葡萄!(Eligibility)
土曜日の朝九時。スーツ姿のはじめとわかばとみのりの三人は小田井駅に集合し、そのまま軽井沢行の電車に乗り、軽井沢で九時五十九分発のあさま五一六号の七号車に乗り込む。
「はじめ君、どうしたのその顔! 酷いくまさんが出てますよ」
座席に座るや否や、はじめの目の下にできたくまにわかばが驚いた表情を見せる。小田井駅で落ち合ってから新幹線に乗るまで、かなり時間があったはずだが、わかばは今まで気付かなかったのだろうか。
「え? くまなんてあります? いや、ここ二、三日眠れなかったんで、たぶんそれで……」
「ちょっと待ってくださいね。今用意しますから」
わかばはバッグからポーチを出すと、更にポーチの中からコンシーラーを取り出し「ちょっとごめんなさい。私のやつで大丈夫かどうか分からないですけど」と言いながら、右手の人差し指に付けたコンシーラーをはじめの目の下に塗り、その上からファンデーションを使ってぼかし、肌の色となじませる。
「おお、わかばっち、とりあえずこれで誤魔化すわけだな。だったらチークも塗ってみるか?」
「みのりちゃん、悪ノリはダメですよ。今日は真面目なミーティングなんですから」
「分かってる。言ってみただけだって。まったく、二人ともあまり冗談が通じないんだから」
「とても冗談には聞こえませんよ。男がチークなんて塗ったらコントみたいになっちゃうじゃないですか。それにわかばさん、もし真面目なミーティングじゃなかったらやるつもりだったんですか?」
「フフッ。それはどうでしょうね」
「わかばさんっ!」
「冗談です」
八日ぶりに訪れたJR品川駅港南口前は土曜日のせいか、コンコースの賑わいとは対照的に、車や人の往来は先週金曜日に訪れた時以上に少ない。セントラルキャピタル東京支社が入居するビルは、低層階に入居するレストランやコンビニ以外は閉鎖されているため、あらかじめ指示されたとおり裏にある搬入口から中に入り、守衛室で名前を書き、非常用エレベーターで十四階に上がる。エレベーターから降りると、目の前にはいかにも裏口という感じの、殺風景なグレーの鉄製のドアがあり、ドアのすぐ横には、藤高の生徒会室に繋がる階段踊り場のものと同じ機種のICカードリーダーとカメラ付きインターホンが取り付けられている。
はじめがゆっくりインターホンの呼び出しボタンを押すと、ドアを解錠するモーター音が聞こえ、中から酒々井しおりが出てきた。
「いらっしゃい。ごめんなさいね。土曜日にお呼び立てしちゃって。さ、どうぞ」
「おじゃまします」
しおりを先頭に、薄暗く、誰もいないオフィスを抜け、先週と同じ会議室の中に入る。中には既に社長、取締役東京支社長、運用部部長そして運用課第二運用係の係長と、同じメンバーが揃っている。
「さ、どうぞお掛けになってください。今日はあまり堅苦しい集まりではないので、楽にしてください。喉が渇いたでしょう。今、酒々井がお持ちしますので、しばしお待ちください」
社長以下四人は一斉に立ち上がり、はじめたちに着席を勧める。先週とはまるっきり異なる態度に戸惑いつつ、はじめはわかばやみのりとともに着席すると、間もなく、酒々井しおりがグラスに入った液体とストローを一人一人の前に置いていく。液体は濃い紫色をしたものと、やや黄みかかった透明のものの二種類があり、はじめの目の前には濃い紫色の液体が入ったグラスが置かれる。
「さ、どうぞどうぞ」
社長に促されるまま、はじめは一口飲んでみる。まさか睡眠薬の類は入ってなどいないだろう。だが、一口飲んだ瞬間、はじめはあることに気付く。わかばの方を見ると、わかばが飲んだのはやや黄みかかった透明の液体だったが、はじめ同様、何かに気付いた様子がうかがえる。はじめはわかばに向かって軽く頷く。わかばがはじめの方を見て、返すように軽く頷いたのを確認すると、身体の向きを前方に変え、セントラルキャピタルの五人に向かって頭を下げる。
「このたびは、ご協力ありがとうございます」
「は、はじめぇ、一体どういうこと? どうしてOKって分かったんだ?」
みのりが驚いたような表情をしながらはじめに質問してくる。おそらくこの中で分かっていないのはみのりだけだろう。
「はじめ君、一体どういうことですか?」
わかばが首を右斜めに傾げながら後に続く。はじめは心の中で、お前も分かってなかったのか! と突っ込む。
「こういう言い方をすると失礼になるかもしれませんが、社長、あなたもなかなかお人が悪い。今しがた頂いた二種類のグレープジュース。私が飲んだのはコンコード種のグレープジュースで、透明のやつの品種は飲まなくても分かります。おそらくシャルドネ種でしょう。もっと言えば、これは三里塚家のワイナリーで製造されたグレープジュースですね。おれたち……いや、私や三里塚、佐倉が小さな頃から慣れ親しんだ味ですから、間違うはずなど無い。そうですよね。わかばさん」
「ええ。確かにうちで作った濃縮果汁還元していないストレート果汁のジュースです。でもはじめ君、これと出資と何の関係があるの?」
「結論から言えば、これは『我々は何でも知っている』というメッセージですよ。先週、ここにお伺いした時、我々は三里塚家のワイン工場のことなど話題にすらならなかった」
「たまたま、最近人気があるワインやジュースを作っているワイナリーがあると聞いたもので、品川駅の中にあるスーパーで酒々井君に買ってきてもらったのですよ。そうですか。これは三里塚さんのところのものだったのですか……」
「いや社長、ジュースだけなら、偶然というエクスキューズもできるかもしれませんが、それだけじゃないんですよ」
「ほう?」
「本日こちらへは、御社から送っていただきました新幹線グリーン回数券を使わせていただきました。お心遣い、おれたち……我々一同深く感謝いたしております。ところでみのりさん、一つお聞きしたいのですけど、おれ……私は詳しいことはよく分かりませんが、会社同士が取引する時、資料とか、見積書とか、契約書といった書類を郵送したり、メールでやり取りしたりすることって結構あると思うんですけど、普通、どの住所にそういったものは送りますか?」
「そりゃまぁ、会社の住所に送ると思うけど?」
「個人の家に送るようなことはあると思いますか?」
「それは無いんじゃないかな」
「そうです。しかし、御社は簡易書留で回数券を各々の自宅に送られた。直接FMあさまに送ってしまうと、三里塚や佐倉以外の、他の誰かが受け取ってしまうと考えられたからでしょう。しかし御社はおれたち……我々三人の自宅住所が分からない。ここからはおれ……私の推測ですが……」
「一人称は『おれ』で構いませんよ」
しおりがはじめに声を掛ける。
「どうも。おれの推測では、御社は弊社のことのみならず、おれたち個人のことを、自宅住所だけではなく、色々お調べになられたのではないのでしょうか。しかも、ある人物のアドバイスをもとに。もしかしたら、その人物は近くにいらっしゃったりして」
「よく分かったのです! さすがしーちゃんが見込んだおにーちゃんなのです! それからしおりん、お久しぶりなのです!」
「しーちゃんお久しぶりっ。元気だった?」
「おかげ様で全然元気なのです! これもしおりんのおかげなのですっ」
旧知の仲と思しき、違う制服を着た二人が言葉と両手を交わしている。
しーちゃんの隣には、マエじいこと前日経連会長・前原明鏡氏が軽く一礼している。セントラルキャピタルの面々も、この好々爺の顔に覚えがあるのか、一斉に直立不動になる。その一方ではじめはケーブルテレビの時代劇放送で観た、『先の副将軍』を畏怖しながら土下座をする田舎大名とその家来たちの姿と彼らの姿がオーバーラップし、思わず吹き出しそうになる。
「いやいや、どうぞみなさん楽にしてください」
「この案件の調査には、マエじいのアドバイスもあったのです。さすがにしーちゃんも放送局はやったことが無いので、リスクヘッジにセントラルキャピタルに声を掛けて、シンジゲートを組むことにしたのです」
「しーちゃん部長、それならばメタンハイドレートの件は御社だけじゃなくて、少しはうちにも……」
東京支社長が話に割り込んでくる。
「支社長、それはそれ、これはこれなのです。御社のカンボジアでの稲作象さん……じゃなかった、増産プロジェクトへの出資の件のこと、忘れちゃったのですか? あれでセントラル通商のASEANにおける農業部門はかなり持ち直したはずなのです。それに、今この話題を出すのは、おにーちゃんたちに失礼なのです」
「すみません。今のは忘れてください」
「うん。忘れたのです」
はじめには皆目意味不明な話が展開されている。わかばとみのりも、ポカンとしながらしーちゃんと東京支社長とのやり取りを眺めている。何となく分かったのは、パワーバランスとしては、東京昭和AFJインベストメントのほうが強いということだ。現に、しーちゃんたちにとってアウェイであるはずのこの場所で、彼女は話の主導権を握っている。
「おにーちゃん、ごめんなさいなのです。話を戻すのです」
「あ、いや、気にしていないので」
「マエじいのアドバイスどおり、一通りFMあさまのことや、おにーちゃんたちのことを調査はしたのですけど、しーちゃんが思ったとおり、やっぱりおにーちゃんは優しいおにーちゃんだったのです。それに、わかばおねーちゃんもみのりおねーちゃんも優しくて面白いおねーちゃんなのです」
「そ、そりゃどうも……」
はじめは、しーちゃんが自分たちをほめているのかけなしているのかが分からないまま、辛うじて一言返す。
「でも、しーちゃんが一番気に入ったのは、おにーちゃんたちが自分のことよりも仲間やお友達を何よりも大切にしていたことなのです。これだけはベンチャーキャピタルがどんなにお金を積んでも得ることができないことなのです」
高い評価をしていただけるのはありがたいが、いくらなんでもそれは買い被りすぎである。しかし、変に水を差してはいけないと思い、はじめはその言葉に愛想笑いを浮かべるしかない。
「でも、これだけは約束して欲しいのです。おにーちゃん、FMあさまのことをお手伝いするのは構わないのです。でも、学校のこともおろそかにしないで欲しいのです。今思えば、平日の昼間に東京まで呼び出すような真似をして、おにーちゃんには悪いことをしたのです」
はじめは、東京昭和AFJインベストメントとセントラルキャピタルの調査力に驚く一方、今更『どうしてここまで調べたのですか?』と訊くのも野暮ったく感じ、はじめはただ、うんうんと頷く。
「分かりました。約束します。それに、土曜日に設定していただいたのは、おれのためだったんですね。ありがとうございます」
正直、秘密裏に素行調査されたことは面白くはなかったが、はじめはセントラルキャピタルの五人と昭和AFJインベストメントの二人に向かって深々と頭を下げる。
「では、本題に入るのです」
「本題?」
わかばが首をかしげる。
「そうなのです。根本的な問題はまだ解決していないのです」
「どうやって事業の譲渡を実現するかってことね」
「みのりおねーちゃん、察しがいいのです。でも、それだけではないのです。まずは二つほど問題をクリアする必要があるのです」
「二つ……ですか?」
はじめはおそるおそる尋ねる。
「いっこめは、出資比率の問題なのです。新会社の資本金は三千万円が妥当だと考えているのです。普通の案件なら、うちとセントラルキャピタルさん合わせて三千万でノープロブレムなのです。でも、今回はそのケースが使えないのです」
はじめがわかばとみのりを見ると、二人の頭上にクエスチョンマークが出ている。放送局に勤めていて、この言葉の意味が分からないのは少々まずい。
「確か、ベンチャーキャピタルや投資ファンドは放送持ち株会社になり得ないから、一〇〇%出資だと総務省から免許が下りないということ……ですよね?」
「さすがおにーちゃん、ちゃんと勉強しているのです!」
はじめは胸をなでおろす。
「なので、過去の他社のケースを調べてみたら、九州のFM局で事業継承があった時、投資ファンドが一〇〇%出資した状態では一旦不許可になったから、従業員たちのお金をかき集めて、出資比率を七十五%まで落として、ようやく放送免許が下りたことがあったのです」
「つまり、三千万円の二十五%、七百五十万円を自分で何とかしろってこと……ですよね」
「そういうことなのです。免許が下りなかったら海賊放送になっちゃうのです。ヨーホーなのです! 電波法でおまわりさんに捕まるようなことにお金は出せないのです」
「わかばさん、七百五十万円の目途はつきそうですか?」
確か、最初に自己資金だけで会社の買収を検討していた時、ゆい三百万円、わかば百万円、みのり五十万円に、他の社員やボランティアの出資をかき集めても、五百五十万円くらいにしかならないみたいな話があったと記憶している。となると、あと二百万円足りない。
「みんなで手分けしてやるしかないですね」
「あと、もっと大事なことがもう一つあるのです! そのためには、おにーちゃんたちにはもう少し頑張ってもらいたいのです。あっ、おにーちゃん!」
「はい」
「さっきはちゃんと学校に行って欲しいと言ったけど、あと一回、今度の金曜日の午後だけ学校をお休みして欲しいのです」
「わ、わかりました」
「それってもしかして……」
「わかばおねーちゃん、察しがいいのです。金曜日の十三時から、FMあさまの社長を兼任している小田井町町長、取締役を兼任している商工会会長、青年会議所理事長、そして役場の地域課課長との、最後の話し合いの日なのです」
「そこで事業継承の提案をするわけか……」
みのりが独り言のようにつぶやく。
「そのとおり、これがにこめなのです。おにーちゃんたちには、その日の話し合いで決着をつけて欲しいのです」
「ええっと、具体的にはどうすればよいのでしょう?」
わかばがしーちゃんに疑問をぶつける。いきなり『決着をつけろ』と言われても、どうすればいいか分からない。至極もっともな質問だ。
「具体的には事業継承の提案をした上で、その場で臨時の株主総会か、取締役会を開かせて、その提案を受け入れる決議を取らせるのです」
「でも、おれたちが提案したところで、役員たちはそれを受け入れてくれるでしょうか。株の四分の三は役場・商工会・青年会議所が握ってますから、会社を煮るなり焼くなり好きにできるのは、彼等だけだと思うんですけど……」
「確かにおにーちゃんの言うとおりなのです。でもそこを何とかするのがおにーちゃんたちのお仕事なのです。確かにしーちゃんたちとセントラルキャピタルさんは色々実態調査したのです。けど、しーちゃんたちは部外者だから、どんなに調べても、外から見えずらい部分を見逃していることも結構あると思うのです。そこで今日の宿題として、金曜日の話し合いに使うマテリアルを作ってもらいたいのです」
「宿題、ですか?」
「そうなのです。この宿題さえできたら、あとは何とかなるのです」




