想起!(E240)
目が覚めると、はじめは移動中の車の後部座席右側に座っていた。はじめの左側には、目を瞑ったまま微動だにしない美緒がいる。家の国産セダンよりもゆとりのある室内空間に、程よい硬さのレザーシート。おそらく先ほど見かけた数多のメルセデス・ベンツEクラスのうちの一台だろう。周囲の景色から察するに、車は国道十八号線を軽井沢方面に走っているようだ。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見ると、時刻は午後五時過ぎを表示している。
「あの、この車は……」
はじめは運転手の男に声を掛けるも、男は黙ったまま何も喋ろうとはしない。バックミラー越しに顔を見ようとしたが、黒いジャケットと黒いネクタイしか見えない。誰だ。いや、それ以前に今現在の状況が全く理解できていない。男の正体は反社会的勢力か、それともMIBか?
はじめはこの男に自分の住所を教えた記憶は無い。おそらく美緒も同様だろう。はじめは、この黒ずくめの男がどうやって二人の個人情報を入手したかについての興味はあったが、それ以上に今まで蓄積していた疲労が一気に噴出し、男にあれこれ尋ねる気力を失っていた。
車は浅間サンライン入口交差点を右折し、別荘地の中に入る。おそらくあと五分も走れば美緒の家に到着するだろう。運転手の男は、まるで道を熟知した地元の人間のように、迷うことなく森の中の道を走り、美緒の家の前で車を停めた。
はじめは、エンジン音に気付いて家から飛び出した美緒の母親とともに美緒を車から二階の美緒の部屋まで運び、ベッドに寝かしつける。男は車をアイドリング状態にしたまま、はじめが戻るのを待っている。
「はじめちゃん、今日学校で何かあったの? 中間テストの最終日だったんでしょ……」
怪訝そうな表情をしながら、美緒の母親がはじめに尋ねる。そうだ。今日は中間テストの最終日でもあったのだ。今日の出来事だったはずなのに、テストがかなり昔に起きた出来事のように感じる。それに、自分の娘が眠ったままメルセデス・ベンツEクラスに乗って帰ってくるのは、確実に怪しさ満点である。
「ええ。実はそれだけじゃなくて、『代替わりの儀』……いや、生徒会役員の就任式があったんです。美緒から聞いてませんか?」
「生徒会? 美緒ちゃんから選挙に出たことも、当選したという話も聞いてないわよ」
おいおい、それくらい親には話しておけよ。とはじめは心の中で美緒に突っ込みを入れる。
「へっ? 言ってなかったんですか? おれと美緒、成り行きで選挙に出馬して、あろうことか当選しちゃったんです」
「そう。一緒に生徒会役員をねぇ……。そろそろ覚悟しちゃいなさい」
美緒の母親はわけの分からないことを言い始める。
「それって、どういう意味ですか?」
「フフフ……」
はじめが真意を質すも、美緒の母親はニコニコしているだけだ。
「それじゃ、車を待たせちゃ悪いんで、おれはここで失礼します」
はじめが後部座席に乗り込むと、車はゆっくりと小田井の中心部に向かって走り始める。はじめの脳裏に、もしかしたら運転手の男によってあさっての方向に連れ去られ、山奥の林道で光線銃で記憶を消されてそのまま置き去りにされるリスクがよぎったが、車はそのまま小田井町本町の住宅地に入り、はじめの家の前で停まった。
はじめは思わず胸をなでおろすと、「すみません、送っていただいてありがとうございます」と言い残し、左後部のドアレバーに手をかける。やはり男からの返事は無い。
はじめは走り去る車を見送ると、そのまま家の中に入る。玄関で靴を脱ぐなり、つくもが階段から駆け下りてくる。
「にい、今の車何?」
メルセデスが家の前まで乗り付け、兄を降ろし、そのまま去る一連の流れを二階の窓から見ていたであろうつくもが怪訝そうな表情をしながらはじめに訊いてくる。
「何? とか言われてもなぁ……おれにもよく分からない」
「高校の生徒会って、そんなにすごいところなの?」
「ああ、おれも初めて知ったよ」
言えない。今日の儀式の一部始終はお子様には刺激が強過ぎる。
「まるで学園ドラマみたい。ほら、金持ちの子どもが通う学校のやつ」
「何言ってるんだよ。うちの学校は田舎の県立校だぞ」
「でも、なんかすごそう。私も藤高入って、生徒会目指そうかなぁ」
「それ以前に、今の成績で藤高入れるのか?」
「うるさいなぁ。こうなったら絶対入ってやるんだから。にいのいじわる」
「とにかく、おれは疲れたからもう寝る。夜になっても起きてなければ夕飯はいらないから」
はじめは最後の力を振り絞って二階に上がり、自分の部屋のベッドに横たわると、僅か数秒で眠りにつく。眠りが深かったのか、夢を見ることは無かった。
目が覚め、半分寝ぼけた状態で机上の目覚まし時計を見ると、九時十分を指している。夜か? 否。カーテンから漏れた光を見て、はじめは今が午前九時十分であることを知る。枕元のスマートフォンに視線を移すと、数秒おきに白いLEDが点滅している。メールかSMSのどちらかを受信したのだろう。はじめはスクリーンロックを解除し、メールアプリを起動して受信を確認する。受信は二通。一通は駈からのメールで、もう一通は美緒からのSMSだ。
二一:三五
From:三里塚駈
Subject:生徒会引継
Body:今日はお疲れ。どうやら無事に終わったみたいだね。生徒会室がどんなところなのか、引継ぎは具体的に何をやったのか、月曜日にでもじっくりたっぷり教えてくれ。謎と怪しさ満点の生徒会に、僕は非常に興味津々だ。
はじめは小声で「言えるか!」とつぶやきながら駈のメールを閉じ、美緒からのSMSを開く。
〇一:二三
From:菅野美緒
Body:遅くにごめんね。家まで送ってくれたことをお母さんから聞きました。ありがとね。生徒会色々大変だと思うけど、はじめちゃんが一緒なら大丈夫です。たより無い会計だけどこれからもよろしくね。みお
美緒からのSMSのタイムスタンプは午前一時二十三分が打たれている。儀式の途中から気を失い、そのまま眠りにつき、未明に目が覚めたのだろう。はじめは『返信』をタップし、美緒宛のメッセージを作成する。
〇九:二八
To:菅野美緒
Body:昨日はお疲れ。MSG拝読しました。今日ゴゴイチに例の場所で会える? 駈には内緒で。
送信後、一分とかからずSMSが返信されてきた。
〇九:二九
From:菅野美緒
Body:りょーかい。まってるね。みお
午後十二時五十五分。はじめはしなの鉄道小田井駅の待合室のベンチに腰掛け、美緒が来るのを待っている。それから遅れること十分。SMSでは『まってるね』と返してきた美緒が、待ち合わせ時刻から五分遅れで電動アシスト自転車を駅舎の前に止め、ごめんごめんと言いながら中に入ってくる。
「待った?」
「いや、おれも今来たばっかりだから」
美緒ははじめの隣に腰を下ろす。
「どうしたの? 急にカケル君抜きで会いたいだなんて」
「うん。昨日のことなんだけどさ、美緒はどこまで覚えてる? 色々確認しておきたいんだ」
「えっ? ワタシ、気が付いたらベッドに寝ていて、寝ぼけたまま下に降りたらお母さんが、昨日ははじめちゃんが送ってくれたから、お礼のメールを送りなさいって言うから、メールを送って……」
「いや、そうじゃなくて、昨日試験が終わってからの行動の一部始終だよ」
「ああ、そっちか。でもそれって、一緒にいたから、はじめちゃんも覚えてるでしょ?」
美緒はもっともな答えを返してくる。
「いや、確かにそうなんだけど、おれもちょっとあやふやな部分があってさ。一応確認したかったんだ。まず、試験が終わってすぐ、新聞班と放送班の先輩たちが密着取材させてほしいって言ってただろ」
「うん。そのまま学校近くのファミレス行って、学校に戻ったらカケル君がいて、カケル君の案内で階段の踊り場まで行って……」
「そこから、駈だけを置いて屋上に上がった」
「そうそう! 生徒会室は男子禁制だから、カケル君は入れなかったんだよね。あっ、はじめちゃんは生徒会役員だから唯一の例外だけど」
「続けるぞ。生徒会室に入ると儀式が始まって、当選証書を受け取って、名札を壁にはめたんだ」
「うん。ここまでは大丈夫なんだけど、ここから先の記憶があやふやなんだよね……」
美緒の言葉に、はじめは少し考えを巡らせる。一か八かで試してみるか。
「ほら、覚えてないのか? あのあと、おれと美緒が前に出て、一合升に入れた炭酸水を飲み交わしたじゃないか」
「えっ? どんな感じで?」
「まずは新会長のつかささんと美緒がそれぞれ炭酸水が入った一合升を手にとって、乾杯して飲み干した途端、美緒がいきなり椅子に座りこんじゃってさ。もしかして前の晩、一夜漬けでもしてたんじゃないか?」
「一夜漬けじゃないけど、ワタシ遅くまで起きてたから……。そうだとしたらワタシ、つかさ会長にすごい失礼なことしたんじゃない? どうしよう?」
「大丈夫。確かに苦笑いしてたけど、中間テストの準備が大変だったんだろうって言ってたよ」
「もしかしてつかさ会長、怒ってた?」
「いや、全然怒ってなかったよ。むしろ面白い子だって笑ってたよ」
「そっか……」
はじめは美緒のあやふやな記憶を、当たり障りの無い捏造……いや創作によって消去、上書きすることを試みる。中間テストの準備のくだりははじめが咄嗟に思いついたものだ。もし、つかさ会長との接吻を覚えていないのであれば、今はなるべくその痕跡を美緒の脳内から消し去ったほうがいい。たとえ後日、衝撃的な事実を知ったとして、はじめが美緒から詰問されたとしても、『おれも記憶があやふやになっていた』などと言って逃げ切ればよい……はずだ。
「ところではじめちゃんはどうだったの?」
「ああ、おれも美緒と一緒だったよ。つかさ会長と炭酸水を飲み交わした」
嘘は言っていない。ただ、抱擁と舌を絡ませた、鼓動と鼻息が荒くなるような濃厚な接吻について言及していないだけだ。そもそも、美緒と付き合っているわけでは無いから、誰と接吻を交わそうと、美緒には関係ない話だが、問題がややこしくなるのは避けたい。
「そっか。これでひと段落したし、生徒会役員としての活動がいよいよ本格的に始まるんだね。ところで、生徒会って、具体的に何をやるんだろう?」
「実は言うと、今まで生徒会や学級委員の類に縁が無かったから、おれも生徒会が何たるかはよく分かっていない。まぁ、役員は他にいるんだし、分からないことがあったら、その都度訊けばいいだけの話だよ」
「それもそっか。何も分からないのに、あれこれ悩んだってしょうがないしね」
どうやら、美緒の記憶の上書きに成功したようだ。
「ところで話変わるけどさ、ワタシたちがここで話するのって、中学の卒業式の時以来だよね」
「そうだったっけ?」
「そうだよう。最初は小学六年生のとき、ワタシとはじめちゃんがクラスの男子に冷やかされて、ワタシが大泣きしたことがあったでしょ。はじめちゃん、男子に『なに女泣かせてるんだよ』って男子を一喝したあと学校を抜け出して、ここにワタシを連れてきて、『ここならクラスのやつが来ないから、思いっきりいろんな話ができるだろ?』って言ってくれたこと覚えてる?」
「忘れちゃったよ。そんなことあったっけ?」
はじめはわざとすっとぼける。小学校六年の二学期。誰かが黒板に大きな相合傘を描き、クラスの連中に「ゲイカップル」などと冷やかされる中、泣きじゃくる美緒の手を引き、たどり着いたのが小田井駅の待合室だった。そこでもなお泣き続ける美緒の頭を、どうしたらいいか分からないまま、何度も何度も撫で続けたあの日のことを、忘れるはずなど無い。
「あったよう。忘れちゃったの?」
美緒は少しふくれた表情をする。
「あれ以来、こうやって時々ここで会って、いろんな話をしたよね。部活のこととか、受験のこととか……って、ねぇ、聞いてるの? はじめちゃん!」
「あ、あぁ。ここで会うようになったきっかけな」
「そうそう。受験勉強とかでパーマ屋さん行くタイミング逃しちゃって、そのままにしてたら、はじめちゃん、もじもじしながら長いのも結構似合うじゃないかって言ってくれてね」
「もじもじはしてたか?」
「してたよぅ。で、結構伸びたでしょ」
美緒は首を左右に振って白いシュシュで縛ったポニーテールをブンブン揺らす。
「うん。似合ってるじゃないか」
「髪、触ってみる? ううん。触ってみて」
「うん」
はじめは、右手で美緒の頭頂部からポニーテールの先端までを幾度となく撫で始める。中村つかさとは違った種類の、甘い、女の子独特の匂いがはじめの鼻腔を刺激する。昔から変わらない、美緒の匂いだ。
「それから、今だから言うけど、中三の夏休みのとき、会話するフリしながらワタシの胸をチラチラ見てたでしょう? あれ、結構バレるよ」
「見てないって」
はじめは右手の動きを止める。
「いや、見てたよ。怒らないから正直に言って」
「ごめんなさい見てました」
「やっぱり。はじめちゃんのえっち。でも、正直でよろしい……って、あっ!」
「どうしたんだ?」
「出かけるときに、お母さんから買い物頼まれてたんだ」
「おいおい、忘れるなよ」
「それじゃワタシはスーパーに買い物に行くけど、はじめちゃんはこれからどうするの?」
「ああ、おれは家に帰るよ」
「そっか。それじゃまた月曜日にね。今日はありがと」
「うん」
はじめは、駅前のロータリーで美緒と別れると、独り家に向かう。美緒と見解の統一ができたから、月曜日に駈に色々質問されても、話がぶれて怪しまれることは無いだろう。
家に戻ると、そのまま二階の自分の部屋のベッドに横になり、枕元に置かれたリモコンでテレビの電源を入れる。土曜日の午後。地上波ではどのチャンネルを回しても通販かバラエティの再放送か、大物とも若手とも言えない、微妙な位置づけのタレントが出演している旅番組くらいしか放送されていない。
ザッピングの末、コミュニティチャンネルに合わせたところで、手にしたリモコンの動きが止まる。コミュニティチャンネルでは町議会中継の再放送が流れており、画面左上には『FMあさま存廃についての代表者質問』のテロップが入っていた。