てのひらから零れ落ちて。
「や……だ」
飛び散った赤い液体を掻き集める。手の平から零れ落ちる液体を、必死の思いで集める。
クルルの悲鳴が聞こえる。せるちゃんの怒号が聞こえる。リフルちゃんの激昂が木霊する。
自由の利かない手足を懸命に動かして、息も絶え絶えなハムちゃんに縋りつく。
――死なないで。
幸いなことにかなりのダメージではあるが臓器はかろうじて原型を留めている。治療も間に合う。手をかざして、必死に魔法を発動する。
せるちゃんがこれ以上の血の流出を止めるために傷口を凍らせる。大丈夫だ、まだ死なない。死なせない。
血を吐きながら、ハムちゃんが咳き込む。薄れている意識をどうにか持続させないと。生きる意志を、諦めないで。
「はむちゃん、はむちゃん……だめ、早く、はやく治すから!」
「える、るさ、ま……」
傷口にかざした手から淡い光が漏れる。傷口を塞ぎつつ、貫かれた内蔵を回復させていく。
まだ間に合う。大丈夫だ。絶対に死なせない。失いたくない。
思った以上に傷が深い。臓器の再生と回復にはもっと時間が必要かかる。
ボクのことなんてどうでもいい。とにかくハムちゃんを、ハムちゃんを治さないとっ。
ハムちゃんの身体が痙攣するたびに、傷口から血が飛び出してくる。ボクの身体を真っ赤に染めていく。
拭うこともせず魔法を続ける。リフルちゃんに受けた呪いよりも、ポセイドンから受けたダメージよりも酷いダメージ。
治りが悪い。治るのが遅すぎる。黒ずんだ傷口を見て、はっ、とする。
そうだ、ハムちゃんは黒の力を宿した右手に貫かれた。それはつまり破壊の力。万象森羅を駆逐する、絶対的な滅びの力。
今までボクが使っていた力。災害とも言うべき力。それが今、ハムちゃんを苦しめている。
どうしよう。
黒の力によって破壊されたものを救う方法を、ボクは知らない。
見つけることができなかった。十年の時の中で黒の力を出来る限り調べたけど、その力から逃れることなどできなかった。
ボクしか使えない。そしてボクは家族に牙を向けるつもりはないし、ボクが誰かを助けるなんて思ってもいなかった。
怠慢だ。ボクがそれでも諦めず黒の力をどうにか捻じ曲げられる方法を見つけておけば――ハムちゃんはこんな苦しむことはなかったのに。
やだ、やだ、いやだ。
このまま魔法を続ければ治せるかもしれない。でも、このままここで治療を続けることなんて不可能だ。
空には冥界が作り上げた鋼鉄の船。ボクたちを舐めるように見ている、あの人。魔法を使い続けているボクを嗤っているのか、それとも。
クルルもリフルちゃんも、黒の力と炎を出してはいるが積極的に攻撃に出ようとはしない。
ボクたちの中で最も反応が早いハムちゃんが一方的に貫かれたこともあるし、リフルちゃんにとってはかつて自分を追い込んだ黒の力だ。
防御に回るだけなら可能だろうけど、攻めには回れない。リスクが高すぎる。
「さて、封印も完了した。ファフニールは虫の息。あとは――」
あの人が、動き出す。ファフニールの老体を封印した黒いカードをポケットに仕舞って、ボクを見つめた。
嫌だ。あの人に、見られたくない。本性をむき出しにしたあの人の手が伸びてくる。
「さあ、還りましょう。我らが神よ」
「エルルっ!」
抱きかかえられる。自由の利かない手足をばたつかせて必死の抵抗をする。
だめ、やめて。ボクはハムちゃんを治さないといけない。早く、早く治さないと。
「や、だめ。ハムちゃん、ハムちゃん……!」
「無駄だ。私の力に飲まれて無事な生命など存在しない。それはお前が一番知っているであろう?」
「あ……」
頭の中を、靄が覆っていく。認めたくない事実から、顔を背ける。
助からない/嘘だ魔法を続ければ/やがて死ぬ/ボクは不可能を可能にする魔法使いになるんだ/諦めろ/嫌だ絶対に嫌だ。
「エルルを――離せぇッ!」
「――それが?」
せるちゃんが放った上段蹴りを抵抗もなく受ける。でも身体が揺れることすらない。幸いなのは、ボクを抱きかかえているために両手が使えない――黒の力で応戦できないこと。
「エルルを連れていかせんぞ!」
「離してよっ!」
リフルちゃんが行く手を阻むように炎を吐く。クルルが漆黒の球体を向ける。あくまで攻撃しないのは、ボクを気遣ってだ。
違う、そうじゃない。迎撃とか、ボクをどうにかするんじゃなくて、ハムちゃんを助けて。
まだ間に合うはずなんだ。皇帝竜であるハムちゃんは生命力も桁違いで、黒の力に傷つけられようともしっかり治療ができれば大丈夫なはずなんだ。
だから、だから、だから。
片翼が開く。幾度かの屈伸と共に、大きく、跳躍した。
竜王の間が小さくなっていく。人間離れした垂直飛びは、なんの苦労も無く鋼鉄の船に飛び乗った。
見えなくなっていく。竜王の間が。せるちゃんが、リフルちゃんが、クルルが、ハムちゃんが。
そして。
――ハムちゃんと繋がっていた魔力が、消えた。
「あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
+
エルルが攫われた。助けないと。
ハムの傷が治らない。わかっている、黒の力によるものだ。助けないと。
ファフニールがよろよろと起き上がる。口から血を吐いて、小さな体を懸命に起こしている。助けないと。
頭の中がぐるぐるする。どうしてエルルが攫われた。
どうしてハムが死に掛けている。どうしてファフニールが狙われた。
「クルル、とにかく今はハムを」
怖いくらいに冷静だったのは、私でもリフルでもなく、セルだった。
表情から感じ取れる、明らかな激昂。誰かへの、ではない。自分への怒り。
セルにとって一番大事なのはエルルだ。そのくらいは一緒に過ごしていればすぐにわかる。
セルはエルルと一番最初に契約した神であり、最初に家族になった存在。エルルを何よりも優先する。
そんなセルが、攫われたエルルより傷ついたハムを優先する。そこに少しだけ、違和感。
でもそんな違和感はすぐに消える。なんとなくだけど、言葉ではハムを気遣っても空を睨み続けているからわかる。
自分だけでは勝てないから。ハムの力が必要だから。
恐ろしいほど冷静に、状況を分析していた。セルの中でハムを助けるのはもう決定事項で、見捨てるという選択は無い。
私も同感だ。ハムをここで死なせてたまるか。死なせない。絶対にだ。
初めて世界に出てきた私に、最初に私を認めてくれた存在。
でも現実は残酷で、溢れる血が床を赤黒く染めていく。貫かれた傷口はまったく塞がっていない。
「にん、げんよ……」
「ファフニール。動くでない。すぐに助けを呼んでくる」
「……よい。我ももう手遅れだ……」
「……そんなことを言うな。まだ間に合う」
よろめいたファフニールが近付いてくる。リフルの制止も利かず、ファフニールがハムの顔を尾で軽く叩く。
生気を失っているハムに当然ながら反応は無い。やがてゆっくりと、ファフニールが口を開いた。
「我を喰らえ、皇帝竜よ」
「え……」
「もう長くない命よ。力を奪われ、無残に討ち果てられた……滑稽よ。竜の王でありながら、情けない」
ファフニールが私を見つめる。深紅の宝石のような瞳が私が抑えている傷口を見る。
もう、血は止まった。違う。流れるほどの血が、もうハムにない。それほどまでの重症だ。胸にできた大穴は、ハムの命をこの世界から容易に奪う。
それでもまだかろうじて息があるのは、竜種としての高い生命力か。
「セルシウスよ。我を胸へと置いてくれ」
「わかったわ」
ファフニールに言われるがままにセルが幼竜をハムの胸へと運ぶ。
貫通した胸は、かろうじて臓器を交わしている。だがそれだけだ。守るべき骨は役に立たず、身体を支えるための背骨ももう無い。
傷の再生なんて生半可なレベルじゃ解決しない傷を、どうするというのか。
喰らえと言った。でも、今のハムは意識を失っている。自由意志なんてない。
「皇帝竜よ。貴様に力をくれてやる。命をくれてやる。その代わり、冥界の者どもを」
それは一方的な契約だ。ハムの確認もしないまま、ファフニールが魔力を集中させる。
立ち上る光。ファフニールの小さな体が溶けていく。光に変わっていく。
光が凝縮する。圧縮される。それはまるで宝石のように光り輝いて、溶け込むようにハムの胸へ吸い込まれていく。
光が活性化していく。傷口が見る見るうちに再生していく。違う、これは再生じゃない。
新しい力が、覆い隠していく。傷を塞いでいく。光が傷を覆い塞いでいく。質量を持たないはずの光が質量を得る。
ファフニールが消えていく。ハムの身体が塞がっていく。同じ竜種だから出来ることなのだろうか。違うファフニールはハムが皇帝竜だって知らない。
これは奇跡だ。奇跡という言葉以外、私は見つからない。
ファフニールは何を思って命を託すのか。残された力を託すのか。真実はファフニールにしかわからないし、私たちにはどうでもいい。
竜の咆哮と共に、白き翼を生やして――皇帝竜が、目覚めた。




