第5話 鉄血の残滓
リメス村を囲っていた巨大な鉄柵が、断末魔のような悲鳴を上げて両断された。
カイルの手に握られた光の剣が、霧の立ち込める森の境界を鮮烈に切り裂く。背後には、泥の中から這い出した数十人の影があった。かつて鉄血連隊の英雄と謳われ、あるいは他国の伝説的な戦士であった男たちが、今は農具や石を手に、獣のような眼光を宿して立ち上がっている。
「……空が、あんなに広かったか」
一人の老兵が、百年の沈黙を破るように呟いた。
柵の向こう側。そこは、管理者が「廃棄物」には二度と見せないと決めていた、自由という名の残酷な荒野だった。
だが、感慨に浸る時間は与えられなかった。
村の脱走を知らせる警笛の音に応じるように、周囲の監視塔から次々と赤い魔光が打ち上げられる。さらに、リメス村を外部から封鎖していた直轄の「境界守備隊」が、地響きを立ててその姿を現した。
その数、およそ三百。
全身を重厚な黒鉄の鎧で包み、魔法の加護を受けた槍を揃えた、バルム帝国の精鋭たちだ。彼らにとって、リメス村の住人は「言葉を解する家畜」にすぎない。家畜が柵を壊したのなら、やるべきことは一つ――屠殺である。
「脱走兵、及び反逆者たちに通告する!」
守備隊の先頭に立つ騎馬隊長が、剣を抜き放ち、高圧的な声を張り上げた。
「貴様らはすでに人権を剥奪された廃棄物だ。一歩でも境界を超えた者は、帝国の理に基づき、その場で即刻処刑する。直ちに武器を捨て、泥の中に跪け!」
その声は、かつてカイルが戦場で聞き、従い、そして絶望した「命令」そのものだった。
だが、今のカイルの耳には、それは虚しい風の音にしか聞こえなかった。
カイルは、傍らに立つエルフの女を一瞥した。彼女の肌は青白い月の光を吸い込んだように輝き、その周囲だけは、戦場の殺気を拒絶するように穏やかな空気が流れている。彼女の指先が、カイルの光り輝く剣の柄にそっと触れた。
「行ってください。あなたの『否』は、もう誰にも縛られない」
その言葉が、カイルの内で弾けた。
カイルは泥を蹴り、一気に加速した。重厚な鎧を纏った兵士たちの予想を遥かに超える、雷光のような踏み込み。
「撃て! 殺せ!」
隊長の叫びと共に、魔法銃の一斉射撃が放たれる。
しかし、カイルの背中の変質した「否」の紋様が翠の光を放つと、飛来する魔弾は彼の肉体に触れる直前で、まるで水面に触れた火花のように霧散した。
カイルの光の剣が、最前列の兵士たちの盾を、鎧ごと紙細工のように切り裂いた。
衝撃波が泥を巻き上げ、守備隊の陣形が瞬時に崩壊する。
「な、なんだ……この力は……! ただの不戦犯が、なぜこれほどの……!」
兵士たちが恐怖に顔を引きつらせる。彼らが知るカイルは、戦うことを拒み、誇りを焼かれた抜け殻だったはずだ。だが、目の前の男から溢れ出しているのは、かつての鉄血連隊の時ですら持ち得なかった、世界そのものを押し返すような強大な圧力だった。
カイルの奮戦に呼応するように、背後の元英雄たちも咆哮を上げた。
「死ぬために戦うんじゃない!」
「俺たちの命は、誰の駒でもない!」
彼らが振るう鍬や鎌には、カイルから分け与えられたかのような翠色の残り火が宿っていた。
魔法の鎧を纏った精鋭たちが、農具を持った「廃棄物」たちに次々と打ち倒されていく。それは、洗練された戦術を、野性的な生存本能が凌駕する異常な光景だった。
カイルは乱戦の中を、真っ直ぐに騎馬隊長へ向かって突き進んだ。
隊長は必死に剣を振り下ろしたが、カイルはそれを素手で受け流し、その胸倉を掴んで馬から引きずり下ろした。
「教えろ。この箱庭の外で、今、何が起きている」
カイルの鬼気迫る問いに、隊長は恐怖で歯を鳴らした。
「な、何も起きていない……! 世界は平和だ! 三カ国は予定通り戦争を行い、英雄たちは誇り高く死んでいる……! お前たちが、狂っているんだ……!」
「予定通り、か」
カイルは隊長を無造作に放り投げた。
予定された死。演出された平和。そのために、自分たちの魂がどれほど安く買い叩かれてきたか。
カイルは空を見上げた。厚い雲の切れ間から、夜の静寂が降りてくる。だが、その向こう側にあるはずの帝都には、今も何食わぬ顔で命の勘定を行う者たちがいる。
戦闘は、わずか数刻で終了した。
三百の守備隊は壊滅し、生き残った者たちは武器を捨てて逃げ惑った。リメス村の住人たち――否、新たな英雄たちは、返り血に濡れながらも、その瞳に「自由」という名の険しい光を宿している。
いまだ得体の知れない不可思議な力を持つ女が、カイルの隣に歩み寄った。
「これで、箱庭の壁は一つ壊れました。ですが、管理者はすぐに気づくでしょう。バグを修正するために、彼らはより大きな『死』を投入してくるはずです」
「望むところだ。俺たちが鉄血連隊の末路だというのなら、その血でこの世界の偽りをすべて洗い流してやる」
カイルは光の剣を消し、女に向き直った。
「お前は、この後どうなるかを知っているのか」
女は微かに微笑み、遠く南の空を指差した。
「あそこには、システムの心臓部の一つがあります。そこへ向かうことが、あなたの背負った『否』を、真に完成させる道です」
カイルは頷き、仲間たちに向かって声を上げた。
「行くぞ。俺たちの戦記は、ここから書き始める」
泥まみれの英雄たちは、リメス村を背に、闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、粉々に砕かれた鉄柵と、かつて平和の番人を自称していた兵士たちの、惨めな残骸だけであった。
管理された平和のカウントダウンが、狂い始めていた。
それは、世界そのものを書き換えるための、最初の一歩であった。




