第34話 魂の雨
空の核が砕け散った瞬間、世界から音が消えた。
次の刹那、天空から溢れ出したのは、純白の奔流だった。それは聖杭によって強引に引き剥がされ、空中都市へと送られるはずだった数万の魂の残滓。行き場を失った意志の輝きが、光の雨となって荒野へと降り注ぐ。
「……体が、熱い……?」
灰になりかけていた兵士たちの肉体に光が触れると、見る間に生命の輝きが戻っていく。乾いた皮膚が潤いを取り戻し、致命傷を負っていた傷口が、翠の火花を散らして瞬時に塞がる。それは管理者が定めた「死の帳尻」を、物理的に書き換える奇跡の雨であった。
だが、その奇跡の裏側で、世界の頭上にある空中都市「四聖閣」は未曾有の混乱に陥っていた。
編纂室の中央に置かれた「管理者の計算盤」。
その上に鎮座していた黄金の駒――聖杭を示す絶対的な法の象徴が、目に見えぬ力で叩き割られたように粉々に砕け散った。盤面は過負荷によって激しく火花を散らし、刻まれた幾何学的な紋様が、処理能力の限界を超えて真っ赤に焼けただれていく。
「な、何が起きた……!? 計測値がエラーだと!? 反応が消失したというのか!」
今期の管理を担う不湯家の当主は、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。彼の目の前にある水晶の感知器は、聖杭の核が、地上から到達した一撃によって完全に破壊されたという、到底信じがたい事実を突きつけていた。
「不戦犯……カイルだと? リメスの泥の中で腐るのを待つのみの廃棄物が、どうやって使徒の法を破壊したというのだ!」
当主の顔からは、先刻までの余裕が消え失せ、醜い驚愕と恐怖が張り付いていた。自分たちが「家畜」と見なし、盤上で弄んでいた地上の存在。その指先が、天空の喉元にまで届いたという事実が、彼のプライドを根底から叩き潰す。
混乱は、この状況を静観していた他の三つの聖家をも飲み込んでいった。
四つの家系で構成される「四聖家」。不湯家以外の家系の当主たちもまた、自分たちの祭壇で起きている異常に、驚きに震え、立ち尽くしていた。
「……あり得ぬ。不湯の無能ゆえか、それとも計算盤そのものが狂ったのか」
「使徒の末裔が支配するこの箱庭に、想定外の『毒』が紛れ込んだようだ。……地上の羽虫が、天を仰ぐなどと」
四聖家を繋ぐ精神経路には、かつてないほどの怒鳴り声と、隠しきれない震えが伝播していた。彼らにとって地上は管理されるべき農場であり、そこから反逆の剣が伸びてくるなど、悪夢ですら想定していなかったのだ。
「直ちに、調停者を。……通常の騎士ではもはや足りぬ。本来ならば世界の終焉にのみ目覚める、最高位の『執行官』を解き放て!」
不湯家当主の絶叫が、煙に包まれる編纂室に響き渡る。
その頃、高空ではカイルがフェンリスの風を纏い、ゆっくりと地上へと降下していた。背中の「否」の字は、役目を終えて静かな翠の余韻を残している。
彼を見上げる兵士たちの瞳には、救いへの感謝と、そして初めて見る「真実の王」への畏怖が宿っていた。
「カイル……!」
地上で彼を待つ澪が、力強く手を振る。
だが、カイルの視線はすでに、はるか雲の上――自分たちの運命を弄んできた「空」そのものを見据えていた。




