第四章
高速で空を飛ぶ。風は水に遮られて何も感じないが、轟々と音だけは凄い。水中にいる感覚はあるのに、息はできる。ちぐはぐな感覚ばかりで気分が悪い。
だが一番気分が悪い理由は、多量の出血と無理矢理に止血しているために千切れた左腕の先がうっ血してきて、重度の貧血と痺れが起きている、この状態だ。正直、気絶したい。
(脱出は、……無理か)
自分のスキルでは、とてもこの水球を壊せそうにない。せめて目を開いて情報収集しようとするが、水中で目を開けた、あのぼやけたような視界が広がるばかりで、何も見えない。
(ラディ、どうなってる?)
脳内で問いかける。脳の中に直接声が届く感覚が気持ち悪くて普段はスマホやパソコンなどのチャット機能や音声で会話しているが、本来はこちらがメインの会話方法だ。
(移動中だね、高速道路の車並みのスピードだ。GPS機能を使っているけど、速すぎて捉えられない)
(チッ)
舌打ちしてしまう。捕えられたこの状況は最悪に近い。
(いや、待った。スピードが落ちてきている……どこかのビルに降りるみたいだよ)
水球に閉じ込められている状態では外界の刺激は非常に緩やかだが、そう言われると轟々とうるさいぐらいだった音が、少し減ってきている気がする。今は自分の五感はあてにはできないが、ラディのGPS機能へのハッキング能力は確かだ。
ぱあん、と風船が割れるような、弾ける音。視界が急にクリアになり、感覚が連続してついてきてくれない。目をしばしばさせ、状況を把握する。
どこかの屋上だった。そこで雨宮紗緒は、広げていた水の羽をしまい、自分を解放した。
だけど少女の表情だけはわかる。声だけでもわかる。
家庭科室に入る前の、高揚に興奮する、あの微笑。
「これから先輩の腕を治療しないといけませんから、わたしの家に来てほしいんです」
「誰のせいで腕が千切れたんだろうな?」
反射で毒づくが、今千切れた腕は少女が持っている。治療のすべも自分は持っていない。
千切れた腕、その手を少女はにぎにぎして感触を確かめている。生理的嫌悪感で鳥肌が立った。
「先輩が素直に来てくれるとは思いませんが、治療はすぐに開始した方がいいので」
花が咲くような、可憐な微笑をもって、少女は言い放つ。
「すみません、先輩の意見は無視させてもらいますね」
少女はハンカチを取り出した。既視感。あのハンカチから何が出てきたか。
思考より身体が動くより、ハンカチが振られる方が先だった。
視界が真っ暗になり、水球に閉じ込められた時とは比べ物にならないほどの圧倒的閉塞感。
藤俐はその閉塞に耐え切れず、とうとう気絶した。
†
ここは夢のように曖昧ではなく、確固たる意識の中だった。
だから今見ているのは、夢ではなく、記憶なのだ。
「風花……! 風花!!」
まだ髪が黒い藤俐は、ただ無力に叫ぶしかできない。
――風花は校舎から自ら飛び降りた。その瞬間を自分は桜の木の傍で見ていた。
度重なる薬や手術の作用に身体が悲鳴を上げ、頭髪が全て白くなったのがきっかけで、いじめに遭っていた。両親も姉も心が折れかけていた、そんな時期で。
風花は両親にもそんな奴らにも、笑って過ごしていた。風花は言った。
「相手が風花を嫌いだからと言って、風花も嫌いになる必要なんてないよ」
その言葉は眩しく、だけど助けを求めない風花に苛々して、それは結局自分に助ける力がないからだとわかったのは、横たわり頭から血を流している風花の姿を見た時だ。
どうして、と藤俐は呟く。どうして、あいつらは、世界は、風花を理解しない?
風花の身体に爆弾があるとわかって風花の心を見つめられなかった風花の両親も、爆弾を抱えているというだけで憐憫の情しか向けない世間の目も、風花の髪が白くなっただけで嫌悪し拒絶しひたすらに風花を痛めつけてきたアイツらも、どうして、そんな表面の事象に囚われて、風花の心を見ようとしない?
『それがキミの《願い》かい?』
まだ画像と音声情報に憑依する前の、《討伐案内者》としての本当の声で、直接心に語りかけられた。
藤俐は異常なはずのその現象にも、何故か驚きなどを感じなかった。
『ボクと契約したら、とりあえずは《願い》を叶えるよ。その代り、《ゲーム》という、辛い戦いが待っている』
高い男性のような、低い女性のような、性別不明の声だった。
だけどその声は、絶望していた藤俐の心に優しく染み渡る。現在の無機質さはなく、大人が泣いている子供に笑いかけるような優しい声は、この《討伐案内者》の本来の性質なのだろう。
そして説明を受ける。《討伐案内者》の奪い合い。《願い》の潰し合い。そして、その後に待っている、《願い》の完成か、或いは無か。
「……あ、りが、と……と……り」
少女は血を流し、傷つきながら、意識も失って。
「しあわせ、……だったよ……」
それでも他者を恨まず、幸せだったと言える彼女を見て、藤俐の心は決まった。
「俺の《願い》は――」
――誰もが、人のカタチを、正しく捉える世界に。
『優しく哀しく、美しく残酷な《願い》だね』
《討伐案内者》は憐れむように悼むように、優しい声で、契約を完了させる。
横たわる少女を抱きしめる。
それがどんなに困難な《願い》だろうと、必ず叶えてみせる。
だから、風花。
目を開けてくれないか?
少女は答えない。
だからサイレンの音が背中に近づいても、少年は少女を抱きしめ続けた。
そうすれば目を開いてくれると、絶望の中、それでもそれを信じて。
†
目覚めは水中からいきなり引きずり出されたように、突然で激しかった。
「……っ!!」
だが気持ちとは裏腹に身体が動かず、痛覚の遮断も解けていて、痛みがぶり返してきている。
「気が付きました? 先輩」
藤俐の身体と心情とは全く対極の、穏やかな声にそちらを振り向く。それだけでも喉元から酸っぱいものがせりあがってきた。かなり血液と体力を失っている。
「……ここはどこだ?」
見渡す。白を基調とした壁紙に、黒を基調とした家具。フローリングで八畳ほどの部屋は全体的にモノトーンで構成されていて、生活感がない。藤俐はその部屋のベッドに寝かされていた。やたらと柔らかく感じる。
少女は安心させるように微笑すると、「わたしの家です」と簡潔に答えた。
「すみません、乱暴な手段に出てしまって。素直には来てくれないと思ったので」
誰のせいで、と言いかけたところで、気付いた。腕の感覚が、ある。
幻肢痛のようなものかと思ったが、目で確認すると本当に繋がっていた。
「藤俐くん、大丈夫?」
感覚が鈍くなって気付かなかった。舞形継未がそこにいた。
「まだ腕は完全には繋がっていないから、じっとしていて。貧血も酷いから」
確かに頭がぐらぐらする。継未がいるということは緊急の危険はないだろうと判断する。
(ラディ、いるか?)
(なんとかね。トーリが気絶していたのは二十八分ほど。その間にサオの家に連れてこられた。GPSの情報を確認するかい?)
いやいい、そう頭の中で答え、現状の打破を考える。
「先輩、わたしが拭いて」
「自分で拭く。貸せ」
少女は少し傷付いたような顔をしたが、気のせいだろう。
濡れタオルを額に載せる。身体全体が寒いくせに火照ったような気分の悪さがあったが、それが若干和らいだ気がした。
「スポーツドリンク、ありますけど。飲みませんか?」
「……」
「少しでも水分は摂った方がいいよ。出血がひどいから」
継未にも重ねて言われ、渋々飲むことにする。毒を入れる手間があるならとっくに自分は殺されているはずだろうし、治療する気があるなら大丈夫だろうと強引に納得させた。
少女はペットボトルの蓋を開けると、グラスに入れ直す。藤俐の中ではペットボトルは口を付けて飲む物であって、わざわざ入れ直しているあたり、やはり育ちはいいのだろうと思う。
「服着替えてきますね」
少し悪戯っぽい光が目に走る。
「覗いちゃいやですよ?」
「お前自分の身体にそんだけの価値あると思ってんの?」
「――っ!? そ、んな」
本気で傷付いたらしかった。
「別に自信があるとかじゃなく、その、そこまで否定することもないんじゃないでしょうか……?」
「何今更清純ぶってんだこのビッチが」
「え、え!? あの、わたし身体は清純ですよ? あの、もしかして昨日のファーストキスを信じてくれてなかったりします?」
「そういう問題じゃねえよ。大体処女なんて病気がない以外の部分はただ面倒くさいだけじゃねえか」
「ちょっと藤俐くん、それ本気で言ってるの!?」
「なんであんたが怒ってるんだよ」
「いや一番言ってはいけない人に言いましたよ、白馬の王子様を信じてる人の前でそれはちょっと」
「夢見るのは自由でしょ!?」
「自由ですけど、夢はいつか裏切りますよ」
「とにかくうるせえよさっさと出て行くかどうかしろよビッチが」
「…………」
少女は泣きそうな顔で部屋を出て行った。ざまあ。
だが腕の感覚がじくじくと熱を持って気持ちが悪い。あいつは自分が逃げるとは考えないのか、そう考えて自分が逃げる意味がないことに気付いた。風花の事も、萱島とのことも、逃げるわけにはいかない。
「あんたがスキルを使っているの、初めて見たな」
継未はしばらく黙ってこちらを睨んでいた。今の会話は空気を読んで乗ったのではなく、本気で怒っていたらしい。愛嬌のある丸顔のせいで全く怖くないが、何故継未が怒っているのかちょっと藤俐にはよくわからない。しばらく睨んでいたが、継未はふうと息を吐いてハサミを取り出した。
「私のスキルはね、私の身体の肉を対象の傷に埋めることで治癒するの。風花の心臓と私の心臓を取り換えたいという《願い》は、こんなスキルを生み出しちゃった」
チョキン、と髪の毛を切る。さらに掌に傷をつけ、切った髪と血を絡ませていく。
「腕が完全になくなっていたらこの程度じゃすまなかったけど、繋げるだけならこれだけで大丈夫だから。気持ち悪いだろうけど、我慢してね」
「そんなことない。……悪い」
本気で謝った。自傷が必要な治癒スキルだとは知らなかった。
「これぐらい大丈夫。藤俐くんの傷に比べたら。それより、問題は出血の量。本当は輸血とか必要だと思うんだけど」
そう言えば継未は医学部だったことを思い出した。
「とにかく、身体を休めて。もうしばらく私はいるけど、治療が終わったら一緒にいるのは多分紗緒さんが許さないと思うから」
申し訳なさそうに言うが、むしろ巻き込んで申し訳ないというのがこちらの本音だった。
「あんたも雨宮から離れた方がいいよ」
「できたら、苦労しないんだよ」
珍しく非難がましい声音で、声の温度は低かった。
「萱島響子って知ってるか?」
「あまり喋らない方がいいよ。……えっと、誰?」
「家庭科の教師。あんたがいた頃はいなかったか?」
継未も深明学園出身なのだ。何か知っているなら聞いておきたい。
「家庭科……あの男性恐怖症の?」
やはりというか、まずその印象が強いようだ。正直、継未も恋愛に夢見がちな部分を見る限り、若干そういう部分がある気もするし、似た者同士で何か知っているんじゃないかと一縷の希望を持つが、継未の返事は芳しくなかった。
「いい先生だったよ。よくお話聞いてもらってたな。でもうーん……プライベートの事は知らない。あまり自分のこと話すタイプじゃなかったし。萱島先生がプレイヤーなの?」
頷くと、「そう」と残念そうに俯いた。
もし倒す相手が完全な悪ならどれだけよかっただろう。だがこの《ゲーム》は、殆どが悲壮な覚悟を持って《願い》を叶え、それを守るために戦っている。
「ごめんね、何も知らなくて」
それ以降は何も言わず、淡々と血に塗れた髪の毛を千切れた腕の繋ぎ目に埋め込んでいく作業を繰り返していた。
こんこん、とノックの音がした。
「失礼します……」
おどおどと入ってきたのは、あの葵と呼ばれていた子供だった。
「すみません。あの、お姉さんに言われて、急いで買ってきたんですけど」
家庭科室でいきなり現れた時とは打って変わって、普通に、むしろ見かけの年のわりにはしっかりとした受け応えをしている。
持っているのは着替えや栄養ドリンクなど、今の藤俐に必要だと思われるものばかりだ。
「君は?」
継未の疑問に萱島の子供でプレイヤーだと藤俐から説明すると、「そうなんだ」と俯いた。
「お前、あいつの言うことに従ってるの?」
萱島の、母親のところに帰らなくていいのかという問いを言外に込める。
「あ、その、わたしはその、……帰れないんです」
「いやお前、簡単に逃げれたよな? 一人で買いに行ったんだろ?」
「逃げたら、お母さんが殺されますから……」
「……ふーん」
「紗緒さんも酷い事するね」
「そういう《ゲーム》ですから。わかってます」
ずいぶんと健気なガキだ。ただ奇妙な違和感がある。
(キョウコにも「どこにいてもわかる」とサオは言っていた。そういうスキルを持っているのだろうね)
(なあラディ)
(なんだい?)
(お前、俺が勝てると思うか?)
(……ずいぶんと唐突に気弱なことを言うじゃないか。恐れをなしたのかい? 《討伐案内者》は運命共同体だから、簡単に負けそうな人間の《願い》は叶えないよ)
ラディはそう、言い切った。
(簡単に負けそうな人間の基準て、なんだよ)
(そこは、人間たちと変わりないと思うよ。《願い》と出会った時の印象。《討伐案内者》も万能ではないからね)
それがどうかしたかい、と問われる。脳内の会話では意味がないのだが、藤俐は無意識に首を横に振った。
(……いや、忘れてくれ。ちょっと確認したかっただけだ)
藤俐は子供に向き直る。過剰にフリルの付いたファッションはやはり、西洋人形のようだ。可愛らしいが、どこか人工的な印象。あの少女もどこか人形のように思えたが、あっちは呪いの日本人形かなんかだと思う。
「お前、葵って言ったな。《討伐案内者》はどうした?」
「お姉さんに……奪われました」
栗色の髪が、力なく揺れた。首元まであるセミロングの髪は、本来なら可愛らしさを引き立てるためのものだろうに。
「不意打ちで襲ったとか言ってたが」
「……はい」
人は見た目ではわからない。それは確かにそうだ。見た目で一番得しているのは、あの雨宮紗緒だろう。あれだけの苛烈な攻撃と卑劣な行為を同時にできるというのに、見た目は残念ながら確かに清楚なお嬢様なのだから。
だが、違和感は強くなる。
「ちょっと紗緒さんと話してくるね。私にできることは大体終わったから」
継未の心配や気遣いに何も答えられないまま、継未は部屋を出て行く。何か言葉をかけないといけない気がしたのに、言葉は出てこなかった。
(トーリ、カヤシマ親子の情報を直接転送する。少し脳が揺れるが耐えたまえ)
ぐら、と一気に視界が暗くなる。いつもそうだが、脳に直接情報を送られると五感が一瞬消失する。おそらく一時的に脳が外部の情報を強制的に遮断して、直接情報を送るという荒業に耐えているのだろうが、この感覚が重度の貧血の今では辛すぎる。
だが送られてきた情報は、藤俐をそれ以上に唖然とさせた。
「お前」
葵と呼ばれる子供を見る。子供はきょとんとしている。西洋人形のような、愛らしい姿。
「男か?」
子供の表情から、一切の色が消失した。
「いや、でも……お前、女だよな?」
見た目と情報の食い違いに頭が混乱する。女装させられているというレベルではなく、完全に女の子の見た目だ。
そして思い出す。萱島のスキルのキーワード。
『反転』
思い至った瞬間、ブォン、とスマートフォンが震える。藤俐のポケットからだ。
取り出してみると、見知らぬ番号。
(カヤシマキョウコからだ)
すぐさまラディがハックして、発信元が確認される。
おそらくここが正念場となる。体調が絶不調だろうと、気を抜いていいはずがない。
†
紗緒は敢えて部屋を空けることにした。伏見藤俐は、自分の愛した人は、どういう選択をするだろう?
家から逃げるかもしれないし、逃げても無駄だと開き直った覚悟を決めるかもしれないし、もしかしたら攻撃してくるかもしれない。
ただ現時点では、自分と組むという発想はなさそうだなとは思った。
別にかまわない。まだ今回の《ゲーム》は終わっていないのだから。
(楽しみだなぁ)
驚くほど浮かれている。《ゲーム》の、敵プレイヤーの《願い》を壊した時の破滅の音を聞いた時はまったく別種の、幸福感。
ファーストキスの時の、血の紅を塗った唇を舐めた時の感覚を思い出す。
自然と口角が上がっている自分に気付き、口元を押さえた。それでも高揚は止まらない。
「紗緒さん」
玄関から出て行こうとするところで呼び止められた。
「藤俐くんの治療、終わったから」
「すみません。ありがとうございました」
しばらく、継未は黙っていた。だが何かを言いたそうにしていて、だから言葉を待つことにした。
「あのね」
ようやく口を開いた。
「もう少し、もう少しね。大切にできないかな。藤俐くんのことも、他の人の《願い》も、紗緒さん自身も」
何度か繰り返された話だった。
「折角運命の人と出会えたのに、自分から壊そうとしているようにしか見えないよ」
運命の人。
紗緒にとって藤俐は間違いなく、運命の人だ。継未が言うと何故か少し痛々しいが、紗緒も藤俐に出会った以上、運命というものを信じて、夢見てはいるのだとは思う。
夢の見方が、きっと人とは違うのだけれど。
「わたしにしては、大切にしていると思うんですけど」
壊れないように。壊さないように。
いつか壊れる時を愉しみにしながら。
「違う、そうじゃなくて……」
ポツン、と冷たい感触。
「あ」
ぱらぱらと、雨が降ってきた。
「……ごめんなさい。なんでもないの」
諦めたように、継未は立ち去った。傘を持たせようとしたけど、それすらも拒絶するような、心細そうな姿。
それを何とも思わない自分も、寂しいのだろうか。
追いかける理由もないので、黙って見送った。
ぴろりろりん♪
スマートフォンから、チャットメッセージの着信音が鳴った。画面を確認する。親友の風花からだ。
『どうだった?』
『まだ返事はもらえてないですけど、告白はしましたよ』
『まだ返事してないの? 藤俐』
『意外だね。藤俐は割とすぐ判断するんだけど』
『どう? 上手くいきそう?』
『うーん』
『上手くいくかと訊かれたら、結構分が悪いですけど』
『かまいません』
『藤俐先輩が考えてくれることが、わたしは嬉しいんですから』
しばらく、着信音はならなかった。
雨が激しくなっていく。また着信音。
『あのね、紗緒』
『風花はね、藤俐のことを考えている時の紗緒は』
『すごく楽しそうに見える』
『本当に好きなんだなってわかるから』
『応援したいし、してるつもりでいるんだけど』
『でもね』
またしばらく、着信音が止んだ。返事を書くべきか悩んだが、その前に着信音の方が先に鳴った。
『紗緒がね、藤俐に好きになってほしいようには、見えないの』
『だから藤俐も悩んでいるんじゃないかなって思う』
思わず感嘆してしまった。
風花は、自分の唯一の親友は、何も知らないはずなのに鋭い。
『紗緒は、藤俐に思ってさえもらえれば』
『それがどんな気持でも構わないのかもしれないけど』
『風花はね、それは違うと思う』
『風花は藤俐と紗緒、二人に幸せになってほしいの』
『紗緒はそれ、考えてる?』
『藤俐のこと、自分のこと、大切にしてる?』
打ち返そうとして、だけど何も言葉が出なかった。
風花の言葉は真実を突いている。
そしてそれに、哀しみを覚えていない自分も、自覚している。
そんな自分が、これだけ心配してくれる親友に返せる言葉なんて、ないと思えた。
『ごめんね』
『変な事言っちゃった』
『上手くいくといいね』
『だけど、どんな返事でも』
『藤俐は絶対、真面目に考えてるはずだから』
『だから、それだけは大丈夫』
『だから』
『はい』
『風花さんの心配は、すごくうれしいです』
嘘ではない。
ただ、それ以上に今浮かれている気持ちが冷めてしまったことが不快だった。水を差された。多分今の自分を目の前にしていたら、風花は怯えたと思う。風花は紗緒の僅かな感情も、正しく読み取れる鋭さと、それに対して怯える弱さを持っている。藤俐とはまた別ベクトルの、他人が壊れそうになる事への恐怖を、彼女は持っている。
そういう気質が何故風花に生まれたのかはわからない。風花を見なくなった両親のせいなのか、必死に頑張っても現状維持しかできない姉の姿を見たからなのか、風花の白髪頭しか見ずに笑った馬鹿な連中のせいなのか、それを見て見ぬふりしていたその他の人間のせいなのか、死が常に身近にあったその環境のせいなのか、それとも――親友が、壊れているどころか人間として完全に欠けている、そのせいなのか。
だけど自分にとって風花の役目は、そういう部分だ。
簡単に破滅を選んでしまう自分への戒めを、何も知らないけどだからこそしてくれる風花を、紗緒は紗緒なりに大事にしている。
『大丈夫です』
『先輩の意思を、尊重しますから』
『だから、大丈夫です』
しばらく、間があった。外の雨は激しさを増していく。
(雨が好きなの?)
大好きな人との、始まりの会話。
親友が空を飛ぶ、その半年前の記憶が蘇る。
『そっか』
『ごめんね、時間取らせて』
『上手くいくといいね』
『はい』
『ありがとうございます』
スマートフォンのアプリを終了させる。
更に雨が激しくなってきた。
しばらく雨を、見つめ続ける。
黒髪の頃の藤俐と、今の藤俐を想う。《ゲーム》に参加する以前と今。きっかけとなった、風花が空を飛んだ時。
そして墜落を見た藤俐の姿。
「恰好良かったなぁ」
また、見れるだろうか。
悲壮な覚悟を決めたあの貌を、もう一度見たい。
それがたとえ普通の人間が知れば、歪んでいると蔑む感情であっても。
紗緒はこの感情を、否定しない。
ヒトがヒトの正しいカタチを捉える世界を望む愛しいあの人も、きっと。
玄関から出て、敢えて雨に打たれよう。
雨は冷た過ぎず、優しく高揚を鎮めてくれた。
†
「お前の母親からだ」
葵は硬直してしまう。
「出るか?」
「……いえ」
「そうか」
葵は拒否した。子供は何を願ったと、あの少女は言っていたか。
今はこれ以上、この子供にかけるべき言葉はないように思えた。
通話を、タップする。
「もしもし。誰だ?」
わかってはいたが、問いかける。
『萱島です。いきなりごめんなさい』
よそよそしい、硬い声。相手はやはり萱島だった。
『単刀直入に言うわ。一旦手を組まない?』
「手を組む?」
話の流れは予想できる。だが今は聞く。
『私は葵を返して欲しい。雨宮さんは《ゲーム》をすれば返すというけど、そんなの信用できない。そして私達が私達であるために、私達は負けるわけにはいかない。雨宮さんを殺してでも勝たないといけない』
感情を押し殺した声。押し殺しすぎて、血を吐くような、どす黒い声。
怒りと恐怖の凄まじさが、聞くだけでわかる。
『伏見君が協力してくれたなら、雨宮さんのジュエルはあなたに譲るわ。私達はただ、親子でありたい、ただそれだけなの』
「それだけのために、息子を娘に変えたのか?」
反吐が出そうな嫌悪感が、声に纏わりつく。
『…………』
沈黙が落ちた。
怒りが増す。反射的な、憎悪に似た感情。
藤俐はさらに追い打ちをかける。
「子供の声も聞かず〝私達〟なんてぬかすなよ。勝手に同一化するな。子供はお前のぬいぐるみじゃ」
『私は葵を愛したいと願っただけよ!!』
通話越しの慟哭が鼓膜を破りそうになる。
『私は母親だから葵を愛さないといけないの!!』
藤俐の感情をはるかに超えた、強く強く哀しい、子供への想いが叫びとなっていく。
『どんなことをしても拒絶なんてしたりはしない!! 捨てたりなんてしない!! それだけはしない、してはいけないの!!』
一息に叫んで、また沈黙が落ちた。
今の絶叫は確実に葵も聞こえたはずだ。
葵は、自分の性を母親に否定された子供は、今の絶叫をどう聞いたのだろう。
『……雨宮さんのジュエルは譲る。これは本当。信じてとしか言えないけど』
萱島は息を切る。絶叫とは一転、意図して無感情に、
『舞形さんのことは知ってるわ、伏見君』
予想はしていた。高等部の教師なら自分と風花は、色んな意味で問題児だから。
「風花はプレイヤーじゃない。雨宮もそのラインは越えてないはずだけど、それより堕ちるのか?」
傷をえぐられたかのように、声が詰まった。多分、お互いに。
『……わかって、とは言えない。でも私はあなたが舞形さんを大事にしてるのと同じぐらい、葵を取り戻したいの。今さら《願い》をなかったことにはできない。どんな手段も選ぶつもりはない』
ふう、と息を静かに吐く。マイクに拾われないように。
「こちらの条件は雨宮のジュエルと風花の安全、そちらは萱島葵の無事の保障。それでいいな?」
『……ええ』
信用できるのか、とは問わない。
藤俐はまた連絡をとると言って、通話を切った。
「葵」
子供は西洋人形のように愛らしく、感情を圧し殺している。
「お前はこれでいいのか?」
子供は、何も答えなかった。
自分も、萱島の絶叫に答えられなかった。それが、証左。
この期に及んで、覚悟が決まっていない自分がいる。
藤俐はそれが腹立だしい。結局のところ今まで《ゲーム》で勝つことができなかったのは、他者の《願い》を潰すことに抵抗を感じていたから、その甘さだ。
だが、藤俐が負けたら、《願い》はどうなる?
(風花がまた、誰にも見られなくなる)
また偏見と憐憫の目を向けられ、日常生活を送れなくなるだろう。重病で――自ら屋上から飛び降りて留年して、本来なら浮いて当然の立場である風花が周りに溶け込めているのは、そういう偏見や憐憫の目がないからだ。周りは真っ直ぐに、風花の心だけを純粋に見て、そして風花は受け入れられた。
今はそれしか叶えられていない。だけど《願い》が完成すれば、風花だけじゃなく、きっと誰もが。誰もが、きっと。
藤俐は左腕を無意識に撫でる。確かに繋がっている、それはわかる。
〝だけど切断したのは、雨宮紗緒だ〟。
そして何より、藤俐の腕を切断したと分かった時の、紗緒の表情は――
(――笑っていた)
(そうだね)
ラディは無機質な声音の中に、しかし藤俐にはわかる程度には、嫌悪と侮蔑を混じらせる。
(ボクは反対だよ。これは譲る気はない)
ラディは自分たちの安全を優先するべきだと主張する。藤俐も頭ではそちらに賛成している。
どうするべきか、理性と感情の間で堂々巡りになりつつあった。
その時だった。
『うわ?』
ラディが脳内ではなく電子合成された声で、無感情に驚きの声を上げる。スマートフォンから着信音とバイブレーションが同時に響く。
「誰だよ……」
思わず毒づきながら相手を確認すると『風花』とあった。
「風花?」
メールはともかく、風花は自宅が実質病院ということもあって、電話は滅多にしてこない。
現在の事態と風花の思考を天秤にかける。
(雨宮は?)
(このマンションの前にいる。防犯カメラの映像をリアルタイムで確認しているから間違いないよ)
なら、と通話をタップすることにしようとして、
「おい、お前出てけ」
萱島葵がこちらを見ていることに気付いて、部屋を出て行くように言うと、案外素直に従った。
どうも不可解な子供のことは、今は無視する。
「風花?」
『藤俐? 今大丈夫?』
風花の声にいつもと違う様子はない。その違いのなさに、安堵を覚える自分がいた。
よく考えたら、少女が風花を人質に取っても、あるいは恋愛感情的な意味であっても、手出しをしないと思う方がおかしい。何故だか「風花には手を出さない」の言葉を無意識に信用していて、信用させられていたことに気付いてぞっとした。
「まあ、長電話じゃなければな」
『そう』
うーん、と風花が悩む感じで、沈黙が下りる。風花の会話の中ではよくあるが、今の怪我の状態で付き合うのは少々辛い。
「なあ」
『うん?』
「お前から見て、雨宮ってどんな奴だ?」
少しでも情報を手に入れたいのと、間が辛いという理由で、藤俐から聞くことにした。
そんな唐突な質問にも、風花は真剣に答える。
『やっぱり何かあったんだね』
「……」
気付かない振りをしていたんだなと、僅かに諦めも含めてそう思った。
風花は藤俐とは、もしくはあの少女とは全く別のベクトルで、他者に鋭い面がある。それが何かは、藤俐にもわからない。
風花が親友だと言い切った雨宮紗緒は、わかっているのだろうか。そんな疑問が、少し生まれた。
『藤俐はお世辞とかが大嫌いだから、風花も正直に答えるね』
「……意外だな」
風花は人の評価に他者の主観が入ることを良しとしない。つまり、噂などで勝手に印象を、偏見や色眼鏡で持つことに繋がることに対して、忌避感を持っている。それが原因で、風花自身もいじめに遭い、何より病魔の理解を得られずに苦しんできた人を見てきているから。
『藤俐も紗緒も、風花は大好きだから。仲良くなってほしいんだ』
藤俐の抱いている少女への恐れを見抜いているかのような、そんな風花の言葉に藤俐は何を言えばいいのかわからなかった。
藤俐の戸惑いは伝わらずに、風花は言葉を紡いでいく。
『紗緒はね、嘘が上手いよ。演技も上手。だからね、紗緒の話だけ聞いたら思わず納得して、きっとわからなかったと思うけど。藤俐は嘘がつけないもんね。藤俐を見たらすぐわかったよ』
淡々と指摘するような、だけど当たり前のことを言うように。
風花は〝何が〟あったのかは、訊こうとはしなかった。その気遣いがありがたくて、同時に申し訳なく思う。
『紗緒はね、怖いよ。とっても怖い子。でもね、風花や藤俐には怖くないよ』
「ん……?」
風花の言葉選びは、長年付き合ってきた藤俐であっても難解に聞こえる時がある。上手く伝わってないのがわかったのか、風花はまた少しだけ悩んだ。
『あのね、普段はとっても優しくて、いい子。面白いし、気遣いも上手だよ。だからね、風花は紗緒といると楽しいし、安らぐの』
その言葉は、どこか自慢げだった。
『でもね、時々すごく怖いと思う。それはね、すごく怖いの。見た目は変わらなくて、風花も最初は全然わからなくて、気のせいかなって思ってたし、もしかしたら本当に気のせいかもしれないけど』
言葉とは裏腹に、風花の中では何らかの確信があるように、揺らぎがない。
『でもね、怖くていいんだ。風花も、藤俐もきっと、友達を傷つけようとする人には、怖くなるよ』
怖い風花というのは想像できなかったが、言いたいことは伝わってきた。
それにね、と。怖いと何度も言う割には、ずっと風花は明るく楽しそうに話している。
『風花がね、怖いって思えるぐらい、紗緒は強いんだよ。だからね、怖くていいの。だって、紗緒は親友だから。……でも、そうだね』
少しだけ、トーンが下がる。
『哀しくなったり、寂しいなって思うときは、あるんだ。……脆さや弱さも、紗緒はうまく隠しちゃって、風花じゃ見つけられないから』
時々紗緒が何処にいるのか、わからなくなるの。
寂しそうに、風花は呟いた。
『藤俐、これから紗緒に会うの?』
これからというよりずっと一緒にいたのだが、藤俐に答えられるわけがない。嘘を吐けないから肯定も否定もしなかったが、風花には返事は必要なかった。
『あのね、もしよかったら。紗緒を見つけてあげてほしいなって、思う。本当なら、風花が見つけないといけないんだろうけど、風花じゃ……ダメなんだと思う。でも、藤俐ならきっと――』
「なんで、風花じゃダメなんだ?」
雨宮紗緒のことを、藤俐はまだ殆ど知らない。だけど、風花は知っていて、その風花が珍しく電話してきた理由。
『風花は紗緒を置いて、空を飛んじゃったから』
「…………」
あの時。
風花は空を飛んだ。サイレンの音。僅かに甘い花弁の香り。冷たい雨。腕に抱いた風花の身体の軽さ。
あの少女もあの時から、何かが変わったのだろうか。その以前を知らない藤俐には、わからない。
『その時から風花は紗緒を置いてきぼりにしてるから、だから』
風花じゃ無理なんだ、きっと。
声にはひたすら諦念と悔恨が滲んでいた。
『だから、藤俐にしか、紗緒を見つけることはできないと思う』
「そっか」
そう、言うしかなかった。
「答えは決まってる。けど、今は覚悟が足りない。その覚悟をあいつに見せるまでは、俺は何も答えられない」
情けない言葉だった。だけど、藤俐は自分を偽らない。
「その結果がどうなるか、俺にもわからない。だけど、覚悟を見せる覚悟を、風花はくれたから……感謝してる」
『……そっか』
声が少しだけ、柔らかくなる。
『風花も役に立てること、あるんだね』
沢山ある。そう言いたかった。
風花は自分で思っているより、遥かに人を見ていて、助けようと願っている。
実際に何ができるかは問題じゃない。その気持ちが、《願い》が、いつだって藤俐の助けになっている。
だけど、何も行動できていない以上、ただの慰めにしかならないから、藤俐は今は、何も言わない。
「必ず、応える。ちゃんと考える。心配するな」
『うん。ごめんね、変な電話かけて』
風花の雰囲気が、僅かに和らいだ。
『じゃあね、藤俐。頑張って』
通話は切れた。
目を閉じて、二人の少女、親子の《願い》を、思う。
†
何とか身を起こせるようになった頃、雨宮紗緒が戻ってきた。だが奇妙なことに、
「……なんでずぶ濡れなんだ?」
「雨に濡れたい気分だったんですよ」
さらりと返された。
「わたし、雨が好きなんです」
「ふーん」
どうでもよかった。
(雨が、好きなんですか?)
「…………」
既視感。いや、何かが記憶に引っかかっている。
「どうしました?」
「別に」
「……そうなんですか?」
「どうした?」
「ふふ、別に何も?」
何故か嬉しそうだ。理由はわからないが。
びしょびしょになった服の代わりに、クローゼットから着替えを持って、
「覗いちゃ」
「天丼は面白くない。さっさと行け」
「……乗ってくれてもいいじゃないですか」
ぶつぶつと楽しそうに文句を言うという矛盾した言動は、正直藤俐から見ると理解不能な生き物にしか見えない。
(ラディ)
(なんだい?)
(文句言うなよ)
(仕方ないね。《討伐案内者》らは主役じゃないんだから)
その言葉を残して、ラディは意識から消えた。
今日、藤俐は初めて、《ゲーム》に勝つ。
そう決めた。他者の《願い》を潰すことに決めた。
「じゃーん! どうですか、先輩?」
着替えが終わった少女は何か振り切ったのか、やたらとテンションが高い。
まだ髪は濡れている。小さな花柄の白いワンピースに、デニムの七分袖ジャケット。ファッションには詳しくないが、少女の元がいいからか、甘くなり過ぎずよく似合っている。絶対に言わないが。
「お前のファッションなんかどうでもいい。大体、なんでそんなにテンションあがってんだ」
「だって」
恋する少女は、華やかに笑う。
「先輩、覚悟を決めたプレイヤーの顔をしていますから。そんな先輩のカッコいい顔を見れたことが、とっても嬉しいんですよ」
少女は本当に嬉しそうに、言い放つ。
「決めたんですよね? どうするか。わたし、正直逃げるかもとか思っていました。でも、さすがにそれは失礼だったみたいです」
恋する少女の顔は、《ゲーム》の時とは全く違った別種の高揚で頬を赤く染めていて。
藤俐も、認めざるを得なかった。
この少女の恋心は、本物なのだと。
「どんな選択をするのか、楽しみなんです」
「勝手に楽しみにしとけ」
うっかりすると、そのまま呑みこまれてもいいんじゃないかと思えてしまうぐらい、その恋心は純粋で、透明で、どこまでも飛べてしまいそうで。
まるで、あの水の羽のような、そんな恋を、少女はしている。
藤俐は立ち上がる。まだ貧血が酷かったが、なんとか耐えた。時間を確認する。午後八時半過ぎ。あと一時間と少し。
――その頃にはきっと、藤俐は少女に刃を向けている。
「一体何を企んでいるんですかね?」
少女は何もかも見透かしたように、それが楽しみで仕方ないと言いたげに、藤俐の腕と自らの腕を絡めてきた。
はねのける気には、何故かなれなかった。