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胡蝶井戸

作者: 結城 蒼璃

 家の裏にあった釣瓶の井戸は、隣近所の何軒か、共同で使っていたように思う。

 小さな時分のことだから、井戸に近寄ることは堅く禁じられていたけれど、その水が甕のそれより断然冷たくておいしいことは良く知っていた。だから、夏草の匂いが鼻に付くような暑い日には、人目を盗んでその井戸から水を飲んでいた。

「冷たい?」

 私の家の隣には、きれいなおねえさんが住んでいた。今にして思えばおねえさんというには少々薹が立っていたけれど、幼い私はなんの疑いもなく、そう呼んでいた。その人も、大体私が水を飲むあたりに井戸を使っていて、小さい私が井戸に近寄っても叱らない、唯一の人だった。

「誰にも言わない?」

 そんな風に私が確かめると、その人は決まってにっこり微笑んだ。それから私の手から釣瓶をとって、私の代わりに水を汲み上げてくれる。その人とは井戸端で二、三言葉を交わすのが精々の、それだけの関係だったけれど、私はその人が好きだった。

 もう、夏の記憶しかない。夏の日差しと、あの人の妙に赤い着物の裏地と、それから乱れた黒髪。顔には影が落ちて、思い出せない。


「この深い深い水の底には、たくさんの蝶の屍骸が眠っているのよ」

 ある夏の日、そんなお伽噺のような、それでいて妙にぞくぞくするような話を、その人は私にしてくれた。

 私はその人から聞いた話を得意になって弟や妹に話して聞かせた。けれど、幼い私よりもっと幼い彼らには、何か不気味なものにしか聞こえなかったのだろう。夜になると彼らはしきりに怖がって、母に泣きついた。すると、たちまち私は父と母を前に、誰にこんな話を聞いたのか、と問い詰められた。私はこの時になってようやく何かいけないことをしたのだと、あの人に対して思った。それでも父と母に嘘をつく勇気もなく、あの人から聞いたのだと素直に答えた。その途端、父は苦々しい顔をあらわにし、母はその横で私を叱り付けた。その声にますます妹と弟が声を上げ、私も一緒に泣いた。

 母はたくさんのことを私に言った。

 あの(ひと)とは決して口を利いてはいけない。日の下に出られないような女なのよ。汚らわしい。とっとと連れ戻されてしまえばいいのに。ああ、何であんな女がここいらにいるのだろう───。

 幼い私には何一つ分からなかった。いつもは優しい母がこんなに声を荒げたのは、後にも先にもこの時ばかりだったし、それがとても恐ろしくて、悲しくて、ただ私は泣きじゃくっていた。

 その次の日は嵐だった。朝から風が吹き荒れ、夜になっても風は吹き止まず、雨と共に全てを洗い流そうとしていた。

 次の日は雨も上がって、夏の暑さが戻ってきた。

 私は水を飲みに井戸へ行こうとしたのだと思う。けれど家の影から井戸屋形までの、あまりに強い日差しが、幼い私の足をたじろかせていた。

 丁度、天辺に日があった。匂い立つようなそれぞれの強烈な色彩とは裏腹に、陽光が膜を張る景色は、妙に白ばんでもいた。

 その時私は、屋根の下の暗い井戸から何かがひらひらと出で来て、空に向かって飛んで行くのを見た。私はぼうっと眺めながら、それが太陽の下で焼け焦げたような影になるまで見届けた。

「井戸から蝶が飛んでいったよ」

 私は慌ててあの人を呼びに行った。

 けれど、あの人はどこにもいなかった。

 あの人が昼間いつも家にいたのは知っていた。だのに、あの人の家は空っぽだった。わずかな家財道具は全くそのままだったけれど、それでもその家は空っぽだった。ただ、仄かにあの人の匂いが残っていたように思う。

 私はなんだかとてもがっかりして、井戸端に立った。

 折角、蝶が生き返ったのに。

 私は、ふと思い立って、体を乗り出して暗い井戸の底を覗き込んだ。暫く目が慣れなかった。でも、その内に、暗い暗い水の中に、赤い模様がゆらゆら揺れているのが見えた。

 蝶々。

 あの人の言ったとおり、井戸の底には蝶の屍骸が眠っている。

 私は釣瓶を落としてそれを掬おうとした。

 こんなにはっきり目に見えるのだから、きっと一掬いすれば一匹ぐらいは入るだろう。

 そうしてもう少しで釣瓶が手に届くというところで、母の声が聞こえた。私は驚いて縄をつかんだまま引っくり返った。すると釣瓶も一緒に勢いよく滑車にぶつかり、中の水があたり一面飛び散った。

 何をしているの。井戸には近寄ってはいけないとあれほど───

 母はそこで言葉をきった。

 私は、零れた水の真っ只中にいながら、蝶の屍骸をそこに探していた。けれど、どこにもそれはなかった。掬えなかったのだ。そう思ってもう一度井戸の中を覗いた。やはりゆらゆらと揺れていた。

 母の悲鳴が聞こえた。

 その悲鳴に、何事かと隣近所の人が家から飛び出してきた。私は何があったのか分からず、御免なさい、と謝った。だのにそんなことは誰も聞いていなかった。隣の隣のおじさんが、井戸端に立ち尽くす私を抱き上げて怖い顔をした。それから何にも言わずに、井戸を覗いて、こりゃ大変だ、と呟いた。

 私はそこで初めて、自分の着物が赤く染まっているのに気付いた。それから、滑車に引っ掛かったままの釣瓶から、ぽたりぽたりと落ちる赤い水にも。

 私は、おじさんに抱きかかえられながら、そろりともう一度井戸を覗いた。

 水の中では、やっぱり赤い模様がゆらゆら揺れていた。その内に、その赤い中から、あの人が顔を上げた。

「水の底には、たくさんの蝶の屍骸が眠っているのよ」

 そうあの人の唇が動いて淋しげに笑うと、赤い襦袢をゆらゆらさせて、深く深くに沈んでいった。






【終】

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― 新着の感想 ―
[一言] とても不思議で、凄くノスタルジックな感じがしました。夏の暑い臭いや、照りつける太陽の雰囲気がとても自然に浮かび上がって、少年と一緒の目線で小説の世界を感じれた気がします。本当に、素敵なお話で…
[一言] タイトルにひかれて読ませていただきました。話も文章も期待を裏切らず楽しませてもらうことができました。次回作もお待ちしています!
2007/05/09 00:17 退会済み
管理
[一言] とてもきれいな小説だなと思いました。 状況描写の言葉ひとつひとつが本当にきれいで、私もこんな表現をしてみたいなと憧れます。 文章評価の★を一つ減らしたのは、「、」の打ち方に少し違和感を感じた…
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