夢に歩く
まだ「序」という感じですが。
気長にお付き合いください。
7月8日の夜。
母さんお手製、いつも通りの夕食を平らげて2階の部屋に戻る。昨日の夜と同じように、窓から空を覗き込むが、見えるのは東京の空だった。星はもうしわけ程度で星空とよべるものではない。
僕はすっかりいい人間に戻った気になっていた。
けれども一方で、どこか遠くから見ているような気持ちでもいた。
これは本当じゃないのだ。
僕は世界に嘘をついているのだ。
「…キ。アキー?」
階下から母さんの声が僕を呼ぶ。返事をすると、
「お客さんよ」
こんな時間に?壁に掛かった時計の針は夜の10時半を過ぎている。
訝しく思いながら下りていくと、母さんはにやにやして僕を小突く。
「かわいいじゃない?」
……僕が?
「違うわよ。彼女よ。あんなかわいい彼女がいるならちゃんと紹介してよ」
母さんよ、僕に彼女は居ない。
母さんの様子からするに、「お客さん」とやらは同年代の女性らしい。さっと、江原の顔と、それから「ある人」の顔が浮かぶ。
玄関まで行き扉を開けると、しかし、待っていたのは見知らぬ女子だった。
「……僕に用事ですか?」
女子は僕の高校の制服ではない制服を着ていた。そう遠くない所にある女子校の制服だ。
茶色に染めた髪はいまっぽく巻かれていて、いまどきの女子高生という風な着こなし。
顔立ちは結構かわいいけれど、ずいぶんブスッとした表情で僕を見てくるので、こちらも顔をしかめてしまう。
「相田アキさんですよね」
そのとおり。
「ちょっと私についてきて」
「いやいや、知らない人に着いていっちゃあいけないって、親に言われて育ったんで」
そうきっぱり断ると、謎の女子高生はより顔をしかめて、
「あんた、よく普通な顔して生きてるわね」
と言う。ひどいことを。
追い打ちをかけるように彼女は言う。
「昨日までの、生活に戻りたくなければ大人しく私に着いてきてちょうだい」
結果、僕は夜道を彼女の後について歩いている。
彼女の正体は不明。
自分の行き先も不明。
何を質問しても答えてくれそうにない雰囲気だと思いつつ、ダメもとで訊いてみる。
「君は誰?」
「カスミノハラカレン」
「えっと、カス……」
「カレンでいい」
「随分馴れ馴れしくないか、それじゃ」
「長いのよ、苗字」
そんなわけで、僕は彼女をファーストネームで呼ぶことになったのだけれど、素性の知らない人の名前というのは、ほとんど何の情報ももたらしてくれないのだな、と、夜道を歩きながらぼんやり思った。
だいぶ歩いて、着いたのは駅前の繁華街だった。
夜だといっても繁華街はまだ眠らない。人は往来し、建物には明かりが灯る。
カレンは大通りから一本、もう一本、裏に入った通りのビルの前に立ち、
「ここ」
と言って、中に入っていく。
ご親切な説明で。
エレベーターに乗る。案内板に依れば、2、3階にはいかにもやらしそうな店が入っている。
ちょっとどきどきしたけれど、彼女がおしたのは4階のボタンだった。
4階にはどんなやらしい店が……、という僕の不安虚しく、扉が開いて降りてみると、待っていたのは堅い感じのドア。
明朝体で、『大原事務所』の文字。
「事務所?」
法律事務所、芸能事務所、いやいや、もっと血の匂いがする事務所かもしれないぞ。
いろいろと覚悟を決めている間にカレンが『大原事務所』に入っていくので、僕もそれに続く。
応接間のような空間を抜けてもう一つ扉をくぐると、待っていたのはスーツ美女だった。
「あら、早かったわね」
社長椅子に脚を組んで座る年上の女性を見て頭に浮かんだのは、敏腕美人弁護士(独身)、って言葉。
「どんなことして説き伏せてきたのかしら、カレンちゃん」
「何の抵抗もしなかったのよ。馬鹿みたいについてきたわ」
状況が読み込めず、それこそ馬鹿みたいにカレンの後ろに立つ僕を見て敏腕弁護士が言う。
「ようこそ、大原事務所へ」