第35話 終焉の執行官
地上に降り注いでいた魂の雨が止み、荒野には耳が痛くなるほどの静寂が戻った。
つい先刻まで死の淵で喘いでいた兵士たちは、自分たちの傷が跡形もなく癒えていること、そして空を貫き魂を啜っていた聖杭の楔が消失したことに、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼らの瞳に宿っているのは、救済への感謝ではない。ただ、何が起きたのかを理解できず、思考を止めた虚無の光景だった。四聖家の教えを絶対とし、魂を搾取されることにすら抵抗を示さなかった従順な奉仕者たちにとって、目の前で起きた「救済」は、信じていた世界の理そのものが崩壊したことを意味していた。
「……なぜ、私は生きている?」
ある兵士が、自身の五指を動かしながら、うつろな声で呟いた。死ぬことこそが調整であり、それが平和への奉仕だと刷り込まれてきた彼らにとって、生還は福音ではなく、脳内を埋め尽くす制御不能なエラーに近い。
喜びを表現する術を持たず、ただ人形のように立ち尽くす者たちの群れ。だが、その意志とは無関係に、頬を伝う熱い雫だけが止まらなかった。生き延びたことへの安堵なのか、それとも壊れた秩序への恐怖なのか。本人たちにすら判別できない生理的な涙が、土を濡らしていく。
彼らにとって、白銀の神獣を従え天の理を砕いたカイルたちの姿は、救世主というよりは、理解不能な「異物」として映っていた。
フェンリスの背から降り、固い土を踏みしめたカイルのもとへ、澪が静かに歩み寄る。
「カイル……お疲れ様。本当に、あの高い空まで届くなんて。私たちの力が、空を壊したのね」
澪は、カイルの背中で静かに熱を逃がしている「否」の文字――かつて彼を英雄の座から引きずり下ろし、存在そのものを否定した呪わしき烙印を、いたわるような眼差しで見つめた。それは無謀な賭けの結果ではない。フェンリスの風、澪の術式、それらを受け止めたカイルの意志が重なり合った、必然という名の逆襲であった。
「……ああ。澪の術式がなければ、あの核は貫けなかった。……身体が、まだ熱いな」
カイルは観測者から授かった漆黒の大剣を鞘に納め、自身の拳を強く握りしめた。かつては忌むべき拒絶の証であった背中の烙印が、今は心地よい疼きを伴って、彼という存在を形作る熱い一部となっている。
アルヴァスとボルグが、周囲にいた空中騎士たちを完全に無力化し、戦場から戻ってきた。
「さて、大将。これでこの場は片付いたが……空の連中がこれで黙っているとは思えんぞ。あいつらの面子は今、粉々だ。これ以上の『調整』が来る前に、ここを離れるべきだが……」
アルヴァスの冷静な懸念を裏付けるように、上空の雲が再び異様な、そして不吉な変化を見せた。先ほどの空中騎士たちが降下してきた時のような、物理的な「降下」ではない。雲そのものが瞬時に凍りつき、真っ黒な巨大な渦となって、空の光を全て飲み込もうとしていた。
『――来るぞ。奴らが、奥の手を解き放った。汝らの存在を、その因果の根源から消し去るための刃だ』
フェンリスの蒼い瞳が鋭く細められ、神獣の全身から激しい翠の火花が散る。それは神の獣さえもが警戒を露わにする、格上の存在の予兆であった。
一方、遥か上空に浮かぶ空中都市、四聖閣の最深部。
そこは現在の管理権限を持つ不湯家の当主でさえ、立ち入ることすら制限されている禁忌の保存庫であった。当主の絶叫に呼応するように、数千年の封印を帯びた重厚な石の扉が、軋んだ音を立ててゆっくりと開く。内部に満ちていた絶対零度の魔力が、霧となって溢れ出した。
「目覚めよ……システムの守護者、理の執行官。この地上に現れたバグを、その魂の欠片、歴史の記憶に至るまで抹消せよ」
保存庫の闇の中から、一人の男が静かに歩み出た。
それは黄金の鎧も、華美な装飾も一切纏っていない。漆黒の簡素な服に身を包み、その瞳には慈悲も憎悪も、感情の欠片さえも見当たらない。ただ「無」という概念を体現したような男だった。その右手には、剣という形を借りた因果の削除装置――漆黒の細剣が握られている。
「……命令、受諾。目標、不戦犯カイル。付随する異常個体、全てを消去する」
男の姿が、次の瞬間にはその場から掻き消えた。それは移動というプロセスを省き、空間の座標を直接踏み越える転移。空中騎士とは比較することさえ失礼な、神の理そのものに近い殺戮機械が、ついに地上へと解き放たれたのだ。
荒野で空を見上げていたシュラインが、ガタガタと歯を鳴らしてその場に座り込んだ。
「だめ……あれはだめ。死神じゃない……もっと、もっと冷たい何かが……すぐそこまで来てる!」
彼女の巫女としての感覚が、世界の終わりを告げる警鐘を乱打していた。
カイルは、再び漆黒の大剣の柄に手をかけた。背中の烙印が、かつてないほどの激痛と共に翠の輝きを増していく。
平和という名の停滞を守るために用意された「終わりの力」に対し、自らの意志で運命を動かし始めた「始まりの力」が、いま真っ向から激突しようとしていた。




