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烙印戦記 ー破滅エルフと棄てられた箱庭の英雄ー   作者: 弌黑流人


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第6話 停滞する夜と背徳の紋様

 リメス村を遠く離れた山間の洞窟に、薪が爆ぜる音だけが静かに響いていた。

 そこは、かつて鉄血連隊が辺境警備の際に物資集積所として利用していた廃拠点だった。長い年月放置されていた場所だが、岩肌に深く刻まれた連隊の紋章が、かつての栄光を皮肉るようにカイルたちを迎えた。壁には錆びついた鎖や、主を失った古い防具の残骸が転がっている。

 洞窟の奥では、泥の中から這い出してきた数十人の男たちが、吸い込まれるように深い眠りに落ちていた。カイルから分け与えられた力によって、彼らの肉体は一時的に全盛期の躍動を取り戻していたが、その代償は精神に重くのしかかっていた。急激な変質は、魂に激しい摩耗を強いる。かつて英雄と呼ばれた者たちの呼吸は重く、時折、戦場の夢にうなされるような呻き声が漏れる。

 カイルは眠る男たちを一人ずつ見て回った。

 かつての将軍、かつての剣聖、かつての若き英雄たち。

 彼らの剥き出しになった背中では、変質した「否」の紋様が、翠色の淡い光を放ちながらゆっくりと脈動している。それはまるで、彼らの肉体を媒介にして、別の生命が呼吸を始めたかのような、不気味で神々しい光景だった。この紋様が消えない限り、彼らはもう、この世界の「住民」としては認められないだろう。

 カイルは、入り口近くの岩に腰掛け、外を眺めている女へと歩み寄った。

 夜の冷気が彼女の白い髪を揺らしている。その横顔は、やはりこの箱庭のような世界には属していない、完成された彫刻のような異質さを放っていた。月光を浴びた彼女の肌は、人間というよりは、精緻に作られた陶器のようにも見える。


「……仲間たちの紋様を見た」


 カイルの声は低く、そして警戒を帯びていた。


「あれは何だ。俺たちはただ、癒やされただけではない。あの紋様は、まるで俺たちの命を燃料にして燃え続けているように見える。お前は、俺たちに何をした。死を免れた代わりに、もっと悍ましい化け物に変えられたのか?」


 女は視線を夜空に向けたまま、静かに口を開いた。


「私は、あなたたちの内側に眠っていた『拒絶の意志』に、形を与えただけです。あの紋様は、この世界の偽りの理を弾き飛ばすための鍵。ですが、それは同時に、あなたたちが二度と『予定された物語』には戻れないことを意味しています。それを呪いと呼ぶか、祝福と呼ぶかは、あなた次第です」

「最初から、まともな人間として扱われてなどいなかったさ」


 カイルは自嘲気味に笑い、自分の手のひらを見つめた。


「だが、得体の知れない力に操られたまま死ぬのは、戦場で見捨てられた時と同じだ。お前は俺たちを救うふりをして、別の戦争の道具にしようとしているのではないか? 俺にはまだ、お前が救世主なのか、それとも死神なのかの判断がつかない」


 女がゆっくりと顔を向けた。その瞳は、暗闇の中でも澄み渡り、カイルの心の奥底を――その弱さも強さも――すべて見透かすように揺れている。


「道具にされることを恐れるのなら、自らの意志でその力を定義すればよいのです。あなたは、あの時、自分自身の意志で剣を捨てたはずです。その時、あなたの物語は、一度、理から外れたのです」


 カイルは沈黙した。

 たしかに、自分を動かしたのは上官の命令ではなく、内側から湧き上がった「こんな殺し合いは間違っている」という魂の叫びだった。その一瞬の拒絶が、自分をこのリメス村へと導いたのだ。


「お前は、俺たちの名前も、背負わされた罪も知っているだろう。……だが、俺はお前のことを何も知らない」


 カイルは一歩踏み込み、女の目を真っ直ぐに見据えた。


「お前は何者だ。この世界を箱庭と呼び、理を書き換える力を持つ者。……名前を教えてくれ。お前を、ただの『異変』や『化け物』として扱い続けるのは、俺の性分に合わない。対等に話をするなら、まずはお前の呼び名が必要だ」


 女は少しの間、風の音を聞いているようだった。

 やがて、彼女は微かに唇を綻ばせ、これまでに一度も見せたことのない、どこか懐かしさを孕んだ表情を見せた。


「名前、ですか。……この世界の言葉では、私の存在を正確に表す音はありません。ですが、かつて私を呼んでいた響きでよければ」


 彼女はカイルの方へ身体を向け、この世界の住人には決して発音できないような、奇妙で、しかし不思議と美しい調べを持つ音を紡いだ。


「……如月 澪。それが、私の名です」


 キサラギ ミオ。

 カイルの知るいかなる聖典にも、いかなる国の叙事詩にも登場しない、複雑で深遠な響き。姓と名という二つの区分を持つその名を聞いた瞬間、カイルは彼女が本当に、この「箱庭」の境界線の外側から来た存在なのだと、魂のレベルで理解した。


「如月 澪……か。……俺の名はカイルだ。鉄血連隊、第百三小隊の生き残り。いや、今はただの『否』を背負った男だ。よろしく頼む、如月 澪」


 互いに名を名乗った瞬間、空気の密度が変わったのをカイルは感じた。

 それは、管理者と廃棄物といった歪な関係ではなく、同じ夜を共にする一組の個としての結びつきだった。


「カイル。あなたが見ているその空は、偽物です」


 澪は再び、暗い空を指差した。


「星の動きも、風の巡りも、すべてはあるべき姿から歪められ、循環の中に押し込められています。英雄の死という熱量を使って、この箱庭は無理やり稼働し続けている。私は、その循環を断ち切り、本当の夜を、本当の朝をこの場所に連れ戻したいのです。そのためには、システムによって『否定』された者たちの力が必要なのです」

「……そのために、俺たちの力が必要だというわけか。俺たちが、この偽物の空を撃ち落とすための矢になるのか?」

「はい。そして、あなたもそれを望んでいるはずです。心の底では、この世界のすべてを、ぶち壊したいと」


 カイルは答えなかった。

 代わりに、洞窟の奥から響く仲間たちの重い寝息に耳を澄ませた。

 自分たちはもはや、かつてのような「使い捨ての英雄」ではない。だが、澪と共に歩む道が、さらなる惨劇に繋がっているかもしれないという予感は消えない。それでも、あの泥の中で朽ち果てる未来よりは、この「如月 澪」という名の異邦人が見せる夢に賭けてみたくなった。


「……いいだろう、如月 澪。お前が何を隠しているのか、そのすべてを信じたわけじゃない。だが、泥の中で無意味に死ぬよりは、お前の言う『本当の朝』とやらを見てから死ぬほうが、いくらかマシだ」


 カイルは腰から、村の守備隊から奪った剣を抜いた。

 かつての英雄としての武勇ではなく、自らの意志を刻むための剣。

 焚き火の火が消えかけ、洞窟に深い闇が戻ってくる。

 だが、カイルの背中と、澪の隣にある空間には、微かな翠の残り火が、決意のように灯り続けていた。

 夜明けはまだ遠い。

 そして、その闇の向こう側では、彼らを「修正」すべき対象として追う、冷酷な足音が刻一刻と近づいていた。


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