第2話 私はある
「異世界転生? なんだそりゃ」
高校二年の夏。夏期講習のため学校を訪れていた秋風蒼吾は、思わず箸でつまんだ唐揚げを砂利だらけの地面に落としそうになった。昼の校舎裏。食事の席で、まさか『異世界転生』などという突飛な単語が出てくるとは予想だにしなかったのだ。
嬉々として話すのは、丸々と太った友人である。小説投稿サイトでライトノベルを連載しているらしい。ネット小説に毒され過ぎではないかとは思う。
「僕らみたいな平凡な中高生が、こことは違う別次元の世界でイケメンに転生してチーレム築いて無双するんだよ。憧れるだろ?」
「別に憧れはしないね。世の中、普通に生きていけるだけで幸せなんだよ。異世界に転生したとして、必ず無双できるとは限らない」
「そこがいいんじゃないか! 無双できるかできないか、転生は一種の博打だよね。リセマラ不可のガチャとも呼べるかなぁ。あ、その唐揚げいらないならくれる?」
友人は唾を飛ばしながら息巻いて異世界転生の素晴らしさを語っていたが、蒼吾の心の琴線にはかすりもしなかった。馬鹿馬鹿しい。夢物語に興じたところで、成績が上がるわけではない。
転生するなら、意味不明な勇者よりも東京の大学生を願いたい。彼は心底うんざりしたようにため息を吐くと、腰を上げて友人の肩を叩いた。
「異世界だかチーレムだか知らないが、学生の本分は勉強だ。ほら立てよ、とっとと数学の課題終わらせるぞ」
友人は不満そうに口を尖らせると、「つまんないやつだな」と小さく呟きハンカチで汗を拭きつつ立ち上がった。そう、この時まで蒼吾は異世界の存在を信じていなかった。放課後、人気がない夕暮れの図書室で聖典『シェモース』を見つけるまでは。
「誰かが置き忘れたのか? 随分と古い本みたいだが……」
ふわりとカーテンが揺らめき、吹き込んだ風の手が本のページを撫でるようにめくっていく。どこからともなく、ハープを奏でる音が聞こえてくる。辺りに漂う古本特有のカビのような匂いが一層濃くなったような気がした。もしや、この本に触れたら本当に異世界へトリップしてしまうのでは……
勿論そんなことはなく。蒼吾が本を持つと風は止まり、辺りはシンと静まり返り、カビの匂いも弱くなった。どうやら、気のせいだったようだ。一瞬でも異世界の存在を信じた自分が情けない。友人のそれ見たことかと鼻高々な様子が目の前にちらつく。本当は図書室で自習をするつもりだったが、すっかり気分が削がれてしまった。
自転車を漕いで家に帰り、風呂に入り、夕食を食べ、寝るまで勉強。平凡な高校生活。刺激のない穏やかでありつつも退屈な日々。ベッドに仰向けに寝転んだ蒼吾は、天井の照明を隠すように漫画を広げた。
「あの本の表紙には、シェモースとだけ書いてあった。どうしても気になる……クソッ、漫画の内容も入ってきやしない」
スマホを取り出し、シェモースで検索をかけてみる。どうやら旧約聖書における出エジプト記の別名らしい。誰が聖書を机の上に置き去りにしたのだろう。図書室には自分と数人の図書委員以外、誰もいなかった。
彼らのうち、一人でもシェモースを元の本棚に戻そうとした生徒はいなかったのだろうか。疑問が新たな疑問を呼び、蒼吾の脳内で渦を巻いた。鳴門海峡もビックリの激しい渦だ。考えることが面倒になったので、彼は両手両足を広げて目を閉じた。
明日、図書室でシェモースについて聞いてみよう。目的を決めるより先に、蒼吾の意識は闇に溶けた。
そして今、黄金色の草原にて彼は『それ』と対面している。『それ』は茶色い麻のフードをかぶった人物であった。顔が見えないので、男か女かも分からない。ただ、背後より発せられる虹色の光はフードの人物が只者でないことを表している。人物は、若い女性の声で一言、蒼吾に話しかけた。
「レヴィトの民ですね。メンフィスの作業場より逃げ出してきた。そうでしょう? 喜ばしいと言いますか、愚かしいと言いますか……」
「お前は誰だ、メンフィスっつーことは、エジプトの回し者か?」
蒼吾は、姿勢を低く身構えた。腰布に差したナイフの柄を握りしめる。自分を捕らえようとした時は、懐に潜り込みこのナイフで心臓を一突きしてやるのだ。フードの人物は悪戯っぽくクスクス笑うと、両手を広げて天を仰ぎ、静かに答えた。
「私は『私はある』という者」
「私はある?」
「簡単に言えば、創造主でしょうか。大地も、海も、太陽も、そしてあなたも、私に作られた存在なのです。驚いたでしょう?」
蒼吾は質問したいことが山ほどあったものの、グッとこらえて一つに絞った。
「なぜ俺を転生させた。シェモースという書物に何か関係があるのか」
睨み付ける蒼吾の視線をかわすように身体を動かしながら、『私はある』が言う。
「そうですね、シェモースは素質のある者にしか見ることができませんから」
「素質?」
「ええ、預言者の素質ですよ。レヴィトの民……私の民をエジプトより解放するためのね。ただ、東洋の平凡な男子高校生だとは、私も予想外でした」
レヴィトの民というと、エジプトの現場監督も鞭を振るい叫んでいた。俺はレヴィトの民として生まれ変わったのか。蒼吾は、ぼんやりとだが自分の身に起こったことを理解した。
「つまり、俺はどうすればいいんだ?」
「あなたがすべきことは一つ。秋風蒼吾……いいえ、今は転生したのでベンヤミンという名を与えましょう。預言者としてエジプトに戻り奴隷達へ私の言葉をそっくりそのまま伝えなさい。『主はエジプトを救い給う』と」
面倒な話になった。奴隷を免れたのは良かったが、今度は奴隷を救いに敵地へ潜らなければならないのだという。彼は舌打ちをした。
「ケッ、俺は伝書鳩かよ。せっかく抜け出したのに、戻ったら意味がないじゃねぇか! それに、きっと殺されてしまうだろうし」
「それもそうですね……。ならばベンヤミン、あなたに私の杖を与えましょう」
「杖だと? そんな物、どこにあるんだ。杖を持つだけで殺されないとか、そんな馬鹿げたことが……」
「急ぎなさい、こうしている間にも私の民は一人、また一人と犠牲になっているのだから!」
フードの人物が消えた場所に、一本の杖が突き刺さっている。禍々しい彫り物があるわけでも、煌びやかな宝石が埋め込まれているわけでもない。何の変哲もない、ただの樫の木で作られた杖だ。
「神の与えた杖ね。少し冒険らしくなってきたが、それはゲームの中だけで沢山だ」
「フード野郎が創造主だってんなら、元の時代に帰る方法も知っているはず。……腹くくるか」
杖に触れた瞬間、彼は『蒼吾』から『ベンヤミン』へと完全に生まれ変わった。