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認識対象  作者: 虹月映
第一章 未央
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二人の一日(前)

 鳴り響くアラーム音に未央の瞼が開く。

 未央が目を覚まして最初に見るものは、天井でも枕でも布団でもない。いつも隣で眠る伶奈の顔だ。向かい合う形で二人が寝ていることもあり、毎朝必然的に未央は伶奈の寝顔を観察することになる。

 未央は布団から手を伸ばし、鳴り続けている目覚まし時計を止めた。続けてその手を伶奈の顔に移し、頬に触れる。柔らかな感触を楽しみつつ、二度寝の誘惑を振り払う。

 伶奈の頬に流れている髪を取り、そのまま指に絡ませる。根元から先端まで余すところなく指を通して梳き上げるのは、無防備に投げ出された栗色の髪。耳が隠れる程度の長さは、未央の長髪と対称的である。

 未央の悪戯も、眠り続ける伶奈も、すべてがいつも通り。変わらない日常に、二人は慣れていた。いつまでもこんな日々が続くことを信じて疑わない。この幸せに依存していたと言うべきだろうか。

 遊ばせていた指の先が耳を掠めた。それが引き金となったように伶奈の瞼が震え、それを見た未央は手を止める。じっと伶奈を見つめ、その美しい瞳が現れるのを待つ。


「んっ……」


 薄目を開けた伶奈はまだ寝惚けているようだ。焦点の合っていない両目が何かを探すように動く。喉から絞り出される掠れた音は、なかなか正確な声にならない。


「伶奈、おはよう」


 未央は伶奈の耳元で囁いた。吐息が耳を撫でたせいか、伶奈が小さく体を震わせる。


「あと少しだけ……」


 伶奈は布団の中で体を移動させ、未央に寄り添ってその胸に顔を預けた。

 未央は甘える伶奈の頭を優しく抱き締める。完全に覚醒している未央は伶奈から伝わる感触、鼓動、呼吸、温度、芳香、すべてを存分に堪能できた。

 これが毎朝繰り返される二人の恒例行事である。




 駅から徒歩八分ほど離れた閑静な住宅街。地平線から昇りつつある朝日が、建ち並ぶ家屋を照らす。しかし、一日の始まりに特有のざわめきも車の騒音もない。そんな静寂の一角にある、二階建ての小さな一軒家。未央と伶奈はそこで共同生活をしている。

 一階にはリビングや洗面所、浴室といった生活空間が集まっており、二階にあるのは寝室と衣装部屋くらいである。二部屋しかない分、それぞれの間取りは十分過ぎるほどに広い。

 家の中では、ようやく布団から抜け出した二人が朝食の準備をしていた。主に未央が調理を担当し、伶奈は指示された物を冷蔵庫や棚などから取り出して未央に渡している。何もない時は、未央の隣で料理が出来上がっていく様を観察していた。

 やがて朝食が食卓に並ぶ。砂糖を多めに使い、甘く仕上げたフレンチトーストが本日のメニュー。それが一つの皿に二人分盛り付けられている。

 もちろん椅子は寄り添うように並べられ、二人を隔てる物は何もない。


「ねえ未央」


 だから伶奈がそう言って口を開ければ、いとも簡単に未央はフレンチトーストを伶奈に食べさせることができる。口元に持っていけば、未央の指まで伶奈に咥えられてしまう。指に付いた砂糖も残らず舐め取られた。

 嬉しそうにフレンチトーストを頬張る伶奈を見て、未央も食べ始める。その指先に濡れて光っているのは伶奈の唾液だろうか。それも一度未央が口にしてしまえば、混ざり合ってわからなくなる。

 未央は気にする様子もなく食べ続けた。それだけ二人にとって当然で自然なことなのである。




 食事が終われば、次は着替えの時間となる。未央はパジャマを脱ぎ、洋服に着替え始める。着替えはあらかじめ二階の衣装部屋から一階へと下ろしてあった。

 先に着替え終わった未央が見ると、伶奈はパジャマのボタンを外し、前をはだけさせたままで立っていた。晒された首から鎖骨の肌が、未央の表情を緩ませる。


「未央、脱がせて」


 甘えに満ちた言葉通りに未央は伶奈のパジャマを脱がせ、その肌を目に焼き付けながら服を着せた。いつもは自分で着替えるのだが、時々こうして甘えてくるのだった。

 未央は二人が脱いだパジャマをまとめ、他の洗濯物と一緒に洗濯機に入れた。洗剤と柔軟剤を入れてスイッチを押す。洗濯機が動き始め、洗濯が終わるまでの時間が表示される。その時間、約三十分。

 この時間も無駄にすることなく活用する予定である。


「それじゃ、行こうか。今日はどっちにする?」


 未央は伶奈に両手を差し出した。


「うーんとね……こっち!」


 伶奈は未央の右手を取り、するりと指を絡めた。

 右手と左手で繋がった二人は玄関の扉を開けて外に出た。朝の日差しが二人を包み、その視界を一瞬だけ奪う。初夏ということもあり、午前中はまだ過ごしやすい。

 外はいつも通り穏やかだった。木々を揺らす風の音が空気を彩る。人の話し声や歩く音は聞こえない。それどころか人影すらも見当たらない。

 まずは周辺を当てもなく歩く。伶奈が繋いだ手を嬉しそうに大きく振るので未央もそれに付き合う。未央が握る力を強めると、伶奈は手を振るのを止めた。代わりに伶奈からも手が握り返され、未央の体に寄り添ってきた。


 二人は大きな道に出た。目前の信号は定期的にその色を変えている。しかし二人が認識できるのはそれだけ。道路に通行人や車の姿を確認することはできない。広い車道は地平線の端から端まで伸びているだけで、本来の役割を否定されていた。

 車が走っていない道路。それを横切る横断歩道は意味を成さず、白黒の模様は一種の芸術作品のようにさえ思える。もちろん、ここにも人の姿などあるはずもない。

 二人はそんな光景に不信感を抱くこともなく歩き続ける。周囲に誰もいないからか、伶奈は過剰なまでに未央と密着している。

 未央はそれを迷惑に思うどころか、自分でも抱き寄せながら歩いていた。速度を落とし、少しでも伶奈との時間を多く取ろうとしている。幸せそうな表情は隠そうともしていない。

 すれ違う人もいない二人だけの世界。比喩などではなく、実際にここはそうなのである。




 二人は大型デパートの前に立った。ここには食料品から生活雑貨まで必要な物がすべて揃っている。二人の生活を支える拠点とも言えるだろう。

 デパートに入ると、未央が左手で買い物かごを取った。


「今日は何を持ってく?」


 伶奈が首を傾げた。


「昼と夜の食事に必要な物と、あとクッション。伶奈、欲しいって言ってたでしょ?」

「覚えててくれたんだ! ありがとっ。だから未央好き」


 伶奈が繋いだ手に力を込めた。未央もそれに握り返してから歩き始める。

 エスカレーターに乗って四階へ向かった。四階には家具や家電類が揃っている。まずは伶奈のクッションを選ぶつもりらしい。


「どれにする?」


 未央は目を輝かせている伶奈に言った。


「えっとね、決めてたのがあるの!」


 そう言って伶奈は未央を引っ張る。その先にある棚のエンドには、衝撃吸収力が高そうなフィラメントクッションが陳列されていた。色や形などいくつか種類がある中から、伶奈が一つを指差す。大きさは片腕で抱ける程度で、体重を預けるのにちょうど良さそうである。


「これが欲しいの?」

「うん!」


 伶奈は右手でクッションを抱えた。腕と体に挟まれてクッションが緩やかな曲線を描いている。


「持ったまま歩ける?」

「だいじょう……ぶ、かな。そんなに重くないし」


 クッションの具合を確かめた伶奈を連れて、未央は一階へと戻る。一階には野菜から調味料まであらゆる食料品が揃っており、二人の食事はほとんどがここにある物で賄われている。

 店内を巡りながら未央は必要な物をかごに入れていく。食材、冷凍食品、惣菜、飲料。ある程度入れるとかごは一杯になり、未央が片手で持てる限界の重さになった。


「今日はこれくらいにして帰ろうか」

「それ、未央一人で持てる?」

「大丈夫。ちゃんと計算して入れてるから」


 未央がかごを、伶奈がクッションを持ったまま当然のようにデパートを出る。それでも警報が鳴ることもなく、店員が追って来ることもない。そもそもそんな設備も人間もここには存在しない。それに伴い、貨幣の概念すらここにはない。

 店内で必要な物を探していた時も、二人以外の人間が現れることはなかった。




「私は食材を冷蔵庫にしまうから、伶奈は洗濯物を干してくれる?」

「いいよー」


 家に戻り、未央はキッチンに、伶奈は洗濯機に向かった。その途中、伶奈はクッションをリビングに投げ入れる。ソファーの足下にぶつかったそれは、くぐもった音を響かせて落ちた。

 未央が持ってきた物の整理をしていると、キッチンの入口に伶奈が顔を出す。


「まだかかりそう?」

「もう少しで終わるから先に行ってて」

「わかったー」


 伶奈は洗濯かごを持って階段を上がって行った。

 それを見送った未央は急いで仕分けを済ませ、伶奈の後を追う。二階では、伶奈がベランダに出ようとしているところだった。


「お待たせ。終わったから手伝うよ」

「ありがと。じゃ、未央の分はこれね」


 二人で洗濯物を干していく。タオル、洋服、下着。次々と取っては干し続ける。未央が伶奈の衣類を、伶奈が未央の衣類を頻繁に取っているのは偶然ではなく、故意にそうしているのだろう。今までの傾向から考えれば、それは明らかである。

 ベランダに洗濯物を干し終えると、昼食まで自由時間となる。何をするかは日によって異なっている。今日はどうするのかと思う間もなく声が届く。


「クッションの具合、どんなのか確かめたいな」


 伶奈のそんな要望に従って、二人は一階のリビングにあるソファーに座っていた。未央は隣で伶奈がクッションに寄り掛かったり、抱き締めたりしているのを見守っている。

 伶奈は満足したのか、クッションを背中に置き直す。


「やっぱりこれは後ろ。それでね──」


 伶奈が未央の手を握った。その真っ直ぐな瞳には未央の姿しか映っていない。


「前は未央がいいな」


 未央は緩みそうになる表情を隠すように、少しだけ視線を逸らして頭を掻く。


「それじゃ、お望み通りに」


 言うなり未央は伶奈に抱き付いた。繋がれていない左手を伶奈の背中に回す。

 伶奈もそれに応え、右手で未央の頭を撫でた。穏やかな動きだが、自分の胸元から逃がすまいとしているのがわかる。未央の長い髪も、意思を持っているかのように伶奈の指へ絡まっていく。


「伶奈」


 その胸に顔をうずめたまま、未央がくぐもった声を出した。


「うん」

「いつまでこのままでいよっか?」

「んーとね……わかんない」

「そう」


 未央は目を閉じ、伶奈の温もりを堪能することにした。

 頭に触れている伶奈の指が、ゆっくりとしたリズムを刻んでいる。一拍ごとに未央は意識の底にある暗闇へと引きずり込まれていった。




「未央、ねえ未央」


 眠ってしまっていた未央は伶奈の声で目が覚めた。顔を上げると伶奈と目が合う。


「ごめん、寝ちゃってた」


 その体勢は眠る前と何一つ変わっていない。


「いいよ。あたしも少し寝てたから、おあいこだね」

「今何時?」

「十二時過ぎ」

「もうそんな時間か。お昼用意しないと」

「あたしも手伝う」


 二人は手を繋いだまま立ち上がり、隣のキッチンへ移動した。


「今日はどうするの?」


 伶奈の質問を受け、未央は冷蔵庫の中を覗く。


「えっと……昨日の残りと、あとはパスタでどう? 冷凍食品のだけど」

「いいよ。未央の好きなように」


 了承を得て未央は冷蔵庫から残り物を取り出す。じゃがいものそぼろ煮、キャベツとキュウリの浅漬け、二つだけ残ったパックのもずく酢。煮物くらいは温めようかと思ったが、伶奈がレンジを使うことを考慮して、そのまま机に運んだ。

 同時に伶奈は冷凍庫の扉を開け、冷凍ミートパスタを二つ取り出した。袋を開け、調理済みのそれをレンジに入れる。大きさの問題から一つずつしか入らない。

 運び終えた未央が伶奈の隣に立ち、一緒にレンジを見つめる。

 一つ目の温めが終わり、続けて二つ目を入れる。


「そう言えばさ、レンジからは電磁波が出て危ないんだよね?」


 伶奈が未央に寄り掛かった。


「そんなことがないように、しっかり作られてるらしいけど」


 未央は伶奈の体を軽く押し戻した。


「ならさ、レンジの近くでじーっと見てても大丈夫なのかな?」


 伶奈は再び未央に寄り掛かった。


「おすすめはできないね。本当はどうなのかわからないし」


 未央も再び押し戻した。


「じゃあ、今ここでこんなことしてていいの?」


 伶奈は三度寄り掛かった。


「レンジを見なければいいんじゃないかな」


 未央は伶奈を抱き寄せ、その目を見つめた。


「……いい考え」


 伶奈もしっかりと向き直り、視線を交わした。

 レンジが電子音を鳴らし、温めの終了を告げる。

 名残惜しそうな伶奈をなだめ、未央はレンジからパスタを取り出した。未央と伶奈それぞれが自分のパスタを持って机に置く。

 隣り合った椅子に座れば、それが昼食の始まりを告げる合図となる。

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