第3話 英雄の消費期限
隔離村の朝は、泥の冷たさと共にやってくる。
カイルは板張りのベッドの上で、自分の掌を見つめていた。昨日、あの正体不明の女に触れられた背中は、もはや焼けるような熱を帯びていない。それどころか、四肢の末端まで、かつて戦場で剣を振るっていた頃のような、瑞々しい力が満ち満ちているのを感じる。
本来、英雄とは「死ぬべき場所」を割り当てられた消耗品だ。
この大陸を統べる三つの大国――バルム帝国、聖レギウス教国、そして連邦。これらの国々は、数十年ごとに持ち回りで凄惨な「戦争」を演出する。あらかじめ決められた戦域に、あらかじめ決められた数の兵士を送り込み、あらかじめ決められた数の死体を積み上げる。
それが、この世界の平和を維持するための絶対的な儀式。
「英雄」という称号は、その無意味な死の行進に自ら進んで身を投じ、舞台装置の一部として散っていく者に与えられる、甘い麻薬のような名前だった。
カイルもまた、その一人になるはずだった。
だが、彼は戦場のど真ん中で気づいてしまった。味方の砲撃が、敵軍ではなく、退却しようとする自軍の背中に向けられた瞬間。それは敵を倒すための戦争ではなく、「予定された死者の数」を帳尻合わせするための虐殺だったのだ。
その不条理を叫び、剣を捨てたカイルは、英雄になる権利を剥奪され、この「否」の烙印を押された。本来なら、この村でゆっくりと心身を腐らせ、価値のない泥として消えていくはずだった。
「……動けるか、新入り」
小屋の入り口で、老ギルバが低い声を出した。
カイルは何も答えず、上着を羽織って立ち上がった。背中の皮膚が服に擦れても、痛みはない。それどころか、神経が研ぎ澄まされ、数メートル先を這う虫の羽音さえも鮮明に聞き取れる。
小屋の隅では、昨日運び込んだ女がまだ眠っていた。
その顔立ちは相変わらず浮世離れしている。彼女が指先一つでカイルの絶望を――世界の理によって刻まれた「否」を書き換えてしまったという事実は、この村の監視兵たちが知れば、即座に処刑されるに足る異常事態だった。
「ギルバ。この女を、誰にも見せるな」
「わかっている。だが、カイル……お前の体、どうなっている。一週間前は杖なしでは歩けなかったはずだ」
ギルバの濁った瞳に、微かな、そして怯えるような光が宿る。
「わからん。だが、この女が何かをしたのは確かだ」
カイルは小屋を出て、農地へと向かった。
霧が立ち込める泥湿地では、すでに数十人の「元・英雄」たちが鍬を振るっている。彼らは皆、かつては一個小隊を全滅させるほどの武勇を誇った猛者たちだ。だが、今の彼らは、首筋に刻まれた「否」の文字に生気を吸い取られ、ただ泥を捏ねるだけの人形に成り果てている。
この村の真の目的は、農作業ではない。
「英雄の残り香」を閉じ込め、完全に枯れ果てるまで監視することにある。なぜ彼らを殺さず、生かしておくのか。なぜ特定の数だけ死ななければ世界が滅ぶというのか。その答えは、この箱庭の壁の向こう側、王族や神官たちが隠し持つ聖典の中にしかない。
カイルが鍬を手に取ったとき、背後から嫌な笑い声が聞こえた。
「おい、不戦野郎。今日は一段と顔色がいいじゃないか」
昨日、花を踏みじったあの監視兵だ。名はボリスといったか。彼は数人の部下を連れ、腰の警棒を掌で叩きながら歩み寄ってきた。
「昨日の女はどうした? 死体になったのなら、柵の外の谷底へ放り投げてこい。あれは生きていても飯の無駄だ」
カイルは黙って泥を掻いた。無視されることを何よりも嫌うボリスが、顔を歪めてカイルの肩を掴んだ。
「耳まで腐ったか? 聞いてるのかと言って……」
その瞬間、ボリスの言葉が途切れた。
カイルの肩を掴んだボリスの手が、激しく震え始めたからだ。
「な、なんだ……この、感覚は……」
ボリスには見えていなかった。
カイルの背中の服の下で、あの「否」の文字が、翠色の脈動を放ち始めていることを。
カイル自身、驚いていた。ボリスに触れられた瞬間、自分の体の中に眠っていた「英雄としての全盛期」を上回るほどの膨大な圧力が、溢れ出そうとしている。
「触るな」
カイルが静かにそう言い、ボリスの手を振り払った。
ただの振り払いだった。しかし、ボリスの体はまるで巨大な獣に突き飛ばされたかのように泥の上を数メートルも滑り、無様に転がった。
周囲で作業をしていた元英雄たちが、一斉に顔を上げる。
光を失っていた彼らの瞳に、かつて戦場で共有した「戦慄」が走った。
「貴様……今、何をした!」
部下の兵士たちが一斉に剣を抜く。
カイルは自分の掌を見つめた。力が、制御しきれないほどに満ちている。
これは、再生ではない。
世界が彼に押し付けた「英雄としての寿命」を、あのエルフが書き換え、破壊してしまったのだ。
その時、村の奥から、鈴の音のような澄んだ声が響き渡った。
「それは、あなたの真実です。英雄とは、捧げられる者ではなく、自らの足で立つ者を指す言葉なのですから」
いつの間にか、小屋にいたはずの女が、柵の近くに立っていた。
彼女の背中からも、あの翠色の光が溢れ出している。彼女が歩く泥の足跡から、次々と白い花が芽吹き、死んだような村に命の香りが満ちていく。
「捕らえろ! その女も、カイルもだ! これは反逆だ!」
ボリスの叫びが響く。
だが、カイルはもう杖を必要としていなかった。
彼は泥を蹴り、一気に兵士たちの懐へと踏み込んだ。
箱庭の平穏は、今日、終わりを迎える。
決められた死を拒絶した「否」の英雄たちが、自らの運命を奪い返す戦いが始まろうとしていた。




