クルルの後悔
何か、大事なものが胸の中から消えた――。
嫌な予感がして、竜王の間から空を見上げる。リフルが傍にいるから、何があっても大丈夫、だけれど。
この、胸を引き裂かれるような痛みはなに?
嫌な予感が焦りを生む。どうして私はあの時ハムとセルについていかなかったのか。リフルと私が行けば、エルルを奪還できない可能性は皆無といえるはずだった。
でも、私はハムについていくその一歩が踏み出せなかった。
怖れてしまったのだ。
遥か上空で戦い、敗北し落下することではない。
あの人が、エルルに父だと名乗ったあの人が、私を認めないことを。
私という存在はエルルの半身。私は、あの人が父親であってほしいと心のどこかで望んでいる。
だって、エルルからもらった大切な記憶の中にもなかった、優しい面影だ。お母さんと愛し愛された存在だ。
エルルが撫でられて、こそばゆい表情をしていたのが羨ましかった。あの大きな手で私も撫でてもらいたかった。
父親という存在は、娘にとってそれほど大きい存在なのだろう。
だから、テューホーン・アワリティアと名乗ったあの人に否定されたら。
私はきっと、エルルを守ることも忘れて暴れてしまう。この黒の力で何もかも壊してしまう。
エルルと約束した、エルルを守って、私も幸せになる。そんな願いが失われてしまう。
それが嫌だから、待つことを選んだ。
結果として、どちらを選んでも私は後悔していた――かもしれない。
嫌な予感は、空から落ちてくるハムとセルを見て確信に変わった。
遠目から見て、深手を負っているようには見えない。けれど金属のようなものがハムの身体のいたるところに付着し、動きを封じているようだ。
リフルの炎で――ダメ。金属を溶かすほどの熱量はハムの身体も危険に晒す。セルもいるから余計にだ。
だったら、私が。
「狂流・選流!」
消していた黒い球体を出現させる。黒い球体は高速回転しながら、その球体から糸のようなものがいくつも飛び出ていく。
細分化された黒の力はハムの落下速度よりも速く上昇する。ハムの身体には接触しないように、ハムの身体に纏わりついている金属にだけぶつかるように。
大丈夫だ。私なら出来る。黒の力を後天的に使っていたエルルより、私のほうが黒の力を理解しているしコントロールも上手い。
「ハム! しっかり!」
『っ……クルル様……』
まず、翼についている金属を一斉に破壊する!
大丈夫だ、上手くいった。ハムは少なくとも翼が自由になり、落下を止める。振り落とされないようにしがみついていたセルも無事みたい。
身体に付着している金属の影響か、ハムは着地が上手くできず竜王の間を破壊する形で着地する。大地が揺れる。わわ、危ない。
すぐに身体中の金属の破壊をする。幸いなことに生命機能に影響を与えているわけではなく、ハムの身体を物理的に金属で拘束し、魔法で強引に力を奪った。そんな感じだろう。
金属に触れてみて、そこに残っていた僅かな魔力に触れる。銀と、赤と、青の魔法を混ぜ合わせた特殊な魔法。
さらにそこに紫の魔法で、触れた対象から力を奪う魔法を宿している。少し強引だけど、四つの属性を混ぜた魔法。
属性を纏めて全部をエネルギーにするのとは一線を画す力。新しい魔法の作成とも言える偉業。
残っていた魔力は……間違いない、エルルのものだ。そもそも三つの魔法を混ぜ合わせて使えるなんて、エルル以外そうそういない。
エルルが、ハムに危害を加えた。攻撃をした、という事実。
それがどういうことか、私はすぐに理解してしまった。
「……ハム。エルルは……っ」
「……はい。ハデスとして覚醒しました」
「~~~っ!」
わかっている。ハムが一度死んでしまったあの瞬間。あの出来事が引き金となってしまったことくらい。
ハムとセルは全力でエルルを取り返すために戦ってくれた。エルルが望まない殺生もしてしまったかもしれない。
でもそれくらい、二人にとってエルルは特別で大切な存在だった。間に合わなかったのは仕方のないこと。
ハムが意識を取り戻すまでの十分にも満たない僅かな時間。それから上空でエルルを探すための戦っている時間。
全てを合わしても一時間にも満たない間に、エルルの中にいたハデスが記憶を取り戻した。
ハムの死で茫然自失としていたエルルにとって代わられた。
エルルという人格はもう、消えてしまったのかもしれない。
わかっている。誰も悪くない。原因があるとすれば、それは間違いなく私たちの冒険を邪魔したお父さん、だけ。
わかっている。わかっている。でも、あふれ出る気持ちは抑えきれない。ハムの頭を何度も殴ってしまう。何も言わず、ただただハムは受け止める。
それが余計に私を惨めにさせる。慰めの言葉もかけてもらえない。わかっている。これは全部私の八つ当たりだ。
エルル。エルル。私の半身。私の姉。特別でかけがえの無い存在。
消えてしまった。エルルが。
「……クルル」
泣き喚く私を、セルが抱き締めてくる。冷たい身体が熱くなった私の意識を急速に冷ましてくれる。
温もりは冷たくても、暖かな心は伝わってくる。
わかってるんだ。目の当たりにした二人のほうが辛いことくらい。
私よりも長い付き合いの二人のほうが苦しんでることくらい。
でも、でも、でも。
「エルルはまだ、消えてないかもしれないの」
「……え」
「エルル……ハデスは最後に、私を見て『せるちゃん』って言った。それまでずっと『セルシウス』って言っていたのに」
「それじゃ……!」
それは、エルルが消えていないという確かな証拠。セルをせるちゃんだなんて呼ぶのは、エルル以外に誰もいない。
ましてや神であるハデスがそんな砕けた言葉で呼ぶわけが無い。親愛を込めた愛称で呼ぶわけが無い。
でも、ハデスが呟いた。それが気になる。
エルルは消えていない。でも、ハデスとして活動している。
思考を止めるな。考えるんだ。私の知識はエルルから受け継いだものだけど、思考は全て私のものだ。
自己を軽視し物事を俯瞰的に見すぎるエルルとは違う、私の私のために全てを繋げる思考は、私に希望を与えてくれる。
考えろ。エルルは消えていない。でも、ハデスと名乗った。
セルの話を聞けば、エルル、と呼んでも一切反応が無かったとのこと。
考えるんだ。私とエルルは同じなんだ。思考回路は多少違えど根本は同じ。それはハデスの記憶を得ても変わらないはずだ。
だとしたら。
何かしらの原因で、エルルであることを理解できないとしたら。
「……ハム。エルルの傍にテューホーン以外に誰かいなかった? こう、雑用とかする兵士以外で」
『女がいました。全身を紫で仕上げた妙齢の女性が』
「やっぱり」
強引かもしれない。間違っているかもしれない。
これはあくまで推測だ。でも、私を納得させる答えとしてこれ以上のものはない。
「エルルに何かしらの暗示が掛けられているかもしれない。少なくとも、自分をエルルと認識できない、ような」
ハデスの記憶を取り戻して、エルルの記憶が消える道理はない。
取り戻したことによって、ハデスとエルル、神と人の記憶が混在してしまったとしたら。
記憶の整理のために、エルルの記憶を思い出しにくくすれば。それはもうエルルを消したも同然のこと。
エルルとしての記憶があやふやになれば、ハムやセルを見てもそれが表に出てくることはない。
人格の書き換えでもなんでもない。ハデスがエルルなんだ。エルルがハデスなんだ。
そう考えると、しっくりくる。
最後に名前を呼んだのも、記憶の中から溢れてきたのかもしれない。
それなら取り戻せるかもしれない。違う。取り戻せる!
ハムの瞳に気力が満ちていく。セルの表情が明るくなる。話についていけてないのか、リフルだけが首を傾げていた。
後でちゃんと説明してあげないと。でも、今は。
「ハム。一旦王国に戻ろう」
『ですが――』
「私たちだけじゃどうにもできない。ミリアやユーゴを頼ろう!」
白の力を持っているミリア。類稀なる才能とオーディンを従えるユーゴ。
さらに圧倒的存在としての『色の位階』の一位たちもいる。
トリスタン、ローレン、ウィル、ユーゴ、ミリアリア。残りの三人が誰かはわからないけど、第一位がそれだけいればエルルを取り戻す方法を見つけられる。
さあ、帰ろう。早く、早く、早く。
帰る時間ももどかしい。エルルが用意しておいた転移魔法を私の魔力で起動させる。間違って壊してしまわないように注意を払いながら。
「……助けてユーゴ。エルルを、助けて」
零れ出た言葉は、私自身も驚くくらい――弱気な言葉だった。
クルルだって生まれて間もない女の子!エルルが大好きな女の子。大切なお姉ちゃんだからね!