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27 女神アルテミシア


 回廊にたむろし首を長くしていた死運び鴉らを、金色の刃が扉もろとも斬り飛ばした。


「なるほどこれは、すこぶる良いではないか」


 身の丈よりも長大な石の剣を片手で振り回す。

 そんなディアナの装いは素朴なものだ。

 つややかな生糸で織られたものではなく、まばゆい金銀宝石で飾られたわけでもない、およそ彼女が思い描く気品とは無縁の麻布(あさぬの)たった一枚。

 それをラシュディは、祭壇の女神像を真似して、古代風の巻き方を再現してみせた。これには相当の長さが必要だったが、噴水広場の横断幕が棚にしまってあったので、それをうまく文字が見えないように折りたたんで活用したものである。


 一歩間違えれば裸同然となることに初めは難色を示されたものの、至って納得の出来映えであり、やんごとなき祖霊を模したものとあってはこのディアナが(ふる)い立たないわけがない。


「まさに、目から鱗が落ちたようじゃ!!」


 かくして一騎当千の立ち回りが黄金の軌跡を描く。

 彼女の晴れやかな調子があまりに頼もしかったので、ここで正直に言えば、ラシュディは安堵し、図らずも油断してしまっていた。

 物置部屋を出た瞬間に音も無く、ぞっとする、足首に冷気。


「……っ!?」


 己の不注意さを悔やんだときにはすでに、氷の蛇がまとわりついていた。蛇は溶けて薄く這い、ラシュディの脚はももから下が凍らされた。


「どうした、おぬし、何事じゃ!?」


 自身を支える力が抜けて倒れ、もはや、冷たいとさえ感じない。


「立てぬか?」

「ああちくしょう。こんなとこで、しくったぜ」

「腕は無事じゃな?」

「あ? ああ」

「ならば、しかと掴まるがよい。身を委ねることを許して進ぜよう」


 言うが早いかディアナは返事も待たず、ラシュディを腰回りから持ち上げた。


「おい、掴まるとこがねえじゃねーか」

「ええい、動くな。黙っておれ。気が散るではないか!!」


 吊られた猫のような姿勢のラシュディを小脇に抱えたまま、ディアナは跳躍した。

 増援して吹き抜けを急降下してくる死運び鴉の頭部へ飛び乗り、身を屈め、剣の腹で叩き落とすと同時にその反動を利用してさらに上へ跳ぶ。

 さながら断崖絶壁を駆け登る山羊の動態で、ディアナは宙を制し、あっという間に最上階へ着いたのだ。


 すぐ近くには、内から扉が開け放たれている部屋があった。

 死運び鴉の侵入経路だろう。ディアナはそこを突き切って外縁にまで出ると、ラシュディの身体を手すりに預けた。


「これより先には、やはり外を行かねばならぬ」


 この塔は、内側の階段でも登れる階はここで限りなのだが、構造はもう一段の上がある。

 六角錐(ろっかくすい)状の天辺を頂く、神の座とされるその階には、はしごも何も用意されていないため普通の人間では入れない。


「じゃあ早く行けよ姫さん。この脚じゃ俺はもう、立ってられねえからな」


 肉体的にも地位的にも。


「承知しておる。なればこそ詩人として、ゆめゆめ、わらわから目を離すでないぞ」

「言われねえでも」


 見合って頷く。

 ディアナが一足跳びに天辺へ昇るのを見送って、ラシュディは物置からくすねておいた火打金と蝋燭、木炭とでこっそり脚を温めはじめた。


 女神の似姿が泰然(たいぜん)として角錐の辺に佇む。

 いくらディアナ自身が金色の粒子を撒いているとはいえ、この夜闇に(へだ)てられて、民衆が彼女を視認できるのだろうか。あるいは、その逆は?

 声を届けるにしても、もっと下の階からで充分だったのではないか?

 この期に及んでラシュディには疑念が湧いたが、当のディアナはまるで迷いなく、深く息を吸い込んでいた。


「者ども、見上げーい!!」


 張り叫んで全力の飛剣を一閃、撃ち放ったのは、直上に向けて。


「わらわは、ここじゃーーっ!!」


 まばゆい斬撃が空を切る。


 氷柱を砕く。


 雲を穿つ。


 天を割る。


 ついに魔王の城が覆いを崩し、途方もない光がなだれ込んできた。

 わずかに遅れた理解の後、ラシュディは鳥肌が立った。

 夜空を照らしているそれは、かたちと模様は見慣れてよく知るものだったが、その存在感は途轍(とてつ)もない。

 もはや綺麗だとか神秘的だとかを通り越して、一種の戦慄にも似た(おそ)れさえ感じさせる。恐怖と崇敬は、おそらく近いものなのだろう。


 月だ。


 太古より夜を支配してきた女神の威光。

 それが今宵は通常の何倍も、いや何十倍にも増して広く輝き、圧倒的で、四百年に一度の、なるほど特別な、極大の満月であった。

 ディアナの影は、その月を背景にしてなお輪郭(りんかく)を確固たるものとしていた。

 髪と衣をたなびかせ、威風堂々として、ひとつの絵画としても出来すぎているほどだ。敢えて頂上にこだわっていたのも納得である。

 目を奪われる――「奪われる」という表現がこれほどしっくりきた経験は初めてだった。畏れ多くも、見つめ続けずにはいられない。まるで抜き身の刀剣に魅入っているような妖しさを孕みつつ。

 そうして彼女を仰ぎながらも、遙か下に耳を集中させれば、かすかに熱気の移ろいが聞き取れる。詳しくは知れないが、暴動は怒り一色ではなくなったようだ。

 ざわめき、戸惑い、うろたえているのが分かる。

 きっと彼らは恥じているのだ。

 得体の知れないものの声に流されるまま憤り、王女を手にかけようとしていた事実への罪悪感が生まれたことだろう。

 そう目を覚まさせるだけの荘厳(そうごん)な光を、ディアナはいま背負っている。


 だがそれだけでは、まだ足りない。


 認められなければいけない。

 認めさせなければならない。


 求心力を得るために、再び“姫様パワー”を見せつけるべきか。

 それとも魔王の言葉を払拭(ふっしょく)するために、理路整然と説得を試みるべきか。

 どうする? どう出る?

 ラシュディは固唾を呑んで見守った。


「魔の煽動(せんどう)に我を失い、反逆の旗を上げた罪深き民草(たみくさ)たちよ」


 ディアナの声が朗々と渡る。


「そなたらを許そう」


「人間は弱い」


「人は裏切る。人は嘘を吐く。人は迷い、移ろい、逃げて、過ちを犯す」


「どうしようもなく、抗えない不幸が訪れたとき、運命を憎むこともあるだろう。自らの選択を悔やむこともあるだろう」


「神を恨むこともあるだろう」


「このディアナを恨みたくば、恨むがよい」


「それこそ古来抱えてきた人間の性質であるならば、その心の弱さをも愛そう」


「人に心ある限り、虚偽(きょぎ)秘匿(ひとく)背信(はいしん)、後悔、などと無縁ではいられない」


「それでも、そなたらを許そう。人が人として生きることを許そう」


「何故ならば、神は人を裏切らない。裏切ってはならない」


「何度でも、どれだけ人が神を裏切ろうと」


()の下を逃れた者にも、必ず上に月は輝く!!」


 言い切ってディアナは、人差し指を立てて腕を掲げた。

 そのとき突然にラシュディは、自分の頬が濡れて冷たいことに驚いた。


「なんで……俺はいま、泣いているのか?」


 わけが分からなかった。

 ただそれだけなのに、丸裸にされるよりも気恥ずかしくなり、また己を誤魔化すためにも、改めて地上の動きに意識を傾ける。

 広場での暴動は鳴りをひそめたが、その分だけ、確かな結果は知れない。

 だから詩人の務めとして、わずかでも言葉で心を動かすべく、声を上げた。


「ひっめっさま!! ひっめっさま!!」


 精一杯に、手拍子を付けて。


「ひっめっさま!! ひっめっさま!!」


 ただただ、勢いで彼女を祭り上げてみせる。


「「ひっめっさま!! ひっめっさま!!」」


 次第に呼応して、ふつふつと、ディアナを称える声援が増して沸き立つ。


『 だ ま れ !! 』


 そこへ突如、猛烈な風が街を突き抜けた。地が響き、氷が軋んだ。

 合唱が遮られると、ラシュディも民衆も揃って、吹雪と恫喝(どうかつ)の来たる向きに目をやった。

 極大の月が照らす北の彼方で、巨大な銀色が揺れている。


 トラディム山脈。


 人と魔の地を分かつ境界の、凍れる山の峰々が、うごめき、封を解くように、あるいは芽吹くように、続々と隆起していく。


「まさか、あれが、あいつか?」


 不滅の炎を抑える氷の身体。無敵の防御を誇る凍気の衣……これらを括ってディアナは氷人形と称していたが、元が大蛇である以上、それが等身大の人型である必要は無いのだ。


「ふむ。最大の敵の秘密の切り札が、かねてより丸見えであったとは予想外じゃな」


 背は白銀の氷雪。腹は霜をまとう大地。

 山そのものが、魔王の鎧。

 やがて万年雪が十一本の蛇頭を形成して首をもたげ、こちらを見下ろす二十一の灼々(しゃくしゃく)とした眼光は、まるで北天を巡る星座であった。


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