第一話 それは穏やかな春の日
吹いてくる風が異様に冷たい。
三月も下旬に入り、春らしいぽかぽかとした陽気が感じられるようになったとはいえ、海の上はまだまだ寒かった。くしゅん、と思わずくしゃみをすれば、隣で震えていた美樹がこちらを見た。
「ねー、ひなちゃん、中に入ろうよぉ。ここ風があって寒いよー」
ふわふわとした話し方をしながら、彼女は自らの肩を抱くような仕草をする。二人とも、学校指定のジャージの上から、上着を羽織っているとはいえ、風が吹くと寒かった。
ここは、小型クルーザーの上である。私たち二人は寒さに耐えながら、その側方のデッキに立っていた。船の後方の部分なら風もかなり防がれて、居心地は悪くないのだが、そこは早々に先輩の女性陣によって占拠されてしまった。まぁ、それは仕方がないだろう。
「あぁ、ごめんね、体に悪そう?」
「それはだいじょぶだけど、ふつーに寒い……」
「わかる……でも中に入るのやだなぁ……」
「え? どーして?」
「どーしてって、だってほら、小鳥遊先生」
「んー、まぁ、そうだねぇ……」
良かった。美樹の方も、小鳥遊先生の面倒を見るよりは、ここで寒さを我慢する方がいいみたいだ。
「それにしても、島、楽しみだな。天文部入ってほんとに良かった」
「天文部っていうか、桐生先生のおかげだけどねぇ」
「美樹は夏にも、あの島に行ったんでしょ? 楽しかった?」
藍沢高校天文部は、年に二回、夏休みと春休みに合宿を行っている。四泊五日と長い合宿で、夏休みは運悪く予定が合わなくていけなかったのだ。
天文部ではいつも二人でつるんでいるから、私が行かないなら、美樹も行かないかな、申し訳ないな、と思っていたけれど、彼女は「そうなんだー、ひなちゃんは行けないんだ。残念だねぇ」とだけふわふわ笑って、ちゃっかり行ってしまった。
「すっごく楽しかったよ」美樹はふにゃりと笑う。「ご飯がね、すっごく美味しくてね、あと星もよく見えたし。みんなで夜に集まって枕投げもしたの~!」
「枕投げ? ベッドでよくしたね?」
「ん?」
美樹は丸みがかった太眉をハの字にすると、ちょっとだけ考え込み、また笑った。
「違うや、これ、冬に行った研修旅行の話だった」
「だよね……」
美樹に枕を投げつけた思い出がある。楽しかったのは確かだ。
そんなくだらない話をしていたら、ふと、船内から誰かが顔を出した。物音に気付いて振り返ってみれば、吉村先生だ。
「あぁ、あなたたち、今、手が空いてたりする?」
彼女は疲れたように溜息を吐いてから、そう尋ねて柔和に微笑んだ。吉村先生はとても顔が整っていて、飛びぬけて綺麗な人だ。だから、にっこりと微笑まれると、こっちまでにっこりと微笑んでしまう――たとえ、嫌なお願い事をされるってわかっていても、だ。
「もしよかったら、小鳥遊先生のご様子、見ていてあげてくれない? 私、ちょっと休憩したくって……猫の面倒も見たいし」
一人暮らしの彼女は、この合宿に愛猫も連れてきている。
美女に頼まれて「絶対イヤです!」と素直に答えられるほど、私は強くなかった。
「えー、わたしは、ヤ……」
「美樹、一緒に行こ!」
平気でヤダ、と言えてしまう親友の手を取り、半ばやけになってそう言えば、それを振り払うほど美樹は非情ではなかった。
「ひなちゃんが行くならいいよ」
「ありがと。じゃ、吉村先生、少し休んでてください。大の男の面倒、ずっと見続けるなんてしんどいでしょ」
「ふふ、ありがとう」
吉村先生は悪戯っけのある表情で笑う。その可愛い顔を見れたなら、まぁ、ちょっとくらい面倒に巻き込まれてもいいだろうと思えてくる。
美樹と連れ立って船内に入る。つるんとした材質の木材で作られた広いテーブルが中央に置かれ、その周囲を真っ白なソファーがぐるりと囲んでいる。その最も奥の部分に、小鳥遊先生はぐったりと横たわっていた。無駄に身長が高いので、ちょっと窮屈そうである。
小鳥遊先生は、去年の四月、私たちが入学するのと同時に、藍沢高校に赴任してきた新米の先生である。三十二歳にして新米なのは、それまでニートをしていたからだと専らの噂だ。私もそうじゃないかと疑っている。煙草臭くて、不潔で、いつも寝てばかりいる。
そんなダメダメな様子は旅行に行く日でも変わらず、本日の小鳥遊先生は、ぼさぼさの髪に、くたくたのジャージという出で立ちで、もちろんそのジャージにも煙草の臭いが染み付いていたし、ポケットから煙草の箱が頭を覗かせている。何でこの人が教師なのか、いまいちよくわからない。パチンコを打ってる方がお似合いだ。
――あと、私はもう一つ、個人的に気に食わないことがある。どーしよーもないことだけど。
「先生、大丈夫ですか?」
ソファーにいる他の生徒の邪魔にならないように、ゆっくり回り込みながら、私は尋ねた。ソファーにぐったりと倒れている先生は、顔の上に乗せていた片腕を少しだけ上げ、ちらりと私と美樹を見る。
「……あとどれくらいで着く?」
いつもより低い声だ。
「さぁ。あと三十分くらいじゃないですか」
「ありえねぇな……」
「先生、そんななのに、船酔いの薬飲んでこなかったんですか?」
「飲んできてこれなんだよ。あー、吐きそうだ」
先生は狭いソファーの上でごろりと寝返りを打ち、こちらに背中を向ける。人が様子を見に来てやったのに、何だ、その態度は。
「船酔いなんて大変ですね」美樹がのんびりと言った。「帰りの日、雨が降りそうなんだって。海が荒れたら、もっと揺れるから大変ですね」
この子は、無邪気に追い打ちをかける。
想像して、もっと気持ち悪くなったのか、先生は黙り込んでしまった。代わりに、私が美樹に話しかける。
「でも、天気、ずれ込むかもしれないんでしょ?」
「そうなの? じゃ、東京帰ってから雨?」
「ううん、島にいる間に雨が降っちゃうかもって」
「えー、星見えなくなっちゃうじゃん」
「まぁ、そうだけど。それ以外も楽しいんでしょ?」
「うん、それはそう」
天文部の合宿なのに、星が見えなくても楽しいというのは本末転倒な気がするが。とはいえ、文化部の合宿なんて、それっぽい名目で遊びに行くのが目的みたいなものだろう。こんなことを言うと、真面目な人たちに怒られちゃうかもしれないけど。
――とか思っていたら。
ハァ、とわざとらしい溜息が聞こえてきた。
振り返れば、出入り口の近くに腰かけている同学年の女生徒――佐々原杏里がパタン、と文庫本を閉じているところだった。そして、赤い縁取りの眼鏡の奥から、こちらをギロリと睨みつける。
「それでも天文部なの?」
発されたのは冷ややかな声だ。彼女は細い目で私たち二人を睨むように眺めた後、また溜息を吐く。
「これだから、顧問の先生があんなだと困るのよ。星が好きでもない人ばかり集まる。それなら、桐生先生親衛部でも作ればいいのよ」
随分とご機嫌斜めのようだ。
「別に、桐生先生目当てってわけじゃないんだけど……」
「どうかしら」佐々原さんはフン、と嘲笑するように唇の片端を上げた。「そうやって誤魔化してる方が、もっと馬鹿馬鹿しいわね」
……むかつく。
桐生先生目当てじゃないのは本当だ。天文部の顧問である彼は、確かにイケメンだけども、私だって、美樹だって、イケメン目当てで部活を選ぶ人間じゃない。
とはいえ、正直、運動が苦手なので、文化部ならどこでも良かったんだけど。あぁ、でも、美術部だけは絶対に嫌だ。絵が描けないとかそういう理由ではなく……
「ちょっと、」
くい、とパーカーの袖を小鳥遊先生に引っ張られた。。
「水、取ってきてくれ」
「いいですけど……私はちょっと、だなんて名前じゃありません」
本気で怒ってるわけじゃないけど、軽く言い返しておく。美樹がぽすん、と小鳥遊先生の隣に腰かけ、私は彼女の足とテーブルの間をよいしょと通り抜けながら、備え付けのウォーターサーバーに向かう。
紙コップに水を注ぎ、振り返ると、小鳥遊先生はソファーに寝転がったまま、何とも言えない表情でこちらを見ていた。
――もしかして。
「生徒の名前、覚えてないんですかぁ?」
思わず呆れてそう言えば、再び文庫本に視線を落としていた佐々原さんもキッと目尻をつり上げて、小鳥遊先生を睨んだ。なかなかの迫力だ。
しかし、小鳥遊先生は悪びれもなく、ひらひらと手を振って答えた。
「だって、一年生は授業持ってなかったし」
「副顧問が何言ってるんですか……」
天文部なんて、全学年合わせても二十人くらいの小さな部活だ。その生徒も覚えていないって、この人はこの一年間、一体何をしてきたんだろう? ……寝てただけか。
「でも、先生、ひなちゃんの名前がわかんないってことは、覚えてないんじゃなくて、ほんとに知らないんだろうねぇ。やばいねぇ」
くすくすと美樹が笑う。全くもってその通りだと思って私が頷けば、小鳥遊先生はようやく上半身を起こし、ソファーに背中を預けながら、青い顔をこちらに向けた。
「どういうことだ?」
私はソファーとテーブルの間をふたたびゆっくりと歩き抜けながら、先生に紙コップを手渡す。そして答えた。
「私、高梨ひな、っていうんです。漢字は、高いに、果物の梨だから、違うけど。タカナシ仲間ですね、小鳥遊先生?」
こんな不潔でだらしない先生と名前が同じだなんて。そんな気持ちが現れてしまったのか、つい、口調がトゲトゲしてしまった。とはいえ、こっちは、誰かが小鳥遊先生の悪口を言う度に、こっちがビクッとしなきゃいけないんだから。仕方ないとはいえ、気に食わない。
「……なるほど」
ぐい、と水を呷りながら、先生が唇の端を軽く持ち上げた。かと思うと、紙コップをテーブルの上に放り出し、またソファーに突っ伏す。
「……あとどれくらいで着くんだ」
先生が急に動くので、風に煽られて、その煙草臭さが鼻腔を刺した。うぇっ、最悪。
「さぁ? 一生、辿り着かないんじゃないですか」
繰り返される質問に、私が適当に答えれば、
「船って、到着する前にまた大きく揺れたりするのかなぁ」
美樹が無邪気で残酷な疑問を投げかけた。
すると、その時、吉村先生がひょっこり顔を覗かせ、弾んだ声で言った。
「みんな、島が見えてきたわよ」
「ほんとですか?」
私と美樹は顔を見合わせ、呻いている小鳥遊先生は放っておいて、デッキに戻ることにした。佐々原さんの隣を通ったが、彼女は島を眺めるつもりはないらしく、相変わらず本を読んでいる。合宿の始まりだと言うのに、つれない人だ。
デッキに吹く風はやっぱり冷たい。けれども島への期待に心を躍らせているから、さっきよりは気にならなかった。
船頭に走れば、男子生徒四人が遠くの方を指差してワイワイと騒いでいた。その中の一人が私たちに気付き、振り返って無邪気に笑う。
「よぉ! 島、見えてるぜ!」
同学年の新野凛太朗だ。野球部と天文部を兼部しているという変わった奴なので、肌は褐色に焦げていて、坊主頭をしている。元気な笑顔を浮かべながら、そいつがひょいひょいと手招きし、遠方を指差した。
隣に並んで目を凝らしてみる――確かに見えた。遠くの方に、緑の小島。
あの島は、一、二時間も歩けば一周出来てしまうほど小さいらしい。ほとんどが木で覆われていて、建物は別荘が一つとそれに付随する納屋があるくらいなので、夜になると、今時珍しく、「本当の暗闇」を味わえるだとか。星の観測には持ってこいの場所だし、あと、肝試しなんかにも持ってこいだ(今夜のメイン・ディッシュである)。
「新野も今回が初めてなんだっけ? 野球部、忙しくなかったの?」
運動部に所属している人にとって、一週間近くも奪われてしまうこの合宿はなかなか重いと思うんだけど。
「ま、それはそれ、これはこれよ」
新野の返事はテキトーだった。
「お前も初めてだろ? 楽しみだな」
「そうだね」
新野が無邪気に笑うので、つられて笑えば、彼はアッアッと突然挙動不審になる。どうした。くすくすと後ろで美樹が笑っている。
「その――あの――肝試しとか楽しみだよな。ペアが誰になるかとか。お前、誰とペアになりたい奴とかいるの?」
「? そりゃ、いるけど……」
「えっ、誰?」
「美樹」
即答すれば、新野は一瞬だけ息を止め、それから長く長く吐き出した。
「……あぁ、まぁ、そうだなぁ」
「どうしたの?」
「いや、別にどうもしてないけど……」
おかしな様子の新野を、隣から先輩が小突く。新野もわりと体格はいいのだけど、彼よりもさらに大きい、三年生の本町遼先輩だ。彼はラグビー部と兼部していたとかいう、これまた奇妙な人である。とはいえ、もう三年生は卒業しているし、まだ高校も始まってないから、今はフリーなんだけど。三年生というか、元・三年生だな。そう考えれば、私も元・一年生だけど……。
そんなことを考えている間に、ニヤニヤと笑っている本町先輩に、新野はがっしりと肩を組まれていた。
「おうおう、可哀想になぁ、少年」
「ちょっと、そういうことじゃないッスから」
この二人は運動部同士だからか、仲が良い。大きい犬と小さい犬がじゃれてるようにしか見えないけど。
「もう見えてるのに、なかなか近くならないね、島」
「そうだねぇ」
ぼけーっとしている美樹に話しかければ、彼女はふにゃふにゃと笑いながら頷く。
あぁ、癒しだ。そんなことを思いながら、私は青い空と青い海、そしてその間に浮かぶ、緑の小島を眺めていた。東京から下田までマイクロバスで四時間。下田を出発して南東へ向かうこと、三時間程度。朝早くに家を出たけれど、下田で昼休憩がてら観光もしたので、太陽はかなり傾き始めている。そろそろ空も赤く染まり始めるだろう。
煩わしい世間から離れて、小島でのんびり過ごす四泊五日。最高じゃないの。
――けれども、結果として、この四泊五日の旅は、私の人生で一番、凄惨で、残酷で、忘れられないものとなったのであった。
新連載です。のんびりお付き合いください。
楽しんでいって頂ければ幸いです。
良かったら、過去作品も覗いて行ってみてください。