覚/醒
――――これは私の命をも喰らう。けれどこの魔法こそ私の究極の魔法なの。
誰かの声が聞こえた。懐かしい声だ。それが誰だかわからなくて、手を伸ばしても、虚空を掴むだけ。
零れ落ちる何かはまるで流水のよう。いくら掴んでも決して手の中に残らない。
ボクには、掴めない――そんな風に感じた。
何かが欠ける、音がした。
―――――アナタがアナタを○せないなら、私が永遠にアナタを。
また、誰かの声が聞こえた。大切な声だ。手を伸ばしても、何も掴めなかった。
身体が冷えていくのがわかる。誰かボクを暖めて。ここは、寒い。
また、何かが欠けた。
―――――妾は○○○のことを気に入ったぞ!
誰かが笑顔で応えてくれた、気がした。誰のことかもわからない。わかる。でも、わからない。
大切な人のはずなのに、ボクは何もわからない。
思い出せないんじゃない。顔も名前もわかってる。でもほとんどがぼやけてて、言葉にできない。
欠けていく。カケテいく。カケテイク。
―――俺は、○○○のことが●きだから!
顔を赤くした誰かの顔が浮かんで、消えた。
軋む。くるしい。どうして。いたい。
何かを失った。何かの繋がりを失った。その何かすらわからない。
違う、わからないことにしたい。
だって、そうじゃないとボクは耐えられない。
失うことが、怖くて。
死んだなんて、思いたくない。
でも、繋がりが消えた。それは明確に彼の死を意味してる。
欠けていく欠けていく欠けて欠けて欠けて。
罅が入っていく。うっすらと浮かび上がる水晶体。
その中に、誰かがいる。ボクじゃない誰かがいる。
―――貴女は▲▲▲なんかじゃない!
大切な人の顔が浮かんで、また消えた。
わかる。誰だかわかる。浮かんで消えて浮かんで消えて。
誰かの声も、浮かんで消えて。まるで自分すらも消えてしまったような気がして。
ずっとずっと支えてくれた人の顔が、消えた。浮かんでこない。何も感じられない。
寒い。寒い、寒い、寒い。震える身体を抱き締めながら、消えてしまった誰かの名前を必死に叫ぶ。
助けて!
支えて!
守って!
誰かの顔が、浮かんだ。寂しそうな表情で、でも、笑顔だった。
誰かが手を伸ばしてくる。ボクはその手を掴もうとして。
その手が真っ赤に染まっていく。誰かがうめき声を漏らして消えた。
あ。
あ。
嗚呼嗚呼ああああああああああああああああああああああああ―――――……。
“そうだよ。求めたものは手に入らなかった”
遠く、空を見つめるボクがいた。
“かつて戦女神に愛を求め 戦いを求め そして僕は拒絶された”
ボクじゃないボクの記憶。黒であったボクの記憶。ボクじゃない。でも、ボクだ。
姿かたちは違っても、性別でさえ違っていても、彼は確かにボクそのものだ。
彼が、ボクだ。前世というべきものなのか。
でも正直、どうでもよかった。
“想いは通じ合っていたはずなのに。どうして。どうして。どうして”
嘆き、苦しみ、震え、慟哭が空に響く。
たった一つの芽生えた感情に従っても、それは実らなかった。受け入れてもらえなかった。
だって、ボクと彼女は相容れぬ存在だったから。
“僕たちの思いが一つになれば、空も大地も一つになると同じこと”
現実を受け入れたくなくて。
ボクの理想は、彼女の理想と重ならなかった。
“すべてが一つになるんだ。憎しみも苦しみもない。楽園が出来上がるのに”
“でも、彼女は僕を拒んだ”
“だから僕は、堕ちることを選んだ”
“いつか”
“いつか、愛してもらうために”
“神でない僕なら、愛してもらえるはずだから”
“だって彼女は、地上に住むものが好きだから”
でも、手に入らない。ボクが心の底から餓えて求めたものは、手に入らない。
“だって、世界にとって僕の愛は異常だから”
どうすればいい?
“どうしようか”
ならいっそ、考えることを止めてしまおう。
“その方が、楽だから”
そうすれば
“苦しいことも”
辛いことも
“何もかもから、逃れられる”
だから
“だから”
「さあ、起きよう。ボクじゃない誰か。僕じゃない誰か。最果てへ。いつかの空に。ボクは起きよう。刹那の眠りから。永久の眠りから。もう一度――全てを一つにするために」
自分の言葉が滅茶苦茶になっていく。理解できない感情が身体中に広がっていく。
誰の記憶だ。ハデスの。原初の神の記憶だ。原初の戦いの記憶だ。
違う。戦いじゃなかった。戦いを求めていたわけじゃなかった。
ボクの目の前で誰かが頭を垂れた。銀髪の大人だ。ボクより大きい人が、ボクに頭を下げている。
誰かが頭を過ぎって、消える。誰かはわかった。言葉に出てこないだけで、確かにその人はボクにとって大切な人だってわかった。
銀髪の人じゃない。誰か。
爆発音が聞こえた。顔を上げると、後ろの船が黒煙を上げながら落下を始めていた。
「助けなくていいの? えー、と」
「テュポン、とお呼び下さい」
「そう。テュポン、いいの?」
「ええ。彼らもまた、ハデス様の盾となれるなら本望です」
はです。
それが、ボクの名前らしい。なら、そうなんだろう。なら、ボクは冥王ハデスなのだろう。
頭の中でばらばらだったパーツが組みあがっていく。思い出したくない記憶まで思い出して、顔をしかめる。
あーなんだか、もやもやする。
ボクはハデス。そして『』だ。その名前を口にしてはいけない。心の中で誰かが止めた。
誰だろう。咄嗟に浮かんだこの女性は。優しそうな表情の、今のボクとそっくりな、緑色の髪の女性は。
なんで、と言葉が漏れた。
「なんで?」
口にしても、よくわからなかった。再構築された記憶から答えを探してみるけど、出て来なかった。
あーでも、一つ分かったことがある。
「ねえ、テュポン」
「はっ」
「けーらって、君の大事な人?」
「……はい。私が最も愛した、女性です」
「ふーん。……彼女もね、譲れない思いがあったみたい。でも、きちんとハデスを信奉はしてた。みたいだよ?」
「……ありがとうございます」
心の中で様々な情報が濁流となって押し寄せてくる。全てを処理することなんてできないから、ボクにとって大事なものだけを見極めて、押し込める。
ボクは、愛してもらえなかった。
ボクは愛していたのに。愛して、一つになりたかったのに。ボクたちが一つになれれば、世界も全て空も大地も一つになれたのに。
だから、彼女が愛したものを好きになろう。彼女が愛したものになろう。そうすれば、ボクは彼女に見てもらえる。
これが本当にハデスの記憶かも、わからない。でも、ハデスの記憶として処理する。
けーらってのは、なんだか心に浮かんできた人の名前。優しい思いで、ボクになんかの封印をかけていたみたいで。
ボクはなんかのショックを受けて、その封印が砕け散った。そんな感じがする。
あやふやで、答えが出ない。言えることは一つ。
「誰か、ボクを愛しておくれ」
誰でもない誰か。心に浮かんだ顔が、すぐに消えた。
ねえ、どうしてそんな悲しそうな顔をするの? ボクは君に抱き締めて欲しいだけなのに。
わからない。わからないや。
「おっと」
船が揺れる。空を飛んでいるこの船は、きっと恐らく過去の遺物を用いている。
飛鉱石。ボクの時代に確かにあった、魔力の結晶体。魔力を通せば浮力を得る性質。
飛空挺の存在はまあ伝承くらいには残ってたのかな。んー。どうでもいっか。
思考を切り替える。ボクにへりくだった人たちはまだ頭をあげない。
船が再び揺れた。船首の向こう側にものすごく大きな存在が――竜が、その頭に雪のように白い肌の女性を乗せて立ちふさがった。
誰だろう。ボクは女性を知っている。そうだ。雪の精霊セルシウスだ。あの竜はなんだっけ。
そうだ。バハムートだ。あれ、でもファフニールだ……?
「うーん」
「ハデス様。私たちの道を邪魔する存在です」
「あっそ」
何か引っ掛かるものがあったけど。まあ、いっか。
思い出せないならたいしたことではない。引き出したくない思い出かもしれない。
そうだ。きっとボクにとって大切な存在なんだ。だからどこか引っ掛かるんだ。
でも、違うってわかる。目を見ればわかる。
あの目は、ボクが欲しいものをくれる目では、ない。
「―――『五色業砲』」
咄嗟に出てきた言葉で魔法を紡ぐ。なぜかボクの黒い力は使えなかった。なんでだろう。
まあ、いっか。ドラゴンさん、邪魔だよ。
――おやすみと、おはようで。母の思いも空しく、目覚める。
無邪気な混沌が、竜を否定する……。