首筋に甘い火葬を
前作【メイドバナ】から次の作品の合間に、短編を載せてみました。読んで戴ければ幸いです。
どうも、犬です。
ボストンテリアやってます。
今僕は何処かも分からない住宅街をさまよってるところ。この辺の匂いは何一つ知らない。景色も見たことない。でも同じお月様が見えるから、きっと近いんだろうな。
ああ、野良じゃないんだよ? ほら見て、ちゃんと格好いい首輪がついてるでしょう?
律子さまがくれたんだ。たまにかゆくなるのが嫌だけど、これだけは外せないね。僕の誇りなんだから。
あ、今外したくても外せないだろって思ったでしょう? そんな事ないんだよ。僕が首輪が嫌だって仕草を見せれば外してくれるんだ。律子さまがそうだったもん。
でね、僕は律子さまとはぐれちゃったの。せっかくのドライブだったのに、僕が他の犬と喧嘩してたらいつの間にかいなくなっちゃったの。律子さま寂しがってるだろうな。もう十何回もごはん食べてないんだ、律子さまもお腹すいてるだろうから早く帰ってあげなくちゃ。
でも知らない所っていうのは物騒だね。そこかしこに人の匂いがするけど、どれも僕には落ち着かない匂いなんだ。それに僕と同じ気配もいっぱいある。あんまりここら辺の奴らを刺激するつもりはないから、早いとこ通ってしまおう。テリトリー争いに参加している暇はないんだ。
なるべくお腹がすかないように、けど気持ちは急いで僕は慎重に歩く。人目のつかない道を選んで、何回も角を曲がって、知らない人の家の庭を通り抜けて、それでもちゃんとお月様だけは見失わないように僕は進んだんだ。
「あ、リンク!」
街灯の下を通りかかった時、突然人の声がして、僕は足を空中で止めた。そしてゆっくりと下ろすと、振り返って声の主を見た。
全く知らないメスの人だった。何度もリンクって呼ぶってことは、それは僕の名前だと思ってるのかな。だとしたら違うよ。僕の名前はクラウンって言うんだ。そんな格好悪い名前じゃない。
その人は僕をそのリンクとやらと勘違いして近寄ってきた。僕は違うんだって意味をこめて精一杯吠えたけど、その人は全く気付いてくれない。
「飼い主に向かって吠えるなんて、ダメでしょ!」
その人は僕を叱りながら僕を抱き上げた。分かってるよ、僕だって飼い主に吠えたりなんかしない。律子さまに向かって吠えたりなんか絶対しないよ。でもあんたは飼い主じゃないじゃないか! 僕の鼻はそんな嘘すぐに分かるんだぞ!
僕が何度もがいて吠えてもその人は分かってくれなかった。だから僕は仕方なくその人の腕を噛んで、なんとか地面に降りた。
「リンク、怒るよ」
その人が腕を押さえながら僕をにらみつけてきた。僕はとても怖くなって、一歩後ろに下がった。そしてその人が一歩踏み出したのを見て、僕はものすごい勢いで逃げ出した。そのせいで今何処まで来たのかも分からなくなっちゃった。
それからまた僕は昼の間はどこかで休んで、夜になってお月様が見えたら歩くのを繰り返した。まだ周りの景色は知らない場所だったけど、僕の中で近づいてるんだっていうのが分かるから、僕はくじけなかった。いっそう足に力をこめた。
そいつは唐突に僕に向かって襲い掛かってきた。
僕はとっさのことに反応が遅れて、首を噛まれちゃった。でも負けじとそいつの首を噛んで引き離すと、お互いに距離をとって睨みあった。
そいつはシベリアンハスキーだった。首輪も何もない裸だから、野良だ。この辺のボスだって雰囲気が体中から溢れている。
僕は低く唸ってシベリアンハスキーを牽制した。僕はボストンテリアで小柄だ。大きな相手とはあまり戦いたくはないけど、やるってんならさ!
僕の剥き出しの闘志に押される事なく、シベリアンハスキーも低く唸った。
やっぱり怖い。でも、この向こうに律子さまがいるんだ、逃げてられない。
シベリアンハスキーはその大きな体のおかげで、たった一回跳んだだけで僕の目の前にやってきた。僕はびっくりして一歩下がったけど、そいつの足からは逃げられなかった。また首を噛まれて地面に無理矢理転がされた。
痛い、痛い、でも、負けてられないんだ。そっちが野良のボスなら、こっちは室内犬のボスだ!
噛まれたままでも怯まず、僕は口を開けた。
だって噛み付かれてるってことは相手の首もすぐそこにあるってことなんだから。
精一杯開けた顎を止めて、絶対離すもんかって思いながら僕は口を閉じた。
お月様は、まだ目に映っている。
車の排気の息苦しさに僕は目を覚ました。
雨がぽつぽつと降り始めていた。お月様も太陽も見えないけど少し明るいから、明け方だろう。辺りを見回すともうシベリアンハスキーの姿はなかった。
起き上がろうとした僕は首筋がものすごく痛くて、また地面にへたりこんだ。
見えないけれどすごい傷みたい。なんかその辺りの毛がぱりぱりしてる感じがする。
でも僕は立ち上がらなくちゃいけない。律子さまに会いたいから。律子さまが寂しがってるだろうから。
もうお月様を待っている時間はなかった。いつ倒れちゃうかも分からないんだ、止まっている暇はないよ。もう嗅いだことのある匂いが少し感じられるからきっと大丈夫。
何とか立ち上がってふらふらと歩き続けていると、だんだんと人の数が多くなってきた。もう人も活動時間みたいだ。
最初の頃は優しい誰かがご飯をくれたりしたこともあったけど、もう何回もお月様の下を歩き続けて、さらに雨に打たれつづけたせいで僕はぼろぼろで、ついに誰にも相手にされなくなっちゃった。昔律子さまと散歩していた時に泥だらけの野良犬を見たことがあるけど、その野良犬は誰にも相手にされなかった。人は泥だらけの犬は嫌いみたいなんだ。だから今の僕は誰にも相手にされないんだろう。もしかしたら律子さまにも嫌われちゃうのかな。
ぼくはぶるぶるっと首を振って、水滴と一緒にそんな考えを放り捨てた。大丈夫、きっと律子さまは優しいままだ。
僕はもういちど思い直すと、また歩き始めた。このまま倒れてなんかいられない。寝るんなら律子さまの膝の上で寝るんだ。律子様の匂いに包まれながら頭を撫でてもらうんだ。
ひたすら思い続けたからかもしれない。段々と見たことのある景色だって分かるようになってきた。ほら、あのブロックの上の猫! いつもあくびしてて僕の事をチラッとだけ見るんだよ。それにあの根っこが飛び出た木! 一回律子さまとの散歩ではしゃぎすぎてつまづいたことがあるんだ。他にも他にも! いつも僕のことを触りたがるみぃちゃんの家もあるし、体が大きいくせに弱虫の柴犬のトニーの匂いもある!
でも何より僕が安心したのは、自分のテリトリーの匂いに辿りついたからだった。
僕の自慢の鼻はまだずっと遠くの自分の匂いも捉えて離さない。
ああ、やっと僕は帰ってきたんだ。そう思うと今までの疲れや傷の痛みが嘘のように足取りが軽くなった。でもお腹がすいたのだけはどうにもならないや。早く律子さまの所に帰ろうっと。
僕はしゃんと背筋をはって、見慣れた道を右へ左へと進んだ。
そしてようやく、僕は律子さまの家の前まで辿りついた。確かに律子さまの匂いがする。ずっと待ち焦がれたあの優しい匂いだ。
でも問題があった。律子さまの家はこの大きな建物のずっと上のほうなんだ。そしてそこに行くには目の前のオオトロックっていう透明なドアを通らなければいけないんだ。
こればっかりは僕にもどうにもできない。ぐるっと建物の周りを回ってみたけれど、やっぱり入る場所はどこにもなかった。どうして! こんなに近くにいるのに! 律子さま、会いたいよ!
僕は無我夢中で吠え続けた。この声が届けば、きっと律子さまはすぐにでも駆けつけてくれるはずだ!
とその時、突然後ろから微かに律子さまの匂いがして、僕はばっと振り返った。
僕の願いが通じたんだって思った。
目の前に立っていたメスの人は一瞬律子さまに見えた。でも何かが違う。顔も匂いも律子さまのものが微かに混じっていて、とても似ているんだけど、でも違うんだ。
「クラウン……?」
その人は確かに僕の名前を呼んだ。
どういう事だろう? 僕は頭の中が混乱してずっとその人の匂いを嗅いだり顔を見つめた。
この目の前にいる人は僕の事を知っているし、律子さまの面影も匂いも少しある。だけど僕の知っている律子さまは、こんな鼻が曲がりそうな甘ったるい匂いなんかじゃなくて、飛び込めばすっと眠っちゃうような優しい匂いだった。それにあんなに目が大きくも口が真っ赤でもなかった。服だって、こんな目がちかちかするほど赤いものじゃなかった。
あなたは誰だ!
僕は怖くなって、その人に向かって低く唸りをあげた。さあ、さっさと僕の前からいなくなってしまえ!
でもその人はそんな僕の精一杯の威嚇も気にしないで、しゃがんで僕を抱き上げた。
鼻を突く甘ったるい匂いがきつくて僕はもがくけど、でもそのうちにあの優しい匂いもやっぱり感じ取ることができて、僕は抵抗を少しの間やめていた。この人はやっぱり律子様なのかな?
少し眠りそうになったところで、僕ははっと気づいた。何を考えていたんだ、この人が律子さまのわけないじゃないか!
危ないところで僕は真実に気づいた。たった少し匂いがするからって信じるところだった。匂いなんて少し律子さまに触ればもらえるんだ。でもほんの少しだ。本当の律子さまはもっといい匂いを体中から溢れさせている。僕の自慢の鼻が覚えているんだ、間違いない。この人はおおかたこの前僕のことをリンク、と呼んだ人のように僕をだまそうとしているんだろう。僕の名前は律子さまから匂いを分けてもらった時に聞いたんだ。
僕はすっごくくやしくて、その人の手に噛みついてその場から逃げ出した。律子さまの匂いはあの人からもあの建物からも感じたけど、結局どれもみんな嘘なんだ。本当の律子さまの家はここじゃないんだ。ここは僕の帰る場所じゃない!
走って走って、もう歩くくらいのスピードしか出なかったけど、それでも僕は走り続けた。どこかなんて分からない。もう朝だからお月様はいない。だから今は僕の直感に頼るしかない。そして夜になったら――今度こそ辿りつけるはずだ。律子さまの家はお月様の方向にあった、それは間違いない。そしてよく考えてみれば、僕はまだお月様の下まで辿りついていなかった。だからさっきの場所は律子さまの家じゃなかったんだ。
お願いお月様、早く姿を見せて。その時は雲に隠れていないで。
そう願って僕は走り続けた。
律子さま、待っててね。
傘を差しているというのに、道端にしゃがみ込む女の背中は濡れていた。高価な赤いスーツだというのに、まったく意に介さない様子だった。
女の視線はただ地面の一点を見つめていた。おそらく他の者が今の彼女の目を見ても、彼女が何を考えているのか察する事は出来ないだろう。そのくらい虚ろな、何も考えていないような目を、地面に横たわる死に掛けのボストンテリアへと向けている。
ボストンテリアが力を振り絞って首をもたげた。そして女と視線を交錯させながら、何かを呟くように小さく口を開くと、力尽きて地面に突っ伏した。
「何やってんのよ律子?」
背後から掛かった声にようやく女――律子は目に光を灯した。振り返ると、同僚の女が立っていた。
「んー……、なんだかこの子可哀想だと思って」
「似合わない」
同僚の女が笑った。
「かもね。でもさ、なんかクラウンに似てるんだ」
「ありえないでしょ? だってあんたクラウン山の中に捨ててきたじゃん」
「そうだけど、ウチのマンションまで来たし……」
「もしクラウンだったとしてもあんた飼ってる余裕ないでしょ」
「まあね。あいつの一千万返さなきゃいけないからね……」
溜め息と共に律子はもう一度、一千万、と吐き捨てた。
「私帰るよ、今日は同伴あるから早いんだ」
「あ、待って私も行く」
帰っていく同僚の後を追って立ち上がった律子は、何かを思いついてまたボストンテリアの前にしゃがみ込んだ。そしてファーレンヘイトのアトマイザーを取り出して手首にかけると、ボストンテリアの首筋に擦りつけた。
それから頭をそっと撫でると、律子は同僚の後を小走りに追っていった。
雨の下、最後の匂いはまだ消えない。
読んで下さりありがとうございました。