第9話 正史の残滓
銀色の波濤が、幾重にも重なって押し寄せてくる。
それは視界を埋め尽くす鉄の壁だった。帝都守護軍、第三重装鉄騎兵団。彼らが纏う白銀の甲冑は、朝の光を乱反射し、見る者の目を眩ませる。彼らは自らの胸に宿る「正義」を一点の疑いもなく信じていた。この平和な箱庭を守るため、秩序を乱す「綻び」を排除することこそが、騎士としての至高の誇りであると。だが、その高潔な誇りさえも、皮肉なことに管理者が描いた「正史」という台本に組み込まれた、偽りの定義に過ぎない。
「陣形を崩すな! 少女たちを、一歩も外へ出すな!」
カイルの声が、血と鉄の臭いが立ち込める戦場に鋭く響き渡る。
彼らアラズの男たちは、今や生きた肉の盾となっていた。背中に刻まれた「否」の烙印が、所有者の命を削りながらも、限界を超えた生命力を強制的に引き出していく。血管が浮き上がり、筋繊維が悲鳴を上げて弾ける音が聞こえる。だが、その激痛さえも、傷口から溢れ出す翠の光が強引に塗り潰し、彼らを戦い続ける怪物へと変えていた。
少女たちは、ボルグの巨大な背中の陰で、互いの手を千切れんばかりに握りしめていた。跳ね返った泥と返り血が、彼女たちの幼い頬を汚していく。
「おじちゃん、血が出てる……! おじちゃん!」
一番小さな少女が、ボルグの腰布を掴んで泣き叫んだ。その視線の先では、ボルグの太い腕に数本の矢が突き刺さり、真っ赤な鮮血が地面を叩いている。
「へっ、気にするな。これはな、お前たちの未来を買うための、ほんの安い代金だ」
ボルグは、肺の奥から絞り出すような笑い声を上げた。飛来した複数の投擲槍を、彼は避けるどころか左腕一本で強引に受け止める。肉を貫き、骨を削る鈍い音が周囲に響き渡るが、彼は眉一つ動かさない。逆に突き刺さった槍を逆の手で掴むと、力任せに引き抜き、突撃してきた騎兵を馬ごと薙ぎ払った。
彼らにはもう、帰るべき家も、守るべき故郷の土もない。だが、背中で震えるこの小さな手の温もりがある限り、彼らは何度でも地獄の底から立ち上がることができた。それが、捨てられた男たちがようやく見つけた、本当の「生きる意味」だったからだ。
そこへ、一線の白銀の閃光が戦場を切り裂いて走った。
カイルの放った一撃を、真っ向から受け止めた者がいる。他の兵士たちとは一線を画す、壮麗な彫刻が施された白の重甲冑を纏った騎士。その剣圧だけで周囲の空気が爆ぜる。
「……見事な剣筋だ。流浪の罪人にしておくには惜しいほどに」
騎士の瞳には、一切の迷いがない、澄み渡った信念が宿っていた。彼の名は、帝都騎士団の副長、アルヴァス。
「アラズの烙印。貴殿ほどの腕を持つ男が、なぜ世界の調和を乱し、血を流す道を選んだ。剣を収めよ。さすれば、せめて騎士としての死を与えよう」
「調和だと? 笑わせるな。その綺麗な調和のために、この子たちが死ななきゃならない理由を教えてくれ!」
カイルは吠えた。足元の泥を蹴り、全力の荷重を剣に乗せる。
「パンをたった一つ盗んだだけで、一生消えない呪いの傷をつけられて、ゴミ捨て場に放り込まれる。それがお前の、胸を張って守りたい平和なのか!」
「それが、この世界の理だ!」
アルヴァスは一歩も退かず、カイルの剣を弾き返した。
「たった三人の犠牲で、万人の平和が維持されるならば、私は喜んで剣を振るう。個の感情が正史を乱せば、世界そのものが崩壊するのだ。私は、貴殿一人のために世界を捨てることはできん!」
アルヴァスの神速の突きが、カイルの防御をすり抜け、脇腹を鋭く裂いた。鮮血が舞う。誇りと誇りが真正面から激突し、火花が飛び散る。二人は互いに一歩も譲れない正義を背負い、泥にまみれ、血を流しながら、終わりのない刃の会話を続けた。
その光景を、如月 澪は少し離れた場所から、透き通るような冷徹な眼差しで見つめていた。
「悲劇ですね。どちらも正しいと信じ、どちらも愛するもののために、全力で殺し合う。これこそが、管理者が最も好む、高熱量の舞台装置です。彼らの流す血の熱さが、この箱庭を動かす歯車を回している……」
彼女はため息をつくように呟くと、細い指先で宙をなぞった。彼女が触れた空間には、目に見えない世界の「綻び」が物理的な裂け目となって現れ、翠の粒子が空に溶けていく。彼女にとって、この凄絶な殺し合いも、戦士たちの叫びも、書き換えられるべき「誤字」の一つに過ぎなかった。
一方、その凄惨な戦場を遥か上空から見下ろす場所があった。
分厚い雲海を突き抜け、星に近い高度に浮かぶ、物理的な構造を無視した浮遊神殿。そこは「正史編纂室」と呼ばれ、箱庭の運命を司る管理者たちが集う中枢である。
そこでは、白の法衣を纏った数人の魔導技師たちが、宙に浮かぶ無数の水晶板を淡々と操作していた。水晶板の一つひとつには、カイルたちが血を流し、絶叫し、必死に生きようとする姿が、情動を削ぎ落とされた単なる「数値の変化」として図式化され、映し出されている。
「リメス村周辺の熱量値、急上昇を確認。予定調和係数、零点三の因果律が乖離しています」
一人の技師が、無機質な機械のように報告した。
「原因は?」
奥の巨大な玉座に座る、豪奢な法衣を纏った老人が、重々しく問いかける。管理官。この箱庭の維持を任された、神の代行者を自称する者。
「個体名カイルを中心としたアラズによる想定外の抵抗。および、未登録個体セラによる広範囲の物理法則書き換えです。彼女の影響により、周辺の因果律が急速に『綻び』始めています。放置すれば、今節の定めの書全体に影響を及ぼしかねません」
管理官は、手元の水盤に映るセラの姿を、嫌悪感を隠そうともせずに睨みつけた。
「……また異界の不純物か。予定された英雄の死が適切に供給されねば、この頁の大地は枯れ果て、全住民が餓死することになる。カイルという駒が死ななかったツケは、どこかで払わねばならん。盤面の帳尻を合わせるため、帝都の居住区第三区から第五区……合わせて市民三万人を、緊急の代替品として処分することで補填せよ」
管理官は、ゴミを掃くような仕草で指をパチンと鳴らした。
その軽薄な一動作だけで、帝都で平和に暮らしていた三万人の命に、一瞬にして死という属性が付与された。彼らが何をしたわけでもない。ただ、盤面の帳尻を合わせるための、端数として選ばれただけだった。
「第十二節、強制執行。罪人たちの包囲網を維持しつつ、周辺の居住区を天火で焼却しろ。誤差は許さん。この箱庭を美しく維持するためには、常に一定量の血と犠牲が必要なのだからな」
神殿の床に敷き詰められた巨大な魔法陣が、眩い白銀の光を放ち始める。
地上でカイルたちが命懸けで守ろうとしている少女たち。そして、彼らと戦っているアルヴァスたち兵士。そのすべてを、管理側は「帳尻合わせの数字」として、等しく消し飛ばそうとしていた。
地上の戦場に、突如として天から巨大な幾何学模様の光の輪が降り注ぐ。それは慈悲なき神の視線であり、絶対的な終焉の兆しだった。
「カイル! 上です! 下がってください!」
澪の切迫した叫びが、剣戟の音を突き破って響いた。
自分たちが抗っていたのは、目の前の敵軍だけではなかった。
この世界そのものが、反逆する者たちを根絶やしにするために、その巨大な牙を剥き始めていた。




