望まれた病(前)
伶奈の目覚めは眠気がいつまでも尾を引いている。まどろみの中で浮かぶような不安定さを味わいながら、意識の境界線で綱渡りを続けるような感覚。
その上、早い時間に目が覚めるという習慣があった。伶奈自身も慣れているので、いつも決まった対応をしている。覚醒しても目を閉じたままにしているのである。一見すると眠り続けているようだが、実際はある程度の意識を保っている。
今日も伶奈が未央よりも先に目覚めた。薄目を開けて未央の寝顔を確認すると、すぐに目を閉じる。そのまま二度寝することもあれば、眠気が霧散することもあった。どちらにしても伶奈に取っての楽しみが待っている。これから起こることを伶奈が認識するかしないかの違いだけだ。
今回は結果的に後者となった。覚醒と睡眠の狭間で漂っていると、目覚まし時計が鳴り響いたのである。続いて、布団と寝巻が擦れる音が耳に届く。
その瞬間、伶奈の意識は現実に引き戻された。瞼の向こう側で未央が動いている気配がする。耳障りな音が止まり、未央の体温が近づいてくる。
最初に触れられたのは頬だった。指でなぞるだけでなく、弾力を楽しむように軽く突いたり離したりもしている。釣られて頬が緩みそうになるが、寝た振りを続けなければならないと気を引き締めた。
次は髪を弄ばれた。頭皮から先端まで指に絡められている。しばらくは耐えられたが、触れられた瞬間の感覚が忘れられず、我慢の蓋が徐々に持ち上げられていく。髪を撫でていた指が耳に触れると、ついに伶奈は限界を超えた。
「んっ……」
体を震わせてしまった。未央の動きが止まっている。瞼という壁を貫通して視線が注がれているのがわかる。今日はここまでかと惜しみつつ、いかにも今起きたというように振る舞って瞼を開いた。
「伶奈、おはよう」
未央の声が鼓膜を震わせた。その一言で蓋が弾け飛ぶ。
「あと少しだけ……」
溢れる欲求に流されて、伶奈は未央の胸に潜り込んだ。自身よりも豊かな膨らみが伶奈を迎え入れる。
未央に包まれながら、伶奈は今日の恒例行事を振り返る。耳に触れたのは偶然だったのか、それとも狙っていたのか。それさえなければ、さらに未央が手を出してきたかもしれないというのに。触れる範囲が顔から下まで広がったかもしれない。
あるいは一線を超えたかもしれない──たまには、朝からというのも悪くはない。
一通り想像してから、伶奈は目の前にある現実に身を委ねることにした。いつでも自分を包み込んでくれる安寧に浸る。
未央が楽しんでいる裏で、伶奈も自分なりに楽しんでいたのであった。
そんな朝が続いたある日、未央が体調を崩した。前日の夜に未央が「ちょっとふらつく」と言っていたが、それがこじれたのだろうか。
伶奈が目を覚ますと、未央が顔を歪めながら苦しそうに息をしていた。一瞬で眠気が退散し、その隙間が動揺で満たされ始める。上体を起こして未央の額に手を当てると、普段とは異なる熱が伝わってきた。
「……未央、大丈夫?」
伶奈の呟きに返事はなかった。表情を変えない未央の頭を撫でる。未央が一回り小さくなったような錯覚に襲われ、思わず背筋が強張った。
「ねえ、未央ってば」
その呼びかけに、未央がゆっくりと瞼を開いた。伶奈は目を離すことなくその様子を見守り続ける。現れた目は虚ろで、直視するのがためらわれた。溢れそうになる悲しみを抑えつけながら視線を保っていると、未央と目が合った。
「おはよう、伶奈」
力が抜けて枯れ果てたような声だった。言いながら起き上がろうとするが、ぎこちなさは明白である。
「動けるの?」
「……ちょっと、厳しいかな。はぁ、どうしよ」
未央は苦笑しながら体を戻し、ベッドに横たえた。
「看病する」
「え?」
「未央が元気になるまで、あたしが看病する」
伶奈は未央の頭から手を離し、意思を込めた視線で未央を見つめた。未央のために何かをしたい。そう思っての決断だった。
「……それじゃ、お願いしようかな」
未央は力なく目を閉じた。
「そうそう、寝てた方がいいよ。えっと、水飲む?」
「うん。ちょっとだけね」
「待ってて。すぐに取ってくるから」
未央が軽く頷いたのを確認して、伶奈は部屋から出た。一階のキッチンへ入り、グラス一杯の水を確保する。水をこぼさないよう慎重に、かつ急いで未央が待つ部屋へ戻った。
「お待たせ。水だよ」
伶奈はベッドに乗り、未央の隣に座った。
「ありがと。ちょっと起き上がるの手伝ってくれる?」
グラスをサイドボードに置き、未央の体に手を回し、起き上がらせた。逸る気持ちを抑えつつ、空いた手を伸ばしてグラスを取る。
「自分で飲める?」
「それくらいはできるよ」
わずかに微笑みを見せた未央はグラスを受け取り、少しずつ水を飲んでいった。減っていく水と、それを飲みこむ度に動く喉。水を二割ほど残して未央は手を休めた。
「もういいの?」
「うん。口の中が変な感じだから、あまり飲む気になれないんだ」
言いながら未央は再びベッドに体を横たえた。
「他に何かしてほしいことはある?」
「特にないかな。だから伶奈は自分のことをやってて。朝ご飯まだでしょ?」
「でも……いいの? 未央は寂しくない?」
伶奈は布団に覆われた未央の手を握った。
「もう一回眠るから大丈夫だよ。だから、ほら」
握った手が未央に軽く叩かれた。未央の強さが背中を押す。
「わかった。食べたらすぐに戻ってくるからね」
伶奈は手を離し、部屋の扉を開いた。手を振ると、未央が小さく頷いて伶奈を送り出した。引き戸が完全に閉まるまで、その隙間から未央の顔を見続ける。
「……お腹、あまり減ってないんだけどな」
リビングに下りてきた伶奈は、冷蔵庫からコーヒー牛乳を出してグラスに注いだ。軽く飲んで喉を潤してから、横の戸棚から適当な菓子パンを取り出す。その二つを持って椅子に座り、テーブルに向かった。
普段は未央が隣にいるのだが、今は一人。テーブルが、そしてリビングが広く感じられた。同時にそこは静かすぎた。
圧倒的な不安が伶奈を襲う。重い粘性を持ってまとわりつく嫌な空気を感じながら、伶奈は朝食を済ませた。ただ事務的に食べ物を流し込むだけの作業。既製品の濃い味付けさえもよくわからない。
グラスを片付けた伶奈は、なんとなく冷蔵庫の中身を眺めてから部屋に戻った。
「未央、起きてる?」
小さな声で尋ねながら部屋の中を窺う。カーテンが閉じられた暗い室内、ベッドの上では未央が寝息を立てていた。伶奈はその横に椅子を持ってきて、その上に体育座りをした。
膝を抱えながら未央の寝顔を見つめる。考えることは自分がこれから何をするか。未央の様子を見守り、未央が望むことをする。未央のそばにいたい。未央と一緒に歩きたい。
「……はぁ」
溜息が出た。思い浮ぶことすべてが未央ありきの行為だった。
思えば今まで未央が体調を崩したことはなかった。同じように伶奈も健康体だった。つまり今の状況は初めてのことである。
「あたしって、何ができるんだろう」
自嘲の呟きを落としながら、一人ということの無力さを伶奈は思い知っていた。