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約束の地へ  作者: 菩薩
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第3話 メリトアモン

黄金色の草原に取り残されたベンヤミンは、西の空を仰いだ。もうすぐ日が暮れようとしている。せめて今夜の寝床くらいは見つけておかねば。彼はナイル川に沿って、元来た道を戻り始めた。小石が足の裏に食い込んでじくじくと痛む。作業場から逃げている時は、痛みなど微塵も感じなかった。それほど必死だったということだろう。


メンフィスに泊まれる場所はあるのか。喉も渇いた、腹も減った。納屋でもいい、馬小屋でもいい、位置できる場所が欲しい。敵国で宿を探すのは阿呆のやることだが、今のベンヤミンはその阿呆な策に手を出してしまうほど疲れ切っていたのだ。


しばらくして、彼はナイル川の流れに身を任せることにした。少しずつ濃さを増してゆく群青色の空。火照った身体に染みる冷水の心地よさと、日本にいては決して拝めないナイル川の夜景に、ベンヤミンは初めて「転生も案外悪くない」と感じた。段々と周囲に葦が生え始める。流れが遅くなる。そろそろたった一人のクルージングは終わりのようだ。葦をかき分けて泳ぐように進まなければならない。



「王女様、お待ちください。今の時間に川に入られては、きっと風邪を引いてしまいます。王女様!」


メンフィス、ファラオの宮殿にて。一人の若い女性が裸に薄い絹衣をまとった姿で川に入ろうとしていた。昼ならまだしも、黄昏時の川で水浴びをしようというのである。彼女は幼い頃から常識外れの言動で侍女を困らせてきたが、今回も絶好調のようだ。腕を取ろうとする侍女の手を振り払い、滑らかな長い黒髪を振り乱して、ザブザブと日暮れの川に沈んでいく。


「ほうら、わたくしを捕まえてごらんなさい! その格好で果たしてできるかしら? あ~楽しいったらありゃしないわ!」

 

何が楽しいのかさっぱりなのだが、偉大なるファラオの娘は深緑色に濁ったナイル川で、子供のようにはしゃぎ回った。侍女としては、ただただ呆れ返るばかり。そして万が一、彼女が熱を出してはと内心焦りながら見守るのだった。ふと、王女の動きが止まった。一点を見つめて動かない。ワニに噛まれたか、奇病が発症したか、侍女達は血相を変えて川に飛び込んだ。


「待って、こっちに来ないで」


制止を受けて、侍女らもピタリと動きを止めた。王女がいつになく真剣な表情だ。彼女は葦が繁茂している場所に入ると、ぐったりと力を無くした少年を抱きかかえて戻ってきた。この少年こそ行き倒れたベンヤミンなのだが、もちろん名前など誰も知らない。うっとりとした表情で王女が呟く。


「見てごらん、なんて美しい顔をしているのかしら。群青色の髪もラピズラズリを想わせて綺麗だわ」


「決めた、この子をわたくしの召使いにします」


白髪交じりの侍女が進み出て、心配そうに諫めた。


「し、しかし王女様。小姓を勝手に召し抱えてはファラオに何とお叱りを受けるか……」


「お父様は無関係でしょ。このことは他言無用よ」


「ですが見たところ、この者の右腕にはレヴィトの民であることを示す焼印が……」


「うるさいわね。この子はわたくしが拾ったの。わたくしの問題よ。お父様が出る幕はないわ。あなた達、一人でも告げ口をしてごらんなさい。全員、クビにしてやるから」

 

やると言ったら必ずやり遂げる気性の王女であるゆえ、侍女達は震え上がって他言しないことを誓ったのだった。



クミンの強い香りが鼻をくすぐる。目を覚ましたベンヤミンは自分が新品の腰布を巻き、柔らかいクッションの上に寝かされ、眼前にソラマメの煮込みやビーフシチューが湯気を立てて並んでいる光景を見た。


隣には目を瞠るほどの美女。切れ長の目は知的な雰囲気を、目元に引かれた藍色のアイラインは謎に包まれた美女の神秘を、口紅で紅くふっくらとした唇は吸い込まれるような妖艶さを醸し出していた。


急展開に狼狽えたベンヤミンが問うよりも先に、美女が口を開いた。だが、何を言っているかさっぱり分からない。レヴィトの民として生まれたため、古代エジプト語なぞ知るはずがなかった。


『ベンヤミン……杖を持ちなさい……』


「その声は『私はある』さんか!? 杖は……あった。てっきり流されたのかと思っていたけど、一緒に拾ってくれたんだな」


ベンヤミンは言われるがまま、杖を掴み取った。するとどうだろう。奇妙奇天烈な言葉が、形を持って鮮明に耳へ流れこんできたではないか。


「……怖がらなくていいのよ。わたくしはあなたに危害を加えたりしないから。食べ物も飲み物も飽きるほどあるわ。好きなだけどうぞ。わたくしはメリトアモン。あなたの名前はなんと言うのかしら……」


「おお、聞き取れる! あんたが何を話したか、ちゃんと頭の中に入ってくるぞ!」


「ふふふ、はしゃぎ方もかわいいわね」


美女の熱い吐息が耳に吹きかけられる。若干、酒の匂いがした。美女を侍らせるのは悪い気分ではないが、ここがもしファラオの王宮であれば大問題だ。周りを囲む金銀財宝、奢侈品の多さ。余程の権力者であるに違いない。ベンヤミンの背に悪寒が走る。


ただ、取り乱しては怪しまれてしまう。エジプト人を装い、隙を見て脱出しよう。いかなることが起ころうと毅然とした態度で臨まねばならぬ。彼は水の入ったグラスに手を伸ばし、動揺を隠すように一気に飲み干した。


「秋風蒼吾……いや、ベンヤミン。カイロのベンヤミンだ。おばさん、泊めてくれてありがとう。腹が減って死にそうだったんだ。ずっと川を流されてきたもんで」


美女の傍に控える侍女らしき老婆が恐ろしい剣幕でベンヤミンを怒鳴りつけた。


「奴隷の分際で、王女様になんという口の利き方を……! 王女様はまだ二十五だというのに!」


「黙ってなさい。わたくし達と違って、平民は二十前後で死んでしまう。平民目線で語るなら、わたくしも十分おばさんよ。おばさんどころかお婆さんかもしれないわね」


その理屈はどうだろう。少し無理があるのではないだろうか。笑いかけたのも束の間、王女と呼ばれた女性の口からとんでもない言葉が飛び出してきた。


「ただ、嘘をついちゃだめよ。カイロはメンフィスより下流にあるわ。あなたはもっと上流から流れてきた。もしかして、レヴィトの民だったり。それも昼間、作業場から脱走した勇敢な奴隷……」


額に脂汗が滲む。まともにメリトアモンの顔を見ることができない。完全に終わった。自分が流れ着いたのは楽園ではなく、敵陣のど真ん中だったのだ。グラスを持つ手が震える。首を斬られてしまう。逃げなければ。幸い、四方が壁で閉ざされた部屋ではないから、ここでメリトアモンを突き飛ばして川に飛び込めば、逃げることはできる。


「逃げようとしたって無駄よ」


先手を打つかのごとく、王女メリトアモンが首に両腕を回してくるベンヤミンを両腕で抱き寄せる。引き剥がそうとしても身体に力が入らない。どうやら料理に薬が混ぜられていたようだ。


「ベンヤミン、あなたはずっとここにいるの。召使いとして、死ぬまでわたくしの傍に仕えるのよ。レヴィトの民ではなく、エジプト人として暮らしなさい」


もがけばもがくほど、首を絞めつける腕の力は強くなった。


「分かった、召使いになる! なるから……腕を離してッ……」


「物分かりの良い子で助かったわ。逃がさないよう薬を盛らせてもらったけど、あまり意味がなかったみたいね。でもこれでベンヤミン、あなたは永遠にわたくしの物。光栄に思わないかしら?」


「は、はぁ……」


よく考えてみれば、エジプト人として生活するのは悪い話ではない。

王女という名の傘を差しながら、ある程度安心して王宮を探索することができる。立っている者は親でも使えとことわざにもあるではないか。


そもそも自分は日本人であって、レヴィトやらエジプトやらに愛着などは微塵もない。この奇妙な強制転生から解放される糸口を見つけるため、『私はある』とかいうふざけた野郎の与えた仕事をこなしているだけだ。自ら望んで傘になってくれるとは、光栄の極みと言ってよい。

心の内でほくそ笑んだ矢先、何かの気配を敏感に察知したメリトアモンが奥に見える柱の陰へ向かって手をこまねいた。


「モーセ、こっちにいらっしゃい。紹介するわ。わたくしの新しい召使い、ベンヤミンよ。あなたと同じく、そこの川で拾ったの」


モーセ。名前だけでピンと来た。高校の世界史で学んだから知っている。海を割った人だ。さぞかし高齢で杖を突きながら歩き、顔は皺くちゃ、仙人のように白髭が足元まで垂れているのだろう。


「わたくしの弟、モーセよ。弟と言っても、あなたと同じ川から拾い上げた子だから血は繋がっていないのだけれど」


柱の陰より姿を現したのは意外にも、自分と同じ年頃の少年であった。額に鷹の意匠が凝らされた帽子をかぶり、腰には立派な青銅の細長い剣を佩いている。古傷だらけの引き締まった肉体は、闘いなれている証拠か。ピリピリと肌に妙な痺れが走る。人が放つ最大限の殺気を一身に受けたベンヤミンは、震え上がってすっかり動けなくなっていた。


「姉上、あなたはファラオの娘である自覚をお持ちでないようだ。どこの馬の骨とも知れぬ隷属民を、神聖な王宮に入れるとは何事です」


彼は嫌悪と侮蔑の入り混じった表情で、ベンヤミンに唾を吐きかけた。すぐさま物好きの王女がベンヤミンを庇うように割り込む。


「やめて! あなたこそ同胞に唾を吐くなんてどうかしてるわ」


「……同胞ですって? 姉上はまだ、あの馬鹿げた噂を信じておられるのですか。川で引き揚げられたとはいえ、姉上に育てられた私は生粋のエジプト人です。レヴィトの民であるわけがない!」


よほどレヴィトの民を嫌っているらしい。一切の言動から、これでもかと滲み出ている。弟でこの有り様ならば、率先して奴隷に重労働を課したファラオはどれほどの差別主義者なのだろう。モーセとメリトアモンの争う声を聞きながら、ベンヤミンは鬱屈とした気分になった。


「おい、そこの奴隷」

 

去り際、モーセはベンヤミンの耳にボソリと囁いた。


「仕官は許すが、姉上に馴れ馴れしく話しかけるんじゃないぞ。使えない召使いの一人や二人、無実の罪を着せて消すなど造作もない。肝に銘じておけ、お前の代わりは掃いて捨てるほどいることを」


嫌な野郎だ。隷属民を憎む彼の後ろ姿を見送りながら、ベンヤミンはグッと拳に力をこめた。


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