ衝撃で、中のお菓子のいくつかが割れた音がした。
「もーっ、先生、優しく扱ってください!」
「食えたらいいだろ、食えたら」
「そういう問題じゃないでしょ! ほんと、先生はガサツなんだから……」
そう言いながら、私はふらりと崖の方に近づいた。崖とはいえ、その縁には私の腰くらいまでの高さがある柵が設置されている。
崖に近づくほど、星空がグッと近く見える。さっきまで小鳥遊先生のすぐ傍に居たから、煙草の匂いでそれどころじゃなかったけど、風に潮の匂いが乗っている。
柵に触れないようにしながら、私は崖の下をひょいと覗き込んでみた――暗闇だった。何も見えない。ただ、波がざわめく音だけが僅かに聞こえる。
「ひな」
いきなり名前を呼ばれて、私は飛び上がりそうになった。ぎょっとして振り向けば、チカチカと転倒する懐中電灯を私の足元に向けながら、小鳥遊先生がこちらを見ていた。暗くて、表情はよく見えない。
「あまり崖に近づくな、危ないから」
「……」驚きがなかなか声にならない。「……ど、どうして人の名前呼んで……」
「あ? だってお前も俺もタカナシじゃないか」
面倒臭そうな溜息が聞こえてくる。
えっ、苗字が一緒だからって、下の名前を呼ぶの?
「でも――」
「あっ」
小鳥遊先生が声を上げた――その瞬間、パッと懐中電灯の光が消えた。あたりが真っ暗になり、星の光が一層増す。
「ちょっ、先生! 早く点けて下さい! 真っ暗!」
「悪いが電池切れだ」
カチカチカチ、と何かを動かす音がする。けれども明かりは一向につかない。小鳥遊先生はしばらくごそごそと何かしていたが、諦めたのか、ややあってまた溜息を吐いた。
「駄目だな。点かない」
「そんな……何も見えないんですけど」
そう言いながら、私は声を頼りに、ゆっくりと小鳥遊先生の傍に戻った。
「お前、何か明かりは持ってないか?」
「明かり……あっ! 持ってます! スマホ!」
そういえば、圏外だけど、いつものくせでポケットにスマホを入れてきたんだった。現代病だなーとか思っていたけど、まさか役に立つとは。そう思いながら、ポケットに手を突っ込み――
「ない」
あれ?
「うそ、ない、あれ、何で?」
ポケットをひっくり返すが、スマホがない。
「やだ、落とした!?」
「さっきから騒がしいな、お前は」
「た、小鳥遊先生、煙草吸ってるからライターとかあるでしょ? 明かりになるんじゃ……」
「部屋に置いてきたよ。煙草吸いながら肝試しする訳にはいかねぇしな」
「ええぇ……どうしよう。スマホも落としたし、明かりもないし、……どうしよう……」
「騒がしいってば……一本道なんだから、スマホもどっかに落ちてるさ。明るくなってから探せばいいだろ」
「それはそうですけど……でも、こんなに暗かったら、そもそも森の中歩けませんよ」
「何度も言うけど、一本道だ」
呆れたように小鳥遊先生は言う。やや考えるような間を置いてから、彼が頷いた気配がした。
「行けるな。問題ない」
「……何がですか」
「ルール違反になるけど、来た道を引き返して広場まで戻ろう。一本道だったから、引き返すことくらいは容易いぜ。新しい道を進むよりはずっといい」
「え、でも、森の中入ったら、きっと何も見えないですよ」
「見えなくても、一度通ってきた道だ。足場が悪いわけでもなかったし、慎重に歩けば問題ないさ」
そう言いながら、小鳥遊先生は森の方角へ歩き出したらしい。声と足音が少しだけ遠ざかる。
「やだ、ちょっと待ってください、私そんなの無理です!」
慌てて着いていくが、一歩踏み出した時点で肝が冷えてしまった。あまりにも暗くて、さっきよりも恐ろしい。生き物なんかまるでいないような静けさも胸を押し潰す。森の向こうには明るい別荘が待ってて、そこにみんないると分かっているのに、何だか、ここに入ってしまえば、一生出てこられないような、そんな嫌な予感がした。
「大丈夫だって」
小鳥遊先生は私の不安がまるでわからないらしく、平気な口調でそう言って歩いて行く。置いていかれては堪らないので、ついていけば、すぐに星の光さえも枝葉に遮られて見えなくなってしまった。すると、本当の暗闇が目の前に落ちてくる。
暗闇に目が慣れていないから、というのもあるのだろうけれど、本当に何も見えない。
一歩先を歩く小鳥遊先生の姿でさえ、輪郭がうっすらと見えるだけで、よく捉えられなかった。彼が葉っぱを踏み分けていく音がやけに大きく聞こえる。
ふと、ガサガサと近くで茂みが揺れる音が聞こえた。
小鳥遊先生がいるはずの方向とは違う――何か他のものがいる?
私を見てる……?
――ややあって、風の音だと気付いた。
そう、幽霊なんかいるわけない。化け物なんかいない。そう言い聞かせながら、私は前を向き直り、思わず泣きそうになった。
真っ暗で何も見えない。小鳥遊先生も見えない。ザ、ザ、ザ、と葉っぱを踏み分ける音だけが、淡々と遠ざかっていく。
「小鳥遊先生……」
必死で呼びかければ、意外にも足音は止まった。けれども返事は聞こえない。かえって不安だった。
すると、足音がまた戻ってくる。ザ、ザと葉っぱを踏む音が、どんどん大きくなる。
――この足音って、小鳥遊先生の足音で合ってるんだよね?
何か別の足音じゃないよね……?
何でこういう時に限って、そういうことばっかり考えてしまうのだろう。身体はどんどん冷えていくのに、目頭がカーッと熱くなっていく。
足音がすぐ傍までやってくる……ふと、ふわりと煙草の匂いが感じられた。
「小鳥遊先生、」
「お前、ビビリだな」
呆れたような声。やっぱり小鳥遊先生だ。化け物の類ではなかったらしい。ほっと胸を撫で下ろすと、その肘をグイと掴まれた。
「とっとと歩け。早く戻って桐生に文句の一つでも言おう」
「は、はい」
肘を掴んでいた手がするりと下に落ち、手首で止まった。小鳥遊先生は私の手首を掴んだまま、少し強い力で引っ張って歩き出す。
真っ暗で何も見えないはずなのに、小鳥遊先生はスタスタと迷いなく歩いて行く。腕を引かれるままに歩いていれば、さっきまでの恐怖がストンと抜け落ちていく気がした。
うう、さっきまで鬱陶しくて仕方なかったはずの煙草の匂いに、ちょっとだけ安心してしまう。悔しかったけど、ペアが小鳥遊先生で良かったと、ほんとに、ほんとにちょーっとだけ思った。