20 お前は俺を、もう救ってる
面倒くせえ女だ、とラシュディは心の底から率直に思った。このまま手を離して転ばせてやろうかとさえ。
「そんなこと気にしてる場合じゃねえだろ。生きるか死ぬかの瀬戸際だぞ。ガキんちょが寝ぼけたこと抜かしてんじゃねえよ」
「たとえば……」
ディアナは、よよよとゆっくりと背を戻して霜を踏みしめ、再び胸に迫って口を開いた。
「たとえば、シャロムを人質にとられていたら、どうするの? わたしを置いて行く代わりに、彼女を連れて逃げていいと言われたら?」
シャロムの命を秤にかける――突きつけられた仮定は、嫌でも一年前の敗北を思い起こさせた。
「今はそのつもりが無くても、壁の上に立ったら、気が変わってしまうかもしれない。変えられてしまうかもしれない」
皮肉にも生々しい恐怖と罪悪感が、目の前の脆弱で煩わしい少女への苛立ちを打ち消した。
いま対抗すべき相手はあの魔王であって、この娘ではない。
続いてラシュディは目を閉じ、顔の前で手を合わせて深く息を吐いた。
死者への礼とも共通する構えをもったこれは、かつて暗殺術を習得する際に教わった、失敗の許されない場面で冷静さを取り戻すための所作である。
そうして感情の波を努めて平らにするとようやく、ソロの思惑を勘ぐる余裕が出来た。
一年前は自分だけ逃げた。逃げるよう誘導されていた。
では今は?
何故この門まで来てしまった?
いくらそうなるように氷壁を作られていたとしても、バカ正直に迷路遊びに付き合う義理は無かったはずなのに。
屋根なり氷柱なり、あるいは他にも進める道はあったはずなのに。必要な道具も家捜しのときに調達できたはずなのに。
さらにはここに至っても、例えば自分とディアナを縄で括って、一緒に登る手段もあったはずなのに――それらを一切、闇夜に名高いノックスともあろう者が、思いつきもしなかったのは何故だ?
ディアナの指摘したような裏切りが起こらないと、自信をもって言い切れるか?
「……人が人である限り抗えない、ってか?」
危うく見誤るところだった。
同じ間違いを重ねるところだった。
ちっとも攻撃が効かないとか、街を瞬時に凍らせるとか、魔王の恐ろしさは、そういうことではないのだ。
大きく息を吸ってから、己の頬を強く叩いて目を開く。
「けっ、上等じゃねえか」
それから縄を波打つように揺らし、灰かき棒を氷壁から外してみせた。すると分かりやすくディアナの顔は晴れやかになった。
「言っても“姫様パワー”が戻らねえ以上、逃げるって選択肢は変わらねえがな。それでも、逃げ方くらいはいくらでも選べ――」
縄を元に戻しながらもラシュディは、首筋に強い冷気を感じた。
やはり待ち伏せされていたのだろう。間違いなくソロは近くにいる。いやむしろ、これはすでにもう、直に触れられている!!
直後、頭から地面に叩きつけられた。
猛烈な勢いで、とっさに腕で守ることも出来ず、衝撃は鈍くて重い。目もかすむ。
さらに続けざま背を踏みつけられ、圧迫された肺ではうまく息が吐けない。
「ラ、ラシュ、ディ……!? そんな、しっかり!!」
ディアナの声は恐怖と不安に満ちている。
「違うなあ。ラシュディ。そうじゃない。これじゃあダメなんですよ」
片やソロの声は、まず本当にソロなのか耳を疑った。
「お前を最後の駒にして、女神の威光を完全に剥ぎ取る。それでようやく次の段階に進めるはずでした。新しい、闇が尊ばれる時代を迎えるために」
怒り、焦り、苛立ち……低く獣がうなるように、そんな感情が剥き出しになっている。
今までのソロは、小憎らしくも飄々として、何をも軽く受け流していた。
魔法的な技巧に頼らず腕力任せに手を出してきたことも、らしくない。
「なのにまったく、あのときも、このときも、どうしたらお前は、我々の期待通りに動いてくれるんですか?」
ぎりりと踏みしめる足が強くなった。
「ねえ? 初めてですよ。我々をここまで屈辱的な気分にさせた人間は」
「けっ。そいつは、光栄、だぜ……」
息苦しくともラシュディは、精一杯に皮肉と悪態を吐かずにはいられなかった。今さらだがこれ以上、奴をつけ上がらせるのは癪だからだ。
「俺みてえな、ドブネズミのために、まさか天下の、大魔王様が、ご丁寧に、腹を立ててくだすってるなんてよ。嬉しくて明日から言いふらしちまいそうだ」
「おや、お前に明日が訪れるとでも?」
ラシュディの眼下で無数の小さな氷刃が生え、飛び出してきた。
「……と言いたいところですが、我々も寛大でありたい。最後の機会を与えましょう」
耳や頬、首の皮などを裂かれたが、絶妙に急所を外していた。
さらに髪を掴まれ、無理やり膝で立たされる。
「それも難しい話ではありません。お前を動かすのはあきらめました。もう特別で複雑なことは要求しません」
ソロの声色は落ち着いたものに戻っていた。
「むしろ、お前は何もしなくていい」
抱えていた氷の竪琴が解けて一条の長い鎖へと変形し、螺旋を描いて宙を泳ぐ。
「ぁ、ぐ」
「姫さん!!」
鎖はディアナの首に絡み、蛇のように食い込んだ。
「何もせず、黙って見ていなさい。独りぼっちの彼女が我々の手で奪い去られるのを、そこで、間抜け面を晒していなさい」
ソロが鎖を引いてディアナを跪かせ、背を向けて歩き始めるのを、ラシュディは力無く眺めていた。
「囚われの王女様を助けるのは、お前如きの仕事ではありません。今日だけで、どれほど血を流しました? 痛いでしょう? 眠いでしょう? 疲れたでしょう?」
離れつつもよく届く声で優しく語りかけられるにつれ、身体もまぶたも重くなってくる。
「おやすみなさい。誰もお前を責めたりしません。そうして次に目覚めたら、シャロムとでも一緒に、山奥で静かに暮らしていなさい。それが望みだったのでしょう?」
だが結果としては、ここでシャロムの名を引き合いに出したのは魔王の失策と言えよう。
「待てよ、ソロ」
ラシュディは膝に活を入れて立ち上がった。勇者シャロムならば、きっとこうしていただろうと信じればこそだ。
「黙っていろ、と言ったはずですが?」
「はっ、知るかよ」
首だけ見返るソロを鼻で笑うと、間髪入れずに拳大の氷塊を胸に飛ばされた。先ほどカレンに撃たれた箇所と重なって骨が軋む。
「……俺は詩人だぜ? 王女様の行く末を見守るなんて大仕事だ。おちおち寝てられねえ……」
今度は氷塊が腹にめり込む。
「がぁっ」
「やめて!! ラシュディ、もういい……わたしのために、これ以上傷つかないで……」
「ほら、王女様もこう仰っていますよ?」
「いくら、姫さんの言葉でも、それは頂けねえな」
一度は血混じりの唾液を吐いて膝をつき、どうにか首だけ起こしてみせた。
「いいか姫さん、よーく聞け!!」
考えろ。諦めるな。せめて喋って時間を稼げ――無理やり平気な振りをして叫びつつ、胸の内ではそう自分に言い聞かせている。
地面には足跡が付いている。ディアナは滑って転びそうになっていた。これは氷が普通に削れたり溶けたりしている証拠。
つまりソロ本体が無敵の防御を具えていようとも、奴が作り出した氷や霜は“姫様パワー”が無くても壊せるということだ。
ディアナを捉えている鎖を壊せれば、まだ立て直しが見込める。
「わたしのために、とか何とかよ。思い上がって、バカ言ってんじゃねえぞ」
腰に備えている武器は、編み縄に両刃ナイフが一本。鉄針が三本に、矢の無いクロスボウが一丁。爆薬袋はもう無い。
やるならば、刃で叩き切るのが妥当か。そうでなくても、鎖を奪うことが出来れば。
「俺はお前のために身体を張ってるわけじゃねえ。俺は、どこまでも俺のためにしか生きられねえドブネズミだ」
らしくない、と改めてラシュディは思った。
生来、自分の命を何より大事にしてきた。格好良かろうが悪かろうが、死んでしまうことほど無意味で惨めなものはないと、幼い頃から道端で餓死した人間が積み重なっている風景を見慣れて身に染みていた。
「だからこいつは、お前を見捨てちゃならねえっていう、俺の心を自由にするための戦いなんだよ!!」
だからいつでも逃げる算段を先にして、勝てる戦いしかしなかった。魔物を相手にするなんてもっての他だった。
シャロムにしつこく挑んでいたのは、どうせ負けても殺されないと分かっていたからだ。その際に頼っていた暗殺術さえ、本来は生き残ることを最優先とする技術体系の一端に過ぎない。
「分かったら今は、素直に助けられやがれ」
それが今や、どうだ。
この命を投げ打ってでも、ディアナを助けたいと思ってしまっている。
つくづく俺らしくない――起死回生の一手を思いつかなければいけないこの状況で、何故かふと、そう思った。
「でも“姫様パワー”が使えない、わたしなんか助けても意味が無い」
しかし当のディアナからは、なおも肝心なところで一線を引かれている。
「そんなことよりどうか、あなただけでも生き延びて――」
「そこなんだよ、俺が言いたいのは。お前は気付いてないかもしれねえが」
あの金色の光と力を見て、魔王を倒せる可能性を打算的に感じたのは事実だ。
だがラシュディにとってはそれよりも前に、腹は決まっていた。
「あんな“姫様パワー”なんか無くても、お前は俺を、もう救ってるんだよ」
頭を垂れて声を絞り出す。
「そんな、そんなわけ……」
「あるんだ。あいつに生きてまた会えた。あの崖道で、それが、どれだけ!!」
道化師の仮面で隠されていても、あの剣技と魔法と体さばきでシャロムだと分かっていたから、見捨ててしまったはずの彼女が無事だと知れたから。
「いいか、姫さん。他の誰が何と言おうと、俺はお前を、すげえやつだと思ってるぜ!!」
飾らない言葉を送った。




