第30話 断層の出口
白銀の神獣フェンリスの背は、想像を絶する速度で断層の垂直な壁を駆け上がっていた。
本来ならば重力の理に引かれ、無残に墜落するはずの垂直に近い急勾配。しかしフェンリスの足元には、空気を物理的に固定する翠の紋様が次々と展開され、目に見えぬ強固な階段を作り出している。神獣が地を蹴るたびに、金属の壁が悲鳴を上げ、凄まじい風圧がカイルたちの頬を叩いた。
「……すごい。これが、本物の神の獣の力……」
カイルの腕の中で、彼のシャツを纏った澪が、震える声で小さく漏らした。カイルは彼女を落とさぬよう、その細い体を強く抱き寄せる。
見上げれば、断層の遥か上空には、管理者が作り出した偽りの星空ではなく、本物の空へと続く微かな光が見え始めていた。それは、かつて自分たちが「死」を宣告されて投げ落とされた、あの残酷な世界への入り口でもあった。
だが、その希望の光と同時に、カイルの背中にしがみついていたシュラインが、怯えたようにその身を縮めた。
「カイル……くるよ。空が、怒ってる……!」
シュラインの巫女としての直感が告げる通り、上空の光が不自然に歪み、赤黒いノイズが空間を走り始めた。空中都市を統べる四聖家の一つ、不湯家が「抹殺者の消失」という致命的なバグを隠蔽するために放った、領域消去の術式である。
天から降り注ぐのは、救いの光ではない。断層の底を、そこに存在する全ての因果ごと焼き尽くさんと放たれた、巨大な光の破壊兵器だった。
『小賢しい羽虫共め。よいか、お主らは我が背にしっかり掴まっておれ!』
フェンリスが天を衝くような咆哮を上げると同時に、その美しい銀色の毛並みが激しく逆立ち、青白い放電を開始した。神獣は落下する光の柱を紙一重の転身で回避し、壁を蹴って虚空へと跳躍する。
背後では、光の柱が着弾した瞬間に凄まじい爆風が吹き荒れ、リメスと呼ばれた場所も、先ほどまで戦っていた血塗られた訓練場も、すべてが白い虚無の中に呑み込まれていった。カイルは、遠ざかる地獄を振り返ることはなかった。彼の視線は、今まさに突き抜けようとしている「出口」――自分たちが奪われた地上へと向けられていた。
光の渦を突き抜けた瞬間、全身の毛穴を突き刺すような鋭い冷気と、埃っぽいが確かに生命の気配が混じる土の匂いが鼻腔を突いた。
そこは、バルム帝国の国境付近、かつてカイルたちが「生贄」として戦場へ送り出された場所からそう遠くない、名もなき荒野だった。
フェンリスは音もなく着地し、その気高い巨体を休めることなく周囲を睥睨した。カイルたちが地上に降り立って最初に目にしたのは、感動的な再会などではなかった。
「……これは、どういうことだ」
アルヴァスが呻くように声を上げ、足元の枯れ草を強く踏みしめる。
そこでは、バルム帝国の兵士たちと連邦の兵士たちが、泥にまみれ、意志を持たない人形のように殺し合っていた。いや、それはもはや「戦い」ですらなかった。上空の雲の隙間から、まるで透明な巨人の足で踏みつけられるかのような不可視の圧力が降り注ぎ、双方の兵士たちの肉体を無差別に押し潰しているのだ。
潰れた肉体から漏れ出すのは、赤い鮮血と、それ以上に純粋な輝きを放つ魂の輝き。
空中都市の石盤の上で、不湯家の当主が冷酷に計算していた「今期の帳尻合わせ」……足りない供物を補うための強制的、かつ事務的な虐殺が、いま目の前で行われていた。
「助けなきゃ……みんな、これがただの戦争だと思って、何も知らずに殺されてる!」
澪が、何も持たぬその両手を必死に掲げ、術式を編もうとした。だが、カイルはその震える肩を力強く制した。
「待て、澪。いま不用意に動けば、俺たちの居場所を管理者に教えることになる。やつらは、俺たちが生きていることすら想定していないんだ」
『案ずるな、若き反逆者よ。我らの存在はすでに影の経路……Shadow Circuitによって隠蔽されている。……今の汝らなら、あの偽りの理を食い破ることができるはずだ』
フェンリスの静かな鼓舞に、カイルは自らの右手に宿った、黒い蔦のような回路を見つめた。
かつては「否」の刻印を打たれ、英雄であることを拒絶され、存在そのものを否定された自分。だが今、その腕には、神獣さえも認める反逆の牙が宿っている。
不当に奪われた英雄の資質を、今度は自分の意志で、誰かを守るために振るう時が来た。
「……行こう。俺たちはもう、盤上の駒じゃない」
カイルは漆黒の刃を抜き放った。その刃が放つ不吉な黒光りは、管理された平和という名の停滞を切り裂く、反撃の狼煙となった。
空中都市が見下ろすこの地上の戦場で、死ぬはずだった五人が、運命を書き換えるための最初の一歩を踏み出した。




