前世持ちの仕立て屋は仕事を選びます――あなたのドレスはお断りです
「いかがですか?」
わたしが尋ねると、鏡の前に立っていたローデンベルク伯爵夫人が、ゆっくりと一回転した。
深い青色のドレスの裾が、床の上をなめらかに滑る。
「とてもいいわ。特に、この布」
夫人は袖口を指先で撫で、満足そうに微笑んだ。
「ベルナール商会の新作を選んで、正解だったわ」
「ええ。仕立ててみると、銀糸の輝きがいっそう綺麗に出ましたね」
「華やかなのに、落ち着きもあるわ。あなたに仕立てを任せて正解だった」
ああ、楽しい。
この瞬間のために、仕立て屋をしているのだと思う。
ここは王都の東端にある、小さな仕立て屋 《フィル・ブラン》。
表通りから一本外れた細い路地にあり、客が三人も入れば窮屈になるほどの広さしかない。
従業員も、最近入った見習いのミサ一人だけ。
それでも、ここはわたしの城だった。
棚には、夕焼けのような朱色、若草を思わせる淡い緑、色とりどりの糸巻きが並んでいる。
壁際には、商会や織物工房から取り寄せた絹や麻、羊毛、薄布の見本が吊るされていた。
光の角度で色を変える布も、細かな花模様を織り込んだ布も、わたしが気に入って選んだものだ。淡い桃色や水色、薄紫といった柔らかな色合いが多いのは、単にわたしの好みだからだ。
窓際には大きな裁断台があり、その向かいには、黒ずんだ木枠の背の高い姿見が置かれている。王都の古道具店で見つけた瞬間に一目惚れしたもの。
店を開く前から少しずつ集めてきた道具や落ち着いた色合いの家具も、すべて自分の目で見て、これがいいと思ったものばかりだった。
「奥様、どうぞ」
ミサが卓へ紅茶を置く。
「あら、ありがとう」
ローデンベルク伯爵夫人は椅子へ腰掛け、カップを手に取った。
その様子を見ながら、わたしは改めてドレスの裾へ目を走らせる。
前世のわたしは、服飾の専門学校を出ていた。
けれど、卒業後に就職したのは、衣料品を扱う会社の事務職だった。
針を持つのは、取れたボタンを付けるときか、親戚の子供に簡単な服を縫ってやるときくらい。
嫌いな仕事ではなかったし、暮らしにも困っていなかった。
ただ、店先に並ぶ服を見るたび、何度も思った。
本当は、作る側に立ちたかった。
もし人生をやり直せるなら、今度こそ仕立て屋になりたい。
まさか本当に、別の世界で人生をやり直すことになるとは思わなかったけれど。
紅茶を飲み終えた夫人が、再び姿見の前へ立つ。
「この襟の形も素敵ね」
ローデンベルク伯爵夫人は、鏡に映る自分の姿を見ながら襟元へ触れた。
「王都では、あまり見かけない形でしょう?」
「首元がすっきり見えるよう、少しだけ形を変えています」
「あなたの作る服は、どこか目新しいのに、奇抜には見えないのよね」
「そう言っていただけると嬉しいです」
前世で学んだ型紙の知識と、この世界ではまだ一般的ではなかった、体の丸みに沿わせる立体的な裁断。
それに、昔から眺めるのが好きだった歴史上の衣装を、この国の流行へ少しずつ取り入れた。
この世界で最初に縫ったのは、母の古いドレスを仕立て直した姉の外出着だった。
次は近所の娘の婚礼衣装。その次は、商人夫人の茶会用ドレス。
初めの頃は、見慣れない形だと笑われることもあった。けれど、一度着た人が、次の客を連れてきてくれた。
「着ていて苦しくない」
「体を動かしやすい」
「以前より姿が美しく見える」
そんな評判が少しずつ広まり、五年かけて貯めた金で、二年前にこの店を開いた。
最後に裾の長さを確認し、ローデンベルク伯爵夫人を見送る。
扉が閉まると、ミサが奥から銀色の盆を抱えて出てきた。
「奥様からいただいた紅茶とお菓子です」
「ありがとう。今のうちに食べようか」
包みを開くと、砂糖をたっぷりまぶした小さな焼き菓子が並んでいた。
ミサが一つ口に入れ、目を丸くする。
「すごいです。こんなお菓子、初めて食べました」
「残りは持って帰っていいよ」
「本当ですか?」
「弟たちにも食べさせてあげて」
ミサは焼き菓子を、まるで宝石でも見るように目を輝かせて見つめた。
個人で店を持つのは、楽なことばかりではない。
布は手触りや厚み、光の透け方まで確かめて仕入れなければならず、小さな店では大量に買うこともできない。
迷っているうちに珍しい布をほかの店へ買われることもあれば、よいと思って仕入れた布が何年も棚に残ることもある。
湿気や虫に気を配り、帳簿もつけ、完成した服の受け取りや代金の支払いを催促するのも、すべて自分の仕事だ。
大変ではある。
それでも、前世の仕事よりずっと性に合っていたし、苦にはならなかった。
「さて、掃除でもしようかな」
椅子から立ち上がると、ミサが慌てて焼き菓子を飲み込んだ。
「わたしがやります!」
「いいよ。今日はもう仮縫いもないし、暇だから」
「店主が床を掃くんですか?」
「自分の店だもの。当たり前よ」
受ける仕事の数も、自分で決められるし、忙しい月の後には、意識して予約を減らすこともできる。
誰かに数だけを求められることもなく、納得するまで一着の服に向き合える。
それに――。
「予約もないし、掃除が終わったら今日は閉めちゃおうか」
「いいんですか?」
「たまにはね」
笑いながら箒を手に取った、そのときだった。
扉の鈴が、高く鳴った。
振り返ると、入口に一人の女性が立っていた。
艶やかな赤いドレスに、胸元を飾る大粒の宝石。
その後ろには、荷物を抱えた侍女が三人並んでいる。
女性は店の中へ一歩入ると、狭い店内をゆっくりと見回し、やがて露骨に眉をひそめる。
「まあ。本当に、こんな小さな店なのね」
扇で口元を隠しながら、嫌そうに言う。
ミサの顔から、さっと笑みが消えた。
わたしは箒を壁に立てかけた。
「いらっしゃいませ」
女性は返事もせず、裁断台の上に置いていた生地を指先でつまみ上げた。
「これ、ベルナール商会の品?」
「はい。今季の新作です」
「ずいぶん安っぽく見えるけれど」
先ほど夫人へ見せた見本布が、まだ裁断台に残っていた。
「こちらは、光の加減によって見え方が変わる布です。夜会の灯りの下では――」
「説明は結構よ」
女性はわたしの言葉を遮り、生地から手を離した。
布が裁断台の上へ、くしゃりと落ちる。
女性は当然のように裁断台の前の椅子へ腰を下ろした。
侍女の一人が素早く赤い外套を脱がせ、別の一人が椅子の背へ掛ける。
「三週間後、王宮で建国記念の夜会が開かれるのは知っているわね。そこで着るドレスを仕立てなさい」
「え……」
「何か問題でも?」
問題しかない。
通常なら、少なくとも二か月前には注文してほしい。
「すでにご予約いただいている品との兼ね合いもございますので、意匠によってはお受けできません」
「わたくしの名を知らないの? ドロテア・ハーゲン侯爵夫人よ」
ああ、侯爵夫人でしたか。
ミサの肩がぴくりと揺れた。
「存じ上げず、失礼いたしました」
「これだから小さい店は。今後は覚えておきなさい」
ドロテア夫人は、店内に並ぶ布見本へ視線を向けた。
「わたくしは、ありふれたドレスを着るつもりはないの。誰よりも目を引くものにしてちょうだい」
随分と上から来る人だ。
とはいえ、この程度で客を追い返すわけにもいかない。接客業をしていれば、少しくらい癖のある客は珍しくなかった。
「かしこまりました。お好みの色はございますか?」
「若々しく見える色ね」
「赤や明るい桃色でしょうか」
「派手すぎるのは嫌よ。年齢を無理に隠しているように見えるでしょう」
「では、青や紫を基調に――」
「地味なのも嫌」
難しい。
「お顔立ちが華やかでいらっしゃいますので、深みのある色に光沢のある糸を合わせれば、落ち着きと華やかさを両立できるかと思います」
「ほかの方と同じ布は使いたくないわ」
さらに難しい。
わたしは壁際の見本をいくつか外し、裁断台の上へ並べた。
「こちらはいかがでしょう。東部の工房で織られた絹です。黒に近い紫ですが、光の下では赤みが浮かびます」
ドロテア夫人は一瞥しただけで、鼻を鳴らした。
「見たことがあるわ」
「こちらは南方の――」
「去年、伯爵夫人が着ていたものに似ているわね」
「今季入ったばかりの――」
「色が気に入らない」
何枚見せても、返ってくるのは不満ばかりだった。
ミサが不安そうにこちらを見ている。
わたしは小さく笑ってみせた。
面倒ではあるが、仕事として成立しないほどではない。それに、気難しい人への布選びは嫌いではない。
「ほかにはないの?」
「少々お待ちください」
わたしは店の奥へ入り、鍵をかけた棚を開けた。
その中から、薄い木箱を取り出す。
蓋を開けると、白銀色の布が姿を現した。
ミサが息を呑んだ。
「店主、それは……」
「月光絹よ」
この世界でも、ごく限られた工房でしか作られていない布だった。
織り込まれているのは、魔力を帯びた蚕の糸。
普通の絹より軽く、体温に触れるとわずかに伸びる。
正しく仕立てれば、動きに合わせて布が体へ馴染み、締めつけずに美しい線を作る。
「まあ……」
初めて、ドロテア夫人の顔に明らかな興味が浮かんだ。
椅子から立ち、月光絹へ手を伸ばす。
「綺麗だわ。月光絹ね」
「はい。夜会の灯りの下では、動くたびに青銀色の光が浮かびます」
「これにするわ」
即答だった。
「では、月光絹を扱うにあたってのご説明をいたします」
「説明? わたくしが聞く必要があるの?」
「はい。通常の布より細かな採寸が必要で、裁断後の大きな変更はできません。そのため、事前に同意書をいただいております」
「最初から完璧に作ればよいだけでしょう?」
「……ご説明いたします」
わたしは注文書を取り出し、月光絹を扱ううえでの注意事項を一つずつ説明した。
「こちらをご確認ください」
ドロテア夫人は紙へほとんど目を落とさず、差し出されたペンを取った。
「あなたが分かっていればいいでしょう」
さらさらと署名する。
まあ、いいか。
きちんと説明はしたし、必要な工程にも同意をもらった。
あとは、仕立て屋として仕事をするだけだ。
◆
全然よくなかった。
「もう一度、測り直しなさい」
「三度測りましたが、同じです」
「おかしいわ。わたくしの腰が、そんなに太いはずがないでしょう」
ドロテア夫人は、鏡の前で不機嫌そうに言った。
「もっと細く仕立てなさい」
「実際の寸法より細く作れば、着用できません」
「コルセットを締めれば入るわ」
「それを前提に仕立てますと、座ったときや踊ったときに、縫い目へ負担がかかります」
「仕立て屋なのだから、そこを何とかするのが仕事でしょう?」
その言葉を、前世でも何度聞いただろう。
無理を、無理ではない形にするのがプロの仕事だと思っている人は多い。
だが、布にも糸にも限界がある。
人の体にも限界がある。
「美しく見えるようには仕立てます。ただし、着る方が動けないほど細くは作れません」
「仕方がないわね。せめて胸元はもっと細く見せて」
「承知しました」
採寸を終えて夫人を見送ったあと、わたしはミサと二人で型紙を作り始めた。
「普通の布とは全然違うんですね」
ミサが、裁断台に広げた型紙を覗き込む。
「月光絹は、縦と斜めで伸び方が違うからね」
「この脇の部分、ずいぶん布を使うんですね」
「動いたときに引っ張られる場所だから。ここを細く取りすぎると、縫い目に力が集中するの」
「生地がすぐ傷むのですか……怖い布ですね……」
「きちんと扱えば、これほど着心地のいい布もないよ」
わたしは型紙を月光絹の上へ置いた。
「難しいからこそ、面白いんだけどね」
◆
採寸を終えた数日後。
最初の仮縫いの日、試着室から出てきたドロテア夫人を見て、わたしは眉をひそめた。
前回より、明らかに腰が細い。
「コルセットを替えられましたか?」
「ええ。王都で一番腕のいい職人に、新しく作らせたの。こちらのほうが美しく見えるでしょう?」
「寸法が変わっています」
「なら、この体形に合わせて仕立て直しなさい」
簡単に言う。
「この寸法には変更できません」
「なぜよ。布を少しきったらいいだけでしょ」
「最初の採寸をもとに、伸びる方向や縫い目へかかる力まで計算して裁断しているからです」
「難しいことを並べて、誤魔化そうとしているのではなくて? 手間がかかるから、やりたくないだけでしょう」
ミサが息を呑む。
「そのような理由ではありません」
「なら、もっと細くできるはずよ」
「この寸法では、月光絹の性質を活かせません」
「着る者の望みより、自分の都合を優先するなんて。ずいぶん思い上がった仕立て屋ね。侯爵夫人の望みすら叶えられない無能な店だと、王都中に知られてもよろしいの?」
ドロテア夫人の声が、狭い店内へ響いた。
侍女たちは目を伏せている。
慣れているのだろう。
けれど、わたしは慣れていない。
「ドロテア・ハーゲン侯爵夫人」
「何?」
「こちらのご依頼は、お断りいたします」
夫人が瞬きをした。
「……何と言ったの?」
客だからといって、何を言われても黙っているつもりはない。
「わたくしの注文を断るというの?」
「ご署名いただいた同意書にも、裁断後の大きな寸法変更はできないと記載しております」
「そんなもの、読んでいないわ」
「説明もいたしました。控えもお渡ししております」
「わたくしが読まなかったのが悪いとでも言うの?」
「ご確認いただいたうえで、ご署名されたものと認識しております」
ドロテア夫人の顔が、さらに赤く染まった。
「もういいわよ、こんな店! 時間の無駄だったわ!」
「承知いたしました。月光絹の代金と、ここまでの作業代を差し引いた残額をお返しいたします」
「図々しいわね! 全額返しなさい!」
「ご署名いただいた注文書に記載しておりますので、それはできません」
「っ……布は返しなさい!」
わたしは裁断した月光絹を一枚ずつ薄葉紙で包み、木箱へ収めた。
型紙も重ね、その上に布の性質と扱い方を記した紙を置く。
「別のお店へお持ちになる場合は、こちらの説明書も必ずお渡しください」
「必要ないわ!」
「ですが、月光絹は通常の布とは――」
「最後まで、自分にしか扱えないような顔をして。思い上がりも甚だしいわね」
夫人は木箱を侍女へ持たせた。
「二度と、王都で店を開けると思わないことね」
扉が激しく閉まり、鈴が壊れそうなほど鳴った。
扉が壊れなくてよかった。
そんなことを考えていると、ミサが青ざめた顔でこちらを見た。
「店主……」
「何?」
「本当に、店を潰されたらどうするんですか?」
「そのときは、そのときね」
「そのときって!」
「今から心配しても仕方ないでしょう」
そのとき、再び扉の鈴が鳴り、ミサの肩が跳ねた。
入ってきたのは、淡い水色の外出着をまとった若い女性だった。
後ろには女性騎士が一人控えている。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ、ルチア様」
「あら、お邪魔だったかしら?」
「いいえ。少し注文がまとまらなかっただけです」
「そう」
ルチア様は深く追及しなかった。
いつものように裁断台の前へ腰掛け、持っていた包みを差し出す。
「城の菓子職人が、新しい焼き菓子を作ったの。よかったらどうぞ。見習いさんの分もあるわ」
「ありがとうございます」
「お、王女殿下……」
ミサが固まっている。
ルチア様は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
「それより、私のドレスはできあがっている?」
「もちろんです」
わたしは奥から菫色のドレスを取り出した。
ルチア様の顔がぱっと明るくなる。
「素敵だわ!」
「袖口には、銀糸で小さな星を刺繍しました。歩くと裾の模様が少しずつ見えるようになっています」
「まあ、本当だわ。早く着てみたい」
ルチア様はドレスの裾を持ち上げ、刺繍を楽しそうに眺めた。
「あなたも建国記念夜会に来ればいいのに」
前世でも、大人数の集まりは苦手だった。
「親しい方とゆっくりお茶を飲むほうが好きなんです」
「ああ、少し分かるわ。夜会では、挨拶をしているだけで一晩が終わってしまうもの」
「王女殿下ともなると、特に大変そうですね」
「ええ。あなたのお店でお菓子を食べているほうが、ずっと楽しいわ」
二人で笑う。
隣では、ミサがまだ固まっていた。
◆
建国記念夜会の翌日。
国王は執務机に肘をつき、何とも言えない顔で黙り込んでいた。
向かいに座るルチアが、紅茶を口へ運ぶ。
「まさか、あんなことになるなんてね」
「……すごいものを見た」
国王は額を押さえた。
「いや、見たくなかった。なぜ、あのようなことになったのだ?」
「月光絹だったそうよ」
「ああ……あれか。扱える仕立て屋が少ない布だな」
「最初に頼んだ店から注文を断られて、別の仕立て屋へ持ち込んだそうよ」
国王が顔を上げた。
「そんな難しい布を、簡単に引き受ける店があったのか?」
「月光絹を扱ったこともない新しい店が、侯爵家との縁欲しさに引き受けたそうよ」
「……なるほどな」
「それにしても、私も驚いたわ。まさか、踊った途端に脇から背中まで豪快に裂けるなんて」
「思い出させるな……」
「侯爵夫人、しばらく夜会には出られないでしょうね」
ルチアは紅茶のカップを置いた。
「忠告は、きちんと聞くものね」
「まったくだ」
国王は深いため息をついた。
その頃、王都の東端にある小さな仕立て屋では。
何事もなかったかのように、今日も扉の鈴が鳴っていた。
「私にも、ドレスを作ってくださる?」
「いらっしゃいませ――……」
振り返ると、男性は胸元へ手を添え、にっこりと微笑んだ。
「一番華やかなものをお願いね」
「……かしこまりました」
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国王と王女はこちらにも登場しております。
『王命を受けた親の末路〜娘は幸せになります〜』
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