第一章
廊下は既にホームルームが終わった生徒たちの声で溢れているのに、伏見藤俐のクラス、普通科2‐Bではまだ担任の話が終わっていなかった。
「新入生歓迎会が始まりますが、それについていくつか注意事項が……」
新しい担任の話を聞くことも面倒になって、藤俐はスマートフォンの画面をスライドしていく。見ているのは都市伝説のまとめページだ。
色々と、眉唾な事ばかりが書いてある。『くねくね』『天使を見た』『勝てるとなんでも願いが叶うゲームがある』『本当は怖い○ ○ な話』など。
『勝てるとなんでも願いが叶うゲーム』の項目をタップしてみる。『勝てば願いが叶い、負ければ全てを失う』らしい。
正直、暇つぶし以上の意味は持たなかった。
「ふ、ふふ、伏見君!」
やたら引き攣った甲高い声が耳をつんざく。クラスメートは(また始まった)と半ば呆れながら、声の主である担任教師を見守る姿勢に入った。
「その、えっと……髪の、色だけど」
「それが何か?」
藤俐としては皮肉も何もなく普通に返答しただけだが、担任はびくっとして固まってしまった。
「その、白く染めた髪……新学期までに黒く染める約束を、したでしょう?」
「あんたとした覚えはないけど」
俯いてしまった。学年主任が一方的に言って来ただけでそもそも藤俐の主観では約束ですらないから、そのまま事実を言っただけなのだが。
このアラサーの女性教師は若干男性恐怖症の面があって、悪い教師ではないのだが、家庭科という担当科目もあって藤俐も含めて男子からは印象が薄い。それでも教師としてのいらない正義感は持っていたらしく、髪を白く脱色するという明らかな校則違反は見逃すつもりはないようだ。もしかしたら嫌味な学年主任辺りに嫌味を言われたのかもしれないが、藤俐にはどうでもいいし関係ない。
「…………」
しばらく何か言いたそうにしていたが、結局とぼとぼと黒板の前に戻っていった。この女性教師としては頑張った方だろう。藤俐は髪の色以外にも目つきや言葉の悪さから反抗的な態度と取られることが少なくないし、不良気取りの奴らに絡まれることも少なくない。この女性教師に限らず、気の弱い人間からは一方的に隔意を抱かれている。別にどうでもいいから放っておいてほしいというのが本音だが、そうもいかないのだろうということぐらいは藤俐にもわかる。だからと言ってはい分かりましたと従ったりするつもりは全くないが。
担任教師が話を再開し、つまるところ後輩ができたのだから恥のない生活を送れという旨を長々と要領悪く説明終え、ようやくホームルームが終了する。
クラスメートたちが伸びをして雑談に興じたり支度をしたりする中、藤俐は廊下の人の流れに逆らうように、一人で部室に向かった。
†
新入生歓迎会が始まっている事を外の喧騒でなんとなく知るが、藤俐には特に関係なかった。窓硝子を見てみると、脱色していた筈の白髪は根元が少し黒くなっている。自分の鏡像を透かした外の景色は楽しみと不安でいっぱいな生徒達。自分があの中に入れば不安が増すだけなのはわかったから、藤俐は歓迎会には行かなかった。衆目を浴びたくないというのが一番の理由だ。
だが結果として、藤俐は暇を持て余すことになる。部室にこもっていたが、やるべきことは特になかった。空気がこもっている気がしたので窓を全開にする。桜は満開で花弁が風に乗って何枚か落ちてくる。外の喧騒がより鮮明に聞こえる。ガヤつく場所そのものは嫌いではなかったが、なんとなく今日はそんな気分になれず、若干鬱屈としながら机の上のパンフレットを眺める。暇すぎて視線は字面を追っていく。
『私立深明学園 学校案内』
深明学園は生徒人数およそ六千人、面積は約八十四ヘクタール、およそ東京ドーム十八個分の広大な敷地を持ち、校舎は七棟、体育館は四館、グラウンドも十二枚と、設備も生徒数も日本有数の学校だ。初等部、中等部、高等部の名前でそれぞれ小中高、十二年間一貫教育を戦後いち早く取り入れたことでも知られている。普通科だけでなく、芸能科や体育科、特進科など進路に合せた学科が存在しており、生徒の自主性を尊ぶとパンフレットには書かれていたが、それが生徒の質の向上に繋がるかといえば疑問だという内心は、言葉にはしなかった。藤俐は白髪を掻き上げ、それ以上の思考をシャットダウンする。
春休み明けであり、まだスイッチが入っていないのだろうと自己分析した。いつもの部活のメンバーが揃えばもう少しはマシなのだが、メンバーは外の浮ついた喧噪をむしろ楽しむような連中ばかりで、今日は部室には来ないだろう。実際今日は部活を行う日ではない。藤俐が居場所を求めて、なんとなく足が向いたからここにいるだけ。珈琲メーカーのコポコポとした音を聞くと、外の喧騒がより浮かび上がる。
ここは、今日に限っては藤俐だけの場所になるはずだった。
コン、コン、と、控えめなノックの音がするまでは、本当にそう思っていた。
「…………」
面倒さと煩雑さと、喜びとそれを感じたことへの拒否感を複雑に抱えながら、それでも藤俐は無視することなく、扉を開いた。
「あ、こんにちは……」
入ってきたのは見知らぬ少女だった。それも、とんでもない美少女だ。一瞬、息を呑んでしまうほどに。
つぶらな瞳は硝子玉のようで、薄めの唇は花弁のようだった。鼻梁は筋が通っており、小柄な体躯に腰まである艶やかで真っ直ぐな黒髪も相まって、どこか日本人形めいてもいる。クラスにいるよりは画面の向こうにいる方が違和感がないような容姿。清楚であると同時にどこか儚げな印象。
「えっと、その、部員の方ですか?」
声も透き通っていて、涼やかで柔らかだった。草原の葉擦れを想起させるような、ずっと聞いていたくなるような声。
藤俐は制服の校章を見た。校章は学年ごとで一部色が違う。それを見れば何期生かがわかる。
「新入生?」
「あ、はい。さっき、入学式が終わって……」
おどおどと少女は答える。仕草は小動物めいていて、大抵の人間の庇護欲を誘うだろうと藤俐は思った。
「あがれば」
対して藤俐はお世辞にも善人には見えない。そもそも髪を白に染めている時点で完全に校則違反であり、見た目は不良にしか見えないのだ。ついでに言うなら目つきが悪い自覚もある。
少女は怯えを見せつつも、素直にパイプ椅子に座った。
「入部希望? 見学?」
「け、見学、です。《ゲーム研究会》ですよね? ここ」
「まあな」
少女は部室を見渡した。チェスや将棋、オセロやモノポリーなどのボードゲームや、トランプやUNOなどのカードゲーム、古い外国のTRPGまである。一応申し訳程度に、隅には小さなブラウン管テレビとファミコンがあるが、それも含めて棚やテレビには汚れ避けのビニールがかぶせてある。
「アナログゲーム専門だけど。ゲーム好きなの?」
「あ、はい。あの、詳しいわけじゃないんですけど。好きです」
そこでようやく笑顔を見せた。野に咲く小さな花が咲いたような、可憐な微笑。大抵の男はこれを向けられたらオチるだろうなと思うが、少女の表情自体は藤俐には響かなかった。
「見学つっても、今日は部員俺だけなんだよ」
「え、そうなんですか……? あの、いつもは」
「今日は祭りみたいなもんだし、誰も来ねぇよ」
「はあ」
気の抜けた返事をして、少女は流されるままに席に座った。
藤俐は少女にノートを差し出す。
「学年とクラス、名前と、できるならケータイの番号とアドレス書いといて。一応、見学者は記入してもらってる」
はい、と大人しく少女は丁寧に文字を綴っていく。
『普通科1―A 雨宮紗緒』
「あまみや、」
「あ、あの。あめみや、です。あめみやさお」
「ふうん。俺は伏見。普通科の二年」
「あ、じゃあやっぱり先輩なんですね。あの、よろしくお願いします」
ペコ、と頭を下げる仕草は、初々しく可愛らしい。恥ずかしそうに僅かに俯いているのも好印象だ、と女評論家気取りのクラスメートあたりは評するだろう。正直、藤俐にはそういった部分はどうでもいいが、不細工で愛想のない女よりは観賞用としては高評価なのは確かだ。
「まあ、よろしく」
当たり障りなく返し、ノートを返してもらう。多分ここに名前が増えることはもうないだろう。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…………、あの」
ようやくこちらから言葉を投げかけられることがないと気付いた少女の方から、話しかけてきた。
「何もしないんですか?」
「何かしたいのか?」
眉がへの字に曲げられた。協調性や気遣いを真っ向から否定するような藤俐の態度に、少女はあからさまに困惑する。それでも少女は何とか話題を見つけようと挫けずに会話を試みた。
「その、ここではどんなことをしますか?」
「人がいるなら雑談とかそこら辺にあるボードゲームとかやったりだな。活動内容なんてあってないようなもんだよ」
「あ、じゃあ?ゲーム?しませんか? 折角ですから」
「何のゲーム?」
?敢えてとぼけてみた?が、少女は予想に反して、「棚のもの、触っていいですか?」と無邪気に訊いてきた。
「好きなの選べば」
少女は困惑顔から、いきなり嬉しそうに笑顔に変わる。可憐な花が咲いたような、相手にただ好感しか抱かせない笑顔。
それでも藤俐は、距離を縮めるつもりはない。
「じゃあ、これがいいです」
少女が差し出してきたのは、八× 八マスの緑の盤面に、白黒の丸いコマが付属されている――
「オセロがいいです。しませんか?」
少女の笑顔に、喜色以外の何かを見つけることは藤俐にはできなかった。
「別にいいけど」
つっけんどん極まりない藤俐の態度に臆することのない少女の笑顔を、正直藤俐は計りかねていた。
「黒が先手って決まってるけど、お前はどっちにするんだ?」
いきなりお前呼ばわりに、少女も一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔に戻った。
「えっと、じゃあ白がいいです。白が好きなので」
そしてオセロが始まった。少女の手つきはたどたどしい。
「先輩はオセロ強いんですか?」
「そもそもあまりやらないからわからないな」
ことん、ことんとコマを置いては裏返していく作業が続いていく。序盤は白が優勢だった。
「ゲーム好きじゃないんですか? その、あまり楽しそうには見えないんですけど」
「俺は部員合わせだからな。この部は幽霊部員も多い」
「そうなんですね。……あれ、この箱、リバーシって書いてありますね。オセロじゃないんですか?」
「商標とか色々あるみたいだな。どうでもいいけど」
「でもちゃんと答えてくれるんですね。優しいです」
「…………」
ことん、ことんとコマが白に裏返り、黒に裏返りを繰り返していく。
コマがひっくり返るのを繰り返すたびに挟まれる会話のせいか、少女のおどおどとした態度は緩和され、距離感が近くなってきている。あまり良くないな、と藤俐は直感する。
だから、少女のペースに巻き込まれる前に、勝負に出ることに決めた。
緑の盤面は、白が若干多く占められてきている。あと何手かで勝負は決まるだろう。
「まあ、俺はどっちかと言うと駆け引きは苦手なんだ」
「そうなんですか?」
「お前、《プレイヤー》だろ? 俺と《ゲーム》しに来たんだよな?」
あまりに愚直に、ただ知らない人間には意味の分からない単語で持って、直接に。
藤俐は嘘をつくのがこの上なく苦手だった。性質以上に、《願い》に反するものだからだ。
雨宮紗緒は、きょとんとしたまま、何もわからないと言った風で、動かない。
ただ、何も知らないにしては、動かない時間が長すぎて――
「――ふふっ」
そして今までのおどおどした態度が嘘のように――おそらく実際に、演技だったのだろう――穏やかに嫋やかに、だけども静かな迫力を持って、微笑した。
直感が正しかったと、藤俐は警戒のギアを二段階上げる。
(ヤバい相手に当たったかもな)
それでも内心の焦燥は一切見せず、藤俐はもう敵意を隠さない。
「俺でよければ、相手になるぞ?」
挑発にも少女は微笑して、乗らない。
ただ首を横に振り、少しだけ残念そうに、微笑を薄めた。
「こんなに早く見破られちゃうなんて、さすがは先輩ですね」
だけど、表情には嬉しさが含まれている。その意味が分からず、不愉快だった。
「できれば何も知らない形で、しばらくは普通の学校生活を先輩と送りたかったんですけど。初日でばれちゃいましたか。訊いてもいいですか? 何故わかりました?」
純粋に疑問をぶつけるようで、だけど藤俐の敵意を無視した穏やかな微笑はそのままで。
だから、苛々はした。その苛々を、更に敵意に変える。
「お前は強い。そういうやつは、気配を隠すのが下手なんだよ。隠す必要がないからな。まあ演技力は認めてやるが」
事実の割り出し方を言って手札をばらす馬鹿は流石にしない。だけどまるっきりの嘘でもなかった。その部分は直感でしかないから、根拠がないだけだ。
少女は、少し納得いっていないようだった。これだけ気配を切り替えられるのに、それが下手だと言われても、確かに納得はいかないだろう。
「わたしのこと、知っていました?」
「いいや」
そう、知らない。自分には少女の情報がほぼない。対して、向こうは明らかに情報を持っている。不利はこちらだ。
少女は少し落胆する。それ自体は嘘だとは思えないが、表情を見抜くことに関しては自負を抱いている藤俐にも、少女の真意は分かり辛い。
「わたし、先輩のこと、以前から知っていました」
唐突に、少女から微笑が消える。真剣な気配。
藤俐も身構えるが、だがしかし、少女には敵意を感じない。ただひたすらに、真剣さがある。
「わたしは、先輩の《願い》に救われたんです。あなたは覚えてない、小さなことかもしれない。でも、だから――」
そして、少女は、
「ずっと、ずっと、好きでした」
とびっきりの笑顔を、藤俐ただ一人に向ける。
「わたしを、パートナーにしてください」
そして、告白される、想い。
――今やり取りされているのは、全身全霊を込めた《願い》のはずで、
その《願い》をかけて、藤俐たちは《ゲーム》に臨んでいる。
少女もその《プレイヤー》の一人で、《プレイヤー》は《願い》を賭けた敵同士でしかない。
《ゲーム》と矛盾した好意と告白は、藤俐を一瞬、淡い硬直に追いやった。
白黒のコマを動かす手が、完全に止まる。
「……、パートナー?」
「はい」
少女は鸚鵡返しの言葉にも肯定を返す。藤俐としては意味が分からない。
「どういう意味でだ? 俺とパーティーを組みたいってことか?」
「……」
僅かに非難がましい視線になった。何故だ。
「それもそうですが、パートナーと言ったら普通は恋人じゃないですか?」
何故そうなる。
もしかしたら、自分はとんでもない女と向き合っているのかもしれない。というか、全く覚えがないのにそう言われるのは、はっきり言って単なる敵と相対する以上に怖いものがある。
「でも、先輩が恋の告白を受けてくれるとは思ってませんけど」
だから、パーティーとしてでも構いません。そう言われた。
(俺の《願い》を知ってる……?)
口振りからして確実にそうだった。
「パーティーね。まあ、そういう例はあるっちゃあるが」
藤俐たち《ゲーム》の参加者は、《プレイヤー》と呼ばれ、互いに闘っている。
――《ゲーム》の参加者は《願い》を叶えてもらい、その《願い》を維持し完成させるために、《討伐案内者》を奪い合う。
要は先払いで《討伐案内者》と契約し《願い》を叶えてもらい、《願い》を叶え続けるために他のプレイヤーから《討伐案内者》を奪うのが、この《ゲーム》の基本ルールだ。
契約したら、《願い》と《討伐案内者》の性質から《主スキル》が決定する。プレイヤーはこれを基本の武器にして闘っていく。一定の勝利を得れば、《願い》の固定に必要なエネルギー量が集まり、《願い》は完成する。対して、敗北した場合、どうなるか。
――《討伐案内者》が破壊されれば、《願い》は壊れ、《願い》にまつわる全てを忘れてしまう。
無論、《ゲーム》に関することも忘れる。《願い》に対する思いが強いほど心のダメージも大きく、場合によっては廃人同然になるらしい。
そして《討伐案内者》を破壊して手に入れるのは、《願い》を叶えるエネルギー。《ジュエル》と呼ばれる、力の結晶のようなものだ。《討伐案内者》が《願い》を《ジュエル》に変えることで、《願い》は固定化される、とのことらしい。《討伐案内者》とジュエルは不可分の関係なので、殆どのプレイヤーはあまり区別していないのが現実だ。
ジュエルには力の指向性などはなく、単純にエネルギーとしてあるだけ。《討伐案内者》を維持し《願い》を叶え続けるにはこのジュエルが必要となってくる。だから闘わない、という選択肢はあり得ない。そして維持する以上の《願い》を固定することができるほどの《ジュエル》を集めて、そこでようやく《ゲーム》は終わる。
この《ゲーム》の性質上、プレイヤー同士が組むというのは、戦略として普通のことだ。《討伐案内者》の奪い合いの《ゲーム》はバトルロイヤル或いはゼロサムゲームの性質を持っている。だが《討伐案内者》は、数は少ないにしろ、いつの間にか何処かからやってくる。《討伐案内者》は出自を語りたがらないのでどこから来るのかは知らないが、《願い》を叶え、代わりにプレイヤーとなるという契約そのものには関係ないので、藤俐は積極的に知る必要を感じていないし、正直なところどうでもいい。
《願い》を叶えるのに必要な《ジュエル》の量は《願い》によって変動するため、不確かなものの、プレイヤー全員と戦わなければならないほどではないとされている。ならば、パーティーを組むという戦略も当然成り立つ。
ただそれも、信用と信頼が成り立ってこその話だ。
「俺はお前を信用できない」
はっきりと断る。少女は当然だと言ったように頷いた。
「そうですね。先輩ならそう答えると思っていました」
「お前に俺と組んでメリットはあるのか? その逆は?」
「わたしは先輩が好きだから、その一言です。先輩は、そうですね……」
油断もしていなかったし、目を放したわけでもなかった。
なのに、少女の姿が掻き消えた。
「!?」
すっ、と。
少女はいつの間にか、藤俐の背後に回り込み、背中から抱きしめる。
細い腕と髪の匂いが、絡まる。
血と蜜を混ぜて水で薄めたような、理性を溶かすような甘い熱情が、開いた窓から乗ってきた桜の香りと混ざり、蠱惑的な色香を纏った。
「わたし、強いですよ。先輩より、……きっと、どんなプレイヤーよりも」
ふふ、と笑声に、嗜虐の色が混じる。
強者が弱者を弄ぶ、残酷で酷薄な色。
「さっき、パートナーってどういう意味かって仰いましたよね」
藤俐は少女を振り解けない。僅かにでも動いたら、何もかもが、一瞬で終わってしまいそうで。
「どんな意味でもいいんです。でもできれば、一番は、恋人がいいなとは思ってます。先輩を愛し、先輩に愛されたいと想っています」
少女の告白は切実で誠実で、なのに強迫で脅迫だった。
「パーティーとしても構いません。先輩の隣にいたい。先輩の隣で、先輩の日常に混ざって、一緒に過ごしたい」
だけど、と。
甘さすら感じる愛しさがあるのに、その愛しさは血のような――あるいは死、そのもののような――おぞましい気配が混ざる。
「先輩が望むなら、とびっきりの敵になってあげます。《願い》もそれ以外も、全てを壊す、とびっきりの敵に」
数瞬、周囲が静寂になる。
少女は藤俐の体温を名残惜しむかのようにギュッと力を込めると、ふっ、とおぞましい気配の消失と共に離れた。
「あと四手で、わたしが負けますね。オセロの方は」
微笑に、今までの狂的な感情はなかった。
「ですけど、《ゲーム》ではわたしは負けません。たとえ、大好きな人が敵に回ったとしても」
それでも藤俐が気圧されるほどの真剣さは、そのままで。
「これは、お近づきの印と、オセロで遊んでくれたお礼です」
ぎゅ、と握手するように、何かを握りしめられる。
藤俐はただ、されるがままだった。
「それじゃあ、また。明日、部室で」
そう言って、少女は去って行った。
「…………」
少女が去ってしばらく経っても、藤俐は動けないでいた。
「まだ生きているよな? 俺」
スマートフォンが一度、呆れたように安心させるように、ブォン、と震えた。
†
『キミも案外、隅に置けないね』
「やかましい」
藤俐は寮の自室に戻り、ベッドに倒れこむ。かなり疲れた。
『キミにしては、焦りすぎたようだね』
自室に戻ったのをわかったように、PCが話し出す。億劫そうに、藤俐は視線だけをPCに向けた。
グレーのロシアンブルーの気品ある様を可愛らしくデフォルメしたキャラクターが声に合わせて唇を動かしている。見た目の可愛らしさをは裏腹に、声には感情はあまり込められていない。性別や年齢のわからない、無機質な声質は可愛らしいネコの見た目とは不似合だったが、藤俐はその不自然さも慣れていた。
「プレイヤーが向こうから来たんだ。準備もできなかったらああなるだろ」
少しは言い返してみたが、
『基本的に準備は常にしておくべきものだよ。《ゲーム》は基本、遭遇戦なんだ』
指摘した、といった感じすらも受けない。このネコもどきの口調はいつものことだから気にしてはいけないのだが、苛立ちは増す。
「俺のスキルは正面戦闘には向いていない。事前の情報収集からの奇襲が基本戦略なのは、お前も承知しているだろう」
『そのキミにしては、多少慎重さを欠いていたようだけどね。ただ、確かにそろそろ《ジュエル》を手に入れてもらわないと、ボクも困るけども』
「わかってるなら文句言うな」
このネコもどきのキャラクターは『ラディ』という、藤俐の《主討伐案内者》だ。
「ったりぃな……」
『あの少女のことだね?』
「他に何がある」
ベッドから起き上がる。ようやくPCのラディに顔を向ける。
「お前、どう思う?」
『その前にまず、勝利条件の確認をしよう』
わかりきったことをと思うが、ラディは情報量の齟齬を極端に嫌う。情報の共有と確認は、《ゲーム》の前の様式美のようなものだった。
『《主討伐案内者》を破壊すればジュエルが手に入る。契約したプレイヤーは《願い》にまつわる全てを忘れ、ゲームオーバー。破壊することなくそのまま奪えば副スキルとして新たなスキルが手に入り戦略が広がる代わりに、契約したプレイヤーはまだ《ゲーム》上は〝生きている〟から、奪還の危険性がある。ボクは基本的には前者を勧めたいところだけど、トーリのスキルは攻撃系ではないからね。まあいずれにせよ』
ラディの長広舌がようやく終わる。正直一番大事な部分だけを確認できればそれでいい。
『〝他の方法〟をとるなら話は別だけど、色んな意味でお勧めはしない。サオの《主討伐案内者》が何に宿っているか、それを突き止めないと話にならないね』
「結局はそこだな」
ラディの場合は電子の海、ネットのある画像と音声に憑依している。ラディを破壊するにはネットのクラウドからオリジナルのデータを消し去らなければならない。PCに相当詳しい人間でないと難しいだろうと藤俐なりに悩んだ結果、PCにもスマートフォンにも現れるという面倒な《討伐案内者》になってしまった。だがその結果、電子の海に関してはほぼ敵なしだった。
『雨宮紗緒、十五歳。血液型はAB型、二〇〇二年九月三日生まれ』
ずらずらとプロフィールが並べられる。ノートに書かれた雨宮紗緒の名前とケータイの番号、メールアドレスからラディがハッキングとクラッキングを駆使して手に入れたものだ。藤俐自身、PCのスキルは同年代と比べても遥かに高いし、ラディを電子の世界の住人になるように勧めたのも藤俐だが、予想以上にラディは馴染んだ。ラディは場合によっては市や県、警察の情報や防犯カメラの映像などもハックできる。スキルが弱い藤俐が今まで負けないでいられたのは、正直ラディの働きが大きい。一応は感謝している。
『私立森明女学院中等部……この学校の姉妹校だね、女子中学校だ。そこの出身だよ』
「一応、他の学校よりは交流があるが」
藤俐は中学から共学であるこの私立深明学園の中等部にいた。入学した頃はまだ髪も黒かった。
『フルートの大会で全国二位に輝いている。すごいね。成績も体育以外は非常に優秀で、品行方正な生徒だったようだ。補導歴等もなし』
「お嬢様学校のあそこでは珍しくない経歴の持ち主だな。とはいえ、それなりに目立つ生徒ではあるはずか」
『フルートは生徒会で会長を務めるようになってから辞めたようだけどね。学校の情報からはここまでかな』
それだけ優秀な人間なら知っている人間も多そうだ。だが、とも思う。
どうも、そのプロフィールと最初に現れた時の小動物的な印象とは合わない。かと言って、常にプレイヤーの時のような圧倒的なおぞましい気配の持ち主なら、さすがに今まで見逃していたというのはどうかしている。スキルもそうだが、何よりも気配の切り替えが彼女の行動や心理を読みにくくさせている。分かってはいるが、難敵だ。
『家柄も調べてみたけど、主に医者の家系のようだ。病院経営者と言った方がいいかな、彼女の親は。非常に優秀らしいよ。金銭的な余裕は大きいだろうね』
「…………」
『一応言っておくよ。フーカの住んでいる病院は、雨宮の家の者が経営している』
「……やっぱりか」
人質に取られていると見た方がよさそうだ。――焦るな、まだ何も始まってすらいない。
『家族構成は父、母、兄、本人だね。これ以上は電子の海から拾うより、人の評判を聞くべきかな』
情報はそれなりに集まったが、はっきり言って何も役に立たない情報だった。このプロフィールだけなら、順風満帆と言っていい人生を送っている。だが何に《絶望》するかなど、そんなものは人それぞれでわかりっこないのだ。
正直なところ、《討伐案内者》が何に宿っているのかを知るのは難しい。当たり前だがそう簡単に口を割る訳がないからだ。訊きだすには、手荒な真似をする必要がある場合も多い。
藤俐はそういったことも厭わないつもりではいる。だけど、現実は――〝つもりはつもり〟で終わってしまっている。
「パートナーの件に関してはどう思う?」
『安易に答えは出せないな。情報が足りないからね』
そりゃそうだな、と対して藤俐は落胆を見せずに納得した。《ゲーム》に対する慎重さは、互いが互いに理解している。
『少女自身の印象としても、かなりの曲者といった感じがするしね。そもそも、ボクらの『第一段階〈Filter〉』を破って部室に入ってきた時点で、スキルが完全に破られている』
「それもある」
藤俐のスキル――『第一段階〈Filter〉』は部室全体に、藤俐の許可した人間か一定以上の力を持つプレイヤー以外に意識を向けない、そんな効果をかけていた。それを本人の自覚すらなく破ったということは、ライオンが蜘蛛の巣を意に介さないのとおなじで、ほぼ無意味だったのだ。
はっきり言って、あの少女に勝てる要素は、現時点では何一つなかった。
藤俐とラディの共通理解として、純然たる現実を認識する。
『とにかく、情報収集だね。安易な返事は避けて、サオのスキルが何かを知って。今はとりあえず、それだけを考えよう。情報が足りない中での憶測は足元を掬われるからね』
「お前は、あの女のことをプレイヤーとしてどう思っているんだ?」
『強い以上に、怖いね』
無機質な声の中に、僅かながら恐怖が混じった。
『一瞬でトーリの背後に回ったよね。あれは空間転移の類じゃなく、単に高速で移動しただけだ。一瞬で最高の速度まで上げることができるんだろうね。大概のプレイヤーはそれで虚が突ける』
キミがさっきそうされたようにね、と釘を刺された。
『戦闘能力は高いだろうし、本人も自負している。何より、キミがもらった三つの《ジュエル》』
去り際に持たされたのは、《ゲーム》の勝利の証である《ジュエル》だった。
『彼女はキミに、人に分け与えられるぐらい、人の《願い》を踏み躙ってきているんだ』
そして簡単に分け与えてしまうということは、他者の《願い》や《討伐案内者》の命の価値を、まるで無視しているということでもあった。
「…………」
雨宮紗緒が、相当に強いプレイヤーなのは、間違いなかった。
戦闘力の低い藤俐なんかは、一瞬で敗北する。
だが断ったら、彼女の言葉通りに、少女は敵に回るだろう。
そして、その結果として行われるのは、
「風花……」
震えが全身を貫く。あのおぞましい血の気配が、藤俐の大事な存在に向けられたら――
『明日はどうするんだい?』
ラディの問いかけに、藤俐はしばし考え。
そして結論は――
†
「うーん」
雨宮紗緒は、迷っていた。
「……ここ、どこだろう」
カッコつけて憧れの先輩と別れたのはいいものの、そもそも引っ越したばかりでこのあたりの地理に明るくなく、紗緒は藤俐が自室で作戦会議をしている時間になっても、まだ自宅に戻れないでいた。
「にしても、早かったなぁ。……どこでバレたんだろ」
おそらく、部室に罠がかけられていたのだろうと、紗緒のプレイヤーとしての部分が冷徹に推測する。
例えば、単なる入部希望程度の意思ではそもそもたどり着けないような、迷彩がかかっていたとか。
その迷彩を破ることができるのは、藤俐の知っている人間か、プレイヤーだけ、とか。
「あれで良かったかな。うーん。ちょっと脅しすぎたかな」
言葉の内容とは裏腹に、表情は愛しむように、嬉しそうに今日の思い出を振り返っていた。
「もっと普通にオセロとかしてみたいなあって思ったけど」
苦笑も嬉しさに変わる。
やっと、同じ舞台に立てたのだから。
「風花さんもあの部室に戻ってくれば、きっともっと楽しいだろうな」
その為には、紗緒も何とか入部して、藤俐の傍にいなければ。
ビクン、と身体の中が震えた。
大丈夫、と声をかけるが、効果はない。がくがくと、恐れによる震えだけが伝わってくる。そう怯えなくても、殺したりするつもりはないよと伝えるが――むしろ恐れは増した気がする。
だからもう恐れを払うのは諦めて、愛しく撫でるだけにした。
個人的にとても好みの《願い》で、それをどうぶつけようかを考えるだけで一日を愉しく過ごせそうな、純粋で愚かで弱く強い《願い》だった。だから紗緒は、これを憧れの先輩に見せようと思って、とっておきとして、大切に扱っている。
「とりあえず、帰らないと」
紗緒は周りを見回す。周囲に人影や視線はない。
グ、と力を込めると、スキルを発動する。
そこにはもう、少女の姿はない。
ただ一筋の水が、雨でもないのに流れていた。