竜の片鱗
頭に直接響く声。この場の誰でもない、ポセイドンの声。
氷が、砕けていく。まるで何事もなかったかのように、せるちゃんによって凍てついたはずのポセイドンが活動を始める。
巨人の瞳に光が灯り、視線がハムちゃんに向けられる。咄嗟に距離を取ったハムちゃんは、苦々しい表情をしている。
ポセイドンは何度か周囲を見渡す。イフリート・リフルを、せるちゃんを。そしてハムちゃんを交互に一瞥して。
顎に手を当てて、哄笑する。
『……ほう? お主、バハムートではないか』
「おや、ヒトの身を偽っているので気付かれないと思いましたが」
『ほほほ。間違うわけが無いであろう。かつて我を追い詰めたことのある忌々しい竜めが』
「さて、何のことでしょうね。昔のことすぎて忘れました」
『ほほほ』
「ははは」
『神の前じゃぞ。平伏せ。小僧共が』
お断りします、と一蹴してハムちゃんが鋭い目つきでポセイドンを睨む。
ハムちゃんは、ポセイドンと面識があるようで。それも戦った、忌まわしき思い出として分類されているみたい。
振るわれた腕へ着地して、振り落とそうと上下運動する腕を意にも介さず、卓越した体幹がハムちゃんの身体を不自由な足場で自由にする。
ハムちゃんが跳ぶ。その腕に魔力が集う。
「『竜の片鱗』」
胸の前に持ってきた腕に紫の光が集い、ハムちゃんの腕が変質する。引き締まった人とは違う竜の筋肉と頑強な肌へと変化する。
ヒトの身体に、部分的に竜の身体を調整して置換する。再顕現とは少し違う、ハムちゃんのようにヒトの姿をしている魔物だから出来る芸当。
伸ばされたポセイドンの腕を、背に生えた竜翼によって機動を変えて回避する。振るわれた拳がポセイドンの顎を直撃し、鋭いアッパーカットで巨人が揺らぐ。
高度からの着地を、変質した竜の両足が衝撃を和らげる。両腕両足、そして翼を得たハムちゃんは、まさに竜人という言葉が当てはまる。
「何を呆けてるのですか、セル、リフル。さっさと片付けますよ」
「え、ええ」
『もうハム単騎で大丈夫じゃろ……』
一撃で巨人をよろめかせる竜人のハムちゃんに、味方であるせるちゃんとリフルちゃんですら引いている。
無理もない。詳しく説明したことは無かったけど、せるちゃんやリフルちゃんと比べるとハムちゃんはより『理不尽』だ。
せるちゃんやリフルちゃんが弱いわけではない。
ただ、ハムちゃんが規格外すぎるのだ。
かつて城塞都市を一夜で滅ぼしたという伝説を持つバハムート。他にも数え切れぬほどの逸話を持っていると聞く。
原初の神ではない。だが、恐らく原初の神を除けば最古参の神である。
それこそが、皇帝竜バハムート。
なぜかボクに忠義を誓ってくれる、優しくて強いハムちゃんだ。
『ぬわっはっはっは。バハムートよ。手を抜くとはお前も温くなったのう!』
「面白いことを言いますね。眠りすぎて頭が壊れましたか?」
『違うわ違うわ。かつての貴様であったら今の展開から追撃で我を殺しにかかっただろう?』
「そうですね。ですが今回はエルル様の指示もあります。貴方を呼び出したその男を確保しなくてはいけませんのでね」
『それが温くなった、というのだよ』
「……ほう」
仰け反った上体を戻したポセイドンが笑う。
漏らす笑い声から、次第に叫ぶように大声で笑う。巨人の笑い声だけで大気は震え、ボクにまで震動が届く。
『以前の貴様であれば手段を選ばず目的を達成していた。主の指示だと? 笑わせてくれる。今貴様は、何をしても我を殺すべきだった。殺せないにしても致命傷を与えるべきだった。それが出来たはずなのにしなかった。それがどういう意味かわかるか?』
「……まさか」
ポセイドンの瞳が、ボクに向けられた。
いくらポセイドンが巨大だからと言って、かなりの距離をとったボクを、ハムちゃんやせるちゃんたちを無視して攻撃できるわけが無い。
ましてボクの周囲には攻撃を無効にしてくれるバリアを四重に展開にしている。不安は無い。絶対に安全なはずだ。
だが、ポセイドンは笑っている。
『温すぎるぞバハムート。此処がどこかを忘れたか』
ポセイドンが三叉の矛を振りかざす。当然のように三叉の矛は天井に突き刺さる。
天井……そう、天井だ。
天井は、海なんだ。この海底都市がどのような魔法で保たれているかわからないけど、ここは海の底。
『ニンゲンは脆い。水の中ですら生きることの出来ぬ軟弱な存在よ』
三叉の矛が引き抜かれる。天井から決壊したかのように水が流れ込んでくる。
海が、迫ってくる。天井が下がってくる。滝のように海水が海底都市に流れ込んでくる。
その勢いは止まることを知らない。徐々にボクの足元を水が飲み込んでいく。
不味い、本能が命の危機を告げる。
「やら、せないわよっ!」
『ほう?』
勢いよく流れ込んでくる水を、氷を足場として跳んだせるちゃんがせき止める。ガラスのように罅が入った海底都市の天井を、凍らせる。
だがそれでも水は流れ込んでくる。せるちゃんはさらに凍らせる範囲を広げる。
『面白いのう雪の小娘よ。そんなにも矮小なニンゲンが大事か?』
「当たり前でしょ。生涯尽くすに値する素敵な主よ」
『わっはっはっはぁ! ならば守り抜いて見せるがよい。我が攻撃からも!』
「させま……せんよっ!」
水を止めるだけで精一杯のせるちゃんを庇うように、ハムちゃんがポセイドンの前に躍り出る。
それを待っていたのだろう。振りぬかれた拳がハムちゃんを叩きつける。それでも懸命に受け止め、ハムちゃんはふんばって拳を抑える。
せるちゃんに攻撃が届かないように。ボクに危害が加えられないように。
わかっていたことだ。あれだけの巨人が、神が、攻勢に出ればボクたちが不利になることくらい。
でも攻勢に出てくれたからこそ、疎かになる部分もある。
両手を攻撃に使ってくれているから、ジェレミアさんは意識を失い眠っている。
今なら、確保できる。
念話を飛ばす。今すぐに動けるのはリフルちゃん。
応えてくれたリフルちゃんが迅速に動き出す。ハムちゃんはポセイドンの意識を集中させんと視線をかき乱すように空を舞う。
『気付いてないと思ったか、阿呆が』
『ぬ……おぉぉぉぉぉぉ!』
「リフルちゃん!?」
ポセイドンの伸びた腕から、もう一本腕が生えた。新たな腕はイフリート・リフルの身体を掴み、いとも容易く持ち上げる。
「リフル―――ッ!?」
『余所見をするでない』
一瞬、一瞬だった。気が逸れたハムちゃんを、さらに新たに生えた腕が捉える。
普段ならば回避できたはずだ。出来なかったのはせるちゃんを庇っていたからだ。せるちゃんを庇わなければならなかったのは、ボクを守ろうとしたからだ。
ハムちゃんたちを掴んだポセイドンの手から、何かが砕ける嫌な音が聞こえた。
二人の身体から力が抜けて、地面に倒れる。二人は動かない。かすかに聞こえる零れ出るような悲鳴は、ボクに最悪をイメージさせる。
――助けなきゃ!
バリアの防御を無視して、走り出す。足首まで至った水位に足をとられながら、二人の元へ駆けつけようと身体を突き動かす。
遠く離れたことが仇となってしまった。袖から完全治癒のカードを取り出す。
早く、早く、早くしないと!
焦りは視界を極端に狭める。
わかっていたことなのに、それに気付くのに酷く遅れた。致命的なまでに遅れた。
二人を助けたい一心で動いたため、一瞬でも頭から抜け落ちてしまった。
元々二人があそこまでダメージを負ってしまったのは、ボクの所為なのに。
そのボクが二人の元へ駆けつけようとすれば、どうなるか。わかっていたはずなのに。
『ほほう。お前は、ナナクスロイの末裔か』
目の前に、ボクよりも大きな掌が、迫っていた。
大ぴんち!




