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かすみと美湖(過去編)


「かすみちゃん、悪いけど夕方までこの子預かっててもらえる?」


 お茶をはこんで二階まで上がってきた私に、その人は両手を合わせて頭を下げた。

 うちのお店に下宿している絵師の、天野川光あまのせんこう先生。

 力強く流れるような線と豊かな遊び心が売りの、大人気絵師さまだ。

 そんな先生の背中には、先刻からべったりと幼子が張り付いている。

 一人娘の美湖ちゃん、七歳。


「美湖ちゃん、お父さん忙しいんだって。下でいっしょにお菓子たべよ?」


「おとーさんとたべる」


 階下へ誘おうと肩に手を置くと、美湖ちゃんはいやいやと首を振り、先生の背にいっそう強くしがみついた。

 この子の母御は産後間もなく息をひきとり、その後はずっと男手ひとつで育てられたとのことだった。


「みこぉ。父ちゃん、あと一枚画稿を上げなきゃならんのよ。だからちょっとだけ外で遊んでおいで」


「おとうさん、きのうもその前もおなじこと言った!」


「いやぁ最近売れっ子でなぁ~。父ちゃんの画才にようやく世が追いついてきたって感じだよ」


「おとうさん、絵じょうず。みこがいちばん知ってるもん」


 がんばっててえらいえらいと、美湖ちゃんは先生の頭をなでる。

 愛らしいその姿に胸をうたれたのか、先生は振り返って我が子を抱きしめ、頬ずりをはじめた。


「みこおおお!!! 可愛すぎるぞぉぉぉ!! 絶対に嫁にはやらん! 誰にもやらん!!!」


 先生の腕の中で、美湖ちゃんはくすぐったそうに身をよじりながら笑っている。

 仲のいい親子だな。私の家ではこうした家族間の接触は少ないから、うらやましい。


「夜になったら蛍を見に行こうな。だからそれまでかすみちゃんと遊んでてくれ」


 最後に頭を一撫でして、先生はふたたび机に向き直った。

 ぐっと筆を握る右腕に力が入ったのが、背後からでも良く分かる。

 この背中は、仕事に励む職人のものだ。気を紛らわせるようなことをしてはならない。

 (くりや)に立つ父や兄の背を思い出しながら、私はそっと美湖ちゃんの手をひいた。


「お仕事の邪魔をしちゃいけないよ。お姉ちゃんといこ」


「……おとうさん、ほたる」


 導かれるまま廊下まで歩をすすめた美湖ちゃんが、名残惜しそうに部屋のなかを振り返る。


「ああ、約束だ。いい子で待ってなさい」


 先生は筆を持った片手を軽く上げてみせると、優しい声で返事をくれた。

 それを見た美湖ちゃんは、ぱっと笑顔になって私の腕に甘えるように頬を寄せる。

 素直で無邪気で、本当に可愛らしい子だな。




 階下へ降りた美湖ちゃんは、お菓子を頬張りながら散歩に行きたいとねだった。

 お昼どきでそう忙しくもないし、父も快く送り出してくれる態勢だ。

 美湖ちゃんがいずみ屋に下宿をはじめて3日目。仲良くなるいい機会かも。



「いいお天気だねぇ。どこまで行こうか?」


 照りつける日差しに目を細めながら、はずむように先を歩く美湖ちゃんに語りかける。


「たかせがわ!!」


「高瀬川? 美湖ちゃんは川が好き?」


「うん、好き! おとうさんとよく散歩してた」


「そっか。川沿いの景色、絵になるもんね。行ってみようか」


 天野先生は仕事上人物画を手がけることが多いけれど、ご本人は自然物を描くのが好きだと聞いた。

 山や川。野鳥。のどかな自然風景を、さっと紙の上に落とし込む観察眼と画力は一級品だ。

 きっと散歩をしながら、絵の構図を練っていたんだろう。


 小さな美湖ちゃんは、人並みを縫ってすいすいと前に進んでいく。

 お転婆で好奇心旺盛で、目が離せないと先生がいつもぼやいていたな。ほんとうにその通りだ。


「みこちゃん、はぐれたら大変だから手をつなごう」


「みこ、迷子になったことないもん」


「それじゃ、わたしが迷子になっちゃ困るから手をつないでてくれる?」


「いいよ! たかせがわまで、みこがつれてくね!」


 小さな手が、私の左手をぎゅっと掴む。

 高瀬川まで、あと少しだ。



「おねえちゃん、ここにすわろう!」


 無事に川沿いまで歩いてくると、美湖ちゃんは堀へと腰掛けた。

 風にゆれる柳の下は、陰になって心地いい。促されるまま隣に腰をおろす。

 川面をじっと見つめながら、美湖ちゃんは肩をすぼめてうつむいた。

 表情は見えないけれど、さきほどまでの弾けるような明るさは影を潜めてしまっている。


「みこちゃん、疲れちゃった?」


 私の手をひきながら小走りで人並みを抜けてきたのだ。一息つきたくなるのも分かる。

 つないでいた手には、うっすらと汗がにじんでいた。


「……」


 みこちゃんは、ゆるやかに首を振る。肩下で切りそろえられた髪が、ふわりと揺れる。


「おとうさんと一緒じゃなくて、さみしい?」


「……うん。でも、おとーさんおしごと」


「そうだね。おとうさんが一生懸命画を描いてくれるから、みこちゃんが毎日おいしいごはんを食べられるんだよ」


「うん……」


 分かってはいても、寂しいものは寂しいはず。

 私の母は一年前に亡くなったけれど、その喪失感は今でも埋められない。

 美湖ちゃんの場合、物心ついたときにはすでに片親だったのだ。

 多忙な天野先生の元でどれほど心細い思いをしてきただろう。


「みこちゃん、なにかほしいものある?」


 まるい小さなおつむに、そっと手のひらをのせて撫でる。

 髪はつややかで指通りがいい。多忙ながらも、先生はきちんと美湖ちゃんの身なりを整えてあげているようだ。


「……ともだち」


「え? お友だち……?」


「ともだちがほしい」


 ぎゅっと背を丸め込んで美湖ちゃんは顔を伏せる。

 しめつけられるように、胸が痛んだ。

 かける言葉を選びながらその背をさすっていると、鼻をすすりながら美湖ちゃんが顔を上げた。


「ゆきちゃんも、むた兄もいなくなっちゃった」


 小さなまなこから、大粒の涙がこぼれ落ちる。ぬぐってもぬぐっても追いつかないほどに。


「二人はみこちゃんのお友達? どこへ行ってしまったの?」


「みこの、いちばんのともだち。二人とも、おおさかにいっちゃった」


 大坂……遠いな。とても気軽に会いにいける距離じゃない。


「それは寂しいね。ほかのお友達は?」


「ほかの子とも、たまに遊ぶ。でもやっぱりゆきちゃんがいい。ゆきちゃんといるのが、いちばん楽しかった」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら、美湖ちゃんは嗚咽をもらす。

 母を亡くして、父は多忙で。

 そんな生活の中、美湖ちゃんが元気に毎日を過ごすことができていたのはきっと、ゆきちゃんのおかげなのだろう。

 大人では埋められない孤独を、同じ年頃の友達だからこそ癒してあげられた。

 美湖ちゃんが先生にべったりとくっついているのは、もしかしたらその子と別れてからなのかもしれない――。


「二人はどうして大坂へ?」


「むた兄の、いじゅつゆうがく」


「ああ、なるほど。むたにいさんは、お医者さまなんだね」


「うん。ゆきちゃんもいっしょについてっちゃった」


 察するに二人は兄妹なのかな。

 お医者様の事情は分からないけれど、遊学するとなれば高度な医術を身につけたいという志をお持ちなのだろう。

 

「遊学だったら、そのうち戻ってくると思うな。ずっと向こうにはいないはず」


「ほんと? むた兄も、いつか戻るっていってたけど……」


「いつかまで待てない?」


「まてない。はやくゆきちゃんとあそびたい」


 気持ちは分かる。

 年長者の言う「いつか」は、子供にとっては一生来ない気がするものだ。

 友達を失って、不安と孤独におしつぶされそうなこの幼子に、私は何ができるだろう。



「――みこちゃん」


 目の前の小さな体を強く抱きしめて、髪をなでる。

 ひだまりのような、あたたかく柔らかな匂いがした。


「今日から私が、みこちゃんのお姉ちゃんで、お友達。いつでもそばにいるね。寂しくなったら、こうしてぎゅってしてあげる」


「……ほんと? かすみおねえちゃんは、いなくならない?」


「ならないよ。私はこの町が好きだもの。ずっといずみ屋にいる。それよりみこちゃんと先生が出て行ってしまわないか心配」


 絵師様は、節目ごとに転居して環境を変えたがる人が多い。

 天野先生はいずみ屋に来るまで長らく同じ長屋に住んでいたそうだけど、それは近所にゆきちゃんがいたからなのかもしれない。

 娘が寂しがらないように、ずっと一所に留まっていた。

 いずみ屋へ下宿を決めてくれたのは、美湖ちゃんと歳が近い私がいるからという理由だった。


「みこはね、あちこちおうちを変えるのはいや」


「新しい場所は不安だよね。私は、みこちゃんにずっといずみ屋にいてほしいな」


「うん。いずみやにいたい」


 涙も止まった様子の美湖ちゃんは、私の胸元に甘えるように顔をうずめた。

 安心して、笑みがこぼれる。


「これから毎日、みこちゃんの好きなものを作るね。何が食べたい?」


「えっとね、さんしょくだんごに、ぼたもちに、まつかぜ」


「ふふ、お菓子ばっかりだね」


「みこ、おねえちゃんが作るおかし、だいすき」


 おひさまのような笑顔が戻ってくれた。

 うれしくて、胸の奥にぽっと明かりが灯ったよう。

 お菓子づくり、頑張ってきたかいがあったな。


「ありがとう、みこちゃん。もっと喜んでもらえるように、おねえちゃん頑張るね」


「おねえちゃんは、いつもお店をてつだってがんばってるよ。きょうから、みこもてつだう!」


「……先生のお子さんに、そんなことはさせられないよ」


「みこは、おねえちゃんのいもうとだからいいの!」


 妹だから、という一言に胸がはずんだ。飛び上がってしまいそうなほど、嬉しかった。


「……そうだね。みこちゃんは妹。それじゃ、今日からいろいろお店のこと教えるね」


「うん! いずみやにかえろ!」


 やる気に満ちた目で、美湖ちゃんは立ち上がった。少しは気持ちが晴れたかな。

 腰を上げて裾を払いながら、髪をなでていく風に目を細める。

 いいお天気。流れ行く川音が耳に心地いい。



「おいしい夕餉を作って、先生を驚かせてあげようか」


「うんっ! みこもつくる!!」


「ようし! がんばろー!」


「おーっ!!」


 両手を天に掲げて、大はしゃぎで飛び跳ねる美湖ちゃんがほほえましい。

 手をつないで、ふたたび私たちは歩き出す。


 今日から私は、美湖ちゃんのお姉ちゃん。

 この子の孤独と哀しみを共に背負って歩いていく。

 ずっと二人で、仲良く笑っていられるように。





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