1-1
白の軽自動車に乗って、ぼくとぼくの友人のKはいくらか上機嫌になりながら、夜半誰もいなくなった海沿いの道を疾走していた。灯りのない暗い道で、糠雨も降ってい、見通しは悪かったが、ぼくはKから受け取った安いウィスキーボトルを片手にいつにも増してスピードをだしていた。フロントライトにおびやかされた鬱々とした暗黒を駆け抜けるぼくらは、外の陰鬱な気配とは対照に、酒に酔った青年らしい快活さで満ち満ちていた。ぼくは運転しながら香りの抜けた粗悪なウィスキーを荒々しく胃に流し落とすと残りをKに返した。
いつからだろう、ぼくらはだいぶ長いあいだ互いに口を噤んだままだった。しかしそこには確かに充実した居心地があった。Kは外の景色(といっても暗闇に閉ざされて、波立つ白い泡沫さえも見えずにいたが)を高尚なフランス絵画でも見るようにじっと眺めては時折何かをつぶやいていた。ぼくは彼が自分一人の世界に埋没してゆくのを感じた。それはけっして孤独なことではなかった。若さゆえの連帯によって、ぼくらは強固に結ばれていたからだ。
狭苦しい車のなかは、ラジオから流れる無名の女流ジャズシンガーの甘ったるい声と、ぼくらが吐くアルコールの臭いに包まれて、ゆったりとした時間を刻んでいた。ぼくはその日常から融け落ちた時の流れを享楽的な気分とともに十全に味わった。Kはいつまでも飽くことなく窓外の暗闇を眺めやっていた。
前方に見える道路標識がふとぼくの安楽を損なったのはそれから三時間ばかり走ったころだった。ぼくは自分の心拍が徐々にはやまっていくのを感じた。ぼくは知らぬ間に眠りに落ちていたKを片手で揺さぶり起こすと、あせるような口調で目的地が近いことを告げた。
「はぁ。やっと到着かよ」
Kは充血させた眼をしばたたせながら、気の抜けた声でそう答えた。
「気分はどうだ」
「良くも悪くも」
と言いながら彼は床に転がっていた酒の瓶を拾おうと腰をかがめた。けれどぼくがそれを横から取り上げて後部座席へと放り投げた。
「酒はもうやめとけ。酔いは判断を鈍らせる」
「でもよ、飲まねえとやってられねえよ。酔いは行動を促進させるもんだろ?」
「そうとも限らんね。酔いは怠慢も引き起こすからね」
「それはおまえの場合だろ? おれは違うぜ。おれは酒によって行動的になれるんだ。それに…」
酔いが抜け切れていないKが能書きを並べはじめたところで、ぼくは先刻から流れていた退屈極まるラジオ(女流歌手のかわりにいつしか現代クラシック音楽の解説番組が始まっていた)を止そうと、チャンネルをつまんで適当に回した。
「老者どものくだらん解説じゃなくて、さっきの女性ジャズシンガーの曲を聞きたいんだけどなあ」
「おい、話をそらすなよ」
「は?」
「は?じゃねえよ」
と酒を欲しようとするKは少し怒った口調で言った。とっさにぼくは彼の態度に反発したくなった。そこで今度は曖昧な言葉をつかって彼を言いくるめてやろうと考えた。
「たとえ行動的になっても、確固たる意思なき行動は、意味なき行動じゃないか」
「は?」と今度はKが聞き直した。
「は?じゃねえよ」
負けじとぼくも先ほどのKの言葉を繰り返した。そうして彼の返答を待った。
「なんだそりゃ、意味不明だよ。そもそも、おまえのその学者ぶった言い方、おれ嫌いだわ」
と言うと、酒瓶を奪われたことが未だに納得いかないKはダッシュボードに両足をぞんざいに乗っけて不満足の意を表明した。実のところ、ぼくは酔って子供っぽいことをする彼に密かにある種の親しみを感じていた。酒でも飲まないとやっていけないのは、ぼくも同じであったからだ。
ぼくは黙ってラジオを聞き始めた。それは地方都市で昨日起こったある事件について、ラジオ司会者が一人の著名な作家と討論をしているさなかだった。ぼくはこの作家を知っていた。
1-1(了)