キスに導く短編(大橋)※挿絵アリ
最近、陸援隊は忙しそうだ。
幹部のみなさんは、難しい話をできるだけ私の耳に入れないようにしてくれているけれど、なんとなく隊全体がせかせかと動き出したような気配を感じる。
おそらく、戦いの時が近いんだろう。
そんな晩秋の昼下がりのこと。
「慎三さん、お茶が入りましたよ」
「ありがとうございます。そこに置いていただけますか」
そこ、と視線を向けられたのは畳の上だ。
文机の上には何枚もの文の束が広がり、他にものを置く隙間もない。
彼は、熱心にそれらの書類に目をとおしている。
(……うちの隊の人の字じゃないな)
背中ごしにちらりと見えたその筆跡は、初めて目にする整った字だ。
他藩の人からの便りかな?
邪魔をしては悪いので、湯飲みをそばに置いて、そろりと部屋のすみまで下がった。
隣には数枚重ねられた座布団があり、その上には白猫の葉月ちゃんが丸まっている。
(この子も、ちゃんと分かってるみたい)
これまでなら慎三さんが何をしていようとお構いなしに、姿を見かければすぐさま飛び付いていたのに。
最近は忙しそうに動きまわる彼が落ち着くまで、じっと待っていることが多い。
――えらいなぁ、がまんできる子なんだね。
撫でようとしてそっと手をのばすと、葉月ちゃんは獲物を狩る時の目で私の手のひらをぺしんと叩いた。
……ダメか。つれないなぁ。
ふぅと小さくため息をついたところで、机に向かっていた慎三さんが立ち上がった。
懐に文をしまいこみながら、障子のほうへと向かう。
「香川さんと話をしてきます。長引くと思いますので、あなたは部屋に戻ってゆっくりしていてください」
申しわけなさそうに眉をよせて微笑みながら、彼はそのまま部屋を出ていった。
本当に忙しいんだな……。
私は腰を上げて、畳の上にぽつんと置かれた湯飲みを机の端に移動させる。
まだ一口も飲まれた様子はない。
しばらく部屋には戻らないそうだけど、一応このままにしておこう。
そうして私は、慎三さんの部屋を出た。
――さて、何をしよう。
暇で暇で、ここのところ屯所の掃除ばかりしていたから、もうすでに屋敷の中は隅々までピカピカだ。
というわけで、掃除はナシ。
葉月ちゃんも静かに寝ていたいようだし……。
「よし、久しぶりに外に出てみようかな!」
一人で部屋にこもっていると、なんだかぽつんと取り残されたようで不安な気持ちになってしまう。
外の空気を吸って気分転換しよう。
玄関を出て門のほうへと向かいながら、懐から財布を取り出す。
可愛らしい桜模様の巾着で、私のお気に入りだ。
紐をゆるめて中をのぞけば、じゃらりと重なりあう銭が音をたてる。
……うん、けっこう入ってる。
たまには、甘味屋さんで思い切り散財してみるのもいいかな。
慎三さんにたくさんお土産を買って、喜んでもらうんだ――。
門前までたどりついて、きょろきょろとあたりをうかがう。
誰か外に出かける人はいないかな?
一人で外出するのは控えるよう隊長や慎三さんからいつも言われているから、こんなときは用事のある人にくっついて出ていかなきゃならない。
「よう天野。出かけんのか?」
背後から声をかけられて振り返ると、そこには田中先輩が立っていた。
「あ、先輩! そうなんです。ちょっと買い物をしたくて」
「そっか、オレも藩邸に用事があってよ。一緒にいくか?」
「いきます!」
「おっしゃ、急ごうぜ」
即答してうなずくと、先輩はそのままずかずかと門をくぐって、先へ先へと歩いていく。
急ぎの用なのかな。
だったらまずは大人しく先輩の用事が済むのを待っていよう。
藩邸について、門のそばでじっと待つこと約一刻。
先輩はようやく戻ってきた。
「悪ぃ悪ぃ、長引いちまった。もう夕刻だな、どこで買い物すんだ?」
「この近くにある、さくら屋さんです。いろいろとお菓子を買いたくて……」
「菓子かよ! 色気より食い気か、おめぇは」
「いいじゃないですか、行きましょうっ」
上を見上げれば、流れの早い灰色の雲が、じわりじわりと夕焼けの空を侵食しはじめていた。
もしかしたら一雨くるかもしれない。
その足で甘味処のさくら屋さんに寄った私は、慎三さんが好きだと言っていたみたらし団子を筆頭に、さまざまな種類の甘味を買い込んだ。
風呂敷にくるんで持ち上げたその包みは、ずしりと重い。
「買いすぎだろ、ハシさんかよ」
大きく膨らんだ風呂敷包みをかかえて表通りに顔を出した私を見るなり、田中先輩は吹き出した。
思いがけず耳に入った慎三さんの名前に一瞬どきりとして、もじもじしながら私はうつむく。
「……そのハシさんに、お土産です」
「お、やっぱ食い気より色気だったか?」
何かを察したようににやりと笑みを浮かべ、先輩はきびすを返す。
思いのほか長く時間がかかってしまったので、あたりはもう薄暗い。
この時期は、日が落ちるのが早いからなぁ――……。
「で、ハシさんとはどこまでいったんだ?」
屯所への道のりを半分ほど来たところで、先輩がふと口をひらいた。
「え!? 何ですか唐突に……!」
「おめぇらもう、恋仲だろ?」
「それはその……はい」
思いが通じあったのは、ほんの十日ほど前。
幹部のみなさんにだけは、私たちの関係を報告した。
こういうことを仲間に隠しておくのは苦手だと、慎三さんから動いてくれて――……。
「おめぇ、最近なんとなく女らしくなった感じするぜ。男ができると女は変わるっつうけど、マジなんだな」
「そ、そうですか……? 自分では分かりません」
「こうやってハシさんの話すると、途端に女の顔になるよなぁ。ホラ、今も」
「からかわないでください……」
恥ずかしいな、もう。
ひやかしの言葉よりも、こうして誰かと慎三さんの話をすることに何よりどきどきしてしまう。
自分でも変だと思うけれど、彼の名前を聞くだけで、切ないようなこそばゆいような、なんとも言えない感覚におそわれるのだ。
「しかしまぁ、ハシさんの女になったらしょっちゅう寺めぐりに付き合わされたりすんだろ。大変だな」
「お寺めぐり、楽しいですよ。私は好きです」
「……マジかよ。んじゃ、葉月ちゃんに嫉妬したりしねぇ?」
「いいえ、まったく。葉月ちゃんを可愛がるときの、慎三さんの優しい顔が好きですから」
「なんかすげぇノロケが始まっちまった! 勘弁してくれ! 二人きりの時はどんな会話してやがんだよ……!」
「えへへ、二人のときはですねぇ……」
「やめろ、聞きたくねぇ! 女っ気のねぇ生活してる自分がみじめになんだろうが!」
と、開き直った私が一方的にのろけていると……。
暗く静かな通りを突っ切って家路をいそぐ私たちの頭上に、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
はっとして空を見上げれば、桶をひっくり返したように勢いよく、ざあざあと本格的に降り始める。
帰るまではもってくれると思っていたのに、ついてない……!
「走って帰るぞ!」
「はいっ!」
ばしゃばしゃと水溜まりに足を踏み入れながら、走り出した先輩の背中を追いかける。
できるだけ濡れないように、私は抱えていた風呂敷をぎゅっと懐に抱き込んだ。
やがて屯所の門が見えてくると、私たちはいくらか安堵して歩をゆるめた。
もう全身びしょ濡れだ。
「ひでぇなこりゃ。こんだけ水がしたたってりゃ、町中の女がほっとかねぇわ」
「何言ってるんですか……でも、ここまで降られちゃもう開き直るしなかいですね」
なんて言葉を交わしながら自分たちの情けない姿を笑いあっていると。
門のそばから、こちらに歩みよってくる人影がひとつ。
「……お帰りなさい。田中くんと一緒だったのですね」
慎三さんだ。
すぐさまそばに駆け寄れば、彼は持っていた傘をそっと手渡してくれた。
その表情には何の感情も浮かんでいない。
いつも柔らかく笑ってくれる口元も、今はかたく真一文字にむすばれている。
「あ、ありがとうございます……」
「早く部屋に戻って、体を拭いてください。風邪をひいてしまいます」
温度を感じない、ひやりとした声だった。
遅くなってしまったから、怒っているのかな……。
「あー、ハシさん悪ぃ。遅くなっちまったのはオレのせいでよぉ……」
ばつが悪そうに頭をかきながら先輩が目を伏せると、慎三さんは静かに首をふってその言葉を遮った。
「謝る必要はありません。お二人が楽しく過ごせたのであれば、それで。田中くんも、風邪をひかないように気をつけてくださいね」
差さずに持っていたもう一本の傘を先輩に押し付けると、慎三さんは少しだけ眉を寄せて笑ってみせる。
そうしてそのままきびすを返し、豪雨に身をさらしながら玄関へと入っていった。
私は、あわててその背中を追いかける。
きっと慎三さんは、雨の中ずっと私の帰りを待ってくれていたんだ。
何かあったのではと心配しながら、じっと長時間――。
先輩と並んで帰ってきたのを見た時、彼は一瞬驚いたような顔をして動きをとめた。
私たちが笑いあいながら歩いてきたからだろう。
さんざん心配させておいて、最後にそんなものを見せられたら、誰だって傷つくに決まってる。
……慎三さんは、怒っているはずだ。
もしかしたら、私に失望してしまったかも。
重い風呂敷を抱えて、傘を差しながら走る私の足では、彼の背中に追い付くことはできなかった。
玄関をぬけて、ぽたぽたと水滴をたらしながら廊下を歩く。
閉めきられた慎三さんの部屋の障子の前に、しばし立ち尽くして考える。
このまま顔を出してもいいものかと。
もしかしたら、今は私の顔なんて見たくないんじゃないかと――。
(それでも、やっぱりちゃんと話をしたい……)
水を吸ってべったりと肌に吸い付く着物の感触が、気持ちわるい。
廊下を流れる冷たい空気に、すっかり体は冷えてしまっていた。
まずは部屋に戻って着替えてくるべきなのかもしれない。
……けれど、どうしても足が動かない。
彼の部屋の前から離れられない。
――まずは、一言謝ろう。
そう決意した私は、震える手で慎三さんの部屋の障子を開けた。
「あの、ごめんなさい……私……」
部屋の中ほどに立つ彼は、手拭いで髪を拭いている。
傘をささずに門から玄関まで歩いたせいで、全身ずぶ濡れの様子だ。
「どうして謝るのですか? あなたも早く着替えてください」
慎三さんは、こちらに視線を向けずに淡々と言葉をつむぐ。
落ち着いた調子で、こちらを咎めるような物言いでは決してないのに、私はその一言に胸をえぐられるような気持ちだった。
「怒ってますよね、こんなに遅くなってしまって……」
そうだ、と一言肯定してほしい。
いっそ素直に怒りをぶつけてもらいたい。
こんなふうに、愛想をつかされたような振る舞いをされるのが何より辛い。
「……怒ってはいません。無事に帰ってきてくれたなら、それで十分です」
「そんな……! じゃあどうしてこっちを見てくれないんですか!」
いつもなら、必ず私の目を見て話をしてくれるのに――……。
二人の間に流れるよそよそしい空気に耐えられなくなった私は、敷居をまたいで彼の正面に立った。
畳の上には、数歩ぶんの水溜まりが浮かぶ。
「外で、何をしていたのですか?」
慎三さんは、なおもこちらに視線を向けることなく、畳の上に積んであった真新しい手拭いを手にとった。
「お団子を買いに行ってました……」
そう言って、持っていた風呂敷を彼の胸元に差し出す。
「団子を……?」
「慎三さんに食べてほしくて。最近は忙しそうにしていて甘味処に寄る時間もなさそうでしたから……」
うつむいて、目に涙をためながら私は言葉をしぼりだした。
喜んでもらうつもりが、結局彼を困らせてしまっただけだった。
こんなことなら、部屋の中でじっとしていればよかった――。
「……困った子ですねぇ」
ため息まじりにそう言って、慎三さんは私の頭をそっと手ぬぐいで覆う。
じわりとすぐさま水気を吸って、それは髪にはりついた。
「ごめんなさい、わたし、慎三さんにゆっくり休んでほしくて……お団子を食べて、お茶をのんで、前みたいに……」
優しく撫でるような手つきで濡れた髪を拭いてくれる彼は、どんな表情をしているのか分からない。
うつむきながら私は、ぽろぽろと涙をこぼして嗚咽を漏らした。
「確かに、ここ最近は忙しくしていましたからね……気を遣わせてしまいましたか」
「だって慎三さん、お茶をのむ暇もなくて……」
ぐすぐすと本格的に泣き出した私は、きっと情けない顔をしていることだろう。
こんなふうに彼とぎくしゃくしてしまうのは、初めてのことだから。
胸が痛くて、苦しくて、張り裂けそうだ。
「……事情は分かりました。もう泣かないでください」
手拭いごしにポンと頭に手を置くと、慎三さんは片膝をついて、うつむく私に視線をあわせてくれた。
そうして、いつものように優しく微笑む。
「……ごめんなさい、いっぱい心配かけて……」
「今度出かける時は、一声かけてくださいね」
「はい。もう黙って出ていったりしません」
「約束です」
慎三さんは、屈んだままそっと両手を広げる。
懐においでと誘う、いつものしぐさだ。
最初は、葉月ちゃんと同じような扱いになんとも複雑な気持ちになったものだけど、今は素直に彼の胸の中に飛び込んでいける。
「慎三さん……」
しがみついた彼の着物は、まだぐっしょりと濡れていた。
私もずぶ濡れのままだから、もう二人とも水浸しだ。
けれど、乾いた着物で抱き合うよりずっと互いの肌の感触が伝わってくる。
「心配でたまりませんでした。あなたが危険な目に遭ってはいないかと」
「……本当にごめんなさい。私もう、このまま嫌われちゃうかもって……」
「そう簡単に嫌いになどなりません。好きだからこそ、こうも苦しいのです」
ぎゅっと、私を抱き締める腕に力がこもった。
彼の体に私の体が押し付けられる。
密着するたくましい胸板の感触に、どきどきと壊れそうなほどに鼓動が高鳴った。
「……私も、慎三さんのことが大好きです」
「――……嬉しいですね、何度聞いてもその言葉は」
慎三さんは照れたように目を細めて、小さく笑う。
「いつもみたいに、名前を呼んでほしいです」
そっと彼の背中に腕を回し、胸元に頬をすりつける。
ゆっくりと二人きりの時間を過ごす時は、名前で呼びあうのが普段の私たちだ。
きちんと仲直りできた証に、元通りの合図がほしい。
「……美湖」
私がねだった通りに、甘い囁きが頭上に降ってくる。
優しく肩を抱いてくれる彼の手のぬくもりに、私はうっとりして目をつむった。
「慎三さん……」
「美湖、好きです」
音もなく静かに体を離した慎三さんは、私の両肩をつかんで、そっとその唇を重ねた。
髪からしたたる水滴が、互いの頬を濡らす。
きつく抱き合って、体が擦れるたびに着物は小さく水音をひびかせた。
冷えきっていたはずの体は、お互いの唇が離れるころにはすっかりぽかぽかと火照っていた。
――なんだか、いつもの口づけよりもずっと恥ずかしいことをしてしまった気がする。
「……そろそろ、着替えましょうか」
「はい。もう畳までびっしょりですね」
点々と、部屋のあちこちに水滴が垂れている。
私たちの回りなんかは特にひどく、水溜まりに浸かっているような状態だ。
我にかえって顔を見合わせた私たちは、なんだか無性に照れくさくなりながら、ふっと苦笑する。
何よりまずは、あたたかいお風呂に入りたいな――。
それから、約一刻。
「寒くはないですか? もう一枚掛け布団を出しましょうか」
部屋の中央に敷かれた布団に半身を包まれた状態の私に、押し入れをあさる慎三さんが声をかけた。
「いえ、じゅうぶんあったかいです」
すでに三枚重ねの布団がずしりと私の足の上に乗っている。
寒さなど微塵も感じない。
「そうですか? ではこのまま寝ましょうか」
押し入れを閉めたあと、彼は布団をまくって私の隣にするりと入ってきた。
お互いお風呂をすませた後だから、じゅうぶんに体も温まっている。
「体が冷える前に、横になりましょう」
「はいっ」
二人並んだところで、仲良く就寝だ。
少しばかり照れて頬を染めながら、私たちはそっと肩まで布団をかぶった。
向かいあって一息つくと、安心感と幸福感に包まれて、ほわんと気持ちがゆるんでしまう。
「……団子も饅頭も、美味しかったですねぇ」
私の体を抱き寄せて、さらりと指先でうしろ髪をすきながら、彼は満足げにつぶやく。
「慎三さん、信じられない量食べてましたもんね……」
「一応、明日のぶんは残しましたよ?」
といっても、串団子が数本残っただけだ。
あのあと『美湖がわざわざ買ってきてくれたものだから』と、夕餉がわりにどんどん食べて、一抱えもある菓子包みをあっという間に消費してしまったのだ。
彼の胃袋が、ちょっとこわい。
「明日は、ゆっくりお茶できそうですか?」
「ええ、必ず時間を作ります。二人で残りの団子を食べましょう」
「……はいっ。嬉しいです」
思わず彼の懐に飛び込んで、子猫のように額をすりつける。
ふわりと香り立つ湯上がりの肌のにおいに、きゅんと胸の奥がうずいた。
小さく笑って、慎三さんは私の頭を愛しそうに撫でてくれる。
……くすぐったくて、とても幸せで。
このままずっとこうしていたい、なんて願いながら、私はそっと目をつむった。
――そんな、あまいひとときを裂くように。
廊下からふと声が上がった。
「ハシさーん、いるか?」
田中先輩の声だ。
慎三さんはあわてて体を起こし、私は隠れるように頭まで布団をかぶる。
「……話をしてきますね、このまま待っていてください」
ポンと布団ごしに軽く頭を撫でると、彼は立ち上がって声のするほうへと足を向けた。
……大丈夫だよね、見つかったりしないよね。
真っ暗な布団の中でじっと息を殺し、私は外の音に耳をかたむける。
「田中くん、どうしました?」
「にゃあにゃあにゃー!」
障子を引く音のあと、すぐさま元気な葉月ちゃんの声が響いてきた。
あの感じだと、慎三さんに飛び付いてそのまま抱き上げてもらっているんだろう。
かわいいなぁ、もう。
「部屋の前で葉月ちゃんが待ってたからよぉ」
「ありがとうございます。葉月もお礼を言いなさい」
「にゃ!」
「いてっ」
……おそらくまた、葉月ちゃんが先輩の手を引っかいたんだろう。
声しか聞こえないのに、そんな絵面が鮮明に思いうかぶ。
「田中くん、夕刻はすみませんでした……わざわざ美湖に付き添っていただいて、礼を言わねばなりませんね」
「いやいや、こっちこそ帰すのが遅くなっちまって悪かった。用事が長引いてよぉ……だから、全部オレのせいなんだ」
「田中くんが謝る必要はありませんよ」
「いやまぁ……そんで、天野とは仲直りできたかよ?」
「しましたよ。ご心配なく」
二人が言葉を交わすたびに、少しずつ先刻のようなトゲのある気まずさが抜けていく。
とりあえず、一安心だ。
「だったら良かったぜ。天野のヤツ、ひたすらノロケまくってたからなー」
「のろけ……ですか?」
「ハシさんが好きすぎてもう、どうにでもして! ってよォ」
言ってない、そんなこと一言も言ってない!!
田中先輩にはそんなふうに聞こえてたの……!?
「あの子が外で私の話をしているとは、意外ですね」
「誰彼かまわずってワケじゃねぇだろうけどな。ま、仲良くやってんなら何よりだぜ……そろそろ行くわ!」
「おやすみなさい、田中くん。ちゃんと風呂に入って、あたたかくして寝るんですよ」
「カーチャンかよオイ……」
ギシギシと廊下を踏み歩く音のあと、静かに障子を閉める音。
……ようやく二人の会話が終わったようだ。
私は盛大に息を吐いて脱力する。
田中先輩が、部屋に入ってこなくてよかったぁ……。
「お待たせしました」
それからすぐに、慎三さんは布団のそばまで戻ってきた。
そして軽く掛け布団を持ち上げて、私の表情をうかがう。
「……気づかれないかもう、どきどきでした……」
「障子はわずかに開けただけですから、大丈夫だと思いますよ」
「にゃあ」
と、私たちの会話に割って入ったのは葉月ちゃんだ。
葉月ちゃんは慎三さんの腕から飛び降りて布団の中へもぐりこみ……そして、先客である私と出くわしてぴたりと動きを止めた。
「葉月ちゃん……こんばんは。一緒に寝てもいいかな?」
「……」
返事なし。
苦笑しながら、布団に身を入れる慎三さんにどうすべきか視線を投げる。
「葉月、今夜は三人で寝るんです。ほら、真ん中においで」
「にゃ――……」
まだ若干不満げにしている葉月ちゃんを間にはさんで、私たちはふたたび布団の中で向かい合った。
……まさか、こんな状況になるなんて。
「……葉月ちゃん、ふわふわであったかいですね」
「そうでしょう。懐に抱いて寝ると、熱く感じるほどです」
慎三さんがお腹を撫でてあげると、葉月ちゃんは丸くなって頭をぐりぐりと彼の懐に押し付ける。
……あ、さっき私がしてた甘え方だ。
そう考えると、なんとも気恥ずかしくなってくる。
「こんなふうに寝るのも、たまにはいいですね」
「親子三人川の字になって……というあれですか」
「え、あ……おやこ!?」
たしかに川の字ではあるけれど、そう言われるとなんだかいろいろ意識してしまうな。
「ふふ、いつかはあなたが産んでくれた子を間に寝かせたいですね」
「し、慎三さん……」
ぼっと、私の頬に火がともる。
瞬時に耳まで真っ赤だ。
「まだ先の話ですが、ね」
「はい……わたしも、その……」
恥ずかしくて、顔をあげられない。
それでも私はかろうじて、こくりと小さくうなずいた。
「可愛いですね、美湖は。もっと素直に、私の前でものろけてくれると嬉しいのですが……」
「……っ!!」
先ほどの先輩の言葉が頭をよぎって、私は思わずびくりと肩を浮かせて硬直する。
そういえば、とてつもなく恥ずかしいことを言われていたんだった……!
「朝までには、聞かせてもらえるでしょうか」
「――っ……」
ふいに重なる、やわらかな唇。
慎三さんは、葉月ちゃんを撫でていた左手をそっと私の右手にからめる。
静かで、それでいて熱く、身が焦げるような口づけ。
彼のことが、愛しくて愛しくてたまらない。
もうこのまま、ずっと深くつながっていたい。
……田中先輩の法螺台詞も、まんざら間違ってはいなかったのかもしれないな。
なんて、そんなことを頭の片隅で考えながら。
私の口から、甘い甘い恋のささやきが漏れるのは、この長い口づけが終わってからになりそうだ――。




