第33話 楔を穿つ
戦場の中央に突き刺さった「聖杭」は、美しくも禍々しい死の旋律を奏でていた。
天から降ろされたその巨大な楔は、周囲の空気を物理的に削り取り、鼓膜を震わせる高音の鳴動を響かせている。杭の表面には、使徒の末裔たちが設計した複雑な幾何学模様が走り、心臓の鼓動のような周期で脈動しては、大地から生命の色を無慈悲に奪い去っていく。
「……ああ、光が……神様、お救いください……」
足元に倒れていたバルム帝国の兵士が、うつろな瞳で空を仰いだ。彼の胸元から、蛍のような光の粒子が次々と溢れ出し、聖杭の中へと吸い込まれていく。それは血液でも魔力でもない。この箱庭の世界を繋ぎ止めるための生贄として捧げられる、存在の根源――「魂」の回収であった。
魂を抜かれた肉体は、水分を失った枯れ木のように急速に干らび、灰色の抜け殻となってさらさらと崩れ落ちる。一人、また一人と、地上の人間たちが無言のまま砂へと変わっていく光景は、もはや地獄という言葉ですら生温い。
「見てられない……。命を、なんだと思っているの……!」
澪の声が、激しい怒りに震えていた。彼女が指先を宙に走らせると、聖杭の吸引を物理的に遮断するように翠の障壁が展開される。だが、天から降り注ぐ「管理者の法」は、その障壁さえも不純物として侵食し、強引に魂を啜ろうとする。地上の術式では、天の理に干渉することすら許されないのだ。
『カイルよ、地上の杭をいくら叩いても意味はない。あの楔を制御している核は、雲の向こう……天空都市の直下に浮遊しておる』
フェンリスが天を仰ぎ、鋭い眼光で雲の切れ間を見据えた。そこには、地上の喧騒と悲鳴をあざ笑うかのように静かに滞留する、黄金の多面体――聖杭の心核が淡く輝いていた。地上の人間には決して届かぬ、不可侵の高度。
「あんな高さ、どうやって……!」
『我の風を纏え。汝の不屈の意志を、天を突く矢へと変えてやろう。……お主らの誇りを踏みにじる者共へ、報いの牙を届けるのだ』
フェンリスが咆哮すると同時に、カイルの周囲に猛烈な旋風が巻き起こった。それはただの風ではない。重力を否定し、空間そのものを押し上げる神獣の加護だ。カイルの背中に刻まれた「否」の字が、その風を燃料とするように激しい翠の輝きを放ち、周囲の空気を熱く焦がす。
「アルヴァス、ボルグ! 騎士どもを近づけるな!」
「任せろカイル! 天に穴を開けてこい、それが地上の意地だ!」
ボルグが迫りくる空中騎士を黄金の鉄甲で叩き伏せ、アルヴァスが影の如き速さで騎士の光槍を弾き飛ばし、カイルの進路を確保する。
ドォォォォン!!
爆音と共に、カイルの体が弾丸のように垂直に打ち上げられた。
フェンリスの風が足場となり、空気を蹴るたびに翠の火花が炸裂する。重力という理を置き去りにし、一瞬で雲海を突き抜け、酸素の薄い高高度へと到達したカイルの目前に、魂を吸い上げ続ける巨大な黄金の多面体が姿を現した。
だが、核を包む因果の盾は絶大だ。天空の住人たちが築き上げた「拒絶の壁」は、カイル一人の力では貫くことは叶わない。
「澪、今だ!!」
遥か地上でカイルを見上げる澪が、その細い両手を天空へ向けて突き出した。彼女が指先から編み上げた術式の全てが、一条の翠の光柱となって、天を駆けるカイルの背へと一直線に奔る。
澪の術式が、カイルの背中の「否」の字を媒介にして、彼が握る漆黒の大剣へと一気に集束した。漆黒の刃は、迸る翠の雷火を貪り食うように纏い、十メートルを超える巨大な光の剣へと膨れ上がっていく。
「壊れろ……っ! この、理不尽な秩序と一緒に!!」
カイルは全身の筋力を爆発させ、天の理さえも切り裂くその光輝を、聖杭の核へと叩きつけた。
世界の境界が揺らぐほどの衝撃音が、空の底で炸裂した。
黄金の核がガラス細工のように粉々に砕け散ると同時に、地上の杭を繋ぎ止めていた目に見えぬエネルギーの糸が、悲鳴を上げて一本残らず破断する。
次の瞬間、魂を吸い上げていた禍々しい脈動が完全に止まり、核の破片の中から溢れ出したのは、行き場を失った膨大な光であった。それは、つい数秒前まで奪われていた兵士たちの魂――地上に生きる者たちの、輝かしい生の残滓であった。




