29 夜の決着
火にあぶっておいたおかげで、まだ万全とまではいかないが、脚は充分に動く。
ディアナは街を救った英雄として今まさに衆目を集めている。
だからラシュディは矢も盾もたまらず、塔の吹き抜けを軽業で飛び降りていった。
崩れた山の中からシャロムひとりを探すのは途方もないが、当てが無いわけではない。
十一本あったソロの首は、一つだけ片目が潰れていた。そこがソロにとって特別な、本体に繋がる部位だと推測できる。
そうして記憶を頼りに、月明かりすら無い地下を急ぐ。
もうじき北門の近くにまで着くところで、向こうから這いずってくる人型の音を捉えた。
腰に忍ばせておいた火打金で、吊るしの松脂に火を灯す。
「派手な抜け殻を残しやがったな。川下にでも逃げるつもりか?」
「まさか……お前が、ここまで追って来ましたか。やはり、もっと早く……始末しておくべきでしたね」
汚水にまみれて濁りきったソロの氷人形が、苦しげに、そして恨めしげに顔を上げてきた。
「うぬぼれるな。てめえに用があるわけじゃねえよ」
「おや。では訊かないのですか? 彼女が無事かどうか」
「どうせ何を言われても信用できねえからな。訊くだけ無駄だ」
ここで質問を重ねて真偽を確かめたり、何らかの有益な情報を引き出したり、あるいは息の根を止められないか、いっそ生け捕りを試みたりと、選択肢は実際、いくつか考えられた。
「……失せな。てめえを相手にしてるほど暇じゃねえんだ」
しかし結局は何も見なかったことにしようと決めた。シャロムの安否を思えば、迷っている時間も惜しいからだ。
「そいつを逃がしちゃダメだよ!!」
ところがそうやって通り過ぎた直後に、前方から望むべき声が響いてきた。
ひたひたと近付く足音に耳を澄ませる。
「シャロム……か?」
じっと目を細める。
「うん。ラシュディ。ボクだよ」
暗闇からシャロムの姿が現れた。若干やつれた様子ではあるが、見た目はまさに、そのものだ。
「生きてたんだな?」
「ほら、ボクは平気だから。それより早く、そいつをやっつけないと、また酷いことになっちゃう」
改めてソロを見下ろしたが、今や膝が笑うような恐怖も背が縮むような凍気も感じない。
自分の手でもとどめを刺せるかもしれない。無敵の防御が無限とは限らない。
「大丈夫さ。ボクには分かる。弱くなっているときは弱いんだ。こればっかりは人間も魔王も同じだよ」
現にディアナは“姫様パワー”の有無で極端な差がある。
他には師匠から聞いた昔話で、鋼の槍に突かれても無傷でいられるほど鍛えた武術の達人が、食中毒で腹を下したときに小刀で刺されてあっさり死んだという例もある。
「ふふ、いい子ちゃんですね、シャロム。ではやってみますか? 今度こそ命を賭して? お勧めはしません。せっかく助かったのに、また彼を苦しめることになりますよ?」
「てめえ、どういう意味だ?」
ソロは口の端を歪める。
「結論を先に言えば、我々を殺せば、シャロムも死ぬということです」
「ラシュディ、聞いちゃダメだよ」
わずかでもラシュディを制したいとばかりに、おずおずと指先をつまんできたシャロムの手は、とても冷たい。
「シャロム。お前の生来の心臓は、一年前のあのとき、氷に貫かれて潰れてしまいました。しかしお前に利用価値を見出した我々は、自身の肉を分け与え、生かしてあげたのです」
「シャロムは分身みたいなもの。本体であるてめえが死ねばシャロムも、ってわけか?」
「さすが、理解が早い」
「いい加減にしてよ!! 何度も同じ手を、いつまで、ボクを使うつもりなんだ!?」
シャロムの声が、指が、震えている。
「ボクのことは気にしないで、ラシュディ。どうせ嘘に決まってる」
「さあラシュディ。疑って後悔するか、信じて救われるかは、お前次第ですよ」
追い詰められているのはソロの側のはずなのに、なおも言葉で闇に訴えかけて、優位に立とうとしてくる。それだけ奴も必死ということだろう。
真偽がいずれにせよ、見逃すか否か、どちらにしても後悔を強いられる。
「随分と、まあ……よく手の込んだ芝居を考えたものだぜ」
だがこの二択の悩ましさは、今もシャロムが生きているという前提あってこその話だ。
すなわち第三の答え。
ラシュディはシャロムの手を払い、腰紐から鉄針の最後の一本を抜くなり、迷いなく彼女の左目に突き刺した。
「なっ、あっ……」
よろめくシャロムの口に、すかさずラシュディは指をねじ込む。
「ソロ。てめえの氷人形は必ず右目が潰れている……そう思い込ませておいて、ここ一番で違うものを用意してくるのは、騙し方としては上等だった」
冷たく固い肉感を割り入った奥に、ぬるりとした手触りを捉えて、一気に引き抜く。
「声も喋り方もそっくりだったぜ」
シャロムの姿をしたものが、気が抜けたように無言で倒れた。
あれだけ深く傷付けたのに、血は一滴も流れていない。ついでに足元の白い人型も動かなくなった。
そしてラシュディの指は、赤黒い蛇の首元を掴んで離さない。
「でもよ、闇を信じるてめえが、光にこだわってどうすんだ?」
「何故、どこで、分かった……?」
「なんだてめえ、まだ喋れるのか」
ぐっと絞め続けると、ソロが目を剥いて痙攣した。
「足音が違ったんだよ」
青白い炎が巻き上がり、細い身がのたうつ。
「晴れのとき、雨のとき、嬉しいとき、悲しいとき、元気なとき、病んでるとき、靴を履いているとき、裸足のとき、戦っているとき、遊んでいるとき……どのシャロムの足音とも、てめえの化けた演技は違ってた」
「お前、変態ですか」
「俺は昔、暗殺者をやっていたことがあるんだ。そのくらいも出来ねえで、ノックスを名乗れるかよ」
「まさか、そんな小さい勘だけを信じて、寸分も違わない彼女の姿に、本気の殺意を向けたとでも言うのですか? ただの、心ある人間が?」
「こんなふざけた真似をしてくるってことは、もう本物のシャロムは手遅れだったんだってことも、よく分かった」
ソロの身体は縮みに縮んで、手のなかの抵抗が弱まっていく。
命が間もなく尽きる感触だ。
「人間の心を、なめるな」
仰ぎ見てくるソロと目が合った。
蛇の瞳に透けて窺える感情は、不本意に襲われて事切れる間際の人間が、多くの場合は圧倒的な無力さを痛感したときに見せる、ノックスとしては数え切れないほど向けられてきたものだった。
直後、ぶつり、不滅の炎に呑み込まれるようにして、ついにソロは灰すら残さずに消えた。
「てめえ魔王のくせに、つまらねえ最期だったな。これじゃあ英雄物語に真実なんて書けるわけねえや」
ラシュディは独り呟き、煉瓦壁に寄りかかる。
「……やっと終わったぜ。なあ、シャロム?」
そのまま目を閉じ、冷たい水濡れに腰を下ろした。
これまで無視してきた怪我や疲れが、いよいよ身体を重くさせた。
熱が失われていく。
指も動かせない。
命が溶けて流れ出ていく心地がする。




