第8話 連鎖する綻び
朝を告げるはずの鐘の音は、大気を震わせる不吉な地鳴りのようだった。
洞窟の入り口から遠く帝都の方角を眺めるカイルの横顔は、険しい。昨夜、白銀の粛清官との死闘で負った傷が、衣服越しにじわりと熱を持って疼いている。包帯を巻く暇もなかったが、不思議と体は軽かった。背中に刻まれた「アラズ」の烙印が、脈打つ心臓の鼓動と共鳴し、未知の活力を全身に送り届けているのを感じる。
視界の先、遥か彼方の地平線では、帝都の城壁から無数に立ち上がる魔力の光柱が、夜明け前の空を白銀色に染め上げていた。
「……始まったのですね。管理側の、強引な修復作業が」
背後に立った如月 澪が、静かに告げた。彼女の白い髪が、早朝の冷たい風に煽られて不規則に舞う。その翠の瞳は、物理的な距離を超えて、世界の法則が歪み、崩壊していく様を見つめているようだった。
「修復作業だと? 冗談じゃない。あの光の柱の下に、どれだけの民がいると思っている」
カイルは吐き捨てるように言った。
帝都には、戦争とは無縁の生活を送る商人も、職人も、名もなき家族たちも大勢暮らしている。だが、管理側にとっては、彼らもまた「英雄の死」を補填するための燃料に過ぎない。
「彼らにとって、この世界は緻密に書き込まれた一冊の本に過ぎません。一文字でも書き間違えれば、その頁ごと破り捨て、都合の良い展開に書き直すだけのこと。今、世界の各地で『綻び』が連鎖しています。リメス村という物語のゴミ捨て場から始まったあなたたちの拒絶が、正常な頁を侵食し始めたのです」
澪の言葉は、酷く冷淡で、それでいて真実を射抜いていた。
洞窟の奥では、救い出された三人の少女たちが、互いに身を寄せ合って震えていた。一番年長の少女が、年下の二人の手を握りしめ、「大丈夫だよ」と、自分自身にも言い聞かせるように繰り返している。彼女たちの細い背中には、女の否を示す「イナメ」の烙印。
その様子を、かつて「鉄血連隊」で最強の名をほしいままにした男たちが、沈痛な面持ちで見守っていた。
「……なぁ、カイル」
男たちの一人、巨漢のボルグが斧を担いで歩み寄ってきた。彼の全身には、昨夜の戦いで浴びた返り血が乾いてこびりついている。
「俺たちはよ、ずっと死に場所を探してた。英雄として華々しく散るのが、唯一の救いだと思ってた。けどよ……」
ボルグは、自分の指をぎゅっと掴んできた幼い少女の頭に、不器用なほど大きな掌を置いた。
「この子たちの涙を見たらよ、死ぬのが馬鹿らしくなっちまった。俺たちが『綻び』だって言うなら、それでいい。この世界の綺麗な物語ってやつを、全部解いてやるよ。この子たちの明日のために」
男たちの瞳に宿ったのは、盲目的な忠誠心でも、戦士としての虚栄心でもなかった。それは、自らの意志で誰かを守ろうとする、剥き出しの「誇り」だった。
その瞬間、洞窟全体の空気が一変した。
澪が右手をかざすと、彼女を中心に翠色の幾何学模様が地表に展開された。それは粛清官たちが操る白銀の術式とは決定的に異なる、この世界の理に存在しない「異物」の輝きだった。
「感知しました。大規模な修正勢力。第一波は帝都守護軍、第三重装鉄騎兵団。数はおよそ五百」
澪の声と同時に、地平線の霧を切り裂き、銀色の鎧に身を固めた軍勢が姿を現した。
五百。対してこちらは、傷だらけの男たち十数名と、戦えない少女たちが三人。
普通に考えれば、蹂躙されるのを待つだけの戦力差だ。だが、カイルの胸に絶望はなかった。
「五百か。管理側の数字遊びに付き合う必要はないな」
カイルは腰の剣を抜き放った。
「澪。あんた、言ったな。箱庭の屋根を引き剥がすって」
「ええ。ですが、そのためにはまず、目前の『修正』を跳ね除けねばなりません」
「上等だ。俺たちが綻びなら、このまま世界を解き明かしてやる」
カイルが先陣を切って洞窟を飛び出した。
その後ろを、咆哮と共にアラズの男たちが続く。
背中の烙印から溢れ出す翠の光が、彼らの筋肉を膨張させ、感覚を研ぎ澄ませる。
迎え撃つ帝都の重装騎兵たちは、無感情な機械のように槍を構えて突進してきた。彼らにとって、カイルたちは「駆除すべき害獣」でしかない。
「総員、突撃! 管理外個体を抹殺せよ!」
騎兵隊長の号令が響く。
衝突の瞬間、カイルの剣が先頭の騎馬を真っ向から斬り伏せた。翠の光が刃を伝い、重厚な鉄の鎧を紙細工のように切り裂く。
ボルグの斧が、突進してきた馬の足を砕き、落馬した兵士を文字通り粉砕した。
凄まじい肉のぶつかり合う音。悲鳴。そして、これまで一度も物語を疑わなかった精鋭たちが、初めて味わう「死への恐怖」。
戦場の中心で、澪は静かに呪文を紡いでいた。
「定義変更。重力定数、下方修正。衝撃波の伝導率、最大化」
彼女が地面を叩くと、衝撃波が同心円状に広がり、周囲の騎兵たちが次々と宙に舞った。空中で身動きの取れない兵士たちを、アラズの男たちが容赦なく打ち倒していく。
それは一方的な虐殺ではない。死を拒絶し、生にしがみつこうとする者たちの、執念の爆発だった。
戦いの最中、カイルは気づく。
背中の烙印が熱を帯びるたび、自分の意識が、世界の「裏側」にある情報の奔流に触れていることに。
この兵士たちも、この空も、この戦場さえも、誰かの意志によって用意された舞台装置に過ぎない。ならば、その舞台を支える床を叩き壊せば、勝機は見えてくる。
「みんな、俺に続け! 逃げるんじゃない、こじ開けるんだ!」
「「「「「「おおぉ!!!」」」」」」
カイルの叫びに、男たちが答える。
後方で見守る少女たちの歌声のような泣き声が、彼らの背中を押し続けた。
管理された偽りの平和という、強固な殻。
今、たった十数人の罪人たちが、その殻に決定的な亀裂を入れようとしていた。
帝都守護軍の先遣隊が崩壊を始める中、遥か上空では、さらに巨大な白銀の輪が形成されつつあった。
管理側は、この「綻び」を容易には逃さない。
真の絶望と、真の反逆は、ここから加速していく。




