エピローグ―2
――サイレンの音が、聞こえる。
藤俐と風花は二人きりになる。
「ずいぶん、怒っていたな」
あんな風花は、もしかしたら初めて見たかもしれない。
「藤俐」
そして風花の怒りはまだ収まっていなかった。
「どうして紗緒はあんなに傷付いていたのかな」
紗緒も、傷付いていた?
「人を傷付けると傷付けた人も傷付く筈なのに、痛いことに気付かないって、どれだけ哀しいことなんだろうね」
……そうか。
治るから、治せるから。
だからと言って、背後から刺されることを笑いながら「面白そうですね。いいですよ」なんて、まともな人間なら言えるわけがない。
治せるから、傷はどうでもよかったのだろうか。
藤俐が人を殺せっこないと、そう思ったのか。
あるいは――殺されても構わないと、いや、むしろそれを望んでいたのかもしれない。
他者の《願い》も好きだという相手も決定的に傷付けておいて、更に笑いながら踏み躙るような行為は、今の藤俐には理解できそうもない。
ただ、言えるのは――勝利の為に、藤俐は紗緒の壊れた部分と激しすぎる恋心を利用して、犠牲にした。
それだけは絶対の、事実。
そしてまぎれもなく、自分の罪。
――どうして、こうなったのかな。
風花は藤俐を責めて、泣いた。
藤俐の代わりに、紗緒の代わりに。
紗緒の告白には、応えたはずだった。
間違っては、いないはずだ。《願い》にも反していない。紗緒の望みと自分の《願い》は一致している。
なのに。
何故こんなに、苦しい?
「どうして」
風花が絞り出すように、涙と共に言葉を零す。
「紗緒は人の感情すべてを愉しめるんだろうね」
人の感情、全て。
喜怒哀楽。喜びも怒りも悲しみも。
全部平等に嬉しいのだとしたら、それは逆に人と繋がっているとは言えない気がする。
それを風花は悲しんでいた。
「どうして風花の周りは、自分の幸せを願わないんだろうね」
「――――」
ああ。
そうだ。
何故紗緒を拒絶しなかったのか。できなかったのか。
きっと紗緒も、自分の為に《願い》を叶えていないのだ。
大切なものを大切にできない人間が、自分の為に何かを願える訳がない。
ということは、藤俐も、同じように。
大切なものを大切にできない人間なんだろうか。
「風花、風花はもし」
息を止める。
「もし、願い事が叶うなら、何を願う?」
「みんなが幸せになりますように」
逡巡も何もない、即答。
「でもね、願いごとって叶わないで終わっても、人は生きていけるし、生きていけるなら、生きていかないといけないと思うんだ」
風花は桜を見た。
花弁が風に吹かれ、夜に吸い込まれる。
「風花は空を飛んで死ななかった時、そう思ったよ」
一度死を願った少女は、今、いろんな人間の《願い》に支えられて生きている。
だからこそ、その言葉は重かった。
風花の方から涙が一粒、零れる。
その雫は雨を連想させた。
(雨が、好きなんですか?)
「……――」
ふと、思い出した。
紗緒の声を、確かに以前、聞いたことがある。
(雨が、好きなんですか?)
まだ《ゲーム》も知らず、風花も空を飛ぶ前のこと。
藤俐と紗緒は、学校交流で一度だけ顔を合わせていた。
藤俐は髪が黒くて今のように誰をも拒絶する雰囲気ではなく、むしろ優等生で、生徒会の書記を務めていた。
紗緒は生徒会の会長で、小動物のようなおどおどした雰囲気でもなければ残虐で陰惨な天使の微笑でもない、まるで鏡のように相手の望む理想を反映する人形のような、完璧な女の子だった。
それを不自然に感じたのは覚えている。周りから慕われていても、見えない壁が覆っていて、紗緒には何も届いていない気がしていた。
相手に合わせて自分の意見がない。相手の理想をそのまま返すだけの鏡。人形。
だから人気はあったと思う。自分の理想像を映し出す鏡に群がる奴らは多かったのだろう。
だけど鏡自身に意思があると、誰も認めていない気がした。
(雨が、好きなの?)
だから藤俐は、話しかけた。
雨鬱陶しいですよねとワイワイ盛り上がってる中、窓硝子を透かして雨を見つめる紗緒の目は、少しだけ安らいで見えたから。
紗緒はきょとん、と、藤俐はその時初めて、素顔に触れたように思った。そんな記憶がある。
(雨が、好きなんですか? わたしは)
その返事を聞いて、この子は自分が何が好きかどうかもわからないんだなと、少しだけ憐憫を覚えた記憶がある。
藤俐と紗緒が話したのは、たったこれだけだ。
もしかして。
たったこれだけで。
紗緒は、たったこれだけで、もしかしたら自分を見つけてくれるかもしれないと、藤俐を選んだのだろうか。
こんな小さな出来事にしか縋れない位、自分のカタチがわからなくなっているとしたら。
それはきっと、とても哀しい。
同時に、思った。
自分の《願い》は、紗緒を見つけることにあるのかもしれない、と。
そんな、馬鹿な考えを。
「なあ」
だから藤俐は、提案する。
「今度、俺と風花と紗緒と、あと継未さんや……ああ、あとで紹介するけど、葵ってガキもいるんだけど、とにかくいろんな奴集めて、花見に行かないか?」
《絶望》は、それから生まれた《願い》は、人を縛る。
だけど、それでもそれだけではないはずだと風花は信じている。
だから藤俐も信じたい。
「うん」
風花は涙を拭きながら、頷いた。
「きっと、楽しいね」
――サイレンの音が、止まった。