恋愛相談は波乱の幕開け
翌日、田原はまた時間ギリギリで教室に姿を見せた。
夜更かししましたと言わんばかりの眠気眼。その理由を訊けば、昨日俺が貸した本を読んでいたそうだ。
ああいう伝記は貸しても読みそうにないとばかり思っていたので、少々驚いた。
「読めるかどうか自信がなかった」という彼女に、あれは中学生対象の本だと告げると、絶句していた。
……うん、たとえ中学生向きの本だろうが日本史嫌いの彼女が読もうとしたことだけで十分だ。感心、感心。
お互い椅子に座ったところで、本の感想を訊いてみた。
「身分が低い人なのに努力して偉い人になったのはすごいけど、率直に言えばエロい猿みたいなオッサンって感じですかね」
とても素直な感想だ。さらに理由を問う。
「だって奥さんいるのに、すっごい年下の姫とか未亡人とかとヤリまくってたんでしょ。浮気しまくりで、ムカつく」
「あー……秀吉は当初は子供がいなかったし、若いほうが妊娠する確率も高いし……。あの時代は一夫多妻制だからそういうのが普通で、側室も妻に変わりないからな。だから別に、浮気というわけでは……」
そういう時代だったんだと説明するが、田原の非難の視線が痛い。別に俺がしたわけではないんだが。
しどろもどろになっていると、逆に質問される。
「じゃあ先生も若い子が好きなんですか?」
「俺は別に」
これまでの彼女は確かに年下が多かったが、一応年上もいた。
「性別が女なら誰でもいい、と?」
そんな節操なしだと思われているのか。失礼な。
「そうは言ってねぇだろ。それより女子高生が『ヤリまくり』とか言うな」
「ぶー」
「ぶー、じゃねぇ」
もっと恥じらいを持て。頼むから。純情そうな外見の少女から『ヤリまくり』なんて言葉、聞きたくない。
「そもそもこの本には、側室云々なんて書いてないはずだが?」
中学生向きだからな。出てきてもせいぜい正室と有名な側室の二人ぐらいだろう。彼女がそんな情報を持っているとは思えない。
「兄が言ってました。『小町はこういう男と関わっちゃ駄目だ』って」
「……そうか」
喧嘩がすさまじかったこの兄妹は、どうやらそこそこ仲がいいらしい。読んでいる本について会話するなど、俺には考えられないことだ。
本の感想はそれぐらいにし、昨日と同じように補習を始めた。プリントに向かって勉強することが苦手でも、俺の話にはじっくり耳を傾けてくれる。授業中もこんなふうに熱心になってくれればと願ってやまない。
あっという間に終了時刻となり、昨日のプリントを回収して今日の分を手渡す。
プリントに目を通せば、悩んだ痕跡が多々見られる。正誤はさておき真面目に取り組んでくれたようで安堵する(いや、受験生に対してそれで満足してはいけないのだろうが)。
解散しようとしたところ、教室に電子音が響き渡った。まずい、俺のだ。
「あ、先生いけないんだ。校内で携帯は……」
「悪い。見なかったことにしてくれ」
うっかりしていた。気まずい思いのまま携帯を取り出す。メールのようだが、差出人の『典子』という名前を見て固まる。
『今、学校の近くに来ているの。少しでいいから会えないかしら?』
心臓が痛い。
会いたい。
でも会いたくない。
もう一年以上会っていない、兄の婚約者。
俺の――――長年の片想いの相手。
もし断っても学校まで押しかけてくる女ではないが、どのみち冬には結婚式で顔を合わせなければならない。
先月あった両家顔合わせには仕事だと嘘をついて出なかった。どうせすでに典子の両親とは顔見知りだし、何の問題もないはずだ。
迷った末、了承の返事を送る。気は進まないが、やっぱり一目だけでもあいつに会いたい。
ふと顔を上げると訝しげに俺を見る田原がいる。
一人で典子に会いたくない。誰かにそばにいて欲しい。
俺は駄目もとで尋ねた。
「田原……」
「はい」
「お前、この後暇か?」
「暇ですけど」
「ちょっと付き合ってくれないか」
「……はい?」
戸惑う田原を連れて、待ち合わせ場所である学校の裏の公園にやって来た。
噴水前のベンチで立ち尽くしていたら日陰に行きたいと彼女は言う。ああ、気が利かない男だな、俺は。
移動して少し経つと、向こうから典子がやって来た。
記憶の中の彼女より一層綺麗になっていた。兄に愛されているからか、全身から幸せオーラがにじみ出ている。
歓喜する一方で、ズキッと心に痛みが走る。
ずっと会いたくて堪らなかった、最愛の女。それが今、俺の目の前にいる。
だけど彼女は兄のもの。欲しくて、欲しくて、どれだけ望んでも決して自分のものにはならないことを、嫌というほど理解している。
いい加減諦めなくてはならないのに、顔を見た途端そんな思いはすぐに消え去る。
やっぱり彼女が欲しい――――そう思う自分の浅ましさに反吐が出る。
俺に気付いた典子が声を掛けてくる。
「進藤くん、久しぶりね」
「……ああ」
声を聴くだけで、抑えきれない想いがどんどん湧き上がってくる。このまま誰も知らないところに連れ去りたい。そんなこと、できるはずもないのにそう思ってしまう。
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いや。……それで用件は?」
「譲さんがね、進藤くんがなかなか顔を出さないから、様子を見てきてほしいって。私もこの近くで用事があったから、忙しいとは思ったんだけど……」
「兄貴が?」
相変わらず俺は苗字で、兄貴は名前か……。
そんな小さな差が、俺に現実を突きつける。『所詮お前は友達で、婚約者の弟なのだ』と。
「会いたい」と言われてほんの少しだけ期待したのに、結局兄貴に言われたからここに来ただけだった。典子自身が進んで俺に会いに来たわけではないのだ。
「ご両親も心配しているわ。お盆もお正月も帰って来ないって。きっと寂しいのよ。だから、少しでいいから……」
「帰らなくてもおのずと会うことになるだろう? ……お前らの結婚式で」
「それはそうだけど……」
実家になど帰りたいはずがない。兄貴と典子が一緒に居て、その姿を嬉しそうに眺める両親がいる光景など見たくない。親からの電話でさえ二人の結婚が話題なのだ。だからすぐに電話を切ってしまう。
やはり会うべきではなかった。後悔しつつ話を切り上げる。
「話がそれだけなら、もういいか? 人を待たせてるから」
俺の横に座り、空気みたいに存在を消していた田原を見下ろすと、釣られて典子も彼女を見る。女子高生と一緒のことに驚いているようだ。
「こ、こんにちは」
「こんにちは。ええと……生徒さん? でも連れてくるのはおかしいか。……まさか、彼女?」
とんだ勘違いだったが、否定しようとする田原の言葉を遮り、彼女を引きずって典子の前から立ち去った。
歓喜より、後悔が勝っていた。どうして会いたいなどと思ってしまったのだろう。顔を見なければ、ここまで心乱されることもなかったはずなのに。
公園を出てしばらくし、俺に引きずられたままの田原が叫んだ。
「先生! ちょっと止まってください!」
その声で足を止める。少し心配そうな声が背中に投げられた。
「先生、どうしたんですか?」
「悪い、田原……」
無理を言ってついてきてもらったのに、格好悪いところを見られてしまった。彼女にしたら何のことか理解できないだろう。
だが、彼女が一緒でよかった。もし一人ならここまで己を律することができなかったかもしれない。
彼女に背を向けたまま動けないでいると、前方から俺を呼ぶ声がする。誰だと思ったら胸に飛び込んできて抱きつかれた。俺は虚を突かれる。
「進藤さん。急に会ってくれなくなるから、どうしたかと思った。ちょっとムカついたけど、許してあげるっ」
意味が分からなかった。
「……許すも何も、お前とは別れたはずだ」
二か月前に別れたはずの元彼女、沙知絵。あれから一度も連絡していないのに、今さら何なんだ。
しかし沙知絵は別れていないと主張し、どこかへ行こうと誘ってくる。
突然のことに言葉を返せないでいると、俺の後ろにいる田原に気が付いたようで、沙知絵の声質が変化する。
「……あんた、誰?」
田原の腕を掴んでいる俺の手を一瞥し、眉を顰めた。
「進藤さん。その手、離して。彼女である私の前で、他の女に触らないで」
その言葉に、俺は更に腕を掴む手に力を込める。それから沙知絵を冷めた目で見下ろした。
「お前とは別れた。だからもう関係ないだろう」
「……その女のせいなの? だから私と別れようとしたの?」
「あたしは何も……」
「だったらどうだっていうんだ?」
再び否定しようとする田原の言葉を遮った。誤解されてもいい。とにかく沙知絵とはもう付き合えない。
俺が肯定したと思ったのか、沙知絵の表情が般若と化す。俺からじりじりと距離を取り、鋭い視線を向ける。
「私より、そんな色気のない女を選ぶなんて……許せない……。人を馬鹿にして……。覚えてなさい。絶対に許さないんだから!」
そう怒鳴り、沙知絵は走り去っていった。
なんであんな面倒な女を相手にしてしまったのだろう。今日は厄日なんだろうか。
沙知絵が去った後、田原に腕を話すように言われ、ジュースを奢る。付き合って貰ったから、それぐらいはしても構わないだろう。目に付いた炭酸飲料を買い、手渡す。
それを受け取り、口をつけた彼女からの視線をひしひしと感じる。俺はその視線から逃れたくて俯き、沈黙を貫いた。
だがその沈黙に耐えられなくなったのか、とうとう田原が訊いてきた。
「そんなしょぼくれた顔を見せるために、あたしを連れてきたんですか?」
何も答えられなかった。時間を取って申し訳なかったが、これ以上踏み込まれたくはなかった。
「……悪い。もう帰っていいぞ」
「そんなつらそうな顔で言われて、『はい、そうですか』って帰れるはずないでしょう」
どう返せばいいのか悩んでいると、彼女はさらに続けた。
「一人で悩んでても、解決しないってこと多いと思いますよ。かといってあたしが解決できるかと言われたら、無理だと思いますけど。でも話を聞くだけなら、あたしでもできます」
誰かに訊いて欲しいという気持ちはあるが、生徒にこんな話などできない。それは教師として、また男として情けなさすぎる。
「まぁ無理強いはしません。言いたくないなら、もう聞きませんし。じゃあ帰ります。ジュース、ごちそうさまでした」
ぺこりと頭を下げて、彼女は立ち去ろうとする。俺は無意識に引き留めていた。
「……話、聞いてくれるか?」
結局教師としての体面より、悩みを誰かに訊いて欲しいという気持ちが勝った。
それから学校に戻り、例の空き教室に腰を落ち着けた。話そうと決めたのに、心のどこかでまだ戸惑いがある。
しかし目の前に座る田原からの視線に耐えかね、話を切り出した。
「公園で会った女、いたろ? あれは俺の同級生で、兄貴の婚約者だ。俺は……あいつが好きだ」
「それをあの人は知ってるんですか?」
「知らない。言えるはずないだろう」
「いつからですか?」
「大学のときからだから、もう十年以上か。兄貴は同じ大学の一つ年上で、あいつは兄貴に一目惚れした」
二人からしたら、俺は恋のキューピットってやつだ。皮肉にも、典子から兄貴との仲を取り持つように言われたときに自分の気持ちに気付いたのだ。
「あのギャルは?」
「前の彼女だ」
典子を好きにもかかわらず、沙知絵との関係で非難の視線が俺に突き刺さる。
気まずい思いをしながら言い訳をした。
「あいつへの気持ちを過去のものにしたくて、いろいろな女と付き合ったけど……駄目だった。一緒にいても楽しくないし疲れるし、抱いても虚しいだけだった」
付き合うからにはちゃんと好きになりたかったし、大事にしたかった。だけど無意識に典子と比べ、幻滅してしまうのだ。
だから一緒に居ることがまるで義務を強いられるように苦痛だった。一時の快楽に身を任せても、終わった後の虚しさの方がはるかに大きくて、結局いつも長続きしなかった。
「先生は自分の気持ちを伝えなくて、後悔してないんですか?」
「後悔がないといえば嘘になる。でも今さらこんなことを言っても、困らせるだけだ」
「でも先生はずっと悩んできたんですよね? いいじゃないですか、困らせたって。ちょっとくらい先生の苦しみを知るべきでしょう?」
自分のことのように怒る田原は、本当に優しい奴だ。こんな情けない話を真剣に聞いてくれて、ちゃんとアドバイスしてくれるなんて。普段残念だと思ったことが申し訳ない。
「……ありがとな、田原。でも言うつもりはないんだ」
もうすぐ結婚して幸せになる二人に、俺の気持ちなんて迷惑にしかならない。
「そもそも、どうして協力なんてしたんですか。協力しないで、押して、押して、押しまくればよかったのに」
「無理なんだ。……兄貴もあいつに惚れてた。俺のつけ入る隙なんて、初めからなかったんだ」
お互い一目見たときには恋に落ちていた。そんな雰囲気を見せつけられて横槍を入れるなんて、俺にはできなかった。それだけ二人はお似合いだった。
「そんなのわかんないじゃないですか。最初から諦めてちゃ、隙なんて見えるはずないのに。先生の方が先に出会ったんですよね? そうじゃなくても、チャンスはいっぱいあったはずです」
「俺じゃ駄目なんだ。……兄貴のことを話してるあいつ、すげーいい顔で笑ってさ……。それを見てるだけで、俺は十分幸せで……」
ぐだぐだと情けないことを言う俺がいい加減鬱陶しくなったのか、ここで急に彼女の口調が変わった。
「それは、それは立派な考えですこと。でも逃げてるだけじゃん。あの人から拒絶されることを恐れて、自分の殻に籠って、一歩も前に進めないだけじゃん」
図星を指され、思わず顔が引きつる。
「全部ただの綺麗ごと。兄貴のため、彼女のため――そう言い訳して、自分の気持ちに蓋をして、見て見ぬ振りをして、でも指を咥えて羨んで……。結局自分でドツボにはまってるだけじゃん。現実から目を背けてウジウジ悩んで、他の女に逃げて、でも駄目で……。そんなんで前に進めるとでも思った? 十年以上経ってるのに、まだ時間が解決してくれるとでも? どっちも無理に決まってるじゃん。そんな簡単なこと、まだ気付かないわけ? 当て馬にされた歴代彼女もいい迷惑だよ」
正論だが今の俺にはそれを受け入れる余裕などなく、込み上げてくるのは怒りだった。
お前に何がわかる。十年もあいつを思い続け、何度諦めようとしても諦めきれず、忘れようと思っても忘れられなかったこの苦しい想いが。
「忍ぶ恋をあたしに正当化してもらいたかった? 同情してもらいたかった? 不幸ですアピールのつもり? ――ハッ、笑っちゃうんですけど。褒められたことじゃないけど、自分の欲望に忠実な門倉の爪の垢煎じて飲んだら? 心配して損した。時間の無駄、超無駄。こんな胸糞悪い、卑屈で、自己犠牲の甚だしいこと聞かされるぐらいなら、さっさと帰ればよかった」
「……ちょっと待ってろ」
自分でも驚くほど低い声でそう言い、俺は職員室に向かう。表情があまりに険しかったのか、すれ違いざまに俺の顔を見た他の先生方はギョッとしている。
明日渡すはずだったプリントその他もろもろを抱え、戻る。それを田原に押し付けた。
「補習は今日で終わりだ。明日は来なくていい。そのプリントは出校日に提出しろ」
彼女はそれをかばんに押し込み、笑顔で俺を見上げた。
「ではさようなら、進藤先生。これからもせいぜい一人で、ウジウジウジウジ悩んでください」
ぺこりと頭を下げた彼女は、走って教室を出た。
足音が完全に消えた後、俺はイラついて目の前にあった机や椅子を蹴り飛ばし、乱暴に頭を掻きむしる。
「……クソッ」
無残に転がる机や椅子を眺めても、心は決して晴れなかった。




