第五章
午後十時。指定した時間がやってきた。思ったより遅くなったが、何とか間に合った。
本来なら少女の方が案内するはずだったが、どの方角に何キロぐらいの場所にいるかを察知するスキルはあっても、絶望的に方向音痴だった。どうもこのあたり、演技でも何でもなく本当に少女の弱点らしい。藤俐が少女から示された方角と距離からGPSで位置を確認し、途中までタクシーを使ってあとは徒歩でやってきた。無論、葵も一緒にいる。
萱島がいるのは、貸しコンテナや貸し倉庫が置いてある広大な敷地だった。フェンスが張ってあるが、そこは少女の羽根で乗り越える。
敷地面積は広いが、コンテナや倉庫が壁となって、死角は多い。隠れることは簡単にできそうだ。
時刻になったため、藤俐から萱島に電話をかける。すぐに繋がった。
「どこにいる?」
『貸倉庫よ。B‐8番の。鍵は壊してあるから』
当たり前だが、借主でも貸主でもないらしい。そんなことを考えている余裕もないのだろう。
少女は愉しそうに、子供は不安そうに、そのコントラストを藤俐は複雑な想いで見つめる。
目を閉じて、想いを殺す。これから、決定的に《願い》を壊す。迷うのは、後悔するのは、全て後からでいい。今は勝つことだけを考えろ――。
Bの番号の倉庫はかなり広く、大きかった。学校の体育館ぐらいはある。それが十棟。企業向けの貸倉庫なのだろう。その中から、一つだけ明かりが漏れている倉庫があった。番号を確認して、間違いなくB‐8であることを確認する。
罠を警戒しながら、扉を開けた。
「うっ」
むわっとした、塗料の匂いが鼻に突く。別の薬品の匂いもあるのかもしれない。
ごちゃごちゃとした荷物の中、ライトの中心に、萱島響子は立っていた。
「お待たせしましたね、萱島先生」
期待に急く想いを隠そうともせずに、少女は舌なめずりをしながら呼びかけた。
「葵は?」
「無事ですよ。ほら、お母さんのところに戻ってあげて」
紗緒が葵の背中を押す。葵は一瞬戸惑ったが、すぐに駆けて母親の胸に飛び込んだ。
「お母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「いい、いいから……! 今は何も言わないでいいから……!」
「さて、と」
少女は親子の感動の再会には興味は無いようだった。
「遊びましょう、先生。そういう約束でしたよね?」
轟、というあの洪水のような圧倒的な音が、少女の背中から聞こえてくる。
不定形の羽が展開されようとしていた。
ズチュ
「……え?」
藤俐はそうなる前に、
少女が天使となってこの場の主権を握る前に、
目の前の敵プレイヤーに集中する隙をついて、
少女の背中を、
持っていた
ナイフで
突き刺した。
――刺した。
(~~~~っ!!)
「……先輩?」
きょとんとした、何もわかっていないような、幼ささえ感じる声。
それはまるで自身の身体から溢れ出る赤の液体の意味を理解できない子供のようで。
「――俺は俺の《願い》を優先する。それだけだ」
その言葉を聞いた雨宮紗緒は、完全に崩れ落ちた。
「……ぁ、ぐ」
痛い。痛い。
喉が一瞬で干からびる。吐き気ではない何かがこみ上げて、喉を圧迫する。全身がねばねばした汗を噴き出した。足ががくがくと震えそうになる。だけど、耐える。耐えなければならない。
それでもナイフ越しに伝わった少女の鼓動も溢れた赤い液体に塗れた手も収縮してナイフを離そうとしなくなった筋肉の動きも骨に当たったゴツゴツとした感触も、全てが痛く、痛く、――痛い。
「……約束だったな。こいつを倒せば、風花の安全とこいつのジュエルは俺のものになる」
萱島は、覚悟を持って、藤俐の血に塗れた手から目を逸らさなかった。
その視線も、藤俐は痛くて痛くて、逃げ出したい。
無理だと心が叫んでる。
無抵抗の相手を背後から刺す。
そんな卑劣なやり方しか選べない自分。
心が、犯されていく。
《絶望》に。
《願い》に。
「……ふふっ」
少女の身体が、揺れた。
「敵に、なることを……選んだんですね? 先輩」
「――伏見君、避けなさい!」
少女は一瞬で水の羽を展開し、天使となる。
傷ついた身体のことを一切無視して飛翔し、襲い掛かってきた。
《ゲーム》が、始まった。
「~~~~っ、くっ!」
転がるように身を投げて、荷物に隠れる。萱島も反対側の荷物に隠れ、水の羽の弾丸の射線を遮り、警戒しているのが目の端に映った。
人を刺した、たったそれだけの事が藤俐の心を苛んでいる。だけど切り替えなければ、この《ゲーム》を制することができなければ、それすら無意味になる。早まる鼓動を意図して無視する。
天使の背中の傷は浅くはないはずだ。今動けているのは水の羽の機動力任せで、本人の身体能力は格段に落ちているはず。治癒のスキルを持っていたとしても、それは主スキルではない。一瞬で回復は不可能。できるとすれば、藤俐がやったような痛覚の遮断や止血がせいぜいだろう。
今最優先するべきは、萱島との合流、そして意思疎通の手段を得ることだ。
スマホを取り出す。萱島が着信音を消していないという初歩的なミスを犯さないことは祈るしかない。
トゥルル
『はい』
「一旦合流する。A‐9の倉庫前でいいな? 通話は繋げておけ」
手短に言ってポケットにスマホを戻す。
天使は背中の痛みの為か、それともこちらが弄した策を出すのを待っているのか、空中で浮遊したまま動こうとしない。
そう思った瞬間、ガガガガガ、と耳をつんざく連続した破砕音が鼓膜を痛いほどに揺らした。ただ衝撃は思ったよりも来ない。
直接身を乗り出したりはせず、スマホのカメラを使って様子を見る。天使は藤俐ではなく萱島の方を先に始末することに決めたようだ。
「……あはっ、どうしよう、愉しくなってきちゃった♪」
天使の心底から愉しそうな笑声だけが、やけにはっきりと聞こえた。
痛みを感じているのかどうかはわからない。だけど明らかに動きは鈍っている。
なのに天使は楽しい玩具で遊ぶように笑えている、それが不可解で不愉快で、共感を拒絶する。
(明らかに遊んでやがる)
天使の余裕は気に入らない。だが、今はその余裕を利用させてもらうしかない。
隙をついて、藤俐は倉庫を出る。いたぶるような破砕音が、身体を揺らす。
†
多少迂回して指定した場所にやってきたが、萱島はまだ来ていない。音が聞こえるので生きてはいるだろう。
Aの倉庫は個人向けで、コンテナといった方が近い。その分密集していて、外に関しては死角はBの倉庫よりも多かった。
(警報装置は止めてきたよ。しばらくは気付かれないはずだ)
ラディが自身の仕事を淡々とこなしてきたことを告げた。今はこの淡泊さがありがたい。
ひときわ大きな爆裂音が藤俐の身体にまず振動として伝わった。
(派手にやってるなアイツら)
(アオイは大丈夫なのかい? 『第一段階〈Filter〉』を最大限にかけているとはいえ、物理的な攻撃を凌げるわけではないんだけどね)
(あのガキには伝えているからな。上手く逃げてるだろ)
今、葵には『第一段階〈Filter〉』をかけ、特に少女の意識から外れるようにしている。ただ『第一段階〈Filter〉』はあくまでバリアではなく、フィルターでしかない。意識や感覚に対しては強く作用しても、物理的なことに対しては弱い。意識して狙うことはできなくても、余波が傷付けることは十分にあり得る。
《ゲーム》が始まったら『第一段階〈Filter〉』をかける、だから安全な場所まで逃げて隠れておけと藤俐はあらかじめ指示しておいた。
葵には、死んでもらっては困る。
(音が止んでるね)
藤俐もとっくに気付いていた。特に聴覚を研ぎ澄ます。
ぱしゃん
「!?」
音のした方を見上げた。少女は高く飛び、辺りを見下ろしている。こちらに気付いている様子は、無い。
(見失っている、のか?)
角度的にはギリギリ見えるか見えないか。だが夜で、倉庫の置き場に満足な照明は置かれておらず、単純な視力だけではそう簡単には見つからないだろう。少女は相手の位置を知る副スキルを持ってはいるが、それも割と大雑把なものだ。密集した障害物の中からピンポイントで見つけることはできない。副スキルは主スキルとは違って精度は落ちるものだから、少女がそう見せかけているという線はないはずだ。
押し殺された足音が聞こえた。
「遅いぞアラサー教師」
「……生徒指導に時間がかかったのよ。あとあなたもいずれアラサーになるんだから」
萱島は疲労と緊張を見せつつ、小声で答えた。
共闘する姿勢であることをわざわざ確認する暇はない。
「これ持っとけ。インカムだ。ジャックに差してアプリ開けばわざわざスマホを耳に当てないですむ」
藤俐も耳にかけながらアプリを起動する。アプリは事前にインストールするように指定しておいた。ラディもハッキングして確認しているので問題はない。
藤俐は問う。
「雨宮を殺す覚悟はあるのか?」
「他の方法がない以上、それしかないでしょう?」
即答だったが、押し殺した無感情な声は、藤俐でなくても無理をしているのがわかる。
〝こんなこと〟を愉しめるのは、普通じゃない。何かが欠けていないと、失くしていないとできない。
「いったん離れるわ。雨宮さんの羽を壊さないと」
「どうやって」
「……考えてはいる。あそこに届けばだけど」
少女は高く舞い上がっている。そのままの意味で、雨のように弾丸を降らせられたらひとたまりもない。こちらの防御手段は多くない。
「『反転する私の世界〈Still you〉』はあそこまで届く前に、弾丸に落とされる。まず、羽根に『反転する私の世界〈Still you』』を届かせないと、羽根を壊すことはできない」
「あいつがあそこにずっといるなんてことはないと思うがな」
少女はしばらく見渡していたが、事態が動かないことに飽いてきたのか。
右手を上に掲げた。
羽からしゅわしゅわと炭酸のように小さな泡が生まれ、掌の上で集まり、大きくなっていく。
「……なに、あれ」
「天使様はスケールが大きいなやっぱアイツ馬鹿だわ逃げるぞ!」
萱島も危険性に気付きその場を離れる。掌の水球は、五メートル大になっていた。五メートルの水球は、Bの倉庫の一つに落とされる。
轟音、そして衝撃。
地震のように、地面がぐらぐらと揺れる。それ以上は目で確認せずとにかく走り、距離を取る。
水球は体育館の大きさはあった倉庫の屋根を完全に壊し、余波でその他の倉庫にも多大な損害を与え、溢れ出た水が藤俐の足元まで届いた。
「くっそめんどくせえ!」
足首までしかなかったが、引いていく水の勢いは馬鹿にできず、連発されるとそのうち引きずり込まれるだろう。
インカムが生きていることを確認する。
「生きてるか?」
『……え、ええ。多分、見つかって……ないと思う』
「だろうな。じゃないとおしゃべりの時間なんかねえよ。あとお前、いちいち呆けてたら確実に死ぬぞ」
覚悟は決めているだろうが、覚悟を実行する胆力が萱島にはなかった。経験と言ってもいいかもしれない。藤俐もどっこいどっこいだが、これはむしろあの少女の方が異常なのだ。
「俺がアイツの羽を弱らせる。弱ったのを見たらお前のタイミングでやれ、いいな」
『どうやって』
説明する気も暇もなかった。
『第二段階〈First other is nowhere〉』を発動するための準備に入る。
『第二段階〈First other is nowhere〉』を展開する条件は揃っている。
条件は単純。そのスキルを一度見ること。
そして〝分析すること〟。
(『第二段階〈First other is nowhere〉』、展開――!!)
圧倒的な情報量が、藤俐の脳髄に流れ込んでくる。氾濫した河川のように、それに向かってひとり裸で飛び込むような無防備さで、藤俐はひたすら分析する。
「ぐああ、が、は、あああああ!」
処理しきれない情報量が脳を焼く。頭蓋の中で電流を流した有刺鉄線が蛇のように暴れまわるような、激しすぎる痛み。脳の配線がぶちぶちと焼き切れていく感覚。やはり、少女の《討伐案内者》は、あの天使の羽を司る《討伐案内者》は、強すぎた。
First other、プレイヤーにとっての《討伐案内者》、《ゲーム》において初めて触れ合う他者。その繋がりを弱めるこのスキルの効果は、?相手スキルの弱体化?だ。
「がっ、はっ、はあ!」
げぼ、と胃液が喉にせり上がり、喉を焼いた。それでも暴れまわる情報が少しずつ弱まっていく。分析が、終了していく。
(施錠!)
分析を終え、『第二段階〈First other is nowhere〉』が顕現する。
ぎちぎちぎちぎちぎちぃ、と錆びた金属が擦り合うような音。
「なっ!?」
天使の表情には驚愕。美しい透明な不定形の羽に、無骨な禍々しい鎖がひたすらに巻きつき、拘束する。
家庭科室では相手スキルの情報量も分析も僅かでしかなかったため、僅かに軌道を逸らす程度しか使えなかった。
だが今は持てる力と時間、全てを最大限に使った。
「くっ」
天使の笑みは消せないが、余裕はない。それでも墜落していく身体をぎりぎりのところで元に戻した。
(完全に無効化どころか、まだ飛べるようだね)
ラディにも疲れが見える。ラディは元々《討伐案内者》の中でも情報の操作を得意としている。電子世界でハッキングやクラッキングを行うのが得意なのも、そういう面から来ているらしい。
本来『第二段階〈First other is nowhere〉』が最大限に発現すれば完全に無効化も可能なのだが、天使の《討伐案内者》はラディより遥かに格上の相手だった。飛行能力、そしておそらくは弾丸などの威力も落ちているだろうし巨大な水の塊を落とす等という荒業も不可能だろうが、そもそもスキルが生きている時点で桁外れだ。藤俐の予想としては完全に飛べなくなると思っていた。相手が予想を上回った形になってしまった。
そして『第二段階〈First other is nowhere〉』の弱点は時間がかかることと、身体への負担が大きいことがある。もし藤俐が他の副スキルを持っていたとしても、それは使えない。少しでも気を抜いたらすぐさま施錠は解除される。暴れ馬の手綱を離して玩具では遊べない。発動中は殆ど丸腰になり、身体も過剰な情報への負担の為に動かせなくなる。
対して相手はスキルは使えなくなるものの、動けはする。副スキル等は普通に使えるし、そうでなくてもこの状態の藤俐に一発素手で殴る程度の衝撃を与えるだけで、『第二段階〈First other is nowhere〉』は解除される。そしてあとはタコ殴りで藤俐の負けは確定だ。使い勝手が非常に悪いスキルではあった。
藤俐一人ならば、まず勝てない。そんなスキルだった。
きゅいいいいいいん、と高い耳鳴りのような、不快な音が鳴り響く。天使の背後から影が迫る。
「あら、大変」
言葉や表情の余裕とは裏腹に、天使は先ほどまでとは格段に遅くなっている。萱島が身体能力の限界を超えて跳躍した。空気を裏返して推進力にしているのだと一拍遅れて気付く。ピンボールのように空気の一部を裏返し、真空を生み出して、その衝撃で身を運ぶという荒業も荒業に、天使は逃げず水の弾丸で応戦する。萱島は推進力を殺さないよう、水の弾丸への防御は最小限に、何度も空気を裏返す。
そして萱島の手が、天使の羽に触れた。
「『反転する私の世界〈Still you〉』、『反転する私達の世界〈Don’t leave me〉』!」
右手にはピンポン玉大のマーブル模様の球体、それが羽の中に吸い込まれる。同時に穴が開いた。自動的に修復が始まるがその前に萱島が?何か?を羽の中に突っ込む。初めて天使から笑みが消え、右の片翼を根元から切り落とした。ばしゃんと水が落ちる。そして改めて再生。『第二段階〈First other is nowhere〉』は発動中なので鎖が巻きついた歪な羽のままだが、それでも一から再生する。
再生を確認することもなく天使は追撃しようとするが、何故か身体をよろめかし、頭を抱えた。萱島は追撃せず、そこから空気を裏返し、距離を取ることを選んだ。こちらに飛んでくる、というか落ちてくる。藤俐の三メートルほど前でまともな姿勢も受け身もとれずにただ落ちた。
「がっ! はあ、はあっ! ……っ!!」
萱島は息もろくに整わずにいた。今の一連の動きは、所詮常人でしかない人間の運動神経では当然無理のある動きで、空気を裏返す衝撃も相応のダメージを与えている。着地の衝撃はアスファルトを裏返し抑えたようだが、それでもダメージは大きい。
「へえ」
天使は頭を降ったり手足を妙なふうに動かしている。傍から見ていると不気味な動きだ。
「面白いですね、これ」
天使は合格を与える傲慢な教師の瞳でこちらを見つめる。
「〝上下左右がひっくり返って〟います。羽も封じられ、更にはダメージを与えられてしまいました。よく気付きましたね? まあ普通は気付いても対抗策なんて講じられないんですけど。その点、先生は運が良かったんでしょう」
「どういうことだ?」
萱島のダメージは思っている以上に大きいようだ。会話で時間を稼ぐしかない。
その意図を察して尚且つ、天使もそれに乗ってきた。天使の方もダメージは少なくない、はずだ。表情からは余裕しか読み取れないが。
「まず、基本的に。わたしの羽は、この羽が操れる水の範囲は、この羽が生み出したものに限られています」
それは藤俐も気付いていた。
無限に水を操れるなら、家庭科室には水道がある。その水道の水を操れば、更なる物量で押すこともできたはずだ。あの羽から生み出される水も、相当の質量はあるにせよ、無から有を生み出すとなると、無限はあり得ない。
更に萱島が付け加えた。
「あの時は、そこまで頭が回らなかったけど。あなたは切り離された水も操れなかった。羽から生み出した水であっても、切り捨てるか、不純物が混じるとただの水になる、そう思った」
思った以上に萱島は観察力がある。藤俐にも理解できてきた。
この場所を指定した、その理由。
「本当ならあなたの羽が傷付くなんてないんでしょうけど、私の『反転する私の世界〈Still you〉』はあなたの水の羽に穴を空けられる。そこから塗料を流し込んだ。思った通りあなたは羽を修復できず、切り落とすしかなかった」
壊された倉庫の中には、大量の塗料の缶があった。他にも羽を汚そうと思えば、いくらでも材料は転がっているだろう。
萱島はもし藤俐が共闘しなかったとしても、一人で戦えるよう、準備を整えていたのだ。
天使はそれがたまらなく嬉しそうに、喜んでいる。
「今わたしに起きているのは、先生の主スキルのまた別の側面ですね。これは、感覚に作用するんですか?」
「『反転する私達の世界〈Don’t leave me〉』……手で触れた相手の五感全てを反転させる。視覚や聴覚は上下左右が反転し、嗅覚も真逆の匂いに感じ、触覚も熱さや冷たさを反転させる。味覚はわからないけど、多分反転しているでしょうね」
内心、萱島を真正面から敵に回さなくて良かったと冷や汗を掻いていた。そんな状態になったら、一歩前に出るのも難しい。だから天使は今、動けないでいる。
ただ同時に、それだけのスキルの効果ならば、直接触れなければ発動しないという以外にも、リスクがあるはずだ。例えば、
「先生も同じ状態になる、とかですかね?」
天使が余裕を保っている理由。萱島が追撃しない、できない理由。
それは同一だった。
威嚇の為か、『反転する私の世界〈Still you〉』をありったけ出現させる。藤俐も『第二段階〈First other is nowhere』』の手を緩めない。
それでも天使の余裕は崩せなかった。
「そろそろこの羽だけ、というのも、飽きてきたところだったんですよ」
天使はまだ、たくさん玩具(副スキル)を持っているのだから。
「ねえ先輩、先生」
すっ、と取り出したのは、見覚えのある――
「これ、けっこう便利なんですよ」
瞬間。
天使の姿が、掻き消えた。
「!?」
「あのハンカチか。面倒くせえな、ホント」
ハンカチは持ち主がいなくなって、はらりと落ちた。
萱島は意味が分からない、という顔をしている。
「葵が、入っていた……あのハンカチ……」
「未来のネコ型ロボットのポケットよりは容量狭いけどな。ただあれを思い出すなら」
「――異空間への入り口は、一つとは限らないんですよ」
声が、萱島の背後から這い寄ってきた。
中空から白く細い腕が出て、萱島を背中から抱きしめる。
血と蜜と水の匂いが絡まり、声もどこか扇情的に、未熟な色香を感じさせた。
「さっき触れられた時に、先生に出入り口をくっつけておきました」
どこか自慢げな、どこまでも愉しそうな声。
「異空間の入り口は任意で決められます。元の持ち主が使えば容量ももっと大きく、出入り口ももっと多く設定できますが、これだけでも十分」
大量の『反転する私の世界〈Still you〉』をすり抜けてくると予想していなかったのか、萱島は唐突な出来事に動けないでいる。
逃がすつもりはないとばかりに、萱島を抱く腕に力が込められる。
死の予感しかしなかった。
「ねえ、先生」
だけど天使は、
「葵ちゃんがお腹にいるってことを知った時って、どんな気分でした?」
死より悪質な悪意を振り撒く。
ヒ、と萱島の喉の奥で、恐怖が音となって漏れた。
「な、にを?」
天使は母親のお腹を撫でながら、最悪の禁忌にやすやすと触れていく。
傷口に指を突っ込んで掻き回すような、ただ痛みを与えるだけの言葉。
「無理矢理にされて、愛していた婚約者に捨てられて、それってどんな気分でした?」
「残ったのは愛のない相手との子と、慰謝料だけ」
「ねえ、捨てられたことを知った時、どんな気持ちでした?」
悪意に呑まれて、藤俐は言葉を紡げない。
「――そんなこと聞いて何が愉しいの!?」
萱島はがくがくと震えている。
ヒステリックな金切声は激しい呼吸と共に、発した本人をこそ傷付けている。
「わたし、先輩のことが好き。大好きです」
声音は気分が悪くなるほど甘く、甘く、甘い。
「殺すのも、殺されるのもいいなって思ってます。でも、捨てられるってどんな気持ちなのかなって。どのくらい傷付くんですか? どのくらい痛いんですか? 面白そうなら、それも選択肢に入れようかなって考えているんですよ」
破滅的に倫理の破綻した言葉だった。
萱島は過去の記憶が反響して、動けない。
「ねえ先輩」
天使は甘えるように、ねだるように、こちらを見る。
「〝こんな女より私と遊びませんか〟?」
「『反転する全ての世界〈Continues〉』!!」
怒鳴るように切り捨てるように、スキルが叫ばれた瞬間。
人間以外の〝風景全ての色が反転していた〟。
影は白く、光は黒く、赤は緑に青は橙に。
昔のドラマで見たネガフィルムの風景の中にそのままこちらが入ってしまったような、非現実的な光景。
(――感覚に異常をきたしたか?)
(いや、違う。トーリの身体自体に作用しているスキルはない)
ラディが断言する。だがこの光景は何を意味している?
背筋に悪寒。
「ぐっ……!?」
間一髪で攻撃は避けた。だが攻撃のタネがわからない。どこから攻撃されたのか、何が攻撃してきたのか。補色の世界は距離感も何もかもを侵食し、現実を把握させてくれない。
ちら、と天使の方を見るが、何故か天使は攻撃を受けている様子がなかった。コンテナの壁にもたれかかっている。余裕なのか、体力が限界にきているのか、それが攻撃を受けていないことと関係があるのか。
また死角からの攻撃「……っ!」拳で背中を殴られた程度の衝撃だったが、『第二段階〈First other is nowhere』』が解けてしまう。
解放と同時に、天使の羽が展開する。
「やっぱりこれが一番馴染みますね」
一番厄介なスキルが戻ってしまった。あからさまに舌打ちしてやる。
「背中刺してやったのに、ずいぶん元気そうだな」
「痛覚は閉じてますからね。なんだかんだで急所も外れていたし、この《ゲーム》だけなら問題ありません。それよりは、先輩のスキルが解けた事の方が嬉しいですかね。いや、残念なんですけど」
本気で複雑そうだった。藤俐としては共感を拒絶するしかない。
「どうやらこのスキル、無差別みたいですよ」
天使は平然としている。精神構造がおかしいのはわかりきっているが、改めて思う。こいつは頭おかしい。
「なんでお前は攻撃されてない?」
天使はきょとん、とした。わかりきったことを訊かれて困惑した顔は、――少しだけ風花が自分の言葉を選ぶ時の顔に似ている気がする。
「本気で言ってます?」
「この攻撃がお前からではなく萱島の『反転する全ての世界〈Continues〉』からなのはわかるけどな」
「充分じゃないですか」
充分、なのか。本当に?
だがとにかく『反転する全ての世界〈Continues〉』を解かないと、何も終わらないし始まらない。それだけはわかる。
「先生、どこに行ったんでしょうね?」
天使の嬲るような言葉がなくても、とっくに気付いている。
萱島の姿は、スキル発動と同時に消えていた。
†
「う、ぐが、おえっ、げえええ」
吐きすぎて胃液しか出てこない。萱島響子はスキル発動と同時に『反転する全ての世界〈Continues〉』の範囲内の何処かに飛ばされた。
違う、何処かではない。目の前の敵より、優先するべき《願い》を思い出した、それだけ。
「あおい」
《ゲーム》が始まる前は、確かに抱きしめていたのに。
吐いた胃液が『反転する全ての世界〈Continues〉』に吸い込まれ、極彩色の色となる。その光景も吐き気をさらに喚起させる。
(…………!)
《討伐案内者》の声も遠く、聞こえない。萱島は今、本当にたった一人だった。
『反転する全ての世界〈Continues〉』の発動条件は、精神的外傷を記憶から掘り起こすこと。
あの天使のせいでPTSDが発露してしまい、今は自由に動けない。
そして誰も助けに来てはくれない。
来ても自ら手を払うだろう。恐怖から。
無理なのだ。
かつて愛した人も、恐怖の対象となってしまった自分には。愛と恐怖が『反転』してしまった、この世界では。
だけどそれでも、自分には守らないといけないものがある。
「葵」
「……お母さん」
愛しい、我が子。
間違いなく、自分の子。守るべき、存在。
愛するべきモノ。愛さないといけないモノ。
見捨ててはならないモノ。
見捨てたら、同じになるから。
だから自分は、愛したいと《願った》。
「葵、もう大丈夫だから」
髪はボサボサで、顔色は白を通り越した灰色じみていて、もはや幽鬼のような生気のない顔で、それでも母である自分はそう言うしかないのだ。
「……うん」
子供は母親の言うとおりに、《願い》通りに、恐怖の対象ではなく愛されるために、髪型から服から性別まで変えられ、それでも頷いた。
「お母さん」
萱島葵は、何もかもが反転したこの世界で。
《ゲーム》が始まって、初めて。
「ありがとう」
笑顔を、見せた。
「『ここにいるよと叫ぶ声【Spotlight】』」
「え?」
現れたのは、一条の〝光〟だった。
光は音もなく、四方から襲う〝白い影〟を、焼き尽くす。
「……あおい?」
「お母さん」
子供は、いつの間にか。
最後に見た時より、ずっと大人びて、母親(自分)を見ていた。
「もういいよ、お母さん」
白い影は次々と、無限に親子を襲う。
その影を、子供は淡々と焼いていった。
「これで」
子供は、笑顔のまま。
「これで、お母さんを、助けられるんだよね? 天使様」
「言っとくけど、こいつは天使とは対極に位置する全く別の何かだからな? あと一応、仕上げは俺になるから」
「先輩、酷くないですか? わたしは上手くやったと褒められていいと思うんですよ」
現れたのは、恐怖の対象。プレイヤー。敵。
敵?
「頑張りましたね、葵ちゃん」
敵――
敵、敵、敵――
何故この世界に、敵がいる?
何故私の子が、敵と親しげに話している?
混乱した、千切れかけた心を必死に繋ぎとめている限界状態の精神では。
今何が起こっているのか、わからなかった。
「どうし、なにが、なんで……あおい?」
「お母さん」
何故。
何故我が子の笑顔が、こんなにも遠い?
白い影が、増えた。
「ちっ」
影は、一番の恐怖の対象である男性――伏見藤俐を中心に襲う。そこに萱島の意思は介在しない。自動的に、恐怖の対象を攻撃するだけ。
そして影は影であるがゆえに、対象は絶対に逃げられず、いずれ致命に至る――
それが『反転する全ての世界〈Continues〉』であり、発動した以上は敵か自分を呑みこむまで、解除されない―ー筈だったのに。
「『ここにいるよと叫ぶ声【Spotlight】』」
また。
光が影を焼いた。
〝それ〟をしているのが守ろうとしていた自分の子供であることを、萱島は認識しても理解できないでいる。
「どうして」
呟く。
「いつから、どこから……?」
何が本当で、何が偽りだったのか。
伏見藤俐は雨宮紗緒を背中から刺し、敵対したはずだ。
敵の敵は味方の理屈で、一時的な共闘姿勢をとったはずだ。
伏見藤俐が敵を刺した時の表情の歪み――
アレがあったから、辛うじて自分は信用したのに。
アレも演技だったのか。
「お母さんは」
葵が、自分の疑問を察したように、寂しそうに答えていく。
「お母さんは、気付く機会があったはず。わたしが、天使様を刺そうとして……それが無理だったところを、見ていたから」
(この羽は自動的に、わたしが認識していない攻撃であっても、きちんとわたしを守ってくれる)
思い、出した。
完全な不意打ちだったにも関わらず、水の羽が硝子片を粉々に砕いたところを、自分もハッキリ見ていた。
それを覚えていたなら、天使が無抵抗に刺されることがどれだけおかしなことか。
全部、全部、茶番だったのか。
「葵、あなたは」
いったい、いつから。
「最初から。お母さんの前からいなくなった時から、ずっと――天使様の言うとおりに」
母親である自分より、天使の悪意ある微笑に付いていったなら。
「……あおい、あなたも……わたしを、おいてくの?」
萱島響子は、気付かない。
子供がその笑顔の下に何を隠しているのか。
何を、願ったのか。
「見てほしかった。愛さなくていいから、見てほしかった」
どんな想いで、母親が傷付く様を見てきたのか、何一つ気付かなかった。
「そろそろいいか? いい加減この影鬱陶しい」
「ひっ」
この期に及んで、子供より恐怖の対象を見てしまう自分がいる。
また、自分は奪われる。
「負けだよ、先生」
伏見藤俐は無慈悲に告げる。
「雨宮が時間を稼いだ。俺のスキルが発動する条件を満たす為の」
その声には感情がない。同情も、勝利の高揚も何もない。
「俺のスキルは、相手プレイヤーの根本である、《願い》と《絶望》のカタチを解析し、正しく定義することで発動条件を満たす。最後のスキルの条件は、相手のスキル全てを見ること。そして」
敵はただ、淡々と説明する。
「何に《絶望》したのか。何を《願った》のか」
敵の声には、何もない。何も感じられない。
「そして《願い》と《絶望》を歪ませる、《討伐案内者》を切り離す」
萱島の足元から伸びた白い影から、〝何か〟が盛り上がった。
「スキル発動――『Fから始まる領域決定【All in F】・第三段階〈Fall in real〉』」
それは、萱島響子の《絶望》から生まれた《願い》だった。
質量のない、ただ赤子を抱いて笑うだけの影。
「や、めて」
せめてもの抵抗で影に手を伸ばすが、影には実体がなく、故にただすり抜けるだけ。
だけど影の中に、異物があるのがわかる。
赤子だけ、明らかに黒い。そこだけが写真のネガのように〝反転している〟。
伏見藤俐はその部分を、優しく手に取る。
「あ、あ、あ、あ、」
膝をつき、取り返そうと手を伸ばすが、ただすり抜けることを繰り返すばかりで、プレイヤーとして致命的なモノが、失われていく。
「普通は、この影ごと破壊したり、切り離される。ピンポイントに《討伐案内者》だけを取り上げるなんてできない。だから《願い》にまつわる記憶が壊れたり、場合によっては精神にもダメージが来る。だけどな」
藤俐は繊細な手つきで、《討伐案内者》を取り出す。
「このスキルだと、《絶望》も《願い》も壊れない。ただ《ゲーム》という舞台から降りるだけ。何もかも覚えたまま、《討伐案内者》によって支えられていた《願い》だけが崩れ、現実は元には戻る」
《討伐案内者》を取り出された影は、反転していた全ての世界は、もう元に戻っていた。
「……わかるだろ? もう」
影が、萱島の元に戻る。
「もう《願い》は終わってるってことが」
《討伐案内者》によって行われていた現世への不自然な干渉が、一つ消えた。
光は白く、影は黒かった。
静寂。
「…………」
茫然としたまま、視線が定まっていない。
だがやがて、その視線は我が子へと向いて――
「見ないで」
《討伐案内者》によって歪められていた心が、?正常に戻る?。
「来ないで、見ないで、私に愛されようなんて思わないで、近寄らないで、い、いや、いや、いやあああああ!!」
そして子供を、自分を散々傷付けてきた?男?を、拒絶する。
「気持ち悪い、なんで!? なんで勝手にお腹の中に住み着いたの!? 身体を作り変えてまで、エイリアンみたいに!!
私はあんたなんか望んでない!!
あんたなんか、産むんじゃなかった!!」
――気持ち悪い。
葵は、泣かなかった。
ただごめんなさい、とだけ、呟いて。
そして萱島の意識は、そこで途切れた。
†
「……すみません。わたしが勝手に判断しました」
天使が水で首を絞め、気絶させたのだと、その言葉でようやく分かる。手を振って、かまわないと意思表示だけをした。
後味は凄まじく悪い。
どうして、『苦難を乗り越えて親子でハッピーエンド』なんて、そんなお花畑な可能性を僅かでも望んだのだろう。
こうなるのはわかっていた筈だった。
現実ではどうにもならないほどの《絶望》を抱いたからこそ、《願い》は生まれ、それを《討伐案内者》が叶えていたのだから。
《討伐案内者》が消え、《願い》が維持できなくなったら、あとは《絶望》だけが残るなんて、単純な引き算で、子供でもわかる。
その子供は、空恐ろしくなるほど無表情だった。
葵に、母親に拒絶された子供に、何を言えばいいのか、わからない。
その子供に、天使が近づく。
「おい」
「大丈夫です」
見るものすべてを安心させるような、優しく完璧な?作り笑顔?を浮かべて、天使は葵に話しかける。
「わたしとお母さんの《ゲーム》、見てた?」
「…………」
頷く。そっか、と少女は葵の頭を撫でた。
「強かったよ。《願い》を守るために、あなたを見ようとするために、一生懸命だった」
ゆっくりと葵の身体を抱きしめ、背中をトン、トンと優しく叩く。
「《願い》を抱いたのはね、葵ちゃんを愛したかったからなんだよ」
それだけは信じてあげて、と。
空々しい、欺瞞に満ちた言葉だった。
真実と事実と現実のみで勝負する藤俐には、絶対に言えない言葉だった。
それは卑劣で狡猾で、嘘や騙すことを厭わない天使だから言える、その場限りの誤魔化しの言葉だった。
ぽろ、ぽろ、と、涙が幾筋が流れる。
天使はポケットからハンカチを取り出し、優しく拭いていく。
「色々と訊きたいことはあるけどな」
遠くから、微かにどよめく音が聞こえてくる。
「見つかったみたいだ。引き上げないとヤバい」
「そうですね。わたしも背中の怪我、本格的に治療しないといけませんし」
天使の背中から流れる血の量は決して少なくなかった。それも、自分の罪。
ここまでしないと、男性不信である萱島は、決して自分を信用しないだろうと思った。
「羽の調子は悪くありませんし、飛んでいきましょうか。先生のケアもしないといけませんし」
「ケア、か」
「ええ。だってもう、先生はプレイヤーじゃありませんから」
プレイヤーじゃ、なくなった。
萱島にとって、それは幸せに繋がるとは思えない。だけど。
「先輩は自分の《願い》に反する《願い》を潰した。ただ生き残る為じゃなく、《願い》の意味をかけて戦う姿は、本当にカッコよかった」
天使の表情に衒いはなく、陶酔するような言葉に、藤俐は何も答えなかった。
親子は既に水球に包まれ、天使の衛星と化している。
「ねえ先輩」
不意に、天使が――雨宮紗緒は、恋する少女の顔に戻って問う。
「わたし、上手くできましたか?」
息を吐く。少女の激情と悪意を振り撒くさまは、〝演技だとわかっていても〟極度の緊張を強いられた。
こちら側としてはいつ本気で裏切るかわからないし、場合によってはそのまま萱島と共闘も勿論あっただろうと思う。状況がどう動くかわからなかった。行き当たりばったりの、最悪の選択かもしれない。
それでも藤俐は。
自分の《願い》を曲げたくなかった。
だから、萱島の《願い》は許せなかった。
「答えあわせが終わってから、採点してやるよ」
少女が微苦笑を浮かべ、藤俐を水球で包む。
水の中でも息ができるという不思議なこの場所は、正直なところ、居心地は決して悪くはなかった。
目を閉じる。すると心の中に、萱島の《討伐案内者》が、居場所を作ったのがわかった。
(こんなことは、言いたくないけど)
言葉とは裏腹に、女性の声は優しく、穏やかだった。
(キョウコはあのままじゃ、死ぬか壊れるまで《願い》に縛られていたと思う。だから、ありがとう)
女性の《討伐案内者》は、やはり穏やかに。
(あなたは可能性を残してくれた。もしかしたら、キョウコが《絶望》を私たちに頼らず乗り越える未来が、あるかもしれない。だから、ありがとう)
そんな上等なもんじゃない、と言い返そうと思った。自分の《願い》を都合よく解釈されることは、《願い》に反するから。
だけど、気絶した萱島の顔を見つめる子供の姿を見ると、何も言えなくなった。
水の羽と衛星は飛翔し、《ゲーム》は終了する。