人のこと、とやかく言えない
夏休みが終わりを告げ、二学期に入った。
怪我は案外治りが早く、学校側にばれずに済んだ。
そして今、俺はいつものように田原を職員室に呼び出していた。その光景は職員室ではもはや見慣れたものとなっている。
机の上に置かれた日本史のテストは、赤点のボーダーを大きく下回った、散々な点数。
「田原、言い訳があるなら聞こう」
「ありません」
潔い物言いに、カッと頭に血が上る。
「お前は受験生の自覚があるのか! テスト問題の半分以上が補習のプリントから出ているんだぞ。それなのに赤点なんてどういうことだ!」
急に怒鳴った俺に周囲は驚き、「まぁまぁ進藤先生、落ち着いてください」と窘めた。
まだ言い足りなかったが、他の先生の手前これ以上声を荒げるわけにもいかず、咳払いをして怒りを抑える。
「入試の一発勝負ならまだ何とかなるが、お前は内部進学希望だろう。それなら日々の積み重ねが大事だってことはわかるか?」
「はい」
「赤点がヤバいってことは?」
「わかります」
素直に答える様子に一応反省しているのだと解釈し、話を続ける。
「今年の三年生は外部進学希望者も多いから、内部進学の倍率はそこまで高くない。ここで一つ聞くが、もし内部審査が駄目だったら一般入試を受ける気は?」
「マークシートなら」
「ヤマ勘か?」
頷くのを見て、ため息をつく。ズキズキと頭が痛んできた。
「あのな、いくら高校入試が何とかなったからって今度もうまくいくとは限らない。それに付属の大学の入試は記述式だぞ」
「じゃあ無理ですね」
「浪人する気は?」
「ありません」
「それなら審査に通るよう、真面目にやれ。他の教科はそこまで悪くないんだから、日本史の赤点だけは気をつけろ。お前、内申だけはいいんだから」
部活での県大会の結果だけでも十分な評価を受けていた。九条と一緒にボランティアにも参加しているようだし。そこのところは問題ない。
「わかったか」
「はい」
「じゃあ、これ持って行け」
差し出したプリントの束を見て、嫌そうな顔をした。
「これは……」
「罰としてやってくるプリント。お前、補習のやつ兄貴にやらせただろう。筆跡を見ればすぐわかるぞ。教師なめんな」
「……チッ」
「舌打ちやめろ。せめて答えだけ教えてもらって自分で書くんだったな」
そう言うと何か考えている様子。すかさず釘を刺す。
「『今度からそうしよう』とか思ってんなら怒るぞ。親に電話するか?」
「……自力でやります」
渋々ではあるがプリントを受け取り、彼女は職員室を後にした。
それから。
俺の言ったことが効いたのか、田原の生活態度に変化があった。
まず授業中に居眠りすることがなくなった。授業の内容が理解できているかはさておき、真面目に話を聞こうとしているのはわかった。課題もものすごく悩んだ形跡が見受けられ、まるで子供の成長を喜ぶ親の気分だ。
他の教科でも真面目に授業を受けるようになったと、職員室で各担当教諭が口々に話していた。「進藤先生の熱心な指導が実を結びましたね」なんて褒められて、酷く照れ臭かった。
そしてあるテスト期間中。部活もなく、ほとんどの生徒が下校していた。俺は施錠確認のため、校内の見回りをしていた。
ふと教室に明かりがついているのを見つけて、そこへ向かう。
廊下から室内を覗けば、田原が机に向かっていた。何やら悩んでいるのか、頭を抱えている。俺は扉を開け、中に入った。
「何だ、田原。まだいたのか」
「あ、先生」
俺の声にパッと顔を上げた。彼女に近づいて机の上を見れば、数学の問題集と悩みに悩んだんだろう数式がノートに乱雑に書きなぐられていた。
「勉強してたのか」
「家じゃ集中できないから。兄貴がうるさいんで」
田原兄は優秀なんだけどな。妹がからむと人格変わるようだし。
もうすぐ下校時刻だから帰らせなければいけないのだが、必死な様子に少しだけ手を貸してやりたくなった。
「で、どこがわからないんだ? 言ってみろ。教えるぞ」
「え、日本史じゃないんですけど」
意外な言葉だったのか、びっくりしたように俺を見上げる。
「別にいいぞ、数学でも。これでも一応高校の頃は学年二位だったからな」
「うわぁ、頭いい。でも一位じゃないんですね」
「ああ。悔しいことに門倉に勝てたためしがないんだ」
無気力で授業もまともに聞いてない奴に勝てないとか、本当にムカついたがな。
「えっと、じゃあ……この問題を」
田原が問題を指示したので、彼女の前の席に座って教え始めた。
「あ、ここで間違ってるんだ。これはここをxに代入して、連立方程式を解けばいい」
言われるままにもう一度問題を解くと、感嘆の声を上げた。
「なーるほど。あたし、基礎の基礎から覚え間違いしてました」
「数学は公式の解き方さえ理解できれば大丈夫だ。応用問題はとりあえず放置していい。とにかく基礎問題を解きまくれ。それで赤点は免れるはずだ」
それからしばらく基礎問題に取り組むのを眺め、答え合わせをしてやる。全問正解で、俺は自分のことのように嬉しくなった。
「よくできたな。えらいぞ」
無意識に彼女の頭に手を乗せてポンポン軽く叩けば、褒められたのが嬉しかったのか頬を赤く染め、表情を綻ばせる。
くそっ、かわいいな……。
脳裏に浮かんだ言葉に、ハッと我に返る。
待て。俺、今何を思った。
動揺した俺はすぐに彼女の頭から手を離し、自分の口元を覆う。
そんな俺に彼女は怪訝な表情を浮かべる。
「先生?」
「いや、なんでもない」
ありえない感情を頭から追い出し、気を取り直して田原に言った。
「わからないことがあったら訊きに来い。どの教科でもいいぞ。自分で考えるのは大事なことだが、悩んでばかりじゃ時間がもったいないからな」
「いいんですか?」
「いいぞ」
「ありがとうございます」
横目で見た、俺に微笑みかける顔が眩しくて、そっぽを向いたまま「どういたしまして」と返す。
違う。断じてそうではない。
俺は教師で、相手は生徒で、未成年で、まだ子供だ。
抱き寄せてキスしたくなったなんて――単なる気の迷いに決まっている。
そう思い込もうとしたものの、どうやら本格的にやられてしまったようだ。
あれから田原は頻繁に質問をしにやって来るようになった。教室で、廊下で、職員室で、俺を見つけると駆け寄ってくる。
問題を指差しながら「もう無理。宇宙語みたい」と投げ出しそうになるので、根気よく丁寧に教えた。
理解できるようになると目を輝かせて嬉しそうにするので、質問が頻繁でもついつい教えたくなってしまうのだ。
そしてふと気づけば、無意識に田原の姿を探す自分がいることにも気づいた。
「熱心ですね、進藤先生。田原さん、最近本当に真面目になってきたわ」
職員室で年配の女性教師に声を掛けられた。
「あ、はい。こちらもいい勉強になります」
すると近くにいた青柳先生がニコニコして俺を見た。
お茶を飲み、しみじみという感じで独り言のように言う。
「春だなぁ」
「春ですねぇ~」
「……秋ですけど?」
冷静に突っ込むが、二人はニコニコしたまま春、春と呟く。
「先生。おめでたいことですが、春まで我慢ですよ」
「は?」
女性教師の釘を刺す様な言葉の意味が分からない。
そして俺の知らないところで、どうやらとんでもない話になっていたらしい。
「進藤。あなたが田原さんに落ちたって本当ですか?」
授業中の保健室でお茶をごちそうになっていると、急にそんなことを言われた。
口の中のものを思いきり吹き出し、それが勢いよく門倉の顔面にかかる。
「……進藤」
「わ、わりぃ。わざとじゃないから」
刺すような視線を向けられながら、ティッシュを手渡した。
ピリピリした雰囲気のまま顔を拭った男が始末を終えたところで反論する。
「さっきの、悪い冗談だろ」
「おや、自覚なしですか? 生徒の間でも、教師の間でも、結構な噂になっていますけど」
「噂? 何だよ、それ」
「職員室では青柳先生を筆頭に『進藤に春が来た』って話で持ちきりですよ。生徒の間ではあなたが田原さんのことが好きだって密かに噂されているようです」
「っ、まさか……」
「琴美さん曰く、田原さんといるときの進藤は結構いい笑顔で笑っているそうです。とても自然な笑顔で、そんなあなたはこれまで見たことがないと」
俺、そんなに笑顔だったか?
指摘されたことを反芻し、羞恥で言葉が出ない。
「僕から言わせていただくと、よくもまああの色気のケの字もない田原さんを女として見られるとは、不思議で仕方ありません。あなたの趣味、全く理解できません」
「理解してもらわなくても結構だ」
「おや、認めるのですか。田原さんを女として見ていることを」
「…………」
――ああもう! 認める、認めてやるよ!
俺は田原が好きだ。生徒だけじゃない、女としてあいつを好ましく思っている。
儚げな容姿なのに心が強くて強情で、お節介で向こう見ずの跳ね返りで後先考えない馬鹿だけど、情にもろくて優しいあいつが好きだ。
面倒くさがりだけど、決めたことには一生懸命取り組んで努力を惜しまぬその姿は見習いたい。
そんなあいつだから一緒に話して、笑って……とにかく、そばに居たいんだ。
簡単な誘導に引っかかったのが悔しくて、机に突っ伏す。
「……俺、お前のこととやかく言えねーな」
「ええ、本当に。あなた、僕に言ったことを覚えていますか? ロリコンだの変態だの、散々言ってくれましたよね」
「変態は今でも思ってるけどな。それに俺、ちょっと前まで中学生だった田原にはこんな気持ちになってないと思うぞ」
「進藤の田原さんへの愛は所詮その程度ってことですね。僕は琴美さんがたとえ赤ん坊でも老人でも、きっと欲情できます」
「……そういうところが変態だって言ってんだよ」
門倉が九条を好き過ぎてキモい。
「でもまぁ、」
コップを片づけながら門倉は口元に笑みを浮かべる。
「いい傾向ではないでしょうか。兄嫁になる女をいつまでも想い続けるよりはよほど」
「門倉……」
「今度は指を咥えて眺める、なんてことしないでくださいよ。ウジウジ想い悩むあなたはこの上ないほど鬱陶しいですから」
「お前、喧嘩売ってんのか」
「事実でしょう。きちんとケリをつけてから、せいぜい新しい恋にどっぷりつかってください」
そう。俺はまだ、典子に想いを告げていなかった。
田原に勉強を教えているうちに、不思議と典子のことを想うことがなくなった。
もうあいつに恋愛感情は持っていない。だから今さら言わなくてもいいか、とも思う。
だけど田原と約束したから。それを守らないわけにはいかない。
早速兄に連絡し、典子と三人で会う約束を取り付けた。
週末、兄の部屋へ向かうと、二人とも揃って出迎えてくれた。
仲良さそうに寄り添う二人を見ても、昔のように胸は苦しくなることもなかった。
この二人を前にこんなに心穏やかでいられるなんて本当に驚きだ。
そんな俺の変化に、察しのいい兄はすぐに気が付いた。
「忍、少し見ない間に感じが変わったな」
「そうかしら」
典子にはわからないようだ。鈍い奴だから仕方がない。
「で、あらたまってどうした。話があるんだろう?」
そう切り出され、しっかりと二人を見据えて口を開いた。
「今更こんなこと言うのもおかしいけど、自分の中で区切りをつけたいから言う。……典子、俺はお前がずっと好きだった」
「えっ……」
思ってもみなかった言葉を言われ、典子が驚きで目を見開く。
「嘘、だって……進藤くん、譲さんとのこと応援してくれて……」
「ああ。つらかったけど、お前の笑顔が見られるなら……耐えることができた」
絶句し二の句が継げない典子に対し、兄は額を手で覆って大きく息を吐く。
「……すまなかった、忍。俺はお前の気持ちに気づいていた。気付いていて見て見ぬ振りをした」
「ああ、知ってたよ」
俺がいることを知りながら見せつけるように典子の肩を抱いたりキスしたりしていたからな。何度あからさまに牽制されたことか。当時は身を抉られる思いだった。
それに一人暮らしをしていても、二人の結婚が決まる前は実家へまめに顔を見せていたんだ。急に寄り付かなくなれば、察しのいい兄ならその理由が当然わかったはずだ。
「知ってたけど、二人に付け入る隙なんてなかったからな。想うだけでも俺は十分幸せだった」
「進藤くん……」
典子の顔がくしゃっと歪んだ。
「私、何も知らなくて……ごめ」
「謝るな」
謝罪を遮り、自嘲気味に笑いかけた。
「『想うだけで幸せ』で満足するような俺は、端から兄貴に敵わなかったんだ。俺が勝手に好きだっただけだから。それにお前には気づかれないように注意してたからな」
「でも……」
「謝るぐらいなら、幸せになってくれ。俺にお前を諦めたことを後悔させないでくれ」
「忍……」
「進藤くん……ありがとう」
泣き出した典子を自然に抱き寄せる兄。
お互い想い合っている姿は、羨ましさはあれど悔しさは微塵もない。これで綺麗さっぱり昔の恋にケリをつけることができた。
顔を洗ってくると典子が席を外した直後、兄が訊いてきた。
「で、どうして言おうと思ったんだ。これまでのお前なら、こんなこと絶対にしなかった」
「……背中を押してくれた奴がいたんだ」
田原がいなければ、兄の言うようにこんなことしなかった。そして二人が結婚した後もずっと未練を残して引きずっていただろう。
「未練タラタラでウジウジしていた俺を叱咤して、全部抱え込んで解決しようとしていた俺に、一人でかっこつけんなって怒鳴ってくれた。泣けない俺の代わりに……泣いてくれた」
まさか大人になって高校生にいろいろと教えられるとはな。俺、すげーかっこ悪い。
「あいつのおかげで、俺は前に進もうと思った。自分の気持ちにケリをつけて、心から兄貴と典子を祝いたかった」
「それ、女か?」
鋭い指摘に驚いたが、素直に頷く。
「惚れているとか?」
「う、まぁ……」
言葉を濁したのに、すかさず「一度連れてきなさい」だと。興味を持ちやがった。
「無理だな」
「即答か。まだ付き合ってないのか」
「それも無理だな」
「何でだ。まさか不倫じゃ……」
「ちげーよ。でも、無理だ」
頑なな俺の様子に、ハッとして声を落とす。
「まさか、教え子か」
「…………」
「今何年だ」
「……三年」
「あと半年ぐらいの我慢だな」
半年経っても言えるはずがない。
あいつにとって俺は勉強を教えてくれるただの担任。恋愛対象になどなりえない。
それに同じ年代の男の方が話も合うだろうし、一回りも上のオッサンなど話にならないだろう。
そう思うたび、酷く胸が苦しくなる。頭では大人として常識的に考えることができるのに、心がそれを否定する。自分の考えを自ら否定して落ち込むなんて滑稽だ。
「なるほどな」と納得した兄が、見るからに沈んだ様子の俺に言う。
「受験生か。まずはその子が合格するようにしっかりサポートしてやれよ、先生」
今の俺には兄の言葉が酷く重かった。
自分は田原に相応しくないと気付いてから、もし自分が教師でなかったらなどと考えてしまう。
同じ学生の身分ならば、せめて歳の差が五歳ぐらいなら……こんなに苦しい想いをしないで済んだのだろうか。
そう思うも、そんなことは考えても仕方のないことなのだ。どうにかなるものでもない。
俺、こんな状態であいつと普通に顔を合わせられるんだろうか。
その後、なんとか普通に田原と顔を合わせることができた。一応これでも大人だからな。
放課後に教室で質問されたとき、周囲に他の生徒がいないことを確認し、報告をした。
「この前、兄貴とあいつに会って気持ち伝えてきた。その上で祝いの言葉もちゃんと言えた」
彼女は初め少し驚いていたようだが、「そうですか」と返事をした。
「これで吹っ切れた。もっと早くこうすればよかった」
「これもあたしのおかげですね」
ふてぶてしい言い方も、俺にはかわいく映ってしまう。ああ、恋っていうのは本当に厄介だ。
「ああ、お前のおかげだ。だから絶対お前を大学に行かせてやるからな」
そう言いつつ、プリントの束を取り出した。
その瞬間、彼女の顔が強張る。
「せめてもの礼だ。受け取れ。明日答え合わせな」
「げぇえええ、そんなお礼はいらないですよ」
「馬鹿か。ありがたく受け取れ」
本気で嫌そうな顔を見て思わず笑ってしまった。
お前、本当に大学行く気あるのか?
呆れるものの、そんな田原が好きなのだから仕方ない。
ギュウギュウに抱き締めたい気持ちを押さえつつ、立ち上がって教室を去った。




