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超過!(Expropriation)

『――現在、手元の資料によれば、小田井超短波放送株式会社、以下通称のFMあさまと呼ばせていただきますが、資本金に対し、累積赤字が債務超過になるまで膨らんでおり、これ以上、町からの融資を含め、資金調達は不可能と考えられます。地方交付金および町民のみなさまからいただいた貴重な税金を、災害発生時のライフラインであるとはいえ、この町の身の丈に合わない事業に費やすのは、町民みなさまの理解を得られるのは難しいものと思われますが、町長はどのようなお考えをお持ちでしょうか』

『町長。回答をお願いします』

 議長が町長に呼び掛けると、町長は議場の中心に位置する演壇に移動する。田代という名の町長は確か三期目で、元々は米農家だが、田代家は昔から代々、町議会議員を輩出している家柄だ。息子は町役場に勤め、娘は今年音楽大学に入学したのだという。小田井町は人口一万五千人程度しかいない小さな町である。『あの家の何々さんがどうした』みたいな噂には事欠かず、何かあれば良い意味でも悪い意味でも、情報はあっと言う間に町中に伝播する。


『ご指摘をいただきましたとおり、町長である私が代表取締役を務めていながら、遺憾にも町民のみなさまに満足していただける番組作りができず、現在FMあさまは債務超過状態に陥っており、このままですと、金融機関との取引も停止となり、事実上倒産してしまうのも時間の問題となっております。そこで、損失を最小限に抑えるべく、総務省信越総合通信局に廃止届を提出して会社を解散し、負債につきましては、資産である土地および建物、機材等を売却して相殺し、不足分につきましては株主である町、商工会、青年会議所等各組織の出資比率で按分し、町の負担分につきましては特別損失として補正予算に計上する予定となっております。なお、最終的な損失金額につきましては……』


 質問者である町議会議員も、回答者である町長も表向きは無所属だが、町長や町議の自宅の塀にかかっている掲示板から察するに、同じ政党の党員だったはずだ。予め質問と回答を事前に擦り合わせていることなど容易に想像できるし、廃止は町長たちの中では規定路線で、議会に諮ることで、廃止は免れないという空気を作っているのが手に取るように分かる。先週FMあさまのスタッフたちがわかばに詰め寄っていたのはこのことだったのか。もっとも、放送を聴いてもらうためには、知名度が絶対なはずなのに、生まれてこのかたずっと小田井町民であるはずのはじめですらFMあさまの存在を知らなかったのだから、知名度の低さからして経営難も推して知るべしといったところだろう。

 はじめは、iPodを充電してあるミニコンポの電源を入れ、FMラジオの周波数をFMあさまのそれに合わせてみる。

『……週の前半は比較的小康状態だったんですけど、ロンドンが前日の東京の終値と比べてユーロが三円、ポンドが四円円高と少し荒れ出しまして、泡食ってすぐさま空売りを仕掛けたんですけど……』

 アコースティックギターのBGMとともに、聞き覚えのある女性の声が流れてくる。声の主である和田ゆいが、自分の住まいとしている『景品交換所』から生放送しているのだろう。

『……エンディングも近くなりましたし、今日はほとんどメールを読まずにフリートークをし続けましたので、ここでメールを何通か読んでいきたいと思います。軽井沢町追分の「タイプ115」さんからのメール。「ゆいちゃんこんにちは。FMあさまのうわさ、友人から聞きました。一体これからどうなるのですか?」あと、紅葉ヶ丘の「とうふちゃん」さんや、たくさんの方々からも「ゆいちゃんやわかばちゃんの声はこれからも聴けるのでしょうか?」といった質問を頂いてます。正直な感想を言うと、このようなメールをいただいてすごくうれしいです。私のような人間でも、必要って言ってくれるのですから。この話題は触れるべきかどうか迷いました。不確定要素がたくさんあって、言えないこともたくさんあるんですけど、個人的な意見を言うなら、続けたいです。これが自分にとって唯一の「窓」だから。それに、三里塚さんの話題も出ましたけど、他の人の番組もいちリスナーとして楽しみにしている部分もありますしね。平日の夕方にやってる双子の番組、最初の頃はあまりに自由すぎる内容にびっくりしましたけど、今となっては結構楽しめてますしね。そういうわけで、残り二分を切りましたので、いろいろお知らせをしたいと思います。この番組ではメールやおたよりを募集しています。番組を聴いて思ったことや最近のできごと、質問など、何でも結構です。郵便は三八九‐〇二九九 FMあさま「Selfish Talk」まで。メールはyui@fmasama.xx.jpにてお待ちしております。この後は東京・六本木のキャピタルFMから「Bank of Tokyo Showa AFJ Presents Sound Treehouse」をお送りします。お相手は、和田ゆいでした。また来週』

 BGMがフェード・インし、三十秒ほど流れた後、徐々にフェード・アウトしてから地元のプロパンガス業者のCMに入る。はじめはコンポの電源を切り、ベッドに横たわる。

『……わかばさんも、あの双子も、それに私にとってもここは特別な場所なんだよ。ここが、私たちの道標になってくれたんだ』

 はじめの脳裏に、佐倉みのりの声が何度も再生される。その一方、昨晩あれだけ長い時間寝続けていたにもかかわらず、少しずつ瞼が重たくなっていく。

「にい、いる?」

「の……は……」

 つくもがノックもなしにいきなり入ってくる。はじめは『ノックしてから入れよ』と言おうとするも、半分寝ぼけているせいか、発声がままならない。

「お母さんがお弁当作ったから、会社に持って行ってって言ってるよ」

「あ、あぁ……今降りるから、ちょっと待ってくれ」

 はじめは上体をゆっくり起こし、ベッドから立ち上がると、一階に降りて洗面台で顔を洗う。どうやら休日を返上し、工場で仕事をしている父親に、夕食代わりの弁当を届けてもらいたいらしい。

 はじめは、母親から弁当箱と、味噌汁が入った赤いチェック柄の水筒を預かると、ママチャリのカゴに入れ、ペダルをこぎ出す。

 父親が経営する『株式会社藁越精密機械工業』は祖父の代から続く町工場で、クオーツやジャイロセンサといった水晶デバイスを製造し、自動車メーカーや家電メーカー、重電メーカーなどに納入している。おそらく元請から新しい部品の開発の打診を受け、色々と試行錯誤に勤しんでいるのだろう。

 工場は美緒の家と同じく藁越という字に位置しているが、美緒の家は山側の別荘地にある一方、工場はしなの鉄道の線路沿いに位置している。それでも、はじめの家がある小田井町本町よりも高台に位置しており、工場までたどり着くには、長くゆるやかな上り坂を登らねばならない。美緒が電動アシスト自転車に乗っているのも、長い上り坂を難なく登り切るためである。

 人気が無く、等間隔に街灯が並んでいるだけの寂しい道だが、油断は禁物である。この道は地元では国道十八号線追分方面から上信越自動車道佐久インターチェンジへの抜け道として知られており、昼夜を問わず時々、車が猛スピードで通過することがあるからだ。昼間は右にキャベツ畑、左は浅間山が見えるが、今はどちらも暗闇に溶け込み、その姿を見ることはできない。途中のY字路を右に折れ、二百メートルほど走ると、小田井精密機械工業に到着する。自転車を停め、従業員出入口から建物に入り、薄暗く、非常口誘導灯の光でほんのり緑色に染まった数多の工作機械の間を抜けると、奥のほうにあるデスクで、父親がワークステーションに向かって何かの作業をしている。父親は、視線を液晶ディスプレイに固定したまま「おお、来たか」とだけ言い、キーボードを叩いている。はじめは従業員休憩室に入ると、自動販売機で五百ミリリットルペットボトル入り緑茶を二本買い求め、父親こと関谷代表取締役社長のところに戻る。ふとディスプレイを見ると、3D‐CADのインターフェイスではなく、ワードが起動されている。

「図面描いてたんじゃないんだ」

 はじめは父親に話しかける。

「提案書だよ」

「提案書? クライアントに出すやつ?」

「いや、ベンチャーキャピタルからの投資を受けようと思ってるんだ」

 父親の『投資』という言葉に、『ハゲタカ』というキーワードがはじめの脳裏をよぎる。最近も外資系の投資ファンドが経営破綻した東京の第二地方銀行を格安で買収し、経営再建後に株式を上場させて莫大な利益を上げたり、かつては日本の流通業の三割を握っていた巨大グループに出資し、傘下のスーパーを同業の米国資本に、コンビニを商社に売却し、百貨店の地方店舗を閉鎖するなどのリストラを繰り返した結果、事実上グループが解体され、業界二位のクレジットカード会社だけが残ったことがニュースを賑わせたのも記憶に新しい。

「もしかして会社の経営がうまくいってないの?」

「いや、そういうわけじゃ無いけど」

 父親は、何でそんなことを聞いてくるんだと言わんばかりの表情で答える。

「ほら、会社の株式を過半数以上押さえられた挙句、従業員と技術を持って行かれて、自分は雇われ社長になるか、自分が育てた会社から叩き出されるみたいなことにならないかなって」

「まぁ、第三者割当増資による出資と言っても、経営権の譲渡じゃなくて開発費の捻出が目的だからな。せいぜい資本金ベースで二割ってところだな」

「銀行とか信金はダメだったの?」

「それも考えたんだけどさ、彼らはなかなか新しい技術について理解が無くてねぇ。一昨年工場を増築した時、土地に抵当打っちゃったからな。それに、投資と言っても、再生ファンドじゃない。VCベンチャーキャピタルだから、彼らに企業を支配する意図はあまり無い。ハイリスクハイリターンなものに手を出して、成功したらガッポリ儲けるというのが彼等のやり方だからな」

 つまり、紀伊國屋文左衛門のように、船を出すために出資者を募り、航海に成功してミカンを高値で売りぬいたら莫大な利益を山分け、失敗したら出資額に応じた損失というシステムに近いのだろう。

「それじゃ、おれは帰るから。帰る時は弁当箱ちゃんと持って帰って来てよ」

「ああ」

 あまり邪魔をしては悪いと思い、はじめは家に戻ることにする。

 従業員出入口付近に停めておいた自転車にまたがり、門を抜けて元来た道を走り出す。帰りはほぼ下り坂なので、十分足らずで家に着くことができるだろう。

 町道を二百メートルほど走ると、キャベツ畑のところでハザードを点けたまま停まっている車の姿がはじめの視線に入る。暗がりでよく分からないが、車種は赤いイタリア製ハッチバックで、車の傍に、うなだれた姿勢の黒いシルエットが見える。車の大きさや、シルエットが微動だにしていないことからして、産業廃棄物の不法投棄ではなさそうだ。かつてこの付近は、ブラウン管テレビからポンコツ車まで、目を覆いたくなるほどの不法投棄が行われていたが、地元住民の協力と、警察や役場、農協のパトロール強化により不法投棄は激減している。

 はじめは静かにゆっくりと車に近付く。残り十数メートルのところで、うなだれている黒いシルエットが、見覚えのある姿かたちに変化する。

「わ、わかばさん? どうしてこんなところに……」

「は、はじめ君? なっ……こっ……」

 はじめは、わかばはおそらく『なんでこんなところにいるのですか?』と聞きたいのだろうと推測する。

「それはこっちが聞きたいですよ」

「はじめくーん!」

 わかばが涙目になりながら、いきなり自転車のサドルにまたがったままのはじめに抱きついてくる。はじめの腹に、わかばの胸の感触が衣服を隔てて間接的に伝わってくる。

「ど、どうしたんです? もしかしておばけでも見たんですか?」

「それもあるけど、ガソリンがなくなって車が動かなくなっちゃったの。どうしよう……」

 それもあるけどって……。はじめはあえておばけの件は無視することにする。

「誰かに電話とかしました? 家の人とか、ガソリンスタンドとか」

「それが、家に電話しようとしたら今度はケータイのバッテリーが切れちゃって……」

 はじめは思わずため息をつく。

「わかりました。すぐ戻りますから、ここでおとなしく待っててください」

 はじめは自転車を道の端に寄せると小走りで工場に戻り、倉庫の中に入る。棚に収められた発電機の隣に、赤いガソリン保存缶を見付ける。少し持ち上げると、まだ三分の二程度は入っているのが分かる。はじめは取っ手を持ち上げ、早歩きでわかばのところに戻ると、一連の動きを興味津々に見つめているわかばを尻目に、自転車から取り外したLED前照灯を頼りに給油口を開ける。給油口の扉の裏に『PREMIUM UNLEEDED ONLY(無鉛ハイオク専用)』と書かれたシールが貼られているが、保存缶の中に入っているのは確かレギュラーガソリンだったはずだ。はじめは一瞬躊躇うが、同じガソリンなら大丈夫だろうと自分に言い聞かせ、給油口に少しずつガソリンを流し込む。当然満タンでは無いが、家に戻り、ガソリンスタンドが営業している時間に車を持ち込めるくらいなら走ることができるだろう。

「それじゃ、エンジンをかけていただけますか」

「うん」

 わかばがキーを廻すと、エンジンルームから回転音が聞こえてくる。

「うわっ、かかった。すごいすごい!」

 わかばが満面の笑みを浮かべているのを見て、はじめは安堵する。

「それじゃ、おれはここで。明日すぐにガソリンスタンドでハイオクを給油してくださいね。ハイオクですよ」

 はじめは空になったガソリン缶を左手に持った状態で自転車にまたがろうとすると、わかばがはじめの左腕をぐいっと掴む。

「待ってはじめ君、お礼させて!」

「いや、別にいいですよ。それより、もうガス欠なんてやらないでくださいね」

「うん。だからこそお礼をさせて!」

 わかばの大きな瞳が、レーザービームのようにまっすぐはじめの顔を見つめている。どうやらはじめに『そのまま自転車で自宅に帰る』という選択肢は消されたようだ。

 はじめは、後部座席に自転車を載せると、助手席に座り、シートベルトを締める。それを確認したわかばがパーキングブレーキを解除し、レンジをドライヴに切り替えて車を走らせる。

「あれ? 暗い。どうしてこんなに暗いの? やだ、どうしよう。暗くて前が見えない!」

 走り出していきなり、わかばがパニックに陥る。緩やかな下り坂と、オートマチック車特有のクリープ現象も相まって、アクセルを踏まずとも徐々に車のスピードが上がっていく。

「ど、どうしよう!」

「わかばさん、ブレーキ!」

「あっ、そのっ、うん!」

 わかばが思いっきりブレーキを踏むと同時に二人の身体がつんのめり、シートベルトに締め付けられた反動で身体が後ろに戻される。

「落ち着いてください。前照灯はどうしたんですか?」

「ゼンショートー?」

 わかばは首をかしげてる。

「前のライトのことですよ」

「ああ、ライトのことね。点けるの忘れてた」

「忘れてたって……」

 はじめは大きくため息をつく。そもそもこの人は免許を持っているのだろうか。

 わかばは前照灯のスイッチを入れると、再びパーキングブレーキを解除し、レンジをドライヴに切り替えて車を走らせようとした刹那、黒い国産の高級車がわかばとはじめを乗せた車の右横を急スピードで追い越す。あと十五センチ動いていたら、確実に右のサイトミラーは飛ばされていたことだろう。

 しかしわかばはそれに臆することなく「あらあら」と独り言をつぶやき、そのまま小田井の中心部に向かって車を走らせ始めた。

 車は、はじめの家がある小田井町本町を抜け、五分ほど走ったあたりで左折し、車一台が通れる程度に狭く、両側が葡萄畑になっている、街灯や道路びょうも無い農道に入ると、暗闇の中、視界は前照灯の当たる僅か数メートルしか無いにもかかわらず、わかばはアクセルを踏み込み、スピードを一気に上げる。

 おい、マジかよ。

 はじめは己の肝が冷えるのを感じながら、運転しているわかばを見つめている。免許を持たないはじめですらリスキーだと感じる運転であるにもかかわらず、わかばは涼しい顔でステアリングを握っている。

 ふと、はじめが視界を前方に戻した瞬間、大きな純和風の家屋が目に飛び込んでくる。

「わかばさん、ブレーキ!」

「あ、うん」

 わかばは思いっきりブレーキを踏み込む。先ほど、前照灯を点け忘れた時以上の衝撃がはじめとわかばに加わり、はじめの左鎖骨に激痛が走る。

「さあ、着きましたよ」

 わかばがエンジンを停め、車から降りる。はじめも一歩遅れてシートベルトを外し、車から降りて前に回り込むと、バンパーと水栓柱の隙間が僅か二センチ弱しかない。あと少しブレーキを踏むタイミングが遅れていたら、家の前に噴水ができていたことだろう。

「殺す気ですか!」

「大丈夫。厄落としは済ませてるから」

 はじめの怒りに、わかばは意味不明な言葉で返す。はじめがその言葉に対し言い返そうとした瞬間、玄関の外灯が光り、中から誰かが出てくる。

「何だよ騒がしい。姉貴なのか?」

「ただいまかけるちゃん。今日はいろいろあって遅くなっちゃった」

 かけるちゃん? はじめは首をかしげる。

「あれ? はじめじゃないか。姉貴と一緒だなんてどうしたんだよ」

 突っ掛けに懐中電灯を持った駈がはじめとわかばに近付く。

「駈?」

「ああ、はじめこそどうしたんだよ」

 駈とは中学の時から三年以上の付き合いになるが、今思えば、過去に駈の家に行ったことは一度も無い。この男と会う時は確か学校か、はじめの家か、美緒の家のいずれかだったはずだ。

 はじめはわかばに誘われるまま、二階のわかばの部屋に通される。

「今お茶を淹れてきますから、散らかってますけど、楽にしててください。あっ、ベッドに座っててくださいね。確かはじめ君はイングリッシュ・ブレックファーストのストレートでしたっけ?」

「ええ……」

 はじめはベッドに腰を下ろし、部屋の中を見回す。八畳の和室に薄いピンクのカーペットを敷き、何頭ものテディベアが置かれたベッド、本棚として使っているいくつかのカラーボックスそしてヤマハの電子ピアノが置かれている。ふすまが半開きになっている押入れの下半分はカラーボックスが、上半分はたくさんの衣服がハンガーに掛けられており、クローゼット代わりに使われていることが分かる。学生時代から使っていると思われる学習机の上にはNECのノートPCとたくさんの資料。五冊のファイルの背表紙には『決算書』の文字が並んでおり、隣には会社経営にまつわる本が無造作に積まれている。美緒の部屋とは趣は異なるものの、机の上の資料を除けば、女性っぽい部屋と思えなくも無い。はじめは、学習机の近くまで移動し、机上の資料を眺める。これを見て分かるのは、町議会で湧き上がったFMあさま廃止問題に抗うべく、自分たちが生き残る手立てを色々探しているらしいということだ。

 普段、駈とは学校でしか会わないためあまり意識することは無いが、三里塚家は、国の減反政策で稲作からの撤退を余儀なくされたものの、信州の気候に合わせ水田を葡萄畑に転作し、収穫した葡萄をワインにして売り出したところ、年を追うごとに拡大するワインの需要が追い風となり、小田井では田代家を凌駕する豪農になった。最近では商社と組んで自家醸造のワインをシンガポールや台湾などの富裕層向けに試験輸出しているという話を聞いたことがある。よって、わかばがFMあさまの職を失ったところで、すぐさま食い扶持に困るようにはとても思えない。にもかかわらず、わかばがFMあさまに固執するのには何か理由でもあるのだろうか。

「お待たせ」

 わかばの声に驚き、はじめは慌ててベッドに戻る。

「す、すみません。つい」

「ううん。別に見られてもいいものだから。むしろ、見てもらったほうがいいのかな」

「は、はぁ。それより、今そんなにヤバい状況なんですか? FMあさまって」

「ええ。去年の暮れあたりからかな。町議会でFMあさまの財務状況が問題になって……あっ、株式会社なのに議会で問題に上がるのは、株式は町と商工会と青年会議所が四分の一ずつ、残りの四分の一は地元の会社が少しずつ持っていて、確か第三セクター? って言うらしいんですけど、その関係で町と深い関係になっていて、会社を作るのに税金を使ったとかで、その、何て言うか、税金を使ってラジオ局作ったのはいいけど、赤字じゃないか。みたいな話になって、だったら傷口が広がらないうちに会社を清算して、赤字分を税金で埋めようってことらしいんです。私の説明で大丈夫ですか?」

「ええ、まぁ」

 自治体が出資した第三セクターの会社が大赤字をこさえて大問題になるという話は新聞やテレビのニュースでごくたまに話題になる。旧国鉄の赤字ローカル線を引き継いだり、身の丈に合わない観光施設を作ったりして閑古鳥が鳴くといったケースだ。

「それで、何度となく役員さん、あっ、これは町役場の地域課の課長さんでもあるんですけど、その役員さんから毎週のようにオクタゴンおたいの会議室に呼ばれては、会社を畳むための準備を始めておいてくれみたいなことを言われ続けているんです。放送時間を減らすとか、協力していただいている町民ボランティアさんにやめてもらうとか……」

「で、言われたとおりにやってるんですか?」

「ううん。いくらボランティアとは言っても、長い間仲間として一緒にやって来た人たちを簡単に切るなんて……。今のところはのらりくらりとかわしていますけど、そのうち私たち社員やバイトの雇用の話になるのも時間の問題かなって思っているんです。でも、どうすればいいか分からなくて、でも何もできなくて……」

「このこと、誰かに相談したんですか?」

「うん。ゆいさんやみのりさんと色々相談はしてるんですけどね。一番いいのは会社そのものを私たちが買収しちゃうことかなって思ってるんですけど、どうしても先立つものがなくて、たぶん、あの車を売ったとしても大したお金にならないでしょうし……」

 いわゆるEBOエンプロイー・バイ・アウトというやつか。

「やはりお金ですか……って、ちょっと待ってください」

 はじめは自分の身体を木製の引き戸に向ける。

「駈、いくら情報収集が特技とはいえ、自宅で間諜とはあまり感心しないな」

 引き戸に向かってそう言った瞬間、引き戸がゆっくり開き、板張りの廊下でニヤニヤしながら胡坐をかいている駈が姿を現わす。

「おやおや、間諜とは人聞きが悪いね。僕は強い興味を持ったんだよ。今まで、姉貴は家に男を連れてくるようなことをしなかったし、男を家に連れて来るのは、その男と結婚すると決めた時だって言っていたんだ。ところが、姉貴が最初に連れてきたのはこともあろうにはじめ。君だった。もしかして君は姉貴と結婚するつもりなのかい?」

「駈、おれは誰とも付き合っていないし、今日ここに来たのも結婚の挨拶ではない。とにかく、わかばさんの車にちょっとしたトラブルがあって、それを何とかしてくれたお礼にってお茶をご馳走になっているだけだ」

 はじめは『ガス欠』を『ちょっとしたトラブル』という言葉に置き換える。さすがに免許を持たないはじめでも『ガス欠』が一般的にかなり情けない部類のトラブルであることは理解している。

「そうか。僕はてっきり君が菅野さんから姉貴に乗り換えたものだと思っていたよ」

「乗り換えって人聞きの悪い。そもそもおれは美緒には乗っていないぞ」

「おいおいはじめ、よりによって下ネタかい?」

「いや、乗るっていうのは変な意味じゃなくて、付き合う付き合わないという意味で、そもそも乗り換えるなんて言ったのは駈のほうじゃないか」

 はじめは下ネタを言うつもりなど毛頭なく、慌てて自分の発した言葉の修正に取り掛かる。わかばは言葉の意味そのものを理解していないのか、首を右斜めにかしげている。

「まあ、君は変なことをするような男じゃないというのは分かってるから別に心配していないんだけどね。今日の用件は僕じゃないようだから、ここで失礼するよ」

 駈は階下に消えて行く。

「ごめんなさい。口の悪い弟で」

「わかばさんが謝ることじゃないです。駈はもともとああいう奴ですから。でもまぁ、駈とわかばさんが姉弟だったなんて知りませんでしたよ。姓が三里塚だから、親戚か何かだろうとは思ってはいましたけど、駈の奴、他人の情報には興味を示すくせに、自分の情報はあまり語りたがらないですからね」

「ところで私、どこまでお話をしましたっけ?」

「FMあさまをなくさないようにするにはまとまったお金がいるってところまでですよ」

 わかばの確認にはじめが答える。

「話を聞いて思ったんですけど、わかばさんってどうしてFMあさまにこだわっているんです? わかばさんみたいに、その……きれいな人なら誰も放っておかないって言うか、働ける場所もたくさんあるでしょうし、同世代の男も興味を持つと思いますし……」

 はじめは表立って言うことは無いが、内心では美人はつくづくあらゆる機会に恵まれていると思っている。小さなところで言えば、青果店で「美人なおねえさんにこれをサービス」などと言いつつリンゴ一個をおまけしてくれるのもそうだろうし、受験や就職の面接で、同じ能力を持った美人と所謂『ブス山さん』が二人並んでいたとすれば、選ぶ側の心象が良いのは明らかに前者のほうだろう。それに今思えば昨日の『代替わりの儀』で美緒とはじめの唇を奪った生徒会長・中村つかさも少し茶色かかったツインテール姿がよく似合う八頭身美人だったからこそ二人とも『あの程度』で済んだのかもしれないが、もし彼女が『ブス山さん』だったとしたら、『ブス山さん』には悪いが、今後の人生に強い影響をおよぼすほどのトラウマになっていたかもしれない。いや、そんなことを思うこと自体が不謹慎では無いのか? ある意味、えっちなことを考えるよりも不謹慎だ。

 しかしながら人は本心を隠し、「人は見た目じゃない」という建前や偽善を表に出すことによって他人との軋轢を防ぎ、コミュニケーションを潤滑にする、ある意味において残酷な生き物だ。とも思う。これははじめ自身が思考を巡らせ、たどり着いた結論ではない。中学三年の二学期から三学期にかけて起きた出来事を経験して得た答えだ。

「はじめ君……」

 わかばは、いきなりはじめに顔を近づけ、半泣きしながら抱きついてきた時と同じように、はじめの目をまっすぐ見つめる。はじめは思わず上半身が後ろに仰け反ると同時に、一気に胸の鼓動が高鳴る。これを誰かに見られたら、わかばがはじめをベッドに押し倒そうとしているものと誤解されかねないだろう。

「私ね、まだ『やり切ってない』の」

「あの、『やり切ってない』ってどういう意味です?」

「あのね、『この年齢なら○○ができてなきゃいけない』みたいなのがあるじゃない?」

「ええ、まぁ、『三歳児なら普通に歩けなきゃいけない』とか、『小学校を卒業するあたりには、他人の気持ちをこれくらい推し量らなければいけない』みたいなやつのことですか?」

「うん。私、小さい頃から今まで、その歳でできてなきゃいけないことが全然できてなくて、小学校でも、中学校でも、高校でも短大でも、場の空気が読めなくてとんちんかんなことを言っちゃったり、誰かの機嫌を損ねちゃったり、教習所では車を二台廃車にしちゃうし、何て言うか、『普通のコト』ができないんです。幸い高校の頃は仲間に恵まれて、辛うじて乗り切ったんですけど、あとはやることなすことみんなダメで、自信が持てなくて。でも、偶然見つけたFMあさまはこんな私を受け入れてくれて……私もその気持ちに応えようと一生懸命やってきて、これからって時にこんな話になっちゃって……もう、どうしたらいいか分からなくて……」

 ふとわかばの顔を見ると、両目から涙があふれ出し、両頬に一筋の線を描くと、行き場を失った涙達は重力に任せるまま滴り落ち、はじめのシャツを濡らす。

「わかばさん」

 はじめは、血管を破らんと速く打ち続けている胸の鼓動と、女の人と密着しているという緊張感に抗うように声を振り絞る。もし自分に理性というものがなかったら、彼女を押し倒してしまうかも知れない。

「おれ、わかばさんと何回かしか会ってませんけど、『空気の読めないヤツ』みたいに思ったことはないですし、素敵な大人のおねえさんだと思ってますよ。それにおれだって高校一年にもなってガキっぽいことして駈に呆れられることもありますし。それにもし、何かをやろうとして、自分じゃ手に負えなくなったときは、誰かに頼ってもいいんじゃないかなって思います。それにわかばさん、言えてるじゃないですか。『助けて』って」

 はじめは、じっとわかばの目を見つめる。自分の言わんとしていることは彼女に伝わっているだろうか。

「はじめ君。ありがとう」

 わかばは、はじめの上体を起こすと、ピンクのカーペットに足を崩して座る。はじめは落ち着きを取り戻すため、大きく深呼吸すると、すっかり冷めてしまったイングリッシュ・ブレックファーストを一気に飲み干した。

「わかばさん。一つ質問してもいいですか?」

 わかばの依頼にYESと答えることは簡単だ。しかしそれにあたり、はじめには彼女に、一つ確認せねばならないことがある。

「はい」

「今更こんなことを言うのもどうかと思いますけど、わかばさんは生まれてこのかた、ずっとこの小田井町で日常生活から冠婚葬祭に至るまで、昔から脈々と続いているしきたりやルールを守ってきたはずです。生きるための知恵として。しかしそれは時として黒いものも白にしてしまうほど強い同調圧力をかける手段にもなりうることもある。たとえそれが間違っていたとしてもです。もし何が起きても、わかばさんには同調圧力に抗う覚悟はおありですか?」

 はじめの問いに、わかばは首をかしげている。彼女はおそらく質問の意図を理解していない。

「では、言い方を変えましょう。FMあさまの廃局の音頭を取っているのは町長、商工会会長、青年会議所理事長の三者です。わかばさんがおっしゃったことは、町内を牛耳るケルベロスに反旗を翻すことになるんです。もし反旗を翻したうえでFMあさまの存続に失敗したら、おれたち……いや、三里塚家と関谷家は間違いなく干されるでしょうね」

「どうして? 町長さんに怒られて終わりじゃないの?」

 わかばの素っ頓狂な言葉に、はじめは大きなため息をつく。

「もし、町内を二分するようなもめごとが起きた時、その他大勢の人はどっちの味方になると思いますか?」

「そりゃあ、正しいほうの味方になると思いますよ」

「間違いではありませんけど、正解じゃないです。正解は、『強いほうにつく』か『見て見ぬふりをする』のどちらかです。わかばさんにとって、FMあさまを存続させるのが正しいとお思いかもしれませんが、ケルベロスにとってはFMあさまを潰すことのほうが正しいと思っているんです。どっちの言い分も正しいなら、人々はどちらに味方すると思いますか?」

 はじめの言葉にわかばは、はっとしたような表情をする。どうやらはじめが言った言葉の意味を理解してくれたようだ。

「言い方は悪いですけど、FMあさまはケルベロスから見たら、吹けば飛ぶようなちっぽけな存在だと思います。彼等に勝とうと思うなら、色々な策を練って挑まなければいけないと思います。もしかしたら孤独な戦いになるかも知れませんけど、その覚悟はありますか?」

 はじめは、少し強めにわかばの目を見つめる。わかばも真っ直ぐはじめの目を見つめ、全く視線を逸らそうとはしない。

「わかりました。おれでよければ、生活に支障のない範囲でお手伝いします」

「ありがとう、はじめ君」

「今日はもう遅いですし、明日、FMあさまで話の続きをしませんか。おれも色々思うところがあるので」

「うん。明日は十時から十八時の間ならいるから、いつでも来て」

 いつの間にか、わかばに笑顔が戻っている。

「あっ、はい」

 はじめは、机の上の目覚まし時計の短針が十時を指していることに気付くと同時に、父親に夜食を届けた帰り道だったことを思い出す。もう家に帰らないと、母親やつくもが心配するだろうし、わかば本人はあまり意識していないだろうが、きれいなおねえさんと二人で長時間一緒に居続けるのは、心臓に負担はかかるわ、冷汗はかくわ、身体の一部に血液が集中しそうになるのを寸でのところで堪えるわで、精神衛生上あまりよろしくない。

「はじめ君、送ろうか?」

 玄関の三和土で靴を履くはじめに、わかばが声を掛ける。

「いえ、近いので大丈夫ですよ」

「そお?」

 ここから家まで近いのは事実だが、それ以上にあの車に乗ることは金輪際御免こうむる。

「それじゃ、おれはここで失礼します」

「うん。また明日ね。あっ、ところで……」

「何です?」

「『ケルベロス』ってなあに?」

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