キスに導く短編(坂本)※挿絵アリ
『好きにならなければよかった』
――そう思うことが、最近増えてきた。
あんなに好きで憧れていたあの人が、想いを伝えた瞬間に遠ざかってしまった気がする。
一緒にいたいと思えば思うほど、彼との間にひらく距離の果てしなさにめまいがしてしまうのだ。
「……はぁ」
窓際に体をあずけて、小さくため息をついた。
二階から見える往来は人通りもまばらで、冷たい風にあおられた枯れ葉たちがカサカサと音を立てて横切っていく。
もうすぐ冬だ。
寒々しく色彩乏しいこの季節の、なんとわびしいことか。
「天野、今日あたり坂本さんが帰ってくるはずだぞ」
ずかずかと遠慮なく部屋の中に入ってきた陸奥さんが、開け放たれた窓を見て一瞬顔をしかめる。
「あ、ごめんなさい。部屋が冷えますよね」
私はあわてて窓をしめた。
寒くなってきたから、というのももちろんあるけれど、ここの人たちは窓を開けて部屋の中の様子を外に晒すのを嫌う。
少しうかつだったと反省して、そっと畳の上に座りなおした。
「そこまで窓を全開にするのは珍しいな。坂本さんの姿を探していたのか?」
「……そうです。なかなか帰ってきませんね」
窓から身をのりだして、彼が帰ってきたら真っ先に手を振ろう――なんて考えていたけれど。
陸奥さんから見れば、子供っぽく馬鹿馬鹿しい行為かもしれない。
「夕方までには戻るだろう。おまえに会いたくてたまらないそうだ」
ふっと何やら意味ありげに口角をあげて息をつくと、陸奥さんは懐から一枚の紙切れを取り出して私に手渡した。
「これって……」
「坂本さんからの文だ、昨日届いた」
「わ! 見せてくださいっ!!」
酢屋を出てからは陸奥さんとは宿が別々になっていたから、こうして陸奥さん宛の手紙に同封された私への文が手元に届くのは、翌日になる。
私は、この文が届くのを今か今かと待っていたのだ。
「……相変わらず仮名だらけの文だな」
受けとるやいなや、勢いよくガサガサと手の中で広げた文を、背後からちらりと陸奥さんがのぞく。
「私、最近はわりと漢字も読めるようになったんですけどね」
龍馬さんからの文は確かに、かなばかりだ。
難しい漢字も表現も使わない。
とても易しくて読みやすい内容になっている。
これは昔から変わらない、彼なりの心づかい。
「――で、何と?」
「珍しく短文です……話したいことがたくさんあって、帰ったら一番に私の顔を見たいって」
「思ったほど熱い恋文じゃないんだな」
「忙しくて、なかなか文を書く時間がなかったんだと思います」
ため息をついて文を折り畳み、懐の中へとしまう。
以前はもっと、遠出をするたびに長々と巻物のような文をくれたものだ。
最近は特に忙しそうにしているから、そんな暇もないのかな。
(それとも、もしかして……)
外の世界に心奪われて、私のことなんか頭の片隅に押しやられているのかも。
「……はぁ」
だめだ。
龍馬さんと離れていると、すぐにこんなふうに考えてしまう。
「おまえ、最近はため息ばかりついているな。坂本さんは疲れて帰ってくるんだ、そんな顔で出迎えるのはよくない」
「あ……ごめんなさい! そうですよね、よくないですよね!」
陸奥さんに言われて、はっとする。
私は自然と下がってしまう口もとを無理に上げて、笑顔をつくろうと努めた。
……けれど、その表情はとても見られたものではないらしく、陸奥さんは静かに首をふった。
「外に出て気分転換でもしてきたらどうだ?」
「でも、その間に龍馬さんが帰ってきたら……」
「さっきのわざとらしい笑みで迎える気か? 気が晴れるまで釣りでもしてこい」
その言葉は、ぐさりと私の胸に突き刺さる。
そんなにひどい笑顔だったんだ……。
「わかりました、それじゃあ鰻でも釣ってきます!」
――そうして、私は近江屋を出た。
釣り道具一式を抱え、ずかずかと人波をくぐって目的の場所まで歩く。
やがて、懐かしい景色が見えてきた。
酢屋さんと、その前を流れる高瀬川だ。
さらさらと静かな川音が耳に心地良い。
私は比較的人目につきそうにない柳の下にそっと腰を下ろし、釣竿と桶をその場に置いて一息ついた。
(昔を思い出すなぁ……)
まだ、龍馬さんの名前も知らなかったころ。
ここで釣り糸を垂らしていれば、いつでもあの笑顔に会うことができた。
待ち合わせなんかしていなくたって、ふらりと目の前に現れて、そして――……。
「釣れるかのう?」
そう、こんなふうに話しかけてくれたっけ。
大きな体を曲げて、私の顔をのぞきこむようにして……。
「――ん? 返事がないのう」
「……え?」
面食らって、思わず柳の根元まで後退りする。
目の前にいるのは、もしかして……!
「龍馬さん!?」
「それ以外のもんに見えるか?」
ふっと可笑しそうに頬をゆるめて、龍馬さんは笑ってくれた。
その出で立ちは、笠をかぶって重そうな風呂敷を担いだ旅装だ。
今まさに、近江屋への帰路をたどっていたところなのだろう。
「あの、その、おかえりなさい……!」
「ただいま」
ぱっと姿勢をただして正座する私を見て、彼は満面の笑みを浮かべる。
あたたかくすべてを包み込んでくれるような、お日さまのような笑顔。
もう、その顔を目にしただけで泣きそうになってしまう。
「あの……私……」
疲れて帰ってきた龍馬さんを、明るい顔で迎えてあげなきゃ。
そう思うのに、口をひらこうとするとどうしても声がふるえる。
だめだ。
こらえていたのに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまう。
「さみしい思いをさせたのう、美湖。すまんかった」
涙でにじんでいた視界が、完全にふさがった。
ぐっと龍馬さんの胸元に引き寄せられるようにして強く抱きしめられ、一瞬息が止まる。
背中に回されたたくましい両腕の感触に、きゅっと胸がしめつけられる。
「りょうまさん……会いたかったです……!」
もう、背伸びしてすました顔で帰りを待つなんて、とても無理だ。
爆発する感情に身を任せ、私はふにゃりと情けなく表情をくずして龍馬さんの胸元に顔をうずめた。
「まさかこがなところで、おんしに会うとは」
「わたし……じっと帰りを待っているのが不安で……それで、釣りをしようって……」
ひっくひっくと泣きながらたどたどしく言葉を紡ぐのを、龍馬さんは黙ってうんうんと聞いてくれた。
子供をあやすように、そっと背中を撫でながら。
「俺も、美湖に会いとうて……近江屋まで我慢するつもりやったけんど、思ったよりも早う再会できてしもうたのう」
「……嬉しいです。こんなところでばったり会うなんて」
「そうじゃな。釣竿を持ったおんしを見ると、昔を思いだすぜよ」
そっと体を離して私の頭に手を添えながら、龍馬さんは懐かしそうに目を細めた。
いくらか落ち着いて周りを見渡せば、立ち止まってこちらを振り返る商人さんや、遠巻きに熱い視線を向けて、きゃあきゃあと騒ぎたてる若い娘さんたちの姿が目に入る。
……は、恥ずかしい。
そういえばここは、川沿いの賑やかな通りだった。
突如抱き合って泣き出す芝居じみた男女が現れたとなれば、それはもう目立って目立って仕方ないだろう。
「……あの、とりあえず近江屋に帰りますか……?」
我に返ってしまえば、なんとも気まずい状況だ。
私は真っ赤に染まる頬を両手で覆って、うつむき加減にそう提案する。
「美湖はもう帰りたいがか?」
「え……? いえ、あの、ここは人通り多くて、このままじゃその……」
「俺は、もうちっくと二人でいたいぜよ――よしっ!」
何かを決意したように大きくうなずくと、龍馬さんはおもむろにブーツを脱ぎ捨てて川へと飛び込んだ。
ぱしゃりと、派手に水しぶきが上がる。
冷たい水滴が、私のもとへ飛んできて髪を濡らした。
「うう、思ったより冷たいのう~」
龍馬さんは袴の裾をまくり上げて、氷の上を歩くようにぎこちない大股でじゃぶじゃぶと川面を蹴って進んでいく。
そして、そばにあった大きめの石を持ち上げて底を掬い――そのままぐっと右拳を握りしめてこちらに戻ってきた。
「えさですか?」
「そうじゃ。これで一匹釣って帰ろう」
龍馬さんは手を開き、握りこんでいたみみずを数ひき餌入れの中に放り込む。
そうして堀の上に上がって寒そうにしている龍馬さんに手拭いを渡し、私は釣竿を手にとった。
釣りをするのは久しぶりだなぁ……えさのつけ方はこれでいいんだっけ?
時折手を止めながら龍馬さんのほうを向いて意見をうかがえば、彼は黙って微笑みながらうなずいてくれた。
――好きなようにやれ、ということだろう。
「よしっ! 釣りますよ!」
「おうっ! 二人でやれば向かうところ敵なしじゃ!!」
――と。
竿を握りしめる私の後ろから、ぎゅっと抱き込むようにして龍馬さんがくっついてきた。
彼の両手もまた、釣竿を握っている。
「わ! 龍馬さんっ……! どうしたんですか!?」
「せっかくやき、二人でやろうや」
「ええ……!? でもほら、人が見てますよぅ! 恥ずかしいですよ!」
「俺は恥ずかしゅうないぞ。久々に恋人に会うたんじゃ、思う存分べたべたさせてもらうぜよ」
「こ……っ」
恋人!!!
耳元で囁かれたその一言で、私の顔はゆでだこのように真っ赤になった。
恥ずかしすぎる。
竿を持つ手が震えてしまう。
「さぁて、美湖が釣りたいんは何じゃ?」
「え……と、何でしょう。一応、うなぎが釣れたらいいなぁとは思っていましたけど……」
「よっし! ほいたら鰻ねらいじゃ!」
恥ずかしくて、すっぽりとおさまった彼の腕の中で小さくなっている私に、龍馬さんはいつも通りの声色でポンポンと言葉をなげかける。
やがて釣糸は、いかにも大物がひそんでいそうな岩陰にそっと垂らされた。
龍馬さんの目は確かだから、すぐにでも釣果が上がるだろう。
――そんなふうに思いながら待ち続けて、どれくらい経っただろう。
竿先はぴくりとも反応してくれない。
「……かかりませんねぇ」
「うーむ……冬は釣れにくいきねぇ」
「まだ秋ですけど、ギリギリのところですよね」
前に田中先輩がうなぎをとってくれたのは、長月のはじめだったっけ……。
あれからずいぶんと時が流れたものだと、懐かしい気持ちで胸が満たされる。
「場所がいかんかのう」
いさぎよく頭を切り替えて釣糸をたぐり寄せると、龍馬さんは脇に転がる新しい岩陰へと糸を落とした。
もうこの際うなぎじゃなくても、何かしら食いついてくれたらそれでいいか――。
なんて思いが頭をよぎった、その瞬間。
ぐんと竿先がしなり、ちぎれんばかりに強く糸が張りつめた。
「あ! 動いた……!」
「おおっ! こりゃ、大物やぞ!」
竿を片手で支えながら、龍馬さんは反対の手で桶を構える。
私はというと、ただただ右へ左へとゆれる釣糸に翻弄されて、あたふたしているだけだった。
「釣りあげるぜよ!」
そう言って龍馬さんが竿を引き上げると、水面がはじける快音とともに、うねうねと身をよじらせて暴れる立派なうなぎが宙を舞った。
「わあっ! すごいっ!! うなぎだぁ!!」
きらきらと水滴をはじきとばしながらこちらにたぐり寄せられたそれは、待ち構えていた釣り桶の中にすっぽりと落とされる。
「名人の腕は健在やったのう」
桶の中で器用に釣り針を外しながら、龍馬さんは頼もしく誇らしげな笑みをこちらに向けた。
「いよっ! 釣り名人!」
「はっはっはー! 惚れなおしたじゃろ?」
「……っ!」
喜びのあまり軽く跳びはねながらぱちぱちと手をうっていた私は、頬を染めてぴたりと固まる。
またこの人は、さらりと恥ずかしいことを……!
「すぐ赤うなるとこも、好いちゅうよ」
にっと歯を見せて笑う龍馬さんは、なぜだかたいそうご満悦だ。
うなぎが釣れたからなのか、私をからかうのが面白いのか……。
おそらく、そのどちらもだろう。
「もう……! それじゃ、うなぎも釣れたし今日は帰りましょう」
火照る両頬を彼から背けるようにして、私は釣り道具をまとめて歩きだす。
行きは空だった桶が、帰りにはこんなにもずしりと重い。
久しぶりの充足感だ。
「そうずかずか歩いていかんでも……」
風呂敷を担ぎなおして私のとなりに追い付いた龍馬さんは、かすかに眉を下げて私の顔をのぞきこむ。
そうして、重そうだからと私の手から釣桶を取り上げた。
「……いえ、そうじゃないです。なんだか見物人が増えてきたみたいなので」
ちらりと背後を振り返る。
私たちが釣りに興じていたあたりから数歩ぶんの距離を置いて、若い娘さんたちの人だかりができていた。
それぞれが瞳を輝かせ、うっとりとした顔つきでこちらを見つめている。
「なんやあの兄さん! めっちゃ格好ええ!!」
「旅姿やー! あの二人、久々の再会なんやろか!」
「うちも男前に抱きしめられたいわー!!」
それはもう熱く、楽しそうにきゃあきゃあと。
彼女たちの騒ぎ立てる声は、こちらに筒抜けだ。
きっと龍馬さんの耳にも入っているだろう。
「龍馬さんって、すごく人目をひきますよね」
となりを歩く龍馬さんに視線を向ける。
彼はこんな状況でもいたって普段通りだ。
おなごたちの黄色い声など気にもとめない様子で、桶の中のうなぎを満足そうに眺めている。
「人目……? いんや、そうでもないろう」
「いいえ、そうですよ。なんだか華があって、ついつい目で追ってしまいますもん」
「そらあ、美湖が俺を好いちゅうせいぜよ」
「わ……! もう! なんでそうなるんですか!」
「違うが?」
「いえ、まぁその……好きは好きですけど……」
私が言いたいのはそういうことじゃない。
龍馬さんはすごくモテるねという話だ。
行く先々に女の人の知り合いがいて、知らない間に惚れられていることも多くて。
女には不自由しない人だと、前に海援隊のみなさんから聞いたことがある。
実際私も、龍馬さんが女の人と親しげに話しているところを何度も見たことがあるし……。
――正直、つらかった。
知らない女の人が、龍馬さんと向かい合って話をしていることが。
私のいない間に、たくさんの女の人と接する機会があることが――。
たとえお仕事の関係でつながっている相手だとしても。
離れている間は、胸がはりさけそうなほどに不安だった。
「……これでも、地味にしゆうつもりなんやが」
笠を目深にかぶりなおして、龍馬さんは肩をすくめる。
「地味じゃありませんよ。龍馬さんは背が高いし着物も風変わりだし、どこにいても目立っちゃいます」
「ふぅむ……地味も才能やな。今度慎太にコツを聞かんと」
「ふふ、またケンカになっちゃいますよ」
そんなどこかズレたやりとりに根負けして、私は思わず吹き出した。
(……なんだかもう、あれこれ不安がって悩むことないのかも)
「私やっぱり、龍馬さんのことが好きです」
「おお……!? 急にどうしたが?」
普段照れてなかなか言わない一言を口にしたからか、龍馬さんは不意をつかれて歩をゆるめた。
もうすぐそこに近江屋は見えている。
あそこに帰れば海援隊のみなさんが待っていて、二人きりの時間は終わってしまう。
だから、たどりつく前に一言言っておかなきゃ。
「私、龍馬さんが留守の間心配だったんです……危険な目にあっていないかとか、お仕事はうまくいってるかとか……」
「仕事はおおむね順調ぜよ。すまん、時間がのうて文にはたいしたことを書けんかった」
「……はい。忙しかったんですよね。私、なんだか一人で置いていかれた気分になって、勝手に沈んでました」
「……美湖」
龍馬さんはかすかに眉をよせたあと、私の肩を抱いて、優しくそばに引き寄せた。
そして、誘導するように近江屋の門をくぐり裏手にまわる。
落ち葉の散らばる見慣れた景色に二人で立つと、なんとも言えない安心感と、ほんの少しの寂しさがじわりと胸の奥で広がった。
「……帰ってきちゃいましたね。龍馬さん、あらためておかえりなさ――」
その言葉を最後まで言い終える前に。
龍馬さんの唇が、私の口をふさいだ。
蔵のそばの垣根に背中をそっと押し付けられるようにして、私は彼の腕の中にとらえられている。
持っていた釣竿が、カランと音を立てて地に落ちた。
「――……っ」
頭の中が真っ白になるような、ながい口づけのあと。
そっと重なっていた体を離すと、目の前には龍馬さんの顔があった。
真剣な、それでいてどこか苦しく切なそうな――。
「俺も、美湖のことが好きじゃ」
「龍馬さん……」
垣根に肘から先をくっつけるようにして私と密着する彼に、いつもの饒舌さはない。
困ったように目をふせて、静かに優しく言葉を選んでいる。
――二人きりで部屋にいる時は、いつもこうだ。
彼は優しくて、そっと壊れものを扱うように私を抱きしめてくれる。
どこか触れるのをためらうような、ぎこちない微笑みで――……。
「離ればなれが辛いんは、一緒じゃ。俺もおんしに会いとうてたまらんかった」
ぎゅっと私を腕の中にとじこめて、龍馬さんは苦しそうな声色で気持ちを吐き出す。
その背中にそっと腕を回しながら、私の目からは涙がこぼれおちていた。
「ほんとですか……? だったら嬉しいです。龍馬さんも同じ気持ちでいてくれたなら……」
「同じに決まっちゅう」
「私だけこんなに寂しがりなのかなぁって……」
「――俺の気持ちは、いまいち美湖に伝わっとらんがやのう」
くい、と私の顎を引いて。
そしてそのまま龍馬さんは、半開きになった私の唇に彼の唇を重ねた。
ゆっくりと深く、互いのやわらかな感触を味わって。
離れ離れだった寂しさと、目の前の相手への積もり積もった愛情を思う存分ぶつけあい、私たちは静かにその行為を終えた。
……涙で視界がにじんで、ふらふらと足元もおぼつかない。
久しぶりに再会して、些細な会話でも恥ずかしく感じてしまうような、先ほどまでのもどかしい距離感はもう感じない。
そんなものは、どこかに吹き飛んでしまった。
「……大好きです、龍馬さん」
「俺も、好きじゃ。大好きじゃ」
ふたたび、互いに強く抱き合う。
どくどくと壊れそうなほどに鼓動が高鳴って、じわりと胸の奥があたたかくなる。
久しぶりの感覚だ。
泣きたくなるほど幸せなひととき。
この日がくるのを、ずっと待ちわびていた。
「……今日はこのまま、ここにいてくれますよね?」
きゅっと彼の服をつかんで上目遣いでそう尋ねると、龍馬さんは静かにうなずいてくれた。
「もちろんじゃ。今夜は美湖を抱いて寝るつもりやき」
「だ……っ」
抱いて!?
さらりと告げられた一言に、私はふたたび首もとまで真っ赤に染まる。
「抱きしめて、いう意味ぜよ」
「あ、そ、そうですよね……私も、龍馬さんのそばにいたいです!」
盛大に勘違いしていた。
恥ずかしすぎる……!
「……美湖が考えちょったほうも、そのうちのう」
くすりといたずらに笑って、龍馬さんは私の頬にかるく口づけを落とした。
ふわりと、オーデコロンの甘い香りがただよう。
懐かしい、龍馬さんのにおいだ。
「……もっとしていたいけんど、そろそろ皆に会いに行かんとのう」
真っ赤になってぼうっとしている私を見てくすりと笑うと、龍馬さんは勝手口のほうへ視線を投げて、釣り桶を持ち上げた。
「あ……はい、そうですね。陸奥さんたちも龍馬さんに会うの楽しみにしてますよ」
龍馬さんは、私一人のものじゃないんだ。
ほんの少しの寂しさを感じながらも、私は満ち足りた心持ちでいた。
――独占できなくてもいい。
ただこうして、目に見える場所にいてくれたらそれで十分だ。
私は何より、仲間たちと楽しそうに笑いあう龍馬さんが大好きなんだから。
「よしっ! 今夜はうなぎで一杯やるか!」
ぐっと盃を傾けるようなしぐさを見せる龍馬さんに、大きくうなずき返しながら。
私は釣竿を拾って、大好きな彼のとなりへと駆け出した――。
それから夜更けまで、龍馬さんは仲間たちと輪になって何やら話し込んでいた。
ばさばさと紙を広げて、飛び交う案を書き綴りながらの長い談合。
隊長が帰還した瞬間にその場はにわかに活気づく。
こうして熱く、わいわいと盛り上がっている彼らを見るのが大好きだ。
生き生きとした顔で仲間たちと意見を交わしあう龍馬さんは、いつ見てもまぶしく輝いている。
恋人としての贔屓目を抜きにしても、素敵な隊長さんだと思う。
私は鰻を蒲焼きにして彼らに差し入れたあと、そっと龍馬さんの部屋に戻って一息ついた。
今夜は一緒に寝るつもりだと言ってくれたけれど、実際のところどうなるかは分からない。
彼らが真剣に話し込むと、朝までぶっ通しなんてことも珍しくないからだ。
(さて、私はお針でもして待っていよう)
部屋のすみで裁縫箱を開けて、膝の上に龍馬さんの羽織を広げる。
旅から帰ってくるといつもぼろぼろで、あちこちほつれ放題なのだ。
目をこらして見てみれば、なにやら派手に破れたあとや、すすけたようなあとまでついている。
どこをどう歩けばこんなふうになるんだろう。
森の中で猛獣と格闘したりでもしてるんじゃないかと、たまに思ったりする。
そんな羽織にちまちまと針を入れること数刻。
半刻おきに隣室のみなさんにお茶や珈琲の差し入れをしながら、あっという間に時間は過ぎた。
すっかり綺麗になった羽織を広げて、私は一人満足げに口元をゆるめる。
懐中時計に目をやれば、いつの間にやら日付けが変わってしまっていた。
(龍馬さん、まだ休まないんだ……)
ふと、彼の体が心配になる。
きっと朝から歩き通しで、疲れているだろうに。
無理はせずに少しでも休んでほしいな。
きれいになった羽織を肩にかけて、私は立ち上がった。
思っていたよりもずっと大きくて、膝下くらいまですっぽりと隠れてしまう。
――でも、すごく温かい。
冷えてきたことだし、少しだけこのまま借りていよう。
そうして、そろそろお茶でも淹れてあげようかと障子をあけると……
「美湖、何じゃ? その格好は……」
きょとんとしながらまばたきをする龍馬さんと、敷居をはさんで鉢合わせた。
「わ、こ、これは、羽織を繕っていて……」
「おお、いつもすまんのう」
「それで、あの……龍馬さん、お仕事はどうですか?」
特に深く問い詰められることもなく、龍馬さんは普段通りにこにこしている。
私はあたふたと羽織を脱いで、彼の肩にかけてあげた。
「あらかた話はついたぜよ。今夜はもう寝る」
猫のように大口をあけてあくびをしながら、龍馬さんは部屋の中へと入っていく。
そうして押し入れから寝具を取りだし、眠そうな顔で寝床を整えた。
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
そっと障子を閉めて、布団にもぐりこむ彼に微笑みかける。
……よかった。思っていたよりも早めに戻ってきてくれて。
「美湖も入りや。一緒に寝る約束じゃろう」
あ、覚えててくれたんだ。
「えと、それじゃ……」
嬉しいやら恥ずかしいやらで、しばらくもじもじとその場で立ち尽くしていた私は、龍馬さんが無言で手招きしてくれたのを合図に覚悟を決めた。
するりと、布団の中に身を沈める。
「はぁ、疲れた疲れた」
横になって気の抜けきった声を出している彼の顔は、先ほどまで仲間達の前で見せていた隊長としてのそれとはまるで別物だった。
「龍馬さん、すっかりふにゃふにゃになってますね」
「そらもう、遅うまで頑張ったきのう……」
「はい。忙しくて本当に大変でしたよね。すごく立派な隊長さんだと思います」
「……ふんふん、ほんで?」
龍馬さんは目をつむってぎゅっと私を懐にとじこめると、更なる誉め言葉を催促する。
二人きりで過ごすときには、お決まりのやり取りだ。
彼は人から誉められることが大好きなのだ。
「器が大きくて、視野が広くて、海が似合うとってもビッグな男です」
「……ビッグか、ええのう」
「そろそろ眠りましょうか?」
夢の中に片足を突っ込んでいるような、ふわふわとした返事に思わず苦笑する。
こうして彼の腕の中で眠れるだけで、もう十分幸せだ。
話の続きはまた明日でもいい。
「……すまんのう、構ってやれんで」
「一緒に釣りもしましたし、こうして同じ布団で眠れています。たくさん構ってもらってますよ」
「俺は構い足りんぜよ」
私の髪をそっとすくように撫でながら、彼は小さく笑う。
ぱちりと開いた眼はしっかりと揺らぐことなく私を捉えている。
「それじゃまた明日、一緒に過ごす時間をください」
「そうじゃな。明日は陸援隊を訪ねるつもりやき、美湖も連れていこうかのう」
「わ、本当ですか? 行きたいです!」
陸援隊のみなさんに会うのは久しぶりだ。元気にしてるかな?
「決まりじゃな。ほいたら寝るか」
「はいっ」
龍馬さんは、こくりと頷いた私の額に軽く口づけを落とし――そうして、それは続けざまに唇にも降ってきた。
ふいをつかれて、私はぎゅっと身を固くする。
「――……っ」
指先で掴んだ彼のシャツはいつもより胸元が開いていて、ますますどきどきしてしまう。
唇が離れたあとも、私たちは言葉なく静かに余韻に浸りながら抱き合っていた。
「……珈琲の味がしました」
「……ん? ああ、すまんすまん。たらふく飲んだきのう」
龍馬さんは申し訳なさそうに頭をかきながら、小さく声を出して笑う。
「私が淹れた珈琲、苦くなかったですか?」
簡単な淹れ方は習ったからそれなりに飲める仕上がりにはなっていると思うけど、未だに探り探りだ。
「いんや、うまかったぜよ。美湖も飲んでみぃ」
「もう少し甘ければ飲んでみたいですけど……」
「明日、俺が淹れちゃる。金平糖を浮かすんはどうじゃ?」
「甘くなりそうですね。見た目もきっと可愛いです」
想像して、頬がゆるむ。
龍馬さんはこうやっていつも、相手がどうすれば喜ぶかを考えて動いてくれる。
出会った頃から、ずっとそうだった。私はなにもかも、もらってばかり。
「――龍馬さんのために私も、もっと何かしてあげたいです」
疲れて帰ってきて、横になるころにはいつもヘトヘトで。
いつか体を壊すんじゃないかと心配だ。
隊のみなさんみたいに知識や技術で隊長を支える力がない私に、何ができるだろう。
「美湖は、傍におってくれるだけでえいがよ」
「うう……でもそれじゃ……」
与えられてばかりだ。もちつもたれつの関係でないと、いつか綻んでしまう気がする。
「俺も世話になりっぱなしやき。帰ってくればメシも用意してくれる、茶も淹れてくれる、着物も繕うてくれる。美湖のおかげで生きていけちゅうがじゃ」
「それくらいは当然のことですから」
「当然やないろう。そればぁに世話を焼いてくれるんは、家族くらいのもんやったぞ」
何かを思い出すように柔らかく笑ってみせると、龍馬さんはぎゅっと私を抱く腕に力をこめた。
「龍馬さんって、なんだかほっとけなくて」
「幼い頃からよう言われちょった。俺は好きなこと以外なーーんもできん男やきねぇ」
いつもの笑みよりもいくらか自嘲まじりに、龍馬さんは口元を緩めた。
二人きりになると、この人はよく昔語りを聞かせてくれる。
それは決まって、過去の自分の不甲斐なさを吐露するものだった。
「好きなことに向かって、どこまでも進んでください。できないことがあったら皆で助けますから」
「……おんしはまっこと、俺を喜ばすのが上手いのう」
「そのことに関しては、誰にも負けたくないですから」
私の傍が一番だと、帰る度に感じて欲しい。
龍馬さんのかえる場所になりたい。
いつだってそう思っている。
「美湖以外には務まらん役目じゃ。こがぁに手のかかる男を献身的に支えてくれてのう」
「手のかかるところが魅力なんです」
「ふっ……ははは! そらぁ最高の誉め言葉ぜよ」
肩を震わせて愉快そうに笑う龍馬さんは、先ほどよりも幾分か元気を取り戻したようだ。
ひっそりと囁くような声色ながら、弱りきった様子はもうない。
こうして二人で身を寄せ合って話をする時間が、彼の心をやんわりとほぐしてくれたのかも。
そうだったら嬉しいな。
「美湖のにおいは落ち着くのう」
「うっ……く、くすぐったいです」
私の首筋に顔を埋めるように、龍馬さんが覆いかぶさってくる。
鼻先が肌をかすめ、彼のくせっ毛が頬をくすぐれば、ぞくりとして肩がはねた。
「あ、の、りょうまさ……っ」
首筋から鎖骨まで、そっと撫でるような口付けが、幾度も降ってきた。
体が熱くて、どきどきして、漏れそうになる声を抑えようと必死に口元をおさえる。
どうしよう、心の準備ができてない……!!
頭が真っ白になって、くたりと龍馬さんに体を預けたそのとき。
廊下へとつながる障子が静かに開いた。
「坂本さん、すみません。言い忘れていたことが……」
部屋へと入ってきたのは陸奥さんだ。私たちと目が合って、彼は目に見えてたじろいだ。
それもそうだ。こっちは一つの布団の中で重なり合っているんだから。
「陽之助、なんじゃ?」
少しばかり口を尖らせて、不満げな顔で龍馬さんが体を起こす。
私は掛け布団を頭までかぶって、ばくばくと打ち付ける心音を抑えようと必死だった。
「いえ、その、すみません。取り込み中でしたか」
「そらもう絶賛取り込み中やったが、仕事の話やったら仕方ないのう」
布団をずらしてちらりと視線を向ければ、龍馬さんは肩をすくめて困ったように笑ってみせた。
「美湖、すまん。ちくと行って来る」
「はい……いってらっしゃい」
「朝までには戻るき、先に寝ちょってや」
私の頭に優しく手を置いて、彼は立ち上がった。
頭が切り替わったのか、もうすっかり隊長の顔だ。
「陽之助ぇ。入るときは一声かけや~」
「そうします。配慮が足りていませんでした」
障子を閉めて、ずかずかと廊下を踏みしめる音が聞こえてくる。
謝り通しの陸奥さんと、特段恥らうこともなく茶化すように笑う龍馬さんの声が、だんだんと遠ざかっていく。
やっぱりうちの隊長は、私が独占できるような人じゃないな。
(ほんと、海みたいな人……)
凪いでいたかと思えば、突然嵐のように激しく波打って。
自然とまわりをのみこみながら、自分の流れに取り込んでいく。
私の小さな手では、とてもつかまえていられない。
――それでも、いいか。
私は彼のそんなところが好きで好きでたまらないんだから。
ぽつりと取り残された布団の中で、寝返りをうつ。
鼻先に漂うかすかな残り香に、胸の奥が満たされていく。
今夜はもう寝てしまおう。
眠り落ちる瞬間は共有できなくとも、目覚めた時一番に彼と言葉を交わせるのは、きっと私なのだから――。




