ままごと(中岡ルート短編/中岡視点)
長月も終わりに差し掛かったある日のこと。
山間に落ちる夕陽を正面に見据えながら、帰路についていた。
あたりは薄暗く、聞こえてくるのは虫の声ばかりだ。
このところ我が身にまとわりつく不穏な影の存在を思えば、自然と早足きにもなる。
問題が起こったのは、屯所の門が視界の端に飛び込んできたのと同時だった。
はるか前方に意識を向けていたせいか間近に寄るまで気がつかなかったが、目の前に何やら気配がある。
何だ?
足を止め、懐の短銃に手を添える。
屯所へと続くのどかな畦道の中央で、小さな人影がうずくまっていた。
近づいて目をこらさなければ、それが人間だとはまず気がつかないだろう。
背を丸めて膝を抱え、じっとこちらを見上げるその姿は、この薄闇の中では岩か農具か……何にしろ風景の一部としか捉えられないほどに、その息づかいが感じられないものだった。
「やっとみつけた」
爛々と燃える双眸が、こちらをとらえた瞬間に大きく瞬く。
まったく、よくできた怪談だ。肝の小さい人間ならば卒倒してもおかしくない状況だろう。
――しかし、話にはオチがついた。
立ち上がったその幼子の姿に見覚えがあったのだ。
「先日の子か……」
「おにいちゃん、さがしたんだよ!」
勢いよく懐に飛び込んできたその少女は、当然幽鬼のたぐいではない。
つい先日、野犬に追い回されているところを助けた近所の娘さんだ。
「こんな時分に出歩いては危険だぞ、早く家に帰りなさい」
「うん、おにいちゃんといっしょにかえる!」
叱ったつもりが、返ってきたのは満面の笑み。
二の句をつごうと一旦引いたものの、何と返せば良いのやら。
気づけば小さな手にぐいぐいと引かれながら、歩き出していた。
強引な娘だな、どうしたものか。
「家はどこだ? 送っていこう」
「おうちはね、ここをまっすぐいって、まがって、まがって、もうひとつまがって、ひだり」
……分からん。
分からんが、ここに放って帰るわけにもいくまい。
この子の言の通りならば、入りくんだ路地を抜けてそれなりに歩く必要があるようだ。
つまり、来た道を引き返すことになるわけだ。
痛い寄り道だが仕方あるまい。
歩調をあわせて従者のごとく脇に侍っているのだから、もう手を引く必要はないだろう――そう考えてわずかに右手を浮かせるも、小さな左手は繋がったまま離れようとしない。
「おにいちゃん、このあいだは、たすけてくれてありがとう」
「ああ」
「さち、おにいちゃんにまたあいたくて、まいにちこのあたりをさがしてたの」
「そうだったのか……」
名はさち、か。
そういえば、野犬を追い払ったのは屯所付近だったな。
礼ならばその場でくどい程耳にしたが、まだ言い足りないのだろうか。
引き剥がそうと苦心した右手は、いつの間にやら少女の両手でしっかりと包み込まれている。
助けたことで、随分と懐かれてしまったようだ。
「それで……さちさん」
「さっちゃん」
「ん?」
言葉の途中で、少女は小さく眉を寄せて足を止めた。
「みんな、さっちゃんってよんでくれる」
「ああ、そうか。さっちゃん」
「うん!」
「……このあたりは腹をすかせた犬がよくうろついているからな、あまり近づかないほうがいいぞ」
実際のところ、野犬は言うほど気になるものではない。
しかし俺や天野が追われる身である以上、身辺に危険はつきまとう。
屯所の中の隊士達も飢えた野犬のような連中ばかりだからな、接触させては怖がらせてしまうだけだ。
「でも、おにいちゃんはあそこの、おっきなおうちにすんでるって」
「……知っているのか?」
あそこ、と指すのはまぎれもなくうちの屯所だ。
できれば知られたくはなかったが……。
「あのね、おにいちゃんをさがして、いろんなひとにきいてまわったの」
「そう、か……」
「くろいのがひらひらしてかっこよくて、やさしくて、つよくて、すっごくかっこいいおにいちゃんしりませんかって!」
「……なかなか知っている人には会えなかっただろう」
乾いた笑いを愛想笑いへとねじ曲げながら、さっちゃんに視線を落とす。
その条件から的確に俺を絞り込むことができる人間など、いはしないだろう。
黒いのがひらひら……なんとも恐ろしげな表現ではないか。
頭をかかえるこちらとは対照的に、隣を歩く少女の足取りは軽い。
幾たびか道を曲がって、やがて閑静な通りに出た。
じきに目的の家は見えてくるだろう。
「あ、さちのおうち、ここ!」
と、足を止めたのは土壁に囲まれた古い屋敷の前。
立て付けはしっかりとしたものだが、瓦、庇、雨戸と視線を流せば風雨にさらされ変色し、所々に補修したあとが見える。長くこの地に立っている家なのだろう。
「ご両親は?」
「えっとね、ふたりともいないよ」
「この家には誰が?」
「おじいちゃんと、おばあちゃん! おじいちゃんはね、とんかちしてものをつくるひと!」
「なるほど、鍛冶か」
狭い庭を見渡せば、新しいものから所々破損したものまで無数の農具が散見される。
おそらく野鍛冶だろう。
あまり遅くまで出歩かぬよう念を押して、小さな背中を門のほうへと送り出す。
ひとまずはこれで落着だ。
「おにいちゃん、おくってくれてありがとう」
「礼はいらない。あまりおじいさんに心配をかけないようにな」
「はぁい!」
「よし、それではな。俺も家に帰るとしよう」
肩の荷が降りた。
一息ついて、きびすを返し歩き出す。
すると別れ際の一声が背後から響いてきた。
「みこねぇちゃんによろしくね!」
――みこ姉ちゃん?
もしかして、天野か?
なんだ、あいつが関わっているのか?
屯所へと戻り、すぐさま足を向けたのは天野の部屋だ。
障子を開けると、中にはケンも居た。
どうやら夕餉を済ませて二人で茶をすすっているところらしい。
「中岡さんお疲れっす!」
「おかえりなさい隊長!」
両者は分かりやすく表情をゆるめて、俺を部屋へと迎え入れた。
他事ない笑み。まるで主人に尻尾をふる犬のようだと、見るたびに頬がゆるむ。
が、雰囲気にのまれて頭を空にするわけにはいかない。
まずは先刻の話を問いたださねば。
「天野、さちという娘を知っているか?」
「あ、はい! 知ってます! 隊長、さっちゃんに会えました?」
「今しがた会って話をした……なんだお前、知り合いだったのか」
さっちゃんの情報源にたどり着いた。
まさかこんなにも身近な場所にいるとはな。
「今日仲良くなったばかりですよ。隊長に助けてもらって、また会いたいって探してました」
「しかし、あの子の説明でよく俺だと分かったな」
「そりゃ分かりますよ! このあたりで、黒いのがひらひらして格好よくて、優しくて、強くて、すっごく格好いいお兄ちゃんと言えば隊長しかいませんからね!」
「おかしいぞお前、無理があるだろう」
暗号解読の才人か。
俺が気づいていないだけで、こいつはとんでもない逸材なのか。
「まぁ、その条件で絞り込めるのは中岡さん一人だよな」
静観しつつ湯飲みを傾けていたケンが、しみじみとした表情で頷いてみせる。
こいつも相当な猛者だな。
「とにかくだ、あまり余所の人間に俺の存在を知らせるようなことはするな」
「でも、最初にさっちゃんを助けたのは隊長じゃないですか。お礼くらいは言わせてあげてください」
「礼なら十分聞いた」
助けた直後、その場を去ろうとする俺のあとを追いながら、それこそ何十ぺんも口にしていたからな。
引き剥がすのに苦労したものだ。
「でも、さっちゃん隊長のことが大好きなんですよ。格好よくてすっごく格好いい、なんて二回も格好よさに言及しちゃうくらいですから」
「いや、それが困ると言っているんだ」
子供に懐かれて何になる。
相手に危害がおよぶことにもなりかねない。親御さんにもいらぬ心配をかけるだろう。
俺は今のところ客観的には『不逞浪士』の枠を抜けていないのだからな。
「可愛いじゃないすか、そこまで懐いてくれて。まぁ無事に会えたんならこれで終いっすよ、きっと」
「そうだといいんだがな」
ケンの言葉に頷いて、深く息を吐く。
もう一度会って礼を言いたかっただけだというならば、さしたる問題でもない。
これ以上何もなければ、些事にすぎぬ一件だ。
機嫌よさげに湯飲みを差し出す天野の正面に、俺は腰をおろした。
翌日。
珍しく外出の予定もなく、昼すぎまで自室で書き物をしていた。
京に留まっている間も、近況報告と情報収集を兼ねてこまめに各所とのやりとりを続けている。
たいした報告はなくとも、一定の期間を置いて文を出さねばならない相手は多い。
引きも切らない応接に日々を労する立場の人間にとっては、久しく顔も見ぬ古い名など頭に残らないからな。
半分は機嫌うかがい、もう半分は同志への鼓舞。
人脈の維持に必要なのは手間を惜しまず自ら動き、相手の立場を慮って気を配り続けることだ。
何通目かの文に花押を入れたところで、背後の障子が開いた。
小走りで部屋の中へと駆け込んできたのは天野だ。
「隊長、お客さんが来ています」
何事かと思えば、来客か。
俺は文の束をまとめて畳み、机の端に寄せて立ち上がった。
「客は部屋に通せと言ってあったはずだぞ。待たせているのか?」
「いえその、お通ししていいものかと思いまして……」
「相手の名は?」
「さっちゃんです」
一瞬言葉につまった。
これで終い、とはならなかったか……。
「留守だと伝えてくれ」
「それが、早朝から門前で隊長が出てくるのを待ってたみたいで……だからまだ、屯所から出てないって知ってると思います」
「では、多忙で手がはなせないと」
「そう言ってみたんですが、お仕事が終わるまで待ってると言って聞かなくて……」
互いに口を閉じたまま、視線をかわす。
感情を発すべき方向が定まらず、固まっている状態だ。
天野もさすがに困惑しているのだろう、眉を下げて上目遣いでこちらの指示を待っている。
昨日の時点で半ば予測はしていた事態だが、まさかここまでべったり来るとはな。
「……どうすれば満足してもらえると思う?」
腕組みをして小さく唸りながら、意見を求める。
追い返しても甘やかしてもあの子はここに通い続けるだろう。
それは好ましくないことだ。
本人を納得させた上で、元の距離感を保つよう事を運びたいが……。
「一度、思いきりさっちゃんに構ってあげたらどうでしょうか?」
「余計懐かれたらどうする?」
「うーん。昨日さっちゃんと会って、すぐに家に帰したんですよね?」
「ああ」
「だから、一緒に遊べなくてそれが心残りだったんだと思うんですよ」
「……それで、どうしろと?」
幼子の考えることは分からんな。
そもそも会ったばかりの素性も知れぬ大人にこうも懐くものか?
この時勢に、深刻な危機意識の欠落だ。
「さっちゃんと遊びましょう、隊長!」
「……無茶を言うな」
「思う存分遊んで満足してもらったあとに、忙しいからこれからはあんまり会えないけど楽しかったよ! って笑顔でお別れするわけです」
「ますます懐かれるんじゃないか?」
「大丈夫です、明日以降は私が相手をしますから。隊長が多忙な人だとしっかり説得します!」
「……少し時間をくれ」
頭の中を整理しよう。
あの子はそもそも、相手の話を聞かぬ猪突猛進型だ。
それは昨日の一方的な会話誘導を思い返せば分かること。
子供にありがちな傾向だ。まずは己の欲を発散すべく動く。
まともに話を聞く姿勢が整うのは、ある程度気持ちが満ち足りた後だ。頭ごなしに叱り飛ばしては逆効果。
俺に会ってどうしたいのかは不明だが、望みを聞くことで落ち着いてくれるのであれば、提案に乗るのもやぶさかではない。
「仕方ない、少し付き合ってやるか」
「さっすが隊長! さっちゃんも惚れ直します!」
「いやそれは困ると言っているだろう」
「ふふ、それじゃ行きましょう! 門の前で健気に待ってくれてますから」
そう言って俺の着物の袖を引く天野の表情は、小憎らしいほどに曇りのない笑顔だった。
こいつ、この状況を楽しんでいるな。
玄関を出てしばらく歩けば、門の付近に形成された小さな人だかりに目がとまった。
身を屈めて歓談する隊士達の中央には、幼き客人が立っている。
「あ! おにいちゃんきた!」
目が合うと、なんとも気のぬける無邪気さで少女は駆け寄って来た。
その突発的な飛び出しに合わせて、塀のごとく周囲を囲っていた隊士の壁が割れ、一人、二人とあたりに散らばっていく。
「おにいちゃん、おしごとおわった?」
「ああ。少し落ちついたから、さっちゃんの顔を見に来たぞ」
「ほんと? あのね、さち、きのうはあんまりおにいちゃんとおはなしできなかったから、あそびにきたよ」
来訪の理由はやはり、そういうことか。
「兄ちゃんは忙しくてな、あまり構ってあげられないんだが、それでもいいか?」
「うん! おにいちゃんだいすき!」
懐へ飛び込んでくるさっちゃんを受け止めて頭を撫でながら、隊士たちに目配せをする。
――見せ物じゃないぞ、散れ。
血走った目で言外に喝を飛ばすも、まるで響く様子はない。
むしろ各々が心和む光景に胸をうたれたような表情で、しみじみと頷きながら去っていく。
何だこれは。俺は隊長として今後威厳を保っていけるのか……。
「さっちゃんは中岡さんに夢中みたいっすよ」
野次馬連中がはけた後にその場に留まったのは、ケンと天野の二人だった。
少女を取り囲み、どういった会話が繰り広げられていたのかは不明だが、この含み笑いから察するに十中八九ろくでもない内容だろう。
眉間にしわをきざんで一息ついたところで、俺の懐に顔をうずめてしがみついていたさっちゃんが顔を上げた。
「さち、おにいちゃんのおよめさんになる!」
「……待てさっちゃん、それはないだろうさすがに」
「なる!」
「いや、困るな」
「なりたいの! なる!」
「断る」
「おにいちゃん、おままごときらい?」
……ままごとの話か。
しかし、それはそれで厄介だ。
ケンのほうへと目を向ければ、奴は面白い玩具を見つけた童のように口角を吊り上げてあだあだしい笑みを浮かべている。
救いを求めて隣に視線を移すも、天野は微笑ましく目を細めながらこちらを見守るのみ。
さっちゃんの計画を支援しようという姿勢すら感じる。
「んじゃ、いっちょままごとやってみっか!」
「さっちゃん、私たちも仲間に入れてくれる?」
「いいよー。ここではじめていい?」
「蔵の裏にいこうぜ!」
俺を置いて、話は淀みなく進む。
こちらの意向など気にも止めず、否でも応でもままごとに引きずり込むつもりのようだ。
……いかんな、流されすぎている。
機を見てはっきりと話をつけなければ。
蔵の裏手に回り、生い茂る雑草の上に輪になって腰をおろす。
土と砂ぼこり、そして日陰と草の匂い。窮屈ながらどこか郷愁を感じさせる一角だ。
「さちが、おにいちゃんのおよめさん!」
座るやいなや威勢よく挙手し、さっちゃんは俺に密着するように距離をつめた。
いちいち飛びついてくるのはこの子の癖なのか、一般的な幼子の傾向なのか……何にしろ不慣れなことだ。反応に困る。
「そんじゃ、オレはその息子な!」
「私は娘で! お父さんお母さん、よろしくおねがいします!」
ケンも天野も瞬時に自らの役を割り振り、恐ろしいほどの適応力を見せる。
一日にして二児の父か……。
ん? それにしてもこれは。
「さっちゃんはいくつだ?」
「いつつ!」
「……無理があるだろう。妻五歳、長男二十五歳。さすがに看過できない矛盾だ」
子供同士で遊ぶ場合、多少の誤差は気にならないだろう。
しかしこれは何だ。さすがに設定に乗りきれる自信がないぞ。
大人と子供で行うのであれば、子供は子供らしい役を買って出るべきだ。
「中岡さん、もっと広い心で楽しまねぇと。脳内を五歳に戻してください」
「そうですよ。今さっちゃんは大人で、私たちは十にも満たないちびっ子なんです!」
「うん、さちはおとなでおかあさんだよ!」
……気が変になりそうだ。
思い返してみれば、俺は幼い時分もこうして子供らしい遊びに興じることはなかった。
ままごとはおもに女児の遊びゆえ縁がなかったのは当然として……同年代の仲間と歳相応に笑いあった記憶を掘り起こしてみても、十を越えて以降のものがほとんどだ。
しかし、文句ばかり垂れていても仕方がない。
今は乗らねばなるまい、この矛盾に。
「分かった。さっちゃん、始めていいぞ」
「はぁい! じゃあおにいちゃん、おうちにかえってきて」
「ああ、ただいま」
「だめ! ちゃんとたって、むこうからはいってきて」
「な……」
口を開きかけて、つぐんだ。
向かいに座るケンと天野が、目を見開いて静かに首を振っているからだ。
しぶしぶ立ち上がると、二人はそれでいいと顎を引いた。
……面倒だな、ままごとというものは。
「帰ったぞ」
壁沿いを一周して元の位置まで帰還した俺は、押し寄せる疲労感を声に出してさっちゃんの隣であぐらをかいた。
一仕事終えて帰宅した父のくたびれた様子が、うまく表現できているだろう。
「はいあなた、ごはんです」
と、差し出されたのは小さな泥団子。
俺が席を外している間に握ったのだろう。急ごしらえで不恰好だ。
それを受け取って、そのまま地に置く。
「……満腹だ」
大きく息を吐きつつ、それとなく腹をさする演出も織り混ぜる。
小さな握り飯一つでは腹も膨れはしないだろうが、量産すべくそこらを掘り返されても困るからな。満腹と言ったら満腹だ。
「ちゃんとたべて!」
「……は?」
首を傾げざるを得ない。
さっちゃんは餅のごとく頬をふくらませ、ふたたび泥団子を俺の手に握らせた。
「だっていま、たべなかったもん」
「いやそれは……食ってないように見えたかもしれないが、一口で飲み込んだんだ」
「もぐもぐしてなかった!」
「できるか、泥だぞ!!」
自然と語気が強まっていたことに気付き、固まる。
さっちゃんは言葉をかぶせては来ない。その変わりに大きな瞳に涙を浮かべて口端をきつくむすんでいる。
……まずかったか、今のは。
正面のケンに『何とかしてくれ』と目配せするも、奴は呆れたように頭を振るだけだった。
お手上げか。そうだろうな、俺にも何が正解なのかまるで分からない。
結果として、全員が沈黙して俯いている。
握り飯ひとつで一家が崩壊寸前とは恐ろしいものだ。
やはりここは、俺が頭を下げるべきなのか……?
一人頭をひねりながら謝罪の言葉を考えていると、目の前で天野が勢いよく立ち上がった。
「お母さん、お父さんまだお腹すいてないみたい! ちょっと散歩にいってくるね!」
停滞した空気を押し流すような声色でさっちゃんに笑顔を向けると、天野は俺の側までやって来て着物の袖をつまむ。
ありがたい、中断して仕切り直す機会を作ってくれたわけだな。
「では少し外を歩いてこよう。そのうちに腹はへるだろうからな」
「いってきます、お母さん!」
何か言いたげに眉を寄せるさっちゃんの機嫌をとるように、ケンがすかさず距離をつめて「かあちゃん、オレと遊んで!」と小さな両手を握る。
いいぞ、お前はできる男だ。
天野に促されるまま、足早に蔵の正面まで避難する。
そうしてそのまま門の付近まで歩いてくると、外塀沿いに屈みながら天野は盛大にため息を漏らした。
「もー、隊長ってばあんまりです」
「何が悪かった? 泥を頬張れば正解だったのか?」
「そんなわけないじゃないですかぁ」
「……分からん。すまんが本当に分からん」
「ふっふっふー、そんなことも知らんのか!」
得意げに腕組みをする天野の姿に思わず苦笑が漏れる。
ぶつけられたのは、平生俺がよく吐く台詞だったからだ。
「お教え願えますか、先生」
「では、教えましょう」
へりくだって頭を下げれば、気をよくしたのか鷹揚な返事が返ってくる。
まさか、天野からものを教わる日が来るとはな。
壁を背に立っていた俺に、天野は座るよう促した。
続けて地面に指を立て、掘り起こした土を器用に丸めていく。
そして完成した小ぶりの泥団子をこちらに手渡しながら、口をひらいた。
「これを食べてみてください」
「むむ……」
「口には入れずに、でも食べたように見せたい時はどうしたらいいでしょう? 考えてみてください」
「とんちか?」
「そういうの得意でしょう、隊長」
さぁどうぞ、と胸元に押しつけられた団子を手にとり、思案する。
……食ったように見せるということはつまり、その場から消せばいいんじゃないか?
――となれば、こうか。
「ああ、食った食った」
そう告げながら、俺は力強く拳を握り込んだ。
砂のこすれ合う音とともに泥団子がはじけ、指の間からその残骸がこぼれ落ちる。
土塊をそっと地面にすりつけながら、顔を上げて天野の反応をうかがう。
どうだ、正解か?
「……ひどい、ひどすぎます」
「何故だ? 団子が消えた、つまり食ったということだ」
「隊長は妻の手料理を握りつぶすんですか!?」
「いや……それを言うなら、夫に泥団子を出す妻も相当なものだぞ」
「おままごとでは普通ですっ」
難解すぎる。
ままごと界での常識など、経験者にしか解り得ぬ暗黙の了解じゃないか。
理想の反応を押しつけられたところで、対応しかねる。
「……では、正解を教えてくれ」
「分かりました、実演します」
こぼれそうになる不満を飲み込み、平身低頭教えを請う。
天野は小さく頷くと、ふたたび泥団子を握り、それを口元に近づけた。
唇に触れそうな距離までもってくると、団子にかぶりつくようにしていかにも美味そうな表情で咀嚼する。
両手でしっかりとつつみこんでいるため手元はよく見えないが、一瞬本当に口に含んだように見えた。
なるほど、全体を覆って、口だけ動かすのか。
何度か同様の動きを重ねると「ごちそうさま」の一言とともに素早く両手を背後に回し、地をこするようにその手を動かす。
その後は何事もなかったかのように膝の上に拳を戻して、終了。
「……こんな感じです」
照れたようにはにかむ天野の表情は、なんとも眩く頼もしく目に映った。
すごいな、こいつは。本当にこの分野では先生と呼ばれるべき人間なんじゃないか……。
「けっこうなお手前で」
それは世辞ではなく衷心から出た言葉だった。
感服したとわずかに頭を下げる。
「えへへ。私、おままごと大好きだったんです」
「おかげでコツがつかめた、礼を言う」
「いえいえ。それじゃ、戻りましょうか」
「ああ、そうしよう」
腰を上げて、袴の裾を払う。
正面で待つ天野は、鼻唄まじりに上機嫌だ。
心の内に突き出た棘や牙を根こそぎ引っこ抜いて脱力させるような……そんな、あきれる程に純粋な笑み。
自然と口元がゆるむのを自覚して、眉を寄せた。
……こいつといると腑抜けになってしまうのではないかと、たまに不安になる。
――まぁいい。さしあたって、このままごとを終わらせることだけを考えるとしよう。
子守りの上手い息子が、ぐずる妻をあやしきれなくなる前に戻らねば。
蔵の裏手に戻れば、ケンが仰向けになって豪快に寝そべっていた。
さっちゃんの機嫌をとりながらうまく時間を潰しているものとばかり思っていたが、完全にあやされる側だ。
徹頭徹尾息子設定を貫いている。
「ただいま、お母さん、お兄ちゃん」
「遅くなってすまない」
俺と天野が定位置に腰を下ろせば、さっちゃんは口元に人差し指をあて、口をつぐむようこちらに促した。
「ケンちゃんがねてるから、しずかにね」
その言葉に相づちをうつと、さっちゃんは舌たらずのたどたどしい調子で子守唄を口ずさみはじめた。
聞き慣れない歌だな。この界隈ではこれが流行っているのか。
「なんだか、わたしも眠くなってきちゃったなぁ」
ケンの隣で天野も躊躇なく横になる。
その姿を目にしたさっちゃんは、機嫌をよくしたのか満面の笑みで天野の傍らに膝をつき、唄い出した。
「みこちゃん、おねんねしましょね」
「お母さん、子守唄じょうずだね。もっと聞かせて」
「いいよ、みこちゃんがねむるまでうたってあげる」
誉められ、ねだられ、母親冥利につきるのか、少女の機嫌は天井知らずに上昇中のようだ。
それにしても天野はよく幼子の気持ちを心得ているな。この手の臨機応変な対応には天性のものを感じる。
「……さっちゃん、息子も娘もぐっすり眠っているようだぞ」
迫真の演技で寝息を立てる二人に内心賛辞を送りながら、傍らにさっちゃんを呼び寄せる。
「はぁい。さち、おうたじょうずでしょ?」
「ああ、上手いな。俺まで眠くなってしまった」
「まだねちゃだめ。またごはんつくりますからね」
と、手慣れた様子で少女は土を握り、いびつに丸めたそれを俺の膝元に置いた。
油断していたが、再び来たか――。
「……いただきます」
静かに息をのんで泥団子を手にする。
そして先ほど教わった通りにそれを両手で包み込み、口元に引き寄せ、頬張るふりをして、咀嚼。
何度か繰り返すうちに、目の前の少女は嬉しそうに目を細めて肩を揺らしながらこちらに見入っていた。
「――ああ、うまかった」
両手を背後に回して団子を散らし、腕を膝の上へと戻す。
動きの堅い箇所は多々あっただろうが、できる限りはやったつもりだ。
さすがに及第点だろう。
「こんどはちゃんとたべてくれたぁ!」
反応は上々。
作法に則った対応を見せるだけで、こうも喜色を振りまいてくれるものか。悪い気はしないな。
天野のもとで学んだ甲斐があったというものだ。
ままごとという遊びの奥深さにいくらか気づかされたところで、隊士の一人が息をきらして蔵の裏手まで走り込んできた。
随分と急いている様子だ。来客か?
「隊長! 大変です!」
「どうした?」
俺が立ち上がると、ケンと天野も体を起こして緊迫した表情を向ける。
「実は、門前にその子のじいさんが来てまして……孫を出せと」
「何? それは大変だ」
懸念はしていたが、まさかこうも早くこちらへの接触があるとは。
ご家族にいらぬ心配をかけてしまったか。
「おじいちゃん、きてるの?」
俯き、身を縮めるさっちゃんは僅かに怯えた様子でつぶやいた。
叱られはしないかと心配なのだろう。
「そうみたいだな、行こう」
「いや! まだあそぶ!」
「大人しく帰ったほうがいい」
「ここにいたい……」
左右に頭を振りながら駄々をこねる少女は、目に涙を浮かべながらも頑な態度を貫く。
とはいえ、十分すぎるほどに遊びには付き合った。
おまけに保護者が迎えに来たとなれば、帰すほかないだろう。
「とりあえず話しにいこう。ケン、天野、その子を連れて来てくれ」
全身の埃と土汚れを払い落とし、急かす隊士の後ろについて歩き出した。
こうなってしまった以上、誠意をもって話をつけねばなるまい――。




