26 水に心あり
氷壁は神殿の敷地を囲んでいた。
向こうの噴水広場からは王権失墜を求める喧噪がまだ聞こえてきている。
ディアナを戻らせないように立てたのだろうが、これが幸い、邪魔な人間が来られないので拝殿内は静かなものだ。
「よし、剣はこれを拝借しよう」
とてとて走って、ディアナは祭壇に近寄った。
やや遅れてきたラシュディは、ふと賽銭壺に目を留めた。
『あなたが外に目を開くとき、光はすでにその内にある』
最初に見たときは何とも思わなかったこの文言が、今は妙に気になった。
「なあ姫さん。ここに書いてあるこれ、何なんだ?」
「女神が残した碑文の写しじゃ」
「意味は?」
「確かな意味までは伝わっておらぬ。故に、識者によって意見が分かれるところじゃな」
「姫さんはどう考えてんだ?」
「大事な祖霊の御言葉じゃ。解釈によって国が分裂せぬように、王族はこれに個人的な見解を述べる権利を持てぬ」
どうして気になったのか……確信ではないが、まるで『心は闇』というソロの言い分を認めたうえで反論しているように、ラシュディには感じられたのだ。
ある意味では、魔王の言葉が真実であると。
「それよりおぬし、立ち話をしておる場合ではなかろう。手を貸さぬか」
彫像の石剣を抱いて、ディアナはぷるぷるしている。
「なんでわざわざ、そんな重そうなやつを選ぶ」
「内通者がいるやもしれぬ。普通の剣が処分されている恐れもあろう」
「っていうか、抜けるのか?」
ラシュディも祭壇に登る。
そこで足裏の感触に眉をひそめ、剣に沿って目を落とした。
昨日はここまで覗かなかったから気付かなかったが、女神像の足元にも別の彫像があったのだ。
苦悶の表情で横たわっている双頭の蛇。
その片首の右目に、剣は突き立っている。
「女神様ふたりがかりでの剣も炎も効かねえのに、どうやって攻略したのか疑問だったが、こういうことかよ」
「うむ。鱗の無い箇所から突き入れ、生皮を剥いでいったそうじゃ」
「ちびっ子が聞いたら泣きそうだな」
屈んで肩に石剣の鍔を乗せ、擦り音を立てて押し抜いた。
そのまま石の重みを背負って塔に行き、一階の沐浴場へ急ぐ。
「むう……大分ぬるくなっておるな」
薄明かりのなか、ディアナは滑らかな大理石の浴槽に指先を付けた。祖霊祭の開会前にもここで身を清めていたそうだ。
「それはさておき、何故、おぬしが脱いでおるのじゃ?」
ラシュディは上半身を露わにし、脚は裾をまくって水仕事の用意。
「時間がねえんだろ? さっさと身体を洗うぞ」
「貴様は男ではないか。破廉恥極まる!! さてはこの機に、やんごとなき裸身を目に焼き付けようという品性下劣な魂胆か!?」
「バカ言ってんじゃねえ。俺は昔、風呂屋の垢すり係をやっていたことがあるんだ。今さら、お前みたいなガキんちょの尻を拝んで喜ぶかよ」
大陸の古今東西にわたって大衆用の浴場といえば、混浴は少なからずあり、いかがわしい男女交流の商売と繋がっていることも多いのは事実である。
「わらわは大人じゃ。そのディアナの、この柔肌に、非常時にかこつけて与ろうなどと言語道断。話にならぬ!!」
「お前“姫様パワー”無しで、敵に襲われたらどうすんだ?」
「脅しても無駄じゃぞ。浴場を戦場にすべからず。神々が定めた天地開闢からの、これ常識。いかに恥知らずの魔物といえど、そこまで無粋なことをするものか」
するとゲェキョゲェキョ、外から死運び鴉の鳴き声がする。
割と近く、氷壁を越えて敷地内にまで来ているのは間違いないだろう。
「……やはり魔物とは、神の定めに逆らうこと甚だしいものじゃ。過ぎる用心は無いな」
「お前さんのそういう切り替えの速さ、嫌いじゃねえぜ」
「月は満ち欠け、移ろうものじゃ。ひめたる心も、また然り」
「うまいこと言ってんじゃねーよ」
ディアナは潔く翻り、油まみれのドレスをぬぱっと脱いだ。
浴槽にディアナを腰かけさせて、後ろから髪と背を洗う。
「ぬー、おぬしの腕が、どの神官や使用人よりも素早く丁寧で、ツボを押さえて、かゆいところに手の届く感じが……逆に腹立たしい!!」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
彼女は同じ石鹸と手桶を渡されて、前側や、爪の隙間は自分で綺麗にしている。
特に、足の指は念入りだ。
「それにしても不思議なもんだな。こんなに細っこい肩と腕で、俺より強い、シャロムよりも強い魔王と渡り合える。なのにすぐ弱くもなる」
「ここまで共になれば、おぬしには詳しく知らせたほうがよかろうな。“姫様パワー”とは、この、風呂のようなものじゃ。発揮するには二段階の枷がある」
ディアナは手のひらに湯をすくってみせた。
「月の女神を、大元の湖としよう。それを水道で引いて貯め、沸かして湯とするには、自らが女神の子孫に相応しいと内から信じ覚悟せねばならぬ」
「気高さ、か?」
「しかし最後に湯を放つには、外から栓を回す許しが必要じゃ。強大な力を振るうに相応しい、高貴なる者だと民に認められなければ、いかに装って自分ひとりが納得しても無意味ということよ」
濡れて透けたり、異臭が染みたりするような格好は、王女として公の場に相応しいと自分を許すことが出来ない。
仮に自分がよくても、それに頓着しない恥知らずを世間は気高い王女と認めないだろう。
「まったく、しち面倒くせえ仕組みだな」
二人ともに手桶で泡を流す。
「強大な力とは、恐れるべきものでなければならぬ」
恐れているのは誰か、とは互いに言わなかったし訊かなかった。
「ところで何じゃ? よく考えたらここは窓無き密室。死運び鴉がどれだけ集まろうと、侵入できるはずもなし。またおぬしに騙されたのではないか?」
「だといいんだがな。もし俺がソロの立場なら……あるだろほら、お前がさっき言ったばかりの、ここに繋がる道がよ」
空気が急に冷え込んできた。
そしてラシュディが注目した箇所は、浴槽の脇にある、口から湯を出す魚をかたどった彫像。
台座部分の栓に専用の角棒を挿して回すことで湯量を調整する造りだが、それが閉じていながらも、内側からミチミチと軋んでいる。
「姫さん、出るぞ!!」
彫像をぶち破って、いくつもの氷の塊が飛び出す。
浴槽に落ちた氷塊は、ぐねぐねと伸びて形状を蛇へと変えた。
「ぬゃ、まだ乾いておらぬのに!?」
ディアナの手を掴み、石剣を引きずって即離脱。
「す、進めラシュディ。よいか? 決して、絶対に、まかり間違っても振り返ってはならぬぞ」
「安心しろ姫さん。お前の戸板みたいな胸のことなんか書き残したりしねえよ」
「振り返るなと言っておろうがー!!」
沐浴場から出れば、ひらけた塔内に二羽の死運び鴉が待ち構えていた。
ぎょろりとした目玉がこちらを見下ろして、敵意満面にくちばしを開ける。
対するラシュディは肩で口元を隠した。
「ゲェキョキョ、ゲェキョキョ!!」
不意の鳴き声に二羽は、突き出そうとしていた首を止め、不思議そうに顔を見合わせた。
その困惑している隙を突いて脇を過ぎ、螺旋階段を駆け登る。
「おぬし、魔物と話も出来るのか?」
「いちかばちか、ただの一発芸だ。あいつらもバカじゃねえから二度は通じねえぞ」
現に、我に返った死運び鴉は猛々しく追ってきた。
さらにラシュディたちが二階に上がったところで、降ってきた三羽めが前から迫る。
「ちっ」
ディアナは拙くても一緒に走ってくれるからまだいいが、石の剣は重いだけでどうしようもなく、手近な部屋にすれすれ飛び込んだ。
蝋燭、薪、炭、毛布、絨毯、織物、石灰袋……灯りや暖をとるための用品が棚に積んで整頓されていた。
「ここは雑貨の物置か。何か使えそうな物は……」
「せめて衣装部屋まで辿り着ければよいのじゃが」
ラシュディが物色をする傍ら、ディアナは髪をわしわし拭いている。
「なあ姫さん。お前が自分のことを気高いって思える格好ならいいんだよな?」
「まずは最低限、そうじゃな」
ディアナの身体は、短い毛布を間に合わせで巻かれている。
「分かった。なら一旦、それ脱げ」
「……にゃぬ!?」
「まあ任せろ。俺は昔、踊り子の着付け役をやっていたことがあるんだ」




