違和感の芽
太陽がもう少しで南中する頃、未央と伶奈は日光を浴びながら歩いていた。からりと晴れたこの日は外を歩こうということになり、気ままな散策をしている。
「ねえ伶奈。今日のお昼、あそこに行ってみない?」
そんな時、未央の目に留まった建物があった。イタリア料理の小さなレストランである。以前から気になってはいたのだが、伶奈と一緒に料理を作り、食べるという一連の流れに陶酔していたので、行こうとは考えていなかった。
それが今日、突発的に立ち寄りたいという衝動が湧き起こったのである。気まぐれと言うべきであろうか。
「そうだねえ、未央が行きたいのならいいよ」
「もう、そんな言い方して……じゃ決定ね」
未央は伶奈を連れて店の扉を開いた。チリン、とドアベルが澄んだ音を奏でるが、客の来訪を知らせる主人など当然いるはずもない。
店内は住居の一階部分を利用しているようで、簡単に見渡せるほどの広さだった。白いテーブルクロスをかけられた机が五つあり、それぞれに黒色の椅子が四つずつ並べられている。適度な音量で流れるクラシックの音楽に包まれながら席に着く。
「むむぅ……難しい言葉が並んでる。アンティパスト? コントルノ?」
メニューは見開きの二ページしかない。左側にランチメニュー、右側にメイン料理が並んでいる。そんな少ない項目にもかかわらず、伶奈は頻繁に首を傾げていた。
その隣で未央もメニューを見ている。伶奈が持っているものを見ているので、どこで伶奈が首を傾げるかを予想する楽しみに耽っていた。
「あっ、これはわかるよ。パスタにピッツァ」
得意気に言う伶奈に、未央は頬を寄せる。
「どれにするか決めた?」
「ほとんどわからないから決められないよ」
「それなら、コース料理にしようか? ほら、この日替わりコースとかさ」
未央が示したのは、食前酒から前菜、主食と順番に出され、最後に食後酒で締めるコースで、「当店おすすめ」という宣伝文句で飾られている。
「じゃあ、それにする」
伶奈はメニューを閉じ、机に置いた。
同じコースを未央も頼むことにし、料理が出てくるまでの時間を有効活用することにした。机に頬杖をつき、左隣の伶奈を観察する。
黒いカットソーは肩が大胆に開かれ、そこに未央の視線が吸い寄せられる。ほとんど無意識に手を伸ばすと、未央の視線に気付いたのか、伶奈がこちらを向いた。未央の手がどこに触れるのか気になるようで、好奇の視線を注いでいる。
未央は一瞬動きを止めた後に進路を変え、伶奈の頬に触れた。照れたように目を伏せる伶奈を見て、未央は小指で薄赤の唇をそっと撫でる。その爪に、伶奈の上唇が乗った。神経が集中する指先から全身に向けて、柔らかく温かい感情が満ちていくのを未央は感じていた。
一切の前触れもなく、甘い香りが漂い始めた。発生源を探そうと泳いだ視線の先、少し離れた所に食事を運ぶためのカートが置かれている。その上に、透き通るような薄黄色のワインがグラスに入れられて乗っていた。
「あれが食前酒かな」
未央は立ち上がり、カートを押して机に戻る。二つのワイングラスを机に置き、再び席に着く。未央がグラスを持つと、伶奈も続いて持った。
「今日、ここで伶奈と食事ができることに、乾杯」
未央はグラスを軽く掲げた。
「かんぱーい……って、グラスぶつけないの? カチンってさ」
「ワイングラスは薄く作られてるから、ぶつけると割れちゃうことがあるの。まあ、厳密にはマナー違反ってわけじゃないけど、あまり好ましいってわけでもないからね。こうやって掲げるだけでいいんだよ」
「へえー、未央は物知りだね。じゃ、改めてかんぱーい」
互いに視線を交わして頷き合い、グラスを傾ける。少量だったので一口で飲んでしまった。
「おいしいね、このワイン」
「うん……」
空腹の胃袋に直接アルコールを流しこんだのがいけなかったのだろうか。未央は全身に酔いが回る予感がした。だが、理性や気分が反転するほどではないだろうと自己分析もしていた。一方の伶奈は酒に強いようで、顔を見る限り特に変化はない。
「あ、次の料理が来てる」
伶奈の言葉に促されてカートを見ると、カルパッチョとパンが置かれていた。ワインと同じように未央が取り、机に並べる。
それからも出てきた料理を食べると、次の料理がカートに出現するということが続いた。もちろん二人は不思議に思うこともなく、二人だけの食事を楽しんでいる。
最後にウォッカをベースにした、バーバラと呼ばれるカクテルが食後酒として出された。
「たまにはこういうのもいいね」
未央は薄い茶褐色の液体を揺らした。柔らかく甘いチョコレートのような味わいで飲みやすく、量も少ないので一気に飲み干した。
「外で食べるのも悪くなかったよ」
伶奈もバーバラを煽った。残った味を楽しむように口中を動かしている。
未央の顔が赤く染まったのはアルコールに酔ったからか、それとも伶奈の姿に酔わされたからか。目元から頬にかけて朱色が浮かび、心臓の鼓動が何もしなくても感じられる。
自分が酒に強い方ではないことは自覚している。以前温泉に行った時に起こった情事でも、酔った勢いで普段しないようなことまで試してしまった。伶奈は受け入れてくれたものの、理性を失いかけていたことは事実である。
「ねえ、顔赤いけど大丈夫?」
伶奈が首を傾け、覗き込むような視線を浴びせてきた。切れ長の瞳が気遣いを投げかけている。純粋に未央の状態を心配しているのが感じられた。
その視線が未央を更に深い境地へと運んでいく。三半規管が揺らぎ、奇妙な浮遊感が体を支配している。これ以上抑え続けることは不可能だと脳が絶え間なく指令を送る。
制御も空しく、未央は電気信号と本能に従って伶奈の肩に寄り掛かった。触れた素肌の瑞々しさが未央を吸い寄せる。
「もう、どうしちゃったの?」
伶奈は体勢を変え、未央をその胸に抱き寄せた。呆れたような言葉とは裏腹に、頭を撫でる手つきは優しく心地良い。
未央よりも一回り小さな膨らみが目の前にある。それを覆う下着と衣服が緩衝材となり、ほどよい感触を未央に伝えていた。頭に感じる定期的な刺激。愛しい人との触れ合いがもたらす効果を再認識しつつ、未央の精神が平静へと導かれていく。
「未央が甘えてくるのって珍しいね」
耳元で囁かれる甘い言葉。絶妙な力加減で抱擁する腕。心も体もすべて受け入れようとする温もりが滲み出し、そのすべてが未央に吸収される。
未央は目を閉じた。単純に酔いから来る眠気に負けたのもあるが、このまま伶奈にすべてを委ねてしまおうという意思もあった。
数秒の間もなく、使い慣れたベッドよりも穏やかな安眠の時が忍び寄ってくる。最高の枕に頭を預けながら、未央はまどろみに身を任せた。
どれくらいの時間が経過した頃だろうか。未央は静かに目を覚ました。
半覚醒の状態で現状を確認すると、顔は依然として伶奈の胸に置かれ、右手がその傍らに添えられている。まるで授乳場面のような光景であった。
太腿に投げ出された左手には、伶奈の右手が絡められている。未央から握った記憶はないので、眠っている間に伶奈から手を伸ばしたのだろう。右耳から後頭部にかけて感じる熱は伶奈の左手か。寝ている間もずっと撫でられていたらしい。
ふと未央は体に無理な力がかかっていないことに気付いた。負担をかけないよう、伶奈が体の位置を調節していたのだろう。
そこに考えが至った時、思わず体に力が入ってしまった。伶奈にもっと触れていたくなり、抱き寄せられたままの顔を擦り付ける。
「あ、起きた?」
その動きを感じ、伶奈が視線を落としてきた。未央が眠っている間は行動を制限されていたにも関わらず、嫌な顔一つせずに慈しむような表情を見せている。
「うん……ありがとう」
寝起きの掠れた声だった。眠ったことにより、未央の酔いは消滅していた。今も少し感じる気だるさは眠気からくるものであろう。左手に意識をやり、伶奈の手をしっかりと握りながら未央は体を起こす。
「もういいの?」
「うん。もう少し休んだら外に出ようか」
そうは言ったものの、未央は再び伶奈の肩に頭を預けている。こうした適度な触れ合いに没頭するのも悪くないと思い始めていた。何も考えずに身を預けるだけで、未央の心を穏やかな微風が吹き抜ける。
「なんだか、未央のこんな姿もいいなあ」
「そう? なら、これからはもっと伶奈に甘えちゃおうかな」
「いいよ。全部受け止めてあげるから」
終わりなどないかのように続いた安寧の時間。既に二人が入店してから三時間が経過しようとしている。そこでようやく二人は店を出た。
「これからどうする?」
「特に考えてないけど……駅前にでも行こうか」
話しながら二人は歩き出していた。しばらくすると、離れた場所からでも大きな影が見えてくる。駅前の交差点にそびえ立つ建物には、カラオケやゲームセンターなどの娯楽施設が入っている。
未央はまた唐突に、ここで伶奈と遊んで楽しみたいと思い付いた。
「ここに入るの?」
「そのつもりだよ。どこで遊ぶかはまだ考えてないけどね」
「いいよ。行こ?」
ガラス張りの扉が開いた瞬間、大音量の波が鼓膜に響いた。一階は全体がゲームセンターとなっており、無数の筺体から流れるゲーム音楽とスピーカーからの音楽が混ざり合い、雑音による共鳴を奏でていた。
前方に見えるエスカレーターで二階に上がると、喧騒は少し静まった。近くの長椅子に座り、柱に掛けられた各階の案内図を見る。
「伶奈はどこに行きたい?」
「うーん、どうせなら行ったことないところがいいな……あ、ボウリングなんてどう?」
「いいね。食後の運動にもなるし」
二人は上層階へと向かった。エスカレーターを乗り継いだ先、四階すべてにボウリング場が入っている。仮に多数の人間がここにいるとすれば、ピンが弾き倒される軽快な音が絶え間なく飛び交っているだろう。
いくつも伸びているレーンを横目に、カウンター横の機械へ向かう。ここでシューズを借り、手頃な重さのボールを取ってレーン前の椅子に座った。
「さて、せっかくボウリングをするんだから、やっぱり勝負しないとね」
伶奈が得意気な顔をした。自信に溢れていると言うよりは、純粋に未央とのゲームを楽しみたいという気持ちが強そうな表情だった。
「やるからには負けないよ?」
だから未央も同じ表情で快く応じた。意思を秘めた視線を交わし、先手必勝とばかりにボールを走らせる。
「接戦だったね」
「うん。なかなかいいスコア出せたかな」
他に誰もおらず、一般的なボウリング場に付き物である騒音が存在しない空間。そこで行われた未央と伶奈の勝負に決着がついた。
「五点差か。いい勝負だったよ。伶奈にしては頑張ったんじゃないかな」
「あたしだってやる時はやるんだから」
二人とも持てる技術を駆使して善戦し、ストライクやスペアが出たのも一度や二度ではなかった。その結果、互いの点数は百を超えている。
「でもさ、いい汗かけたね。早く帰ってシャワー浴びたいな」
椅子やモニター台には、試合中に開けた飲料の缶やペットボトルがいくつか置かれている。体を動かせば喉が渇くのは必然だった。
「だね。ちょっと疲れちゃった」
言いながら伶奈は未央の隣に腰掛けた。シューズのマジックテープを剥がしながらモニターを見上げ、互いの点数を再確認している。
いつもとは異なる呼吸音が未央の耳に届く。鼻で吸い、口から出される吐息。運動で疲れた体から滲み出る熱気。切り揃えられた後ろ髪から覗くうなじは薄赤く染まっている。未央の鼓動が速度を一段階上げた。
それを自覚した未央は内心で溜息をつく。また伶奈に甘えることになるかもしれない。
「さっ、帰ろう」
未央は靴を履き替えて立ち上がり、伶奈に手を伸ばした。出された手をしっかりと握り、下りエスカレーターに向けて歩く。
何気なく振り返ると、放置されたボールや空き缶などが目に映る。特に奇妙な点などは見当たらない。賑やかな祭りの後にも似た光景。
その瞬間、未央は心を羽毛で撫でられたような、痒みにも似た痛みを覚えた。震えて強張った体は硬直し、脚が棒のように動かなくなる。
「どうしたの?」
だが、伶奈の声を聞き、その目に見つめられると、その痛みは未央の神経から遮断され、忘却の彼方へと追いやられていた。
「ううん、なんでもない」
今はもう動く体を進めながら、未央は再度振り向く。相変わらず違和感は覚えるが、それを表現する術を持っていなかった。
*
一般的に、第三者がいなければ成立しないとされている場所はいくつかある。この世界では、そういった場所が都合良く再構成されている。これまでの生活を見ても、デパートや電車といったものが良い例である。
今回の事例を見直そう。
まずは料理店について。二人は「このメニューにしよう」という意思表示をしただけであり、誰かに注文を通したわけではない。ただ単純に望んだことが、そのまま具現化されたに過ぎない。
料理が突然現れていたが、料理人や店員という人物が存在しない以上、そうするしかないのである。出てくる間隔は早すぎず遅すぎず、二人の会話の腰を折ることがないように調節されていた。
もちろん、それも二人が望んだ結果であった。一連の流れを不自然に思わないのは、世界に他の人間がいないことを受け入れているのと同じ理由である。
次に二人が向かった娯楽施設であるが、ここも以前訪れた旅館での出来事と大差はない。貨幣や支払という概念がないこの世界では、第三者との繋がりが必然ではなくなる。ただ望むことを好きなように気が済むまで楽しめば良いのである。
これまでの二人を見ていれば、平穏な生活が永遠に続いていくように思われるだろう。それが好ましい希望であるが、何事にも例外がつきまとうものである。確実な安定のためには避けて通れない。変則的なことに関しても考察しなければならない。
たとえそれが微細な確率でしかあり得ないことだとしても、不安要素は完全に摘み取る必要がある。
そのために、未央へ小さな干渉を施した。