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第三章

 翌日、部室に行くと、少女は既に来ていた。開いた窓から外を見つめている。音には気付いているだろうが、すぐには振り返らず、窓をゆっくりと閉めた。

「こんにちは、先輩」

 少女は穏やかで嫋やかな、完璧な微笑で持って藤俐を迎えた。所作も完璧で、ドラマか映画のワンシーンの中に入ったかのような錯覚を覚える。全てが計算し尽くされていて、少女は自分の魅せ方を心得ているのがよくわかる。

 藤俐は間違っても引き込まれないように、少女の作ったシーンを壊すように、乱暴に椅子を引く。苦笑交じりに、紗緒も続いて座った。

「答えは出ましたか?」

 ――雨宮紗緒を、どう扱うか。

 藤俐はすぐには答えたりはしなかった。

「その前に、お前の実力を知っておきたい」

 少女はわずかに首を傾げる。殆どの人間は騙されるだろうが、藤俐から見ると何処か人形じみた、演技じみた、だけど可愛らしい仕草。

「実力ですか。ジュエルを渡したことで証明したつもりだったんですけど」

「単純に敵を倒せるだけじゃ、俺はパーティーを組むつもりはない」

 藤俐は言い切る。

「要はどれだけ、俺の役に立つかどうかだ。簡単に暴発する爆弾を抱える位なら、ソロでやっていた方がマシだからな」

「……」

 人差し指を唇に当て、少し考え込む。表情は自然体で、何を考えているかは読めない。

 ただ、今はあのおぞましい気配も、敵意も殺意も感じない。

「わかりました。わたしも、自分のプレイスタイルを先輩に理解してもらいたいと思っています」

 意外に素直に納得する。ただ、問題はここからだ。

「で、誰と戦う?」

 この《ゲーム》は何より、プレイヤーを見つけるのが難しい。作業の七割がプレイヤー探しといってもいいだろう。

 その点だけならば、藤俐は他のプレイヤーより抜き出ている。藤俐は他者の表情や嘘、不自然さを察知することに優れているし、それが何に所以しているのかを調べることにも、ラディのクラッキング能力や他の手段も含めて長けている。

 だから何人かは心当たりがあった。だが敢えて告げずに、少女がどの程度の情報収集力を持っているか確認することにする。

 ただスキルが戦闘向きというだけで勝ち続けられるほど、この《ゲーム》は甘くはない。どういう判断をするにしても、少女の持つ力を少しでも知っておく必要がある。

「一人、おあつらえ向きの人がいます」

 くす、と少女が笑った。背筋に怖気が走るが、努めて表情には出さない。

「そうですね。先輩がいいなら、今から行きましょうか?」

 立場が逆転したかのように、少女の方が不敵に笑う。試す側から試される側になる。

 思う。少女自身はおそらく悪人ではないのだろう。あの風花と友達になれるのだから、尚更そう思う。

 だが、あの血と死そのもののような、おぞましい気配は――

 何を見て、何に《絶望》して、どんな《願い》を抱いて、どれだけ《願い》を蹂躙すれば、そんな気配が出せるようになる?

 藤俐はそれを、見極めないといけない。

 誰が何と言おうと、場合によっては、風花から排除することも考えなければならない。

 そうでなければ、自身の《願い》の破壊だけでは済まないという予感があった。

 藤俐は、自分の予感や直感というものを、スキルより何より信じていた。

「一体、誰だ?」

 少女は名前を言った。

 一瞬、すぐにはわからなくて、だがすぐに脳内で情報がヒットする。

 自分も目を着けてはいたが、確実性と自身との関係性が薄いので調査が難しく、後回しにしていた人物。

「行きますか?」

 少女の挑発に、藤俐は無言で立ち上がった。

 少女は嬉しそうに愉しそうに、一緒に立ち上がる。

 少女が先に部室から出ていく。藤俐も続いて部室を出た。

 ガラガラと、引き戸の閉まる音が、まるで《ゲーム》を開始する合図のようで――

「……先輩」

「なんだ?」

 不意に、少女が立ち止った。

「……何処にいるんですっけ?」

「………………」

 無言でスルーして、藤俐はすたすたと少女を置いていく勢いで歩いていく。

「すみません待ってくださいだってわたしまだこの学校来たばっかりでこの学校むやみに広くてわからなくて」

「……お前な……」

 先ほどの不敵な表情はどこにいったのか、少女はおどおどと、一番初めに会った時の小動物的な庇護欲を掻き立てる表情に変わっていた。

 本当に、コイツの気配の変化だけは読めない。この変化も本気なのか、わざとなのか。

 わざとなら、多分こちらの過剰な緊張を察知したのだろうなと、半ば自嘲気味に呆れながら、藤俐と少女は敵の元に向かった。


   †


 対象がよくいるのは大体二か所で、とりあえず近い方から向かう。いきなり当たった。

 室内を見ると、対象一人だけで何か作業をしていて、《ゲーム》としては都合のいい展開だ。今の時間帯でこの場所にいる生徒の方が少ないが、もう一方は確実に人目があるので、その意味でも幸運だ。

「先輩、人払いできますよね?」

「あー、まあ。お前、できないの?」

(サブ)スキルを駆使すれば可能ですけど、まあ正直集中したいので」

 (サブ)スキルは、《討伐案内者(マスコット)》を破壊せずにそのままの形で奪うことで、《討伐案内者》自身の能力をスキルとして顕現させるものだ。《願い》の媒介がない分、現世への干渉が弱いうえに、その《討伐案内者》と契約したプレイヤーは《ゲーム》としてはまだ生きている。記憶を保ったまま、スキルを奪われ戦えなくなりセミリタイヤしたプレイヤー達。そういったプレイヤーを《NPC》と呼んでいる。そういったプレイヤーを増やしてでも相手のスキルを拾って手数を増やすかは人それぞれだが、そのあたりを少女に訊ねてみると「面白そうなら拾いますよ」と返ってきた。ちなみに藤俐には副スキルは持っていない。というより、実質勝利した経験がない。戦闘に適したスキルを所持していないのが一番の理由で、二番目に慎重さが上げられる――実際は一番と二番の理由が逆だったが、本人は意図的に無視している。

 そう言った理由で、少女の副スキルについても把握しておきたかったが、藤俐としても無関係の人間に見つかるのはごめんだった。『第一段階〈Filter〉』の存在は知っているだろうし、この程度はいいだろうと判断する。

「分かった。だが、お前が負けそうになったら俺は逃げるぞ」

 すると、少女はおかしそうにくすくすと笑う。

「わたしが負けるぐらいのプレイヤーがいるなら、会ってみたいですね」

 言葉の節々に高揚が見て取れるようになっていく。緊張が二人の間を満たす。

「人払いだけはしてやる。後はお前の好きにやればいい」

 藤俐は、というよりおそらく大多数のプレイヤーは、少女のこの愉しげな高揚を、敵意と殺意を、あのおぞましい気配を、まず対応できない。だからこそ、見て観察して、分析して解体していく機会があるのは、藤俐にとっては僥倖なのだ。

「行くぞ」


 スキル発動――『Fから始まる領域決定【ALL in F】・〈第一段階(Filter)〉』


 不可視の膜が藤俐を中心に、球体状に広がっていく感覚。他者には知覚できないこの感覚は、スキル名の通り藤俐によって定められるフィルターだ。

 藤俐が定めたモノしか通さない濾過装置。意識でも光や音でも電波などの不可視のものであっても、藤俐が定めたモノ以外は全て通さない。今回は派手になりそうなので、範囲内に向かおうとする意識を、紗緒と対象以外に半径五十メートルに渡って通さないようにする。

 これでガラスが割れようとガス爆発が起ころうと、一般人はおろか他のプレイヤーですら感知しなくなる。

 藤俐のスキルは性質上、あと二つの側面がある。だが条件なしに使えるのは『第一段階〈Filter〉』だけだった。闇討ちぐらいにしか使えないので、よほどバカな相手でもない限り通用しない。

 横目で少女を確認すると、何故か優しい目で藤俐を見ている。気持ち悪い。

「なんだ?」

「いいえ。じゃあ、行きますね」

 紗緒は特別教室の扉を開ける。

 扉の上部には、『家庭科教室』のプレートがかけられている。

 藤俐の担任である、あの男性恐怖症のアラサー教師は、ここで今も日常の仕事に追われている。


   †


「こんにちは、先生」

 少女は誰も警戒の抱きようのない、完璧な笑顔で挨拶をした。

 対して相手は、藤俐の目からは落ち込んで見えた。だがすぐに笑顔になって、

「あら、伏見君と、えーっと」

 愛想よく挨拶を交わす。

「一年A組の雨宮紗緒です」

「そうだったわね。まだ授業は始まってないけど、A組は私の担当だから」

 アラサーの男性恐怖症気味の女性教師は、それでも協調性を全身で拒絶しているような藤俐に対しても言葉をかけるような先生で、評判はいい。ただ家庭科担当であまり藤俐とは接点がなく、更に一年の時は受持ちも違っていて、まともな会話はしたことがなかった。

 見た目は動きやすさを重視したジーパンにシャツ、春物のカーディガンといった、普通のどこにでもいる女性。

 この目の前の、優しく教え方も丁寧な評判のいい教師が、どんな《絶望》と《願い》を抱え、《ゲーム》に挑んでいるのだろうか。

「これからよろしくお願いします」

 ぺこ、と少女が頭を下げる。何処か嬉しそうに恐縮するように、女教師は手を振って「いいよいいよ」と返してくる。知らない間に既に接触していたのだろうか。

「……伏見君、なんで雨宮さんと一緒に?」

 おいババア俺をどう思ってんだと心中でツッコむが、今から起こる事を考えると、さすがに緊張するし、同時に同じプレイヤーとして共感と同情を覚える。

 少女は僅かに気配を変えた。

 気配に敏感で、そして何度か見た藤俐だからわかる些細な変化で、教師がそれに気付いた様子はない。

「先生、先生の名前ってなんでしたっけ?」

「ん? 言ってなかったっけ。萱島(かやしま)響子(きょうこ)。授業はもうちょっと先になるけど、よろしくね、雨宮さん」

 萱島は生徒が慕ってくれるのが純粋に嬉しいのか、笑いを絶やさない。穏やかな、放課後の時間。

「その前に、先生にプレゼントがあるんです」

 ん? と僅かに怪訝そうになる。だが「なになに?」と乗ってきた。同性だとノリはいいと聞いていたが、差がありすぎる。

「萱島先生が、喉から手が出るほど欲しいものですよ」

 少女の気配が無害でしかなかったものから、あのおぞましい血と死の気配を纏っていく。

 変化に気付いたのか、萱島の笑顔が消えた。藤俐は後ろに下がり、静観の姿勢を取りつつ、いざという時の逃亡ルートをシミュレーションする。


「わたし、プレイヤーなんです。《絶望》から生まれた《願い》を維持し、完全にするために《討伐案内者(マスコット)》を奪い合う、あの忌まわしい《ゲーム》の、ね」


 萱島の表情は、動かない。だが表情の変化に敏い藤俐はわかる。

 真偽を計りかねている――疑っているということはつまり、本当に萱島はプレイヤーということ。

「プレゼントって……何かな?」

 萱島が、立ち上がる。視線は少女に固定しつつも、藤俐やその他の人間の介入がないかを確認している。

「俺はただの付添いだよ」

 だから藤俐は、言ってやった。

「あんたと戦うのは、こいつだけ。あと人も来ないから、助けを呼んでも無駄だぞ」

 少女は微笑したまま、ちら、と藤俐の方を見た。

「ジュエルは喉から手が出るほど欲しいですよね。わたしに勝てたら、あげますよ」

 でも、と。

 少女はもう、敵意と殺意と、あのおぞましい気配を、隠そうとしない。

「わたし、今日は大好きな先輩の前だから、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃうかもしれません。だから、お願いします、先生」

 すぐに負けちゃ、ダメですからね?

 悪戯っぽい声と同時に、不意に、音が聞こえた。耳鳴りのような、轟、という――まるで津波のような、洪水のような音。

 次に、川の流れる音になり、その音は徐々にせせらぎというべき穏やかなものに変わる。それらの音の変化は一瞬で終わった。

 終わると同時に、少女の背中から、一対二枚の羽が顕現する。その羽は天使と聞いて想起するような純白の色ではなく、

「……水の羽……?」

 透明で、閉じた状態であっても両腕を広げた状態よりまだ大きな羽が、更に広げられる。

 水で出来た、不定形の羽だった。

 透明ではあるが、光を反射して、透かして、輝きながら少女の背中を美しく守る。

 あまりに圧倒的な、荘厳ささえ感じるスキルに、萱島は勿論、藤俐も言葉が出ない。

「ダメですよ、見惚れていたら」

 少女の気配だけが、水の羽の美しさとは相いれず、嗜虐的に愉悦を感じている。

「さあ、遊びましょう」

 瞬間、ががががが、と透明な光が、水の羽から切り離されたいくつもの水滴が、萱島に撃ちこまれた。

「……っ!」

 辛うじて、萱島は避けた。水の弾丸は黒板と教壇に、無数の穴を開けている。

「何もしないまま、終わりますか?」

 少女は、羽を得た天使は挑発する。それでは面白くないと言いたげに、退屈そうに。

「……それだけの力があるなら、あなた一人にさえ勝てば、私の《願い》は完全になるわ」

 萱島は、立ち上がった。生徒を、《願い》を犠牲にする覚悟を決めて。

 天使は嬉しそうに嗤う。

「そうこないと」

 また幾筋もの透明な光が、萱島に撃ちこまれる。水道が破裂し、ガラスが割れていく。

 避けられない位置にいたが、そもそも萱島は避けようとはしなかった。

「『反転する私の世界〈Still you〉』」

 小さなピンポン玉大の、マーブル状に色を変える球体が萱島の掌から現れた。球体を掲げ、それをゴム風船のように引き伸ばす。

 引き伸ばされたマーブル模様に当たった弾丸は、いずれも破裂して、萱島にダメージを与えない。

「へえ」

 天使は感心したように、面白そうに観察する。

「今、裏返りましたね。なるほど」

 藤俐も見ていた。当たった瞬間に、水滴は〝内と外がひっくり返った〟。

 どんな《願い》でできたのかは知らないが、『反転』がキーワードのスキルなのだろう。

「その通り……このスキルは、当たった範囲の全てを反転させる。たとえそれが、人間でも」

 萱島の声には、嘘は含まれていそうになかった。生徒を犠牲にする覚悟を決めた半面、それでもできるならば、犠牲にしたくないという想いの矛盾。

「これは大きさ自体はせいぜいピンポン玉が限界で、形はある程度融通が聞くけど、基本的に範囲は広くない。だけど」

 萱島の周りから、マーブル模様の球体が、――一目で数えられないほどに、現れる。

「数は多いわ。どれほど大量の水を操れても、全てを防ぐことは難しいでしょう。例えあなた自身を水で覆ったとしても、今見た通り、水ならば突き破って反転させられる。そして、身体に当たったら……無残なことになるわ」

 説得しているような脅迫しているような萱島の言葉だが、萱島自身がそれを信じていなかった。

 当たり前だ。この強大で荘厳な羽が、ただ水を操って終わりの筈がない。

 天使は、「うーん」と、可愛らしく小首を傾げ、何かを悩み始める。

「まだ迷ってるんですか? 結構面白いスキル持ってるのに、先生がそれじゃ面白くないじゃないですか」

 天使は藤俐の方を向き、小さく手を振ってみせた。

「せっかく先輩に良いところを見せたいのに、先生がそれだと簡単に終わっちゃいますよ」

「――――っ!」

 言葉が終わる前に、羽から糸のように細く鋭い水流が、何十本と萱島に向かう。

 萱島はスキルを駆使し、全ての水流を防いだ。防ぐ前に当たった机は、鋭く切断されている。

 萱島は避けるか防ぐばかりで、攻撃を仕掛けようとしてこない。

 違和感を覚え、そしてすぐに気付く。天使はとっくに気付いていたようで、

「逃げようとしてるんですね。……よくあります。最近は用心深くて中々遊んでくれるプレイヤーがいなくて、実はちょっと寂しいんです」

 はあ、と溜息を吐く。不利を悟ったなら逃げるのが当然の選択であって、そして天使のスキルは一目見ただけで格そのものが違うとわかってしまう。

「好きな人の目の前でそんなことになったら、恥ずかしいじゃないですか。だから、もう一つ、用意している物があるんです」

 ――用意?

 天使はポケットから可愛らしいハンカチを取り出す。敵意と殺意の微笑の中に、嗜虐と嘲弄を混ぜていく。

「タネも仕掛けもないこのハンカチですが、振るとあら不思議」

 おちょくるような調子で、ハンカチを一振りする。

 すると、どさ、と、何かが、あり得ない質量のものが、床に落ちた。

(え?)

 藤俐はそれがなんだか、数瞬わからなかった、萱島に至っては驚愕を通り越して、呆然としている。

 〝落ちてきたのは子供だった〟。

「――葵?」

 萱島は呆然と、子供を見つめる。藤俐は、あああのハンカチ(サブ)スキルなんだ便利よさそうだなと、一瞬だが現実から目を逸らしてしまっていた。今見つめるべきはハンカチではなく、子供の方だとすぐに見つめ直す。

 栗色の髪に日本人離れした整った顔立ち。歳はおそらく小学校の高学年ぐらいで、ロリータファッションとでもいうのか、フリルの過剰についたファッションもあって、アンティークドールのようにも見える。

 子供は動かない。気絶しているのか――死体になっているのか。

 天使はとびっきりの手品を見せたように、恭しくお辞儀をした。

「これで、逃げませんよね? ?自分の子供を人質に取られたら?」


「あ、あ、あ、あ、あああああああああああああああ!!!!」


 萱島の絶叫が、部屋全体に反響した。

 再び現れた数十のピンポン玉全てが、紗緒に一斉に向かう。

 だが天使は、子供をロープ状に変化した水で無理矢理に立たせ、盾にした。

「あ、あああああああああああ!!!」

 一斉に停止。瞬間、全てが水の弾丸で破裂した。

「葵、葵!!」

 萱島の発狂寸前の絶叫とは裏腹に、天使は満足そうに笑っている。

「よかった、〝殺す方がよっぽど簡単〟だったけど、お母さんもプレイヤーって聞いて、面白そうだから取っておいたんです」

 これで逃げないですよね、と慈しみすら感じる微笑で敵を眺める。

 藤俐は胃の中に直接氷柱を入れられたように、あまりに非道なやり方に吐き気を覚えた。これまでの気配そのものに対する恐怖ではなく、この少女自身の持つ世界や他者に対する悪意そのもののような手口に、心底吐き気がする。

 子供を人質に取って、母親を脅迫する。

 悪質で、無慈悲で、何よりこの行為全ての動機が、〝ただ好きな人に見せたいが為〟。

「あ、先生が全力で戦ってくれれば、この子は無事に返しますよ? でもそれには意味があるかなって思いますけど。先生の《願い》って、この子にまつわることですよね?」


 ――《討伐案内者(マスコット)》が破壊されれば、《願い》にまつわる全てを忘れてしまう。


 どうあっても、萱島はこの残虐な天使に負けるわけにはいかない。

 或いは、自分が忘れても、子供が生きてさえば、それでもいいのかもしれない。

 ジュエルを引き渡せば、もしかしたら――

 だが天使は、そんな僅かな逃げ道も、塞いでいく。

「この子もね、プレイヤーだったんですよ。お母さん、知ってました? 何にまつわる《願い》か、知っていますか?」

 時が止まったように、萱島は完全に硬直した。

「知らなかったら、教えてあげますね。『お母さんに自分を見てほしい』んですって。可愛くて、子供らしい、哀しい《願い》ですね」

 言葉とは裏腹に、天使の悪意は止まらず、親子を蝕んでいく。

「この前、わたしを襲ってきたんです。迷子を装って、後ろから不意打ちでした。子供なりに、《ゲーム》で勝とうと、一生懸命で、とっても可愛かったんですよ?」

 天使は子供の後ろから、姉のようにぎゅうっと抱きしめる。その仕草に嘘はなく、本当に可愛いと思っているのがわかって、藤俐はさらに気持ち悪くなっていく。

「こんな一生懸命な子を見ないなんて、酷いお母さんですね。……先生、このぐらいの年の子にとって、お母さんがどれだけ大切か、わかりますよね?」

 諭すようでいて、だけどそれは脅迫。


 ――《願い》に対する思いが強いほど、心のダメージも大きく、場合によっては廃人同然になる――


「この子のジュエルを奪ったら、この子はきっと壊れますよね」

 それもいいかなあと、背中から回した腕を上げ、子供の顎に指を這わせる。

 子供は何も、反応がない。……まさか?

「まだですよ。まだこの子は、一人のプレイヤーです」

 藤俐と萱島の思考を先読みした返事も、安堵する要因とはならなかった。

「さ、先生。仕切り直しましょうよ。わたしはただ、もっと面白い《ゲーム》をしたいだけなんですから」

 全てが天使の作る舞台になっていく。だが、天使が思い描く展開になっていたのかどうかは、正直わからない。

 天使は萱島に目を向けていた。

 萱島は恐慌寸前で、冷静な判断が出来ないでいる。

 だから、それを見たのは、藤俐だけだった。

 無表情で無反応で、まるで死人のような子供の手に、小さくだけど鋭い、この一連の戦いでできた硝子の破片が握られていて。

 子供は振り返りすらせず、逆手に持って自らも傷つきながら、それでも天使に向かって勢いよく破片を突き立てた。

 血が、ぽた、ぽた、と垂れていく。

「あ……」

 子供が初めて発した声は、空虚な絶望だった。

 天使に傷は、何一つ付かなかった。

 硝子片は天使の身体に届く前に、水に包まれて天使に届かなかった。

 子供から滴る血は、ただ無意味に子供が自分を傷つけただけに終わっただけの、傷痕でしかなくなった。

「ごめんね」

 本当に申し訳なさそうな、天使の声だった。

 だけどそれは、どうしようもなく強者の、上からの言葉でもある。

「この程度じゃね、わたしは傷つけられない。この羽は自動的に、わたしが認識していない攻撃であっても、きちんとわたしを守ってくれる」

 水に包まれた硝子片は、握り潰されるように水圧で粉々に砕かれる。

「ごめんね、あなたを子供扱いして」

 天使は面白い玩具を離さないように、子供を抱きしめる腕の力を強める。

「止めて」

 萱島が力なく呟くが、天使は無視した。

「すごいね。なかなかできないよ。スキルがどうってことじゃなく……あなたはプレイヤーとして、とても強い」

 天使は言っていた。迷子の振りをして、背後から襲ってきたと。

 だとしたら、子供は自分の容姿を利用する強かさを持っていて、それは何処か少女と似ている。

「わたしに負けてから、捕まってから、あなたは一言も喋らなかった。ずっと黙ってて、表情も変わらなくて、だからわたしはあなたが壊れたのだと判断した」

 天使の微笑の性質が、変わっていく。

 おぞましい血の気配ではなく、敵意と殺意もなく、羽と同じようにひたすら透明な、それ故に何もわからせない、圧倒的な笑顔へ。

「でも、違ったんだね。……わたしを油断させ、とびっきりのチャンスを狙っていたんだね。壊れきってると勘違いしているわたしが油断していて、なおかつ自分の唯一の味方である母親がいる場所で、わたしを殺そうとしたんだね」

 天使の言葉に、子供も母親も、傍観者でしかない藤俐も、聞き入っていた。

「《願い》は《絶望》からしか生まれない。スキルは《討伐案内者マスコット》が外れで、大したものじゃなくなってしまったのは、運が悪かったけど。でもそれを覆すぐらいに、あなたは強い」

 おそらく、この残虐な天使なりの、最大の賛辞なのだろう。

「あなたの《絶望》は、あなたを強くしたね」

 《絶望》の大きさは、そのままプレイヤーの強さと比例する。

 天使はそう言い切った。

「それに引き換え、先生」

 一転して、苛立ちの声音。

 萱島は事態の推移についていけず、ただ茫然と見ているだけだった。

「あなたはなんですか? そんなに面白いスキルを持っているのに、あなたは何もしなかった。スキルを奪われた子供ですら、わたしを殺そうとベストのタイミングを見つけようとしていたのに、ただ喚いて嘆いただけで、《絶望》に抗おうとすらしない」

 冷酷に、天使は言い切った。

「……当てが外れたかな。この子のお母さんならきっともっと面白いプレイを見せてくれると思ったのに」

 玩具に飽きたような、失望。

 嫌な予感が、増していく。嘘だろ、そう思う半面、天使が何を言ったか、子供が先ほど何をやろうとしていたのかを思い出す。

 《討伐案内者(マスコット)》を壊せないなら、プレイヤーを殺してしまう方が、〝よっぽど簡単〟。

「……止めて」

 子供の方が、先ほどの母親と同じように呟くが、天使はやはり、その言葉にも答えない。

 水の羽が、ばさ、と完全に広がった。

 羽の中で、渦が巻いていく。

 まさか、

 ――まさか。

(子供の目の前で、母親を?)

 それは刹那に、そして同時に起きた。

 竜巻のように、水の渦が萱島を襲う。

 子供の叫び声。母親から涙が零れる。

 そして、渦はプレイヤーを襲おうとして、〝ほんの僅かに軌道がずれた〟。

 だけどそれはあくまで僅かでしかなくて、動けない一人の人間を助けるには力が足りない。

 暴虐が向かう萱島の身体を突き飛ばし、代わりに割って入った形になった藤俐は、せめて身体の大事なところだけは守ろうとして――

 身体を庇おうと差し出した藤俐の左腕が渦にかすり、千切れて飛んだ。

「~~~~~~!!」

 下唇を噛んで悲鳴だけは押し殺す。無様な悲鳴を上げたら、目の前の天使の姿をしたプレイヤーが、どんな暴発をするかわからない。

 人生で経験したことのない凄まじい痛みと喪失感を経験し、さらに心臓の鼓動に合わせて熱量が流れ出る。それでも藤俐の二つ目のスキルが発動していなかったら、軌道を僅かでも逸らせていなかったら、おそらく身体全てが千切れ飛んでいただろうと思うと、本当に紙一重だった。

「先輩……?」

 天使が目を見開き、口元を掌で覆う。隠された表情を見て、何を言えばいいかわからない。それでも藤俐は言葉を紡いで、この場を何とかしないといけない。

(『第一段階〈Filter〉』……!)

 左腕の切断面に、痛覚と血液を通さないフィルターをかける。出血は止まるが応急処置にしかならず、圧倒的な喪失感と血液と共に流れ出た熱量も戻らず、体温が下がっていく。

「……面白くないからって殺すなよ。真正の馬鹿かお前は」

 虚勢を張るが、脂汗に唸っている表情では、どう聞こえるか。

 親子は反応できずにいる。できればそのまま何もしないでいてほしいが、藤俐の立場はむしろ親子からすると敵側の筈だ。今、藤俐たちは他者から見ると、仲間割れしているように見えるだろう。天使を見限って、親子とともに三人がかりで闘いながら隙を見て逃げるべきだろうか? 自分は腕が千切れていて、更に親子と即席で組んでこの天使とやり合ったとして、この圧倒的な天使の羽に何処まで対応できる?

 天使は一瞬だけ口元を隠したが、すぐに外し、隠れていた表情が微笑に戻る。

「そうですね。今この場で殺してしまうのは……確かに勿体ないですね」

 萱島はいきなりの流血沙汰に、天使が本当に自分を殺そうとしたことにショックを隠せず、子供は母親のショックに感応して更に動けない。そして藤俐は一瞬で多量の出血をしたことで、脳に十分な血液が送られていなかった。

 天使は考え込むように、だけどあくまで愉しそうに、ゆっくりと、何故か三人とは別の方向に歩いていく。すぐに何故か分かった。だが理解を心が拒絶する。

 天使は愛おしそうに、藤俐の千切れた左腕を拾い、宝物のように大事に抱えた。その手の甲に、軽くキスすらして。

 その行動に、異常な光景に、それを造り出す狂気に、三人ともが囚われていく。

「いいことを思いつきました」

 三人ともが、その言葉にびくっと反応する。しかし誰も、対応できずに、

 藤俐と子供が、〝水の中に囚われた〟。

「!?」

 一瞬パニックになるが、球体状の水の中は何故か息ができる。だが、外に出られない。

「萱島先生。時間を上げます。そうですね、今晩十時でどうでしょう?」

 水の中に潜った時のように、違う、おそらくはそのままの意味で水に音は吸い込まれて、声はくぐもって聞こえる。

 羽が煌き、更に大きくなった。ばさ、と、羽の本来の意図を思い出したかのように羽ばたくと、少女の身体が飛翔する。

 そしてそのまま、天使は割れた窓の桟に足をかける。藤俐と子供を閉じ込めた水球も、少女の衛星のように共に浮く。

「先生からしたら、準備もなしだと面白いプレイなんてなかなか難しいですよね。だから、とびっきりの罠を仕掛け、ありったけの策を考えてください。そしてわたしを満足させるだけの《ゲーム》をしてください。その期限が、今晩十時です」

 天使はそのまま窓の外に、羽をはばたかせ、浮いた。そして高く、高く上がっていく。

「今度はわたしを失望させないだけのプレイをしてくださいね? わたしを愉しませてくださいね? それができたら、この子は返してあげます」

 天使は、その衛星は、桜の木よりも高く上がっていた。

 私の子供を返して、という悲痛な絶叫が、水の隔たりで遠く、遠く、遠かった。

「何処にいてもいいですよ。わたしは先生の場所がわかりますから、わたしから行きますから……ふ、ふふ、あは、愉しみ……! あはははは……!」

 とびっきりのイベントが待ち遠しい子供のような哄笑が高らかに、それだけが鮮明に聞こえる。

 そしてそのまま天使の羽を持った少女は、高く、高く、藤俐と子供の衛星と共に、空を高く速く飛んでいく。

 一部が破壊された校舎が、一年通った学校が、見る見るうちに小さくなり、やがて視界から消えた。


   †


「萱島先生!? 大丈夫ですか!?」

「……あ、あの」

 怪我の心配や家庭科室のあちらこちらが派手に壊れていることについて、萱島は何も説明できない。

 ただ涙を滂沱と流していた。

「萱島先生? あの、お怪我でも?」

 生徒の一人が落ち着きを取り戻させるように問うが、やはり萱島は答えられない。

(キョウコさん! 聞こえる!?)

(――ミュウさん?)

 頭の中に語りかけられている。その声にようやく気付いた。

 この《ゲーム》において、唯一自分と信頼できる、《願い》を叶え自らの命をプレイヤーに預けた、《(メイン)討伐案内者(マスコット)》。

(良かった、気付いて……! ずっと呼びかけてたの、聞こえなかった……!?)

 ミュウは失態を責めなかった。

 傍目から見たら呆然としているように見えたのだろう、周囲も困惑していた。

「萱島先生、あの、何か――!?」

 咄嗟だった。ボロボロの衣服で職員室に駆け込む。ぎょっとされるが構っていられない。

 記憶を探り目当ての書類の棚を見つける。鍵はかかっていたが探す手間も惜しく、スキルで強引に棚の鍵を裏返し破壊、書類を奪って逃げた。


 ――はあ、はあ、はあっ


 そう、萱島は逃げていた。時間を浪費している暇はない。

(葵が、殺される……!)

 恐怖が焦燥を加速させる。だけど対決を避けることも、負けることも萱島にはできなかった。

 どちらの結果でも、萱島が、葵が終わってしまう。

 自分の車に乗り込み、法定速度を無視して学校を抜け出す。

「ミュウさん」

(わかってる。あのアメミヤって子よね?)

 他の《討伐案内者(マスコット)》の性格は知らないが、ミュウは人間で言うと女性的で優しい性格だった。自分の《願い》も、痛みも傷も、少なくとも他の人間よりはるかにわかっている。

「勝たなきゃ……勝たなきゃ、全部終わる……!」

(落ち着いて、キョウコ。大丈夫、《討伐案内者》はみんな、この《ゲーム》に参加している時点で、命のやり取りになることは覚悟しているから)

 優しく落ち着いた声が、焦燥を鎮める。だけど怒りは鎮まらない。

「どうして……、どうして!?」

 ただ、親子が親子でありたかった。たったそれだけの《願い》だったのに。

 葵の《願い》もきっと、それだけのことなのに。

 また、踏みにじられるのか。当然の幸せを。普通に生きて、普通に家庭を築いて、それだけの事すら許されないのか。

 自分と同じく悲壮な覚悟と《願い》を持ったプレイヤーに奪われるなら、それは萱島も覚悟していた。

 だけどよりによって、人を傷つけ弄ぶことに快感を覚えるような残虐な、あんな酷いプレイヤーに、《願い》を奪われ、踏みにじられるのか。

(あの子からアオイを取り返すことを優先しましょう。アオイがプレイヤーだったことに気付くのが遅れたのは、本当にごめんなさい)

 本当に後悔しているミュウの声が、心に染み込んでくる。無理矢理に心を落ち着かせる。

 路肩に止め、エンジンを切る。ミュウとこれからの方策を練る。

(キョウコさん、学校から書類奪ってたけど、それは……生徒のプロフィール?)

「ええ。私一人じゃ、雨宮さんには絶対に勝てない」

(……そうね。そう思うわ。あの子は規格外よ。アオイを取り戻したとして、逃げられるか……)

「いえ、殺してでも勝たないといけない。逃げる選択肢は、無いわ」

 萱島は言い切る。あの悪魔からは逃げられないという確信がある。

(そうね。あの子はプレイヤーを逃がしたりするようなことはしないでしょうね)

 書類をめくっていく。目当ての項目を見つけた。

伏見(ふしみ)君……あった」

 賭けだ。賭けに出るしかない。

(あの男の子に協力体制を求める気?)

「絶対的に、戦力が足りないの。それに、伏見君は私を庇ったわ。少なくとも、あの子とは方針にはずれがあるはず」

 伏見藤俐の連絡先が書かれている。ケータイの番号も。

 自分は伏見藤俐以外に、他のプレイヤーを知らない。

 連絡を試みようとして、

「ひっ」

 指が、止まった。

(……まだ、あの子が指定した時間まで、少し間があるわ。休む時間が必要よ。落ち着きましょう)

 自分の《願い》を、痛みを知っているミュウは、そう提案してきた。

 休めそうにはない。だけど無理矢理にでも休めないと、全てを失う。

 萱島は目を無理矢理に閉じた。極度の緊張が解けたのか、意識が遠くなっていく。

 悪夢が、萱島の心を苛んだ。



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