温泉旅行(前)
今朝も未央は伶奈の寝顔を見つめている。普段と違うのは二人が一糸纏わぬ姿で布団に包まれていることだが、実際はそれほど珍しいことでもない。
未央は手を伸ばし、伶奈の頬に触れた。指を滑らせて、布団の中に潜り込ませる。まず触れたのは弾力を持つ胸だった。
片手に収まってしまう膨らみが、未央の掌に吸い付き離れない。触れ続けていると、その部分から熱が限りなく湧き出て来るようだった。
名残惜しみながらも手を離し、さらに下へと伸ばす。臍を数回撫でて、太腿に辿り着く。内側の部分が敏感だということを未央は知っていた。そこを刺激して伶奈を起こさないように注意しながら触れる。掌をぴったりと密着させ、人差し指だけを動かしてゆっくりと肌を撫でる。左手は伶奈に掴まれているので、今回も右手しか動かせないのが残念ではあったが、その分じっくりと楽しもうと考えていた。
体を動かし、伶奈との距離を詰める。額同士を重ね、閉じられた伶奈の目を間近で見つめた。眼球の動きや時折震える瞼を見ていると、伶奈の秘密に侵入しているようで、不思議な高揚感が芽生え始めてしまう。
右手の制御が危うくなってきた頃、伶奈がゆっくりと瞼を開いた。焦点のずれた眠たげな瞳を、未央は慈しみを込めて見つめる。
「おはよう」
「……ん」
掠れた声を出した伶奈はしばらく動きを見せなかったが、やがてゆっくりと上体を起こした。その反動で滑り落ちた右手を引き戻し、未央も起き上がる。
伶奈は背中を丸め、寝ぼけ眼で自身の体を見ている。その視線が動き、ベッド横の机に纏められたパジャマと下着を捉えた。
「……服、着てない」
「うん。昨日あのまま寝たからね」
未央の声を聞きながら、伶奈は机に手を伸ばす。下着を取り、黙々と身に着け始めた。
「着せてあげようか?」
「……ん、今はいい」
そう答えた伶奈の顔が薄赤く染まっていたのを、未央は見逃さなかった。
今日は昨日よりも涼しく、過ごしやすい天気となった。日向にいても、暑苦しさより安らぎを感じる陽気。午後の日差しは爽やかな空気を演出する装置と化している。
二人はデパートの屋上に来ていた。片隅に設置されたベンチに座り、周囲の景色を見ながら時間を過ごしている。
他愛もない会話と心地良い沈黙。そんな中、伶奈がこんな提案をした。
「ねえ未央。今日はずっと外で過ごさない?」
当然のことながら、それらしい準備など一切してない。大した荷物さえも持っていないのだが、それでも未央は頷く。
「いいね。面白そう」
そう言って未央は、右手に持った緑茶を飲んだ。空になったペットボトルは弧を描き、網目の屑入れへと投げ込まれる。スコン、と気持ちの良い音がした。
「そしたら……あっちに行きたいな」
伶奈は立ち上がってフェンス近くまで移動し、北西に向けて指を差した。その先には、川を横切る鉄橋に導かれた線路が地平線の果てまで続いている。
線路の先を透視するように、未央は視線を動かさない。
「あっちには何があるの?」
「わかんない。ただ遠くに行ってみたいだけ」
無計画な伶奈の言葉に、未央は溜息をつきながら首を振る。その表情には不快感はなく、状況を楽しむような余裕を含んだ微笑みが浮かんでいた。
「じゃ、行こうか」
未央は立ち上がり、伶奈の手を握った。
その温もりに気付くと伶奈はすぐに振り向き、全身から嬉しさを放出しながら未央の腕にしがみつく。
「やった! 久々の旅行だね」
二人は駅に向かって歩き始めた。線路が見えたことからもわかるように、駅までの距離はそう遠くない。数分歩けば、すぐに駅へと到着する。
自動改札機は設置されているが、その機能を果たしてはいない。二人は切符を買うことも疑問を抱くこともなく構内へと入る。ホームへ続く階段を上りきると、数秒で電車が滑り込んできた。
車内に入り、手近な座席に腰掛ける。周囲には二人以外の姿は当然見えない。客も、車掌も、運転手さえも。二人だけを乗せて電車は走り出す。
駅をいくつか通過した頃、二人は同時に眠気を覚え始めた。瞼が重くなり、意識が朦朧としてくる。電車の揺れが、眠気に力を与え続ける。
ぐらりと伶奈の体が傾き、未央に寄り掛かった。慣れ親しんだ、安心できる温もりと質量が遠慮なしに伝わってくる。
その感触をどこかで知りながら、未央も深い眠りに落ちていった。
未央が目を覚ますと、既に電車は止まっていた。扉が開き、駅への道を作っている。
だが、それだけではない。電車の内装、外装が共に別種類の物に変わっている。座席も今まで座っていたロングシートからボックスシートになっていた。明らかに乗り換えをした証拠であるが、もちろん眠り続けていた二人には不可能なことである。
普通ならばあり得ない周囲の変化。そんな状況さえも未央は不思議に思うことなく、寝息を立てている伶奈の肩を叩く。
「起きて、伶奈。着いたよ」
伶奈はゆっくりと目を開けて、周囲の景色を確認する。目的地に着いたことを理解したのか、その顔が次第に喜びで満ちていった。
「ほら、行こう」
未央は伶奈を立ち上がらせて、その手を引いて電車から降りた。
駅は単式ホームで、線路は単線。周囲に緑色が目立つ寂れた景色と、肌を撫でる涼しい風が未央の目を細めさせた。狭い駅舎の端にある無人の改札を通って外に出ると、竹林の中へと続く道が二人を迎える。
背の高い木に挟まれた道を進めば、すぐに旅館の入口が見えてくる。鹿威しを横目に中へ入ると、エントランスホールが圧倒的な広さで二人を待ち構えていた。
「うわあ……凄いね、未央」
伶奈は忙しく首を動かして周囲を見ていた。
「はしゃぎすぎだよ。落ち着いて」
なだめる未央も嬉しさを隠しきれていない。旅行がもたらす奇妙な高揚感に支配され、視線は広範囲へと巡ってしまう。
無人のフロントに置いてある鍵を取り、エレベーターへ向かう。六階で降り、鍵にも刻まれている602号室の前に立った。
扉を開き、靴を脱いで部屋に上がる。閉じられた襖を、未央はゆっくりと開いた。
「わっ、思ったより広いね」
その奥に待っていたのは十畳の和室。部屋の中心には座椅子に挟まれるように机が置かれ、和菓子が数個入った皿が乗っている。窓際には別の机と椅子があり、景色を楽しめるようになっている。
部屋の端には床の間があり、小さな行灯が置かれている。放たれる淡い光を見ていると、未央の思考までも妖しく染められるようだった。
「ねえねえ、座ろうよ」
伶奈に腕を引かれ、未央は正気を取り戻した。座椅子に腰を下ろし、机に向かう。
隣に座る伶奈は、早くも和菓子に手を伸ばしている。
「なんだろ、これ。開けてみよっと──あっ、きんつばだ!」
言うが早いか口に放り込んだ。咀嚼するたび、幸せそうに表情が緩んでいく。
「食事もあるんだから食べすぎないようにね」
「大丈夫だって。甘い物は別腹だもん」
伶奈は既に次の和菓子を手に取っていた。
夕食は旅館に併設されたレストランでのビュッフェだった。洋食がメインとなっており、その彩りは空腹を更に煽る。様々なパスタやピッツァ、そしてデザートと一通り堪能した二人は一旦部屋に戻った。
「……食べすぎたかも」
伶奈は窓際の椅子に座り、ぐったりとしている。
「しばらく休んでるといいよ」
未央は伶奈から離れて部屋の隅に行き、観音開きの扉を開ける。その中にはタオルと浴衣が入っていた。それらを取り出し、畳の上に置く。浴衣はサイズが二種類用意されているが、体に合わせて確認してみると小さい方で十分だった。
浴衣とタオルを重ねたものを二つ作り、それらを部屋の隅に置いてから、未央は伶奈の隣に腰掛けた。伶奈の頭を撫でながら、下から覗きこむように顔を見る。
「大丈夫? 時間はいっぱいあるから無理しないでね」
「そんなに酷くないと思うから……ちょっとすれば平気だよ」
その言葉通り、十数分ほどすると伶奈は元気を取り戻した。水を一口飲ませてから、二人は浴衣に着替えた。温泉に持っていく物を減らすため、そうしようと未央が提案したのである。
通常時は肩まである黒髪を髪留めでまとめ上げた未央に、伶奈は寄り添って手を重ねてきた。両手で包みこみながら、未央の手の甲に浮かぶ血管を指先でなぞって楽しんでいる。
「お早い回復で」
くすぐったさに耐えていることを隠しながら、未央は肩を竦めた。
「だって時間がもったいないもん。せっかく未央と温泉に来たんだから楽しまないと」
「そうだね」
未央は頷いて答え、伶奈の髪を撫でた。途端に動きを止め、俯いてしまう伶奈の姿が未央を惑わせる。
「じゃあ、そろそろ温泉行く?」
「うん……」
二人はタオルを持ち、温泉へ向かった。一階のエントランスホールを通り抜けると、その先には開けた休憩所がある。湯上がりに体を落ち着けるためにあるようだ。その手前で右を向けば温泉への入口がある。
暖簾をくぐると、先への道が二つに分かれていた。時間によって男湯と女湯が入れ替わっているのだが、それは二人にとって関係ないことだった。
「どっちにするの?」
伶奈の問いかけに、未央は部屋で見た温泉の案内図を思い出しながら答える。
「こっちは温泉の数が少ないけど、それだけ中は広くなってるよ。あっちは逆で、温泉の数が多くて少し狭いんだ。ちなみに露天風呂は両方ともあるみたい」
「あっちにする!」
即決した伶奈に、未央は少し圧倒された。
「いつもは優柔不断なのに、今日はどうしたの?」
「だって温泉がいっぱいある方がいいし、それに……狭い方が、ね?」
甘えるような目で見つめてくる伶奈。未央の腕にしがみつき、頬を擦り寄せている。未央の奥底をくすぐる手段を心得たその行動が小憎らしくもあり、嬉しくもあった。
密着する体を引いて、未央は伶奈が望んだ方へと歩く。角を曲がった二人を脱衣所が迎え入れた。
並んで脱衣かごの前に立ち、タオルを置いてから向かい合って視線を交わす。未央の方が伶奈よりもわずかに背が低いが、見下ろされるほどではない。
伶奈は目を泳がせ、何か言いたげに口を歪ませている。そんな表情をしながら浴衣の袖を引かれてしまえば、未央の心音が速まるのは必然だった。
「どうしたの? 何かお願いがあるなら言ってみなよ」
あえて伶奈の体には触れない。こちらから迫るのは簡単だが、それでは面白くない。
「……脱がせてくれないの?」
聞くだけで鼓膜から脳髄まで溶けてしまいそうなほど甘い声だった。それを聞けただけで、これ以上焦らす意味が消し飛んだ。
未央は伶奈の顎に人差し指を当て、肌を撫でながら下に動かす。喉から鎖骨の間を通過して、膨らみの谷間をなぞりながら浴衣の境目に指を潜らせる。そのまま動かし続けると、帯の結び目にぶつかった。
両手を使って結び目を解く。ゆっくりとした動作を維持しつつ、伶奈の表情が羞恥に染まる様子を窺えば、それが未央の精神を高揚させる材料となる。
糸が切れたように支えを失った浴衣が開き、伶奈の素肌が現れた。未央は片手に帯をまとめて持ちながら、頼りなく崩れつつある伶奈の浴衣を脱がせた。
平常時ならば汚れなき純白の肌であるはずのそれは、既に全体が薄赤く色付いている。その意味を理解しているからこそ、未央は優位に立ち続けることができた。
伶奈は照れ隠しのように視線を泳がせながら裸体を晒している。胸から腰にかけての曲線が、艶のごとく輝いて未央の目を細めさせた。常日頃から見慣れているはずなのだが、場所と状況の違いが相乗効果を生んでいるのだろう。
未央が浴衣を脱ごうとすると、伶奈がその手を掴む。
「待って。あたしにやらせて」
返事を待たずに、伶奈が未央の浴衣に手を伸ばしてきた。多少の覚束なさを孕んだ動きで帯を解かれ、浴衣が取り払われる。露わにされた未央の体に、伶奈の視線が釘付けになっているのがわかった。
もっと見つめられていたい。そして同時に見つめ続けてもいたい。しかし、これ以上場の雰囲気を染めてしまえば、淫らな欲望を解放せざるを得なくなるだろう。それでは温泉に来た意味がなくなってしまう。
「じゃ、入ろうか」
未央は伶奈の手を握り、浴場へ足を踏み入れた。
その途端、熱気が二人を包み込む。視界を白く染める湯気、流れ落ちる源泉、広い空間。未央は伶奈が手を握る力をわずかに強めたのを感じた。
二人はそれぞれ椅子と桶を持ち、適当なシャワーの前に座った。湯温を調節し、体を軽く流す。互いにシャワーをかけ合って戯れるのも忘れない。
全身が適度に温まったのを確認してから温泉へ向かう。ここは源泉掛け流しの温泉であり、浴槽から湯が溢れ出ている。端にある壁面には、この温泉が発掘されるに至った経緯や成分表などが刻まれているが、二人の視界に入ることはなかった。
「んー、さすがにちょっと熱いなあ」
伶奈が手を入れて温度を確かめた。未央もそれに続いて温泉に触れる。
「ほんとだ。少しずつ入ろうね」
未央は縁に腰掛け、膝から下までを温泉に差し入れた。熱が未央の足にじわじわと染み込んでくる。伶奈と繋がった手から伝わる熱とは異なるものではあるが、共に未央の本能を侵食する点では同じだった。
二人で同じように浸かり、慣れてきたところで腰、腹、胸と徐々に浸かる部位を上げていく。温泉の底が階段状になっているので、それは容易なことだった。
広い空間に、二人だけの存在が響き渡る。湯面の揺らめきが立てる何気ない音が反響し、未央の耳に届く頃には小波のような調べを奏でていた。
いつしか深くまで浸透していた二つの熱が、未央の理性を少しずつ溶かしていく。ふと顔を横に向けると、顔を薄赤く染めた伶奈と視線が重なった。新たな熱が、視神経から脳髄に侵入する。
「そろそろ体を洗おうか」
後戻りできなくなる前に未央は立ち上がった。まだ早い。時間はたっぷりとあるのだから。そんな言葉を脳内で反芻する。未央は楽しみを最後まで取っておくのが好きだった。
「うん。洗いっこする?」
そんな未央の気持ちを見通しているのか、伶奈は無邪気な微笑みを容赦なくぶつけてきた。もちろん体は密着させたままである。腕に当たる柔らかさと、その頂点にある小さな硬さがまた新たな熱となる。
未央は返事の代わりに伶奈の頭を撫で、手を引いて浴槽から出た。相変わらず物音は過剰なまでに響いている。
「じゃあ、まず私が洗ってあげる」
「その次はあたしね」
未央が伶奈の頭を洗い、続いて伶奈が未央の頭を洗う。その後に石鹸を手で泡立て、互いの体に塗っていく。肌を走る伶奈の手。そこから感じる幸せを返すように、未央も伶奈の体を撫でる。
腰から内腿に手を滑らせると、伶奈の動きが鈍くなった。与えられる刺激に全神経を集中させているのだろう。
「どうしたの? まだ泡が付いてないところ残ってるよ」
それがわかっているから、あえて未央はそう言った。自分が優位に立てるよう言動を選び、場の空気を作り上げていく。
伶奈は手の動きを再開したが、そのやり方が変わっていた。未央を抱くように腕を回し、抱擁を交わしながら背中をなぞっている。正面の密着度は急上昇し、伶奈の熱い吐息が耳元へかかる。
未央が予想した通りの展開だった。それに応えるように未央も伶奈の体を弄ぶ。慈しみと、ほんの少し嗜虐感を込めて。
伶奈の弱点はすべて知り尽くしたつもりだったが、戯れに撫でたところで不意に敏感な反応をされることもあった。単に見落としていただけなのか、それとも伶奈の神経が過敏になっているのか。どちらにしても、未央にとって悪い影響は与えない。
全身の泡を洗い流し、先ほどとは違う温泉に浸かった。そこを堪能すれば、また異なる温泉へ。数回の渡り歩きを経て、今度は露天風呂に向かうことにした。
外へと続く扉を開くと、冷たい空気が体を包んだ。火照った体にはちょうど良い。
「滑りやすいから足元気を付けてね」
自分でも注意を払いながら伶奈の手を引く。いつしか二人を見下ろす空は暗くなっており、ちらほらと星の輝きが浮かんでいた。雲に隠れているのか、月の姿は見えない。
露天風呂の縁に立ち、ゆっくりと足を入れていく。室内の温泉よりも、こちらはぬるめで入りやすかった。打たせ湯が端に二本あり、浴槽内に流れ落ちている。
「うわっひゃ、なんか変な感じ」
伶奈が打たせ湯を肩に浴びながら、体を強張らせていた。弾ける水飛沫に最初こそおっかなびっくりといった様子であったが、次第に慣れてきたようで表情が緩み始めている。
透明に揺れる湯の中に映る伶奈の体。胸を境界線にして上が明確に、下が湯に合わせて揺れ動いて見える。そんな姿を眺める未央は、再び中枢神経が甘美な炎で侵されていくのを感じていた。
この感情はまだ抑えなければならない。そうした方が楽しめるのだから。だが、頭では理解していても体は正直だった。抑え続けるのは辛い。
今すぐに伶奈が欲しい。それが未央の正直な気持ちだった。