深夜の散歩
ある夜のこと。伶奈は異常なまでに目が冴えていた。
布団に入っても睡魔が訪れず、目を閉じては開くという作業を繰り返していた。隣を見れば、未央の寝顔がそこにある。すっかり目は暗闇に慣れていた。
夜が冷える時期。いつもは恋しい布団の温もりが、だんだん暑苦しく思えてくる。気分転換のために水でも飲もうと、伶奈は布団から出て、キッチンへ向かった。
冷たい喉越しが、更に眠気を遠ざける。暗く寒い階段に身震いしつつ寝室に戻ると、未央が上体を起こしていた。部屋の明かりも点いている。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。それより伶奈、眠れないの?」
「まあ、ね。なんでかわからないけど」
伶奈は布団に入り、未央の横に座った。寒さを口実に肩を寄せ合う。
「そんな日もあるよ。せっかくだから私も起きてようかな」
「眠くなったら気にせずに寝ていいからね?」
「その時は伶奈と一緒がいいな」
「……あたしも」
それから二人はベッドの上で語り合い、触れ合い、戯れ合った。時計の針が回っても、瞼が重くなることはない。未央も完全に目が冴えてしまったようである。
「ちょっと一服しよっか?」
未央の発案により、二人はキッチンに移動した。湯を沸かし、紅茶を淹れる。
「あたしはレモン入れようかな。未央は?」
「私も。少しだけね」
紅茶を入れたティーカップを持ち、ソファーに並んで座る。カップを手で覆えば紅茶の熱が伝わってくるが、触れ合う肌からの熱には敵わない。
「はぁ……体があったまる」
「伶奈はいいね。そんなに速く飲めて。私は猫舌だから無理だな」
「あたしも熱いのは苦手だよ」
「と言いながらもう半分飲んでるね」
そんな会話をしながら時間が過ぎていく。既に睡眠という選択肢は二人の頭から消えていた。時計の短針は頂上から右側へと下り始めている。
「どうしようか、これから」
伶奈が空のカップを弄びながら言った。底に残った僅かな液体を飲む気にはならない。
「そうだねえ……夜の散歩でもしてみる?」
「あっ、いいね。そういえば、この時間に外行ったことないかも」
「普通は寝てる時間だもんね」
思い立ったら即行動とばかりに、二人は暖かい服に着替えた。最近の日中は過ごしやすい気温だが、夜は重装備が必要な寒さが顔を出す。
外に出ると、冷たい夜風が容赦なく吹きつけてきた。
「ううっ、寒い」
伶奈は体を震わせた。吐き出す息は白く色付いた途端に散ってしまう。
「大丈夫? ほら、もっとこっちに来て」
その後ろから未央が寄り添ってきた。重ね着の服に遮られてはいるが、確かに伝わる温もりに安心する。
「ありがと。でもまだ寒いから、もっとくっついちゃおっと」
伶奈は未央の腕に手を差し込んだ。腕から指先まで絡め合い、隙間風の通り道を塞ぐように密着する。
「さて、出てきたのはいいけど、どこに行こうか? 全然考えてなかった」
「どこでもいいよ。とりあえず歩きたいな」
行き先を決めず、当てもなく足を進めることにした。狭い歩道に留まらず、車道にも遠慮なく踏み入っては横切る。車が存在しないここでは道の区別などない。歩く道も行き先も思うままだった。
道に並ぶ街灯が白い光を発している。光源の周囲だけ薄い霧が漂っているように空間が歪んでいた。夜空には膨らみかけの半月が浮かび、都会には珍しいほど多くの星が輝いている。名も知らぬいくつかの星座たち。
今二人の周囲で光を放っているのはそれらだけだった。建ち並ぶ住居はどれも闇に包まれており、デパートや娯楽施設は離れた場所にある。
仮に近付いたとしても、夜の暗闇を二人が望めば消灯し、重い沈黙を放つことになるのだが。
「ここに来るのも久々だよね」
二人は陸橋を歩いていた。道が立体交差しており、下には高速道路が地平線の果てまで伸びているのが見える。ジャンクションもあり、どこを見ても曲がりくねった道が視界の端に入り込む。
車は一台も走っておらず、ただ広い線が無数に走っているだけである。
「遠くまでよく見えるよ」
伶奈の視線の先では空と道が重なっていた。高速道路の両端にはフェンスがあり、名も知らぬツタや植物が何かの象徴のようにまとわりついている。
「うん。なんか、景色に圧倒されそう」
未央も手すりに腕を乗せ、伶奈の隣で同じ空間を見た。時折吹く風が未央の髪を揺らし、その毛先が伶奈を撫でる。コート越しでも、その鋭く細かい刺激が肌の奥底へと伝わってくるようだった。
「じっとしてると寒いし、歩かない?」
伶奈が手を伸ばせば、未央はその手を取って頷く。陸橋の終わりが近付くごとに、少しずつ風の勢いが弱まってきた。
それでも冷えた体への対処は必要だと考えたのか、二人は橋を渡った先の十字路にあるコンビニへ入った。陳列されていたホットコーヒーを飲むことにしたようだ。
「コーヒーなんて飲んだら、ますます眠れなくなるんじゃない?」
「今日はもう未央と夜を明かすって決めたからいいの」
コンビニを出て、二人は再び歩く。次の進路は南東。青白い街灯に照らされ、枯れかけている街路樹の下を行く。光と闇を交互に纏いながら、散歩は終わりへと向かう。
「うーん、ここまでかあ」
そして辿り着いた先は行き止まりだった。小さなロータリーのようになっており、先への道には柵が張り巡らされている。乗り越えれば進めなくもないのだが、二人はここで止まることを選んだ。
「この向こうは海なんだよね」
未央が言うのを待っていたかのように、周囲に潮の香りが漂い、波の音が聞こえてくる。その規則的でどこか脳の一部に届くような響きは、子守歌のような優しい調べだった。
「向こうに見えるのがそうかな?」
「だろうね。暗いからよく見えないけど」
視線の先には夜空と溶け合うような漆黒が広がっていたが、時折生じる白い波が海であることを示していた。
「なんやかんやで遠くまで来ちゃったなー」
海を背にして柵に寄り掛かる。二人は歩いてきた道を見つめながら体を寄せ合った。目の前に広がるのは圧倒的な闇と、頼りない微かな光が作る道。
「ちょっと寒いかも」
「海に近付いたからかな。あったかい飲み物もっと持ってくればよかったね」
触れ合う部分は熱を帯びているが、寒気に晒される部分はそれよりも広かった。未央にいくら寄り添ってみても、物理的な寒さが邪魔をする。
「また歩かない? 動けばあったまるだろうから」
「とりあえず、さっきのところに戻ろうか」
未央の提案に従って二人はコンビニへ戻った。今度は伶奈が選んだ甘酒を飲みながら、店内の片隅にある椅子に座って休憩する。
「夜に甘酒飲むのって、なんか特別な気分にならない?」
伶奈は缶を揺らしながら問い掛けた。好物だからか、既に中身は半分以下になっている。
「確かにね。どうしてなのかはわからないけど、気分が一新した感じって言うのかな」
「不思議だよね。まあ、おいしいから別にいいんだけど」
体温の上昇と歩いた疲労が相乗したせいか、去ったはずの眠気が呼び戻される。なんとなく体が重いと感じた途端、伶奈は大きな欠伸をしていた。
「……そろそろ帰って眠りたい」
「見るからに眠そうだね。歩ける?」
未央に手を取られたが、伶奈の反応は鈍い。それでも離すまいと握っているのは無意識なのであろうか。
「うーん。なんとか」
「外に出れば少しは目が覚めるよ」
自動ドアが開くと、慣れたくもない冷風が二人を迎えた。おかげで伶奈の眠気は引いたが、一刻も早く帰りたいという気持ちが大きくなった。
「布団に潜ってぬくぬくしたいよ」
「ここからだと三十分くらいかかっちゃうよ。橋もあったし」
「うん。しょうがないし、歩く」
伶奈は力なく呟き、未央と並んで歩き始めた。遠出をしたことを後悔し、早く帰りたいと願う。
「いざとなったら、おんぶしてあげるから」
未央が微笑むが、足取りは重かった。それでも視線の先に赤い光を発見すると、すぐに予感が浮かぶ。
「あれって、もしかして……」
「うん。タクシーだよ。ラッキーだね」
近くに寄ると、待ち侘びていたかのようにタクシーの扉が開いた。暖かな車内空調が二人を迎える。
「せっかくだから乗ってかない? と言うより乗りたい」
「そう来ると思った。ほら、先に乗って」
タクシーに乗り込むと扉が自動で閉まり、エンジンの音がしたかと思うと徐々に速度を上げて走り始めた。窓の外に流れる景色は次々と後方へ消えていく。
「よかったー。これで楽に帰れる」
「ここで寝ちゃってもいいよ。なんなら膝枕もしてあげるけど」
触れ合う二人の意思とは無関係にタクシーは走り続けた。その走りは何にも遮られず、数分で家の前に到着した。扉が開かれて冷たい風が車内に侵入したのを感じて、初めて二人は今いる場所に気付いたようだ。
「さすがタクシーは速かったね」
「さて、それじゃお望み通り布団でぬくぬくしましょうか」
寒気を吹き飛ばすほどに体を寄せ合いながら二人は家の中に消えた。
役目を終えた無人のタクシーは、二人がいなくなったのを見計らったかのように音もなくかき消えた。
後に残ったのは、普段と変わらぬ静かな道路だけ。
*
今回の事案も伶奈が深層心理で願った結果である。
刺激を求めた伶奈は、未経験だった深夜の散歩を望んだ。帰りにタクシーが現れたのも同じ理由で、歩いて帰ることを嫌った伶奈が楽をしようとしたのである。車が存在しないという原則も、必要だと望めばいくらでも例外という抜け道が作り出せてしまう。
そして、見慣れないはずのタクシーに疑問を持たず乗り込んでしまうという不自然さ。これをどう処理するのかを疑問に思うかもしれないが、それは無駄な心配である。一眠りすればタクシーという存在自体を忘れてしまうからだ。
求められる時に必要な知識だけを適量与える。それが不要になれば消せばいいし、また必要になった時に対応すればいいだけの話である。
望めば叶うという原因と結果を、便宜上ここでは権力と表現する。伶奈の権力を強めたことは前述したが、それは新たな発見を期待したからである。未央に視点を置いていた時は、第三者という姿勢を貫き、最後の場合を除いて過度な干渉はしなかった。今回はその逆を狙ってみたということである。
ちなみに、いくら権力を強めたといっても、過剰な理想は認められない。
そもそも世界を崩壊させるような願いを持つことはないはずであるが、万が一そのようなことが起こった場合は権力による影響を修正し、臨機応変に対応するつもりである。




